University of Virginia Library

一〇 池田より菊川

 十二日、池田を立ちて、くらぐら行けば、林野は皆同樣なれども、ところどころ道ことなれば、見るに從ひてめづらしく、天中川を渡れば、大河にて水の面三町あれば舟にて渡る。水早く、波さかしくて、棹もえさし得ねば、大きなるえぶりを以て横さまに水をかきて渡る。かの王覇が忠にあらざれば、呼他河、氷むすぶべきにあらず、張博望が牛漢の波にさかのぼりけん浮木の船、かくやと覺えて、

よしさらば身を浮木にて渡りなん
天つみそらの中川の水

 上野の原を一里ばかり過ぐれば、千草萬草、露の色なほ殘り、野煙風音また弱し。あはれ同じくは、これ秋の旅にてあれな。

夏草はまだうら若き色ながら
秋にさきだつ野邊のおもかげ

 山口といふ今宿をすぐれば、路は舊によりて通ぜり。野原を跡にし、里村を先にし、うちかへうちかへ過ぎゆけば、事任といふ社に參詣す。本地をば我しらず、佛陀にぞいますらん、薩

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にもいますらん、中丹をば神必ず憐れみ給ふべし。今身もおだやかに、後身もおだやかに、杉の群立は三輪の山にあらずとも、戀しくは訪ひても參らん、願はくはただ畢竟空寂の法味を納受して、眞實不虚の感應を垂れ給へ。

思ふことのままに叶へよ杉立てる
神のちかひのしるしをも見ん

 社のうしろの小河を渡れば、小夜の中山にかかる。この山口を暫くのぼれば、左も深き谷、右も深き谷、一峯に長き路は堤の上に似たり。兩谷の梢を目の下に見て、群鳥の囀りを足の下に聞く。谷の兩片はまだ山高し。この間を過ぐれば中山とは見えたり。山は昔の山、九折の道、舊きが如し。梢は新たなる梢、千條の緑、皆淺し。この處は、その名殊に聞えつる處なれば、一時の程に、ももたび立留まつて打眺め行けば、秦蓋の雨の音は、ぬれずして耳を洗ひ、商絃の風のひびきは、色あらずして身にしむ。

分けのぼるさやの中山なかなかに
越えてなごりぞ苦しかりける

 時に鴇馬蹄つかれて日烏翅さがりぬれば、草命を養はんが爲に菊川の宿にとどまりぬ。ある家の柱に、中御門中納言(宗行卿)かく書きつけられたり。

彼の南陽縣の菊水、下流を汲んで齡を延ぶ、 此の東海道の菊河、西涯に宿りて命を全くせんことを。

まことにあはれにこそ覺ゆれ。その身、累葉のかしこき枝に生れ、その官は黄門の高き階に昇る。雲上の月の前には、玉の冠、光を交へ、仙洞の花の下には、錦の袖、色を爭ふ。才、身に足り、榮、分に餘りて、時の花と匂ひしかば、人それをかざして、近きも從ひ遠きも靡き、かかるうき目をみんとは思ひやはよるべき。さてもあさましや承久三年六月中旬、天下、風あれて、海内、波さかへりき。鬪亂の亂將は花域より飛びて合戰の戰士は夷國より戰ふ。暴雷、雲を響かして、日月、光を覆はれ、軍虜、地を動かして、弓劔、威を振ふ。その間、萬歳の山の聲、風忘れて枝を鳴らし、一清の河の色、波あやまつて濁りを立つ。茨山汾水の源流、高く流れて、遙かに西海の西に下り、卿相羽林の花の族、落ちて遠く束關の東に散りぬ。これのみにあらず、別離宮の月光、ところどころにうつりぬ。雲井を隔てて旅の空に住み、鷄籠山の竹聲、かたがたに憂へたり。風、便りを絶えて外土にさまよふ。夢かうつつか、昔も未だ聞かず。錦帳玉

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たうの床は主を失ひて武客の宿となり、麗水蜀川の貢は、數を盡して邊民の財となりき。夜晝に戯れて衿を重ねし鴛鴦は、千歳比翼の契、生きながら絶え、朝夕に敬ひて袖を收めし童僕も、多年知恩の志、思ひながら忘れぬ。げに會者定離の習ひ、目の前に見ゆ。刹利も首陀も變らぬ奈落の底の有樣、今は哀れにこそ覺ゆれ。今は歎くとも助くべき人もなし。涙を先だてて心よわく打出でぬ。その身に從ふ者は甲冑のつはもの、心を一騎の客にかく。その目に立つ者は劔戟の刄、魂を寸神の胸に消す。せめて命の惜しさに、かく書きつけられけむこそ、するすみならぬ袖の上もあらはれぬべく覺ゆれ。

心あらばさぞなあはれとみづくきの
あとかきわくる宿の旅人