University of Virginia Library

七 矢矧より豐河

 九日、矢矧を立ちて赤坂の宿をすぐ。昔この宿の遊君、花齡、春こまやかに、蘭質、秋かうばしき者あり。顏を藩安仁が弟妹にかりて、契を參州吏の妻妾に結べり。妾は良人に先だちて世を早うし、良人は妾におくれて家を出づ。知らず、利生菩薩の化現して夫を導けるか、また知らず、圓通大師の發心して妾を救へるか。互の善知識、大いなる因縁あり。かの舊室妬が呪咀に、拜舞、惡怨、かへりて善教の禮をなし、異域朝の輕

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せんに、鼻酸、持鉢、たちまちに智行の徳に飛ぶ。巨唐に名をあげ、本朝に譽れをとどむるは、上人實に貴し。誰かいはん、初發心の道に入るひじりなりとは。これ則ち本來の佛の、世に出でて、人を化するにあらずや。行く行く昔を談じて、猶々今にあはれむ。

いかにしてうつつの道を契らまし
夢おどろかす君なかりせば

 かくて本野が原を過ぐれば、ものうかりし蕨は、春の心おいかはりて人も折らず、手をおのれがほどろと開け、草わかき萩の枝は、秋の色うとけれども、分けゆく駒は鹿毛に見ゆ。時に日

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[7]烏
、山にかくれて、月、星躔にあらはなれども、明曉を早めて豐河の宿に泊りぬ。深夜に立出でて見れば、この川は流ひろく、水深くして、まことに豐かなる渡りなり。川の石瀬に落つる波の音は、月の光に越えたり。河邊にすぐる風のひびきは、夜の色さやけく、まだ見ぬひなのすみかには、月よりほかに眺めなれたるものなし。

知る人もなぎさに波のよるのみぞ
なれにし月のかげはさしくる