University of Virginia Library

赤色陸海軍文学協会 ロカフ の結成

 着々と躍進するソヴェト同盟の生産拡張五ヵ年計画とともに、プロレタリア作家たちは、この五ヵ年計画の三年間において、重大な階級的な発展をとげて来た。

 作品活動をこめての一般的なプロレタリア文化・文学活動の実践の領域でソヴェト文化運動と文壇の指導権を確立したばかりではない。全同盟内の生産の場所における文学研究会、労農通信員たちへの正しい階級的指導は、あとから、あとから一つは一つよりよい作品を発表する前途洋々たる若い党員作家を輩出させている。文学活動の分野は、五ヵ年計画とともに拡大された。プロレタリア作家の質そのものも変って来つつあるのである。

 一九三〇年に入るや否や、ソヴェトのプロレタリア作家たちは、更に新しい一つの階級的課題にぶつかった。

 資本主義列国の反ソヴェト同盟カンパニアに対して作家はどう戦うべきか。この問題である。

 これはソヴェト同盟にとって謂わば歴史的な課題といえる。今日にはじまったことではない。一九一七年十月、革命の第一の銃声が轟いた、その瞬間から、今日まで持続している問題だ。その頃は、コルニーロフの反革命軍や、チェッコ・スロヴァキアの反革命軍が、南方ロシアを掠めようとした。アメリカと日本とがシベリアで帝国主義の利益のための火事場どろぼうをやろうとした。ソヴェト同盟の勤労階級は西から東からおそいかかって来る反革命軍を追っぱらった。

 が、列国の陰謀は、これではすまなかった。

 一九二一年に起ったクロンシュタットの赤色海軍兵の局部的な暴動は、ソヴェト同盟国内戦後の饑饉救援という名目でアメリカから、妙な連中が入り込んだ。アメリカ毛布、アメリカ製ビスケットにかこつけたからくりが、この暴動の種であったということを今日知らぬ労働者はない。

 五ヵ年計画まではソヴェト唯一の炭坑区だったドンバスで、一九二八年大陰謀が発覚した。一九三五年になるとドンバスからは一塊の石炭さえ産出しないように技術的な破壊が企てられていた。それは誰の仕業であったろうか? ドンバスに外国資本が投資されていた帝政時代から働いていたドンバスのドイツ人技師が中心であった。

 一九二九年八月、東支鉄道の問題で、中国の帝国主義者たちを突ついたのはどの国だ? フランスと結托している反動的なポーランドがワルソーのソヴェト大使館爆破をやりかけたのは、どういう云いがかりをつけるためであったろうか。ソヴェト同盟の大衆は時に応じ、事情に従い、階級的な国際関係についての経験をかさねながら、それらと闘争しつづけて来たのであった。

 大衆はその組織をハッキリ理解している。プロレタリアの国ソヴェト同盟の根本的な外交方針は、平和であり、それぞれの国の大衆を犠牲とする戦争に決して自分から立ち入ったり、挑発したりしないということを。戦争で、ムザムザ若い命を大砲、毒ガスの餌じきにされるのは誰だろうか?

 世界平和を守るという不動の方針と展望の上に腰を据え、平和のための実力を充実させるためにソヴェトのプロレタリア・農民は五ヵ年計画の達成に精を出している。どう難癖をつけようとも、失業はなくなる。勤労者の賃銀は上る。労働時間は七時間から六時間何分というところまで縮小された。そして全生産は重工業をふくめて資本主義国の一九二九年来の経済恐慌とは反対に、ジリジリジリジリせりあがりつつある。

 右からは二千五百万人の失業者を含む勤労階級の攻勢に押され、左に彼等の敵として聳えるソヴェト同盟に圧され各国のブルジョア支配者たちは、死物狂いになって来た。

 中国をケシかけ、ポーランドを操るだけでは我慢出来なくなった列国は、一九三〇年の初めローマ法王を先頭にして、反ソヴェト十字軍を起してドッと攻めかけようとした。その口実はこうだった。「ソヴェト同盟で宗教の自由が奪われているのは人類の正義にそむく、ボルシェヴィキの手から哀れなソヴェトの人民を解放してやらなければならない」と。

 この噂が伝わったとき、ソヴェト同盟の勤労大衆はみんな思わず笑った。資本主義国の支配者たちが俺達をどう解放しようと云うのか? もしほんとにソヴェトの人民を解放しようとするなら、先ず何よりいま自分たちがやっている反ソ・カンパニアをやめさえすればいいんだ。が、段々笑いごとではなくなって来た。

 雪のあるモスクワの辻々に大砲を指揮する法王の絵入りポスターが貼られた。

 ソヴェト同盟を守れ!

