University of Virginia Library

二二 極樂西方に非ず

 ただし極樂、西方に非ず、己が心の善心の方寸にあり。泥梨、地の底に非ず、己が惡念の心地にあり。彌陀、うとき佛にいまさず、自らが本有の心性にあり。獄卒、知らぬ鬼に非ず、己が所感の業因にあり。雪つもりて山をなす、春の日に當れば消えて殘らず。金くだけて灰にまじる、水に入れてゆれば失することなし。罪雪きえなば善根は露はれぬべし。迷へる時は目をひさぎて我が身をだも見ず。悟れる時には目を開きて人のからだを見る。障子を隔ててあなたは十萬億士と思へども、引開けたればただ一間のうちなり。佛性の水、煩惱の風に氷れども、思ひ解けば、水とは誰か知らざらん。貧なりとも嘆くべからず、電泡の身には幾ばくの嘆きぞや。樂しむともおごるべからず、幻化の世には幾ばくの樂しみぞや。樂しみは大僑慢のあだなり、あだは則ち惡趣に引落す。貧は小道心の媒なり、媒は則ち善所に引きあぐ。財は先生の怨敵なり、貪着、身をしばりて四生の牢獄にこむ。貧は今生の知識なり、愛欲、心をゆるめ、三界の樊籠をいだす。この故に世を厭ふ人は沙門と名づけて樂しめる人とす。我等八苦の病は重くとも、念佛の藥に愈えぬべし。名利の敵はうかがふとも、非人の身には敵すべからず。上界天人の快樂も心にくからず、過去生々に幾たびか受けたる。國王大臣の果報もうらやましからず、流來世々に幾たびか得たりし。六趣の住みかは、うとみはてたる所なり。九品の都こそ未だ見ねば戀しけれ。戀しくば誰か參らざるべき。たまたま人身を受けたるは、梵天の絲に海底の針を釣り得たる時なり。佛法の教木、龜眼の語に信じ得たる時なり。これだにも有難しと思へば、十方佛土に又二つとなき一乘妙法に生れあひて、十惡をも疎まず引接を垂れ給ふ阿彌陀佛を念じ奉るは、口のあればただに唱へゐたるか、耳のあればただ聞きゐたるか。あな淺ましの安さや。無始生死の間に、塵の結縁つもりて泰山となり、露の功徳たまりて蒼海とたたへて善根林をなし、機感、時を得て今生を生死の終とし、當來を解脱の始とする人間に生れてこの縁にあひたり。故に慈父長者は貧者の爲に福徳の經を説きて化一切衆生とこしらへ、皆令入佛道とよろこび、悲母教主は弱き子供の爲に誓願を發して此願不滿足と舌をのごひ、誓不成正覺と口をはく。ここに知りぬ、この南浮は西方の出門なりといふ事を。道心はたとひ堅固ならずとも、慚愧の杖を取りしばりて常に身をいましめ、葉塵はたとひ積りゐるとも、懺悔の箒を束ねて常に心を清めん。然らば則ち、櫻花枝にこもれり、春の候を迎へて聞きなんとす。佛種胸に埋もれり、終りの時に臨みて宜しく萠すべし。

 そもそも、これは羇中の景趣にあらず、在外の淺き狂言なり。然り而うして、魚にあらざれば魚の心を知るべからず、我にあらずば我が志を悟るべからず。駿蹄の千里に馳するも、駑駘の咫尺に足なえぐも、志の行くほどは至る所たがはず。大鳳の雲に翔るを羨みて小鳥の籬に遊ぶばかりなり。これただ家を出でし始め、道に入りし時、身の悲しみに催されて、人の嘲をかへりみず、愚懷の爲にこれを記す、他興の爲にこれを書かず。嘲らん人、憐まん人、順逆の二縁、共に一佛土に生れて、一切衆生を濟へとなり。

開くべき胸のはちすのたぐひには
春まつ花の枝にこもれり
變らじな濁るも澄むも法の水
一つ流れとくみて知りなば