海道記 (Kaidoki) | ||
一一 菊川より手越
妙井の渡りといふ處の野原をすぐ。仲呂の節に當りて、小暑の氣、やうやう催せども、未だ納涼の心ならねば手にはむすばず。
しばし涼まん日はくれなまし
播豆藏の宿をすぎて大井川を渡る。この川は中に渡り多く、水またさかし。流を越え島を隔てて、瀬々、かたがたに分れたり。この道を二三里ゆけば、四望かすかにして遠情おさへがたし。時に水風例よりもたけりて、白砂、霧の如くに立つ。笠を傾けて駿河の國に移りぬ。前島をすぐるに波は立たねど、藤枝の市を通れば花は咲きかかりたり。
みな藤枝の花にかへつつ
岡部の里をすぎて遙かに行けば宇津の山にかかる。この山は、山の中に愛するたくみの削りなせる山なり。碧岩の下には砂長うして巖を立て、翠嶺の上には葉落ちてつちくれをつく。肢を背に負ひ、面を胸に抱きて漸くに登れば、汗、肩袒の膚に流れて、單衣おもしといへども、懷中の扇を手に動かして微風の扶持可なり。かくて森々たる林を分けて、峨々たる峯を越ゆれば、貴名の譽れはこの山に高し。おほかた遠近の木立に心もわけられて、一方ならぬ感望に思ひ亂れてすぐれば、朝雲、峯くらし、虎、李將軍が住みかを去り、暮風、谷寒し、鶴、鄭太尉が跡に住む。既にして赤羽西に飛ぶ。目に遮るものは檜原、槇の葉、老の力ここに疲れたり。足に任するものは、苔の岩根、蔦の下路、嶮難に堪へず。暫く打休めば、修行者一兩客、繩床、そばに立てて又休む。
みやこ戀ひつつひとり越えきと
行く行く思へば、過ぎ來ぬるこのあひだの山河は、夢に見つるか、うつつに見つるか。昨日とやいはん、今日とやいはん、昔を今と思へば我が身老いたり、今を昔と思へば我が心若し。古今を隔つるものは我が心の中懷なり。生死涅般、猶如昨夢といへるも、あはれにこそ覺ゆれ。昨日すぎにし跡は今日の夢となり、今日ここを過ぐる、明日いづれの處にして今は昨日といはん。誠にこれ、過ぎぬる方の歳月を、夢より夢に移りぬ。昨日今日の山路は、雲より雲に入る。
今日はうつつのうつの山ごえ
手越の宿に泊りて足を休む。
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