 同じポスターは、映画館の壁の上にある。

 ソヴェト同盟を守れ!

 銀行のベンチから見える赤いプラカートの上に。ワロフスキー通りの作家クラブのひろい階段の上に同じポスターがあった。

『プラウダ』や『イズヴェスチア』は勿論であった。『労働者新聞』にもピオニェールのための『ピオニェールスカヤ・プラウダ』にも、この反ソヴェト・カンパニアに対する批判がのった。プロレタリア詩人たちは、種々様々な詩で。作家たちは諷刺的短篇や論文でソヴェトの守りのために動員された。

 文学新聞が、多勢のソヴェト作家にあてて、反ソヴェト・カンパニアに対する感想を求めた時、みんなは殆んど異口同音に答えた。

「われわれは今ペンをとって、世界のプロレタリア文学建設のために闘っている。だが、若し必要な時が来れば、階級のために、いつでもこのペンを銃と持ちかえよう!」

 一九三〇年三月二十四日、七十五万人の勤労者がモスクワでローマ旧教運動反対デモをやった。プロレタリア作家もこの示威に参加し、作家クラブではこの問題についての特別講演会が持たれた。プロレタリア作家たちは、この問題を段々科学的に考えはじめた。

 プロレタリア作家は階級文化の前衛としてもとより、いざという時はペンを銃と持ちかえることを拒みはしないであろう。

 彼等はペンの間に鋤やトラクターのハンドルを、電気モータアのスウイッチを把った。一九一七年――二一年の間に、銃をとってソヴェト権力を守ったその階級的経験から作家となった人々が沢山いるのだ。けれども、プロレタリア作家の階級的任務というものは、工場からの労働者、農村からの農業労働者と全く同じように、ただ赤軍に投じ、いろいろな軍事教育を受けるだけで満されるものであろうか?

 プロレタリア作家はただペンを銃ともちかえるのではなくて、あるとき銃をもつにしても、それとともにあくまでペンを手ばなさないところに独特な役割があるのである。

 階級闘争としての戦争=帝国主義の侵略に対して、社会主義を防衛する戦争においては、軍事司令部だけが働くのではない。党の政治部は、例えば、「チャパーエフ」(日本訳、赤色親衛隊)を読んでもよくわかるように、闘争の重大な理論的指導の任務を帯びる。

 ソヴェトのプロレタリア作家は、自然発生的な階級的情熱で剣を執り、自然発生的な感銘で塹壕の記録をとるだけでは足りない。赤軍の活動についても、プロレタリア作家は政治的に、文化的に、独自の分担を理解して結びつかなければならない。

 具体的に問題を調べて来て見ると、プロレタリア作家たちは、これまでの活動方法の上にいくつかの欠点を発見した。

 例えば一九二九年の夏、東支鉄道の問題が決裂して、ソ同盟と中国との国境で軍事行動が行われた時、ソヴェト同盟は極東特派軍を送った。この階級的軍隊は中国の村落を占領すると、先ずそこで何をやったであろうか。住民の逃げた後の民家を掠奪から保護した。掠奪する中国人を捕え、品物を出させ、それをステーションの貨物倉庫へ番兵つきで保管した。追い追い村へ戻って来た中国村民がそれを見て、びっくりした。そればかりではなかった。村道は清潔に整理されている。屋根に赤旗の翻る一軒の民家には村ソヴェトが組織されていた。これまでとはまるで違う毎日の生活がはじまった。中国の村民は、生れて初めて活動写真というものを見物した。赤軍兵の芝居を見た。音楽がきかれる。或る場所では小学校さえ、赤軍に占領されたおかげで開設されるようになった。数ヵ月後その村から、赤軍が引きあげる時、村民は心から別れをおしみ、子供は泣きさえした。彼等は赤旗を立て、列をつくって、ソヴェト赤軍万歳! どうかまた来て呉れ! とステーションまで送った。――

 このような、社会主義国の軍隊独特の文化活動について、プロレタリア作家はどんな芸術記録をつくっているだろうか?

