University of Virginia Library

一二 手越より蒲原

 十三日、手越を立ちて野邊を遙々と過ぐ。梢を見れば淺緑、これ夏の初なりといへども、叢を望めば白露、まだきに秋の夕べに似たり。北に遠ざかりて雪白き山あり、問へば甲斐の白峯といふ。年ごろ聞きしところ、命あれば見つ。およそこの間、數日の心ざしを養ひて百年の齡を延べつ。かの上佛の藥は下界の爲によしなきものか。

惜しからぬ命なれども今日あれば
生きたるかひのしらねをも見つ

 宇度の濱を過ぐれば、波の音、風の聲、心澄む處になん。濱の東南に靈地の山寺あり。四方高く晴れて四明天台の末寺なり。堂閣繁昌して本山中堂の儀式を張る。一乘讀誦の聲は十二廻中に聞えて絶ゆることなし。安居一夏の行は、採花汲水の勤め、驗を爭ふ。修するところは中道の教法、論談を空假の頤に決し、利するところは下界衆生、歸依を遠近の境に致す。伽藍の名を聞けば久能寺といふ。行基菩薩の建立、土木、風清し。本尊の實を尋ぬれば觀世音と申す。補陀落山の聖容、出現、月明らかなり。おほかた佛法興隆のみぎり、數百箇歳の星漢、霜古りたり。僧俗止住の峯、三百餘宇の僧坊、霞ゆたかなり。雲船の石神は山の腰に護りて惡障を防ぎ、天形の木容は寺門に納めて善業をなす。(千手觀音かの山より石舟に乘りてこの地に下りたまひけり。その船、善神となりて山路の大坂にいます、石舟の護法と號す)かの海岸山の千眼は南方より北に下りて有縁をこの山に導き、宇度濱の五品は天面を地に傳へて舞樂をこの濱に學べり。(むかし稻河大夫といふ者、天人の濱松の下に樂を調べて舞ひけるを見てまなび舞ひけり。天人、人の見るを見て、鳥の如くに飛びて雲にかくれけり。その跡を見ければ一つの面形を落せり。大夫これを取りて寺の實物とす。それより寺に舞樂を調べて法會を始行す。その大夫が子孫を舞人の氏とす。二月十五日、常樂會とて寺中の大營なり)その後、天人かへり、廻雪は春の花の色、峯にとどまり、曲風は歳月の聲、よつてこの濱を過ぐれば松に雅琴あり波に鼓あり、天人の昔の樂、今聞くに似たり。

袖ふりし天つ乙女が羽衣の
面影にたつあとの白浪

 江尻の浦を過ぐれば、青苔、石に生ひ、黒布、磯による。南は沖の海、々と波をわかして、孤帆、天にとび、北は茂松、欝々と枝をたれて、一道、つらをなす。漁夫が網をひく、身を助けんとして身を勞しぬ。遊魚の釣をのむ、命を惜みて命を滅ぼす。人いくばくの利をか得たる、魚いくばくの餌をか求むる。世を渡る思ひ、命をたばふ志、かれもこれも共に同じ。これのみかは、山に汗かく樵夫は、北風を負ひて曉に歸る。野に足なへぐ商客は、白露を拂ひて曉に出づ。面々の業はまちまちなりといへども、おのおのの苦しみは、これみな渡世の一事なり。

人ごとに走る心は變れども
世をすぐる道は一つなりけり

 この浦を遙かに見わたして行けば、海松は浪の上に根を離れたる草、海月は潮の上に水にうつる影、共にこれ浮世を論じて人をいましめたり。

波の上にただよふ海の月もまた
うかれゆくとぞ我を見るらん

 清見が關を見れば、西南は天と海と高低一つに眼を迷はし、北東は山と磯と嶮難同じく足をつまづく。盤の下には浪の花、風に開きて春の定めなく、岸の上には松の色、翠を含みて秋に恐れず。浮天の浪は雲を汀にて、月のみふね、夜出でて漕ぎ、沈陸の磯は磐を路にて、風の便脚、あしたに過ぐ。名を得たる處、必ずしも興を得ず、耳に耽る處、必ずしも目に耽らず、耳目の感、二つながら絶えたるはこの浦にあり。波に洗はれてぬれぬれ行けば、濁る心も今ここに澄めり。むべなるかな、ここを清見と名づけたる。關屋に跡をとへば松風むなしく答ふ。岸脚に苔を尋ぬれば橦花變じて石あり。(關屋のほとりに布たたみといふ處あり。むかし關守の布をとりおきたるが、積りて石になりたるといへり)

吹きよせよ清見浦風わすれ貝
拾ふなごりの名にしおはめや
語らばや今日みるばかり清見潟
おぼえし袖にかかる涙は

 海老は波を泳ぎ愚老は汀にただよふ、共に老いて腰かがまる、汝は知るや生涯の浮める命、今幾ほどと。我は知らず幻中の一瞬の身。かくて興津の浦をすぐれば、鹽竈の煙かすかに立ちて海人の袖うちしほれ、邊宅には小魚をさらして屋に鱗をふけり。松の村立、浪のよる色、心なき心にも、心ある人に見せまほしくて、

ただぬらせ行くての袖にかかる浪
ひるまが程は浦風も吹く

 岫が崎といふ處は、風、飄々と飜りて砂をかへし、波、浪々と亂れて人をしきる。行客ここにたへ、暫くよせひく波のひまを伺ひて急ぎ通る。左はさかしき岡の下、岩のはざまを凌ぎゆく。右は幽かなる波の上、望めば眼うげぬべし。遙々と行くほどに、大和多の浦に來て小舟の沖中にただよへるを見る。飄帆飛びて、萬里、風のたよりを頼みて白煙に入り、鼈波動きて、千里、夕陽を洗ひて紅藍に染む。海館の中に、この處は心をのみとどめて身をばとどめず。

忘れじな浪のおもかげたちそひて
すぐるなごりの大和多の浦

 湯居の宿をすぎて遙かに行けば千本の松原といふ處あり。老の眼は極浦の波にしほれ、おぼろなる耳は長松の風に拂ふ。晴天の雨には翠蓋の笠あれば袖をたくらず。砂濱の水には白花ちれども風を恨みず。行く行くあとを顧りみれば前途いよいよゆかし。

聞きわびぬ千々の松原ふく風の
ひとかたならずわれしほる聲

 蒲原の宿に泊りて菅菰の上に臥せり。