University of Virginia Library

農民作家の任務

 さて、ソヴェトの農民作家団はこの緊張した五ヵ年計画着手後の情勢の中で、どのような活躍をしているだろうか。このことは、特別にとりあげて調べられる必要がある。何故ならソヴェト生産拡張五ヵ年計画の核心は、都会では重工業生産の増大であり、農村では農業の社会主義化以外にない。ソヴェト同盟の人口の過半数は農民によって占められている。農業における社会主義生産が高められ工業との階級的結合が行われなければ、全体として生産経済の運転の社会主義化は実現されない。

 光輝ある「十月」ソヴェト政権の確立とともに、ロシアの農民ははじめて土地を自分のものとした。

     
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│土地を農民へ!│ 
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 この歴史的なスローガンは、一九一七年の二月革命の当時、ケレンスキーの臨時政府も一応はかかげた。ともかく、それによって革命的な農民の支持を得なければ政府は一日の安きをも得ない情勢であった。が、ケレンスキーのブルジョア民主主義者らしい日和見戦術で、半封建的であると共に資本主義の土地関係を根本から建て直しが敢行され得るかのように想像したのが間違いであった。臨時政府はツァーの絶対制を立憲政治へこぎつけるまでがせいぜいで、失業と飢との間から、労働者、農民は、真に彼等の生きようとする要求を理解し、組織し、実践する党はどこにあるか。それを理解しはじめた。

 ブルジョア民主主義者に苦々しい背負投げをくわされたロシアの大衆は、今度は臨時政府を投げ倒し、プロレタリア階級の党、ロシア共産党(ボルシェヴィキ)と力を揃えて「十月」を遂行したのだ。

 一九一七―二一年の困難な国内戦の期間、農民がうけもった革命的役割は「赤のパルチザン」の功績にハッキリと現れている。

 ソヴェト同盟の 第一騎兵隊 ペールヴァヤ・コンナヤ と云えば、革命第十三年の今日、なおソヴェトの農民の誇りだ。

 第一騎兵隊は、ウランゲルの反革命軍を追っぱらった。第一騎兵隊はデニキンをやっつけた。第一騎兵隊はチェッコ・スロヴァキアの侵入軍をめちゃめちゃにした。――ソヴェトの地図は、第一騎兵隊の偉業をぬきに説明することは出来ない。その光栄ある第一騎兵隊は誰が、どのようにして組織したものだろうか? ペトログラード士官学校の急進的卒業生によって組織されたのだろうか? そうではなかった。グラトコフの「セメント」でわれわれがよんだように、工場の赤衛兵の発達したものであったろうか? そうでもない