 ソヴキノが、赤軍文化教育部と連絡をもって「極東特派軍」という興味ふかい記録映画をこしらえた。

 工場から、戦地慰問に特派された男女労働者の代表は、新聞に短い労働者通信をのせた。然しプロレタリア作家団体はどんな組織的活動もしなかった。赤軍文化教育部と、プロレタリア作家団体とはきっちり結び合っていなかった。工場がしたように、代表を送ることさえしなかった。

 また、一九一七年の「十月」に赤色海軍が演じた英雄的役割は、ソヴェト映画の傑作「戦艦ポチョムキン」に、永久的足跡をのこしている。

 今日における赤色海軍のもっている役割について書かれたどんなプロレタリア小説があるだろうか?――

 五ヵ年計画に着手されるとともに、ソヴェトのプロレタリア作家たちは、プロレタリア文学から未来派風な或は機械主義的マルキシズムをなくすること、唯物弁証法的な創作方法への進展を、闘いとった。

 仮りに、今日の事態が、世界平和と社会主義防衛のためにソヴェトの赤色陸海軍が動員されなければならないことになったとする。プロレタリア作家は彼の武器と、鉛筆と手帳とをもって、防衛に立つであろう。

 彼等は勇敢に行動するだろう。彼等は勇敢に記録するだろう。しかし、果して彼等は赤軍の編成についてどれだけの知識をもっているだろうか。どの程度の階級的な軍事知識があるか。同時に、軍事的行動の間に要求される広汎で敏捷な文化活動の任務をテキパキ処理して行く程ふだんから赤軍の兵士たちの生活に親しく接しているかどうかという問題になると、現在のところ否と答えざるを得ない。

 ソヴェトのプロレタリア作家達は反ソヴェト・カンパニアというモメントから、ボルシェヴィキらしく、階級的発展に役立つものをとりあげた。ゴーリキー。デミヤン・ベードヌイ。セラフィモーヴィッチ。ファジェーエフ。バトラーク。プリボイ。グラトコフ。イズバフ。ベズィメンスキーなどとバルチック艦隊文学研究会員、赤軍機関誌編輯者、赤軍劇場管理者などが集り、 赤色陸海軍文学協会 ロカフ 中央評議会を結成した。一九三〇年初秋のことである。

 ロカフ中央評議会の決議は左のようなものであった。

一、ロカフは芸術活動によって、赤色陸海軍の平和的・軍事的社会主義建設を活溌に再現するように努力すること。

一、赤色陸海軍を主題とした作品の出版を支持すること。

一、赤色陸海軍内の文学研究会を鼓舞し、絶えず指導すること。

一、赤色陸海軍の機関誌、壁新聞、クラブ集会、文学の夕べ等にロカフは常に作品を送り、講演者を送って援助すること。

一、プロレタリアの技術の一半として、正確な軍事知識を獲得し、普及すること。

一、軍事活動に作家も参加すること、等。

 十月初旬から中旬にかけて、モスクワ地方赤軍の演習があった。ロカフは演習へ参加するために積極的にプロレタリア作家を召集した。二十数名参加した。若い作家ばかりとは限らなかった。六十七歳のセラフィモーヴィッチが出かけた。「ツシマ」の作者ノヴィコフ・プリボイも出かけた。プロボイは日露戦争にバルチック艦隊の水兵として召集され、捕虜となって熊本にいたことがある。そして、バルチック海軍兵士の革命的組織に関係し、のち亡命して長くイギリスで海員生活をした。彼は殆どこれまで唯一のソヴェト海洋作家である。婦人の作家――もとは小学校の女教師で党員作家であるアンナ・カラヴァーエヴァも出かけた。

 彼等は、赤軍兵が張ってくれた後方のテントの中で、手帳をひねくりまわしてはいなかった。突撃に加わり、一緒に泥をほじり、夜の歩哨にも伴れ立った。司令部とともに、視察した。前線での文学の夕べを組織し、即興芝居への台本を提供した。壁新聞を手伝った。

 その演習後文学新聞に赤軍指導者の面白い批判が掲載された。

 今度の経験によってもロカフの組織は、プロレタリア作家の階級的発展に必須な一分野であることが明らかにされた。一般赤軍兵は満足をもって、プロレタリア作家の進出を迎えた。赤軍は労働者、農民以外の何者でもない。工場・農村のプロレタリアートに密接に結びついて、その文化的 自発性 イニシアチーブ を助け指導するプロレタリア作家の赤色陸海軍への結びつきは当然のものである。演習中、作家たちはわれわれ赤軍にいろいろのことを教えた。同時に作家たちも多くのことを学んだのは確かだが……率直に云うと、作家たちはまだどうも白手套をはめている。――つまり、まだお客で幾分儀式ばってる。そういう批評であった。

 ロカフは益々真面目な活動の分野をひろげ、各地方に支部を組織した(ロカフの組織は、ラップとどの点でも対立したものではない。ラップに属する作家が、または 全露農民作家協会 ヴオクプ に所属する作家が、同時にロカフに加入している)。

 一九三一年に入って、ロカフは「モスクワ・ロカフ」「レンバルトロカフ(レーニングラード・バルチック・ロカフ)」の他「タトロカフ(タタール共和国のロカフ)」「セヴカウロカフ(北コーカサス・ロカフ)」「スレダズ・ロカフ(中央アジア・ロカフ)」その他まで拡張した。

「ロカフ」が組織されて一年近く経った。

 今のところロカフに属する作家たちの書く作品の題材は、主として国内戦時代、歴史的な過去の事件からとられている。今日のわれわれの赤軍について、その社会主義建設の役割についてジックリ書かれた作品というのは極く少い。今日の、平和時代の赤軍はまだ充分紹介されないのである。

 モスロカフ(モスクワ・ロカフ)は、それより前、夏期の 野営 ラーゲリ を組織し、そこでロカフの作家たちが軍事知識の吸収と文学活動をやるようにした。

 レンバルトロカフも五月に入るとロカフ主催の軍事講習会を催した。十四回の講義で、「軍事問題におけるマルクス・レーニン主義の根本原理」「軍事の出版問題について」の説明をやる。六十二名の作家が動員された。

 この講習の期間に作家聴講生は、二つの壁新聞を発行し、ほかに有益な軍事遊戯を思いついた。軍時に、ソヴェト軍隊と、交戦中の敵国住民大衆にアッピールするものと仮定したパンフレット、それにはクラブ用の小脚本、レヴュー台本、プラカート用の詩、スローガンなどを盛りこんだパンフレットの発行である。

 軍事状態の中にあって各自の文学的政治的軍事的知識を活用し、敏捷に明快に文学活動をやる稽古だから、ゆっくり構えていては何にもならない。規則をきめると、或る作家たちは一枚の封筒を渡された。中に、めいめいが書くべき主題・形式、長さを命令した紙が入っている。翌朝十時までに必要に応じた詩・論文・スローガン・ビラなどを芸術的作品にまとめて出さなければならないというわけである。

 規定通り、作品は集った。これらの作品が研究された。討論会が持たれた。どの作品も仮定された軍事行動の階級的本質については正しく認識していた。

 だが、その基礎的な正しさにも拘らず、少なからず部分的な誤りや知識の不完全さを示した。先ず多くの作品は、軍事行動の間における党の役割というものを具体的に把握していない。党の任務について或る作品はまるで触れていない。或る作品は出来合いの党のスローガンをひっぱって来て間に合わせをやっている。帝国主義の侵略戦争を世界のプロレタリアートの党は全力をもってその国のプロレタリア解放のために有利に展開させなければならない。が、この作品競技でその事業の具体的な困難さを理解しているものはまるで少なかったのである。

 ファシストの手先となった社会民主主義、第二インターナショナルがどんな階級的裏切りを行っているか。それとの闘争も形象化されていない。

 ただ一つ総てを貫き流れていた力強いものは、ソヴェトのプロレタリア作家たちが、大衆とともにこの階級的作家活動の新分野に対し真心をもって自分達の成長を決心していることである。

『文学新聞』は「成功的な発端」としてこの経験を報道している。

 各地方ロカフの激励によって「文学と戦争叢書」が続々刊行されはじめた。その一部として、アダム・ドミトリエフの『よし! 船をひけ』。別に、国内戦時代赤軍で働き有名な脚本「ラズローム(破滅)」を書いたボリス・ラヴレーニェフの『斯うして防衛する』というバルチック艦隊の演習を記録した本が出版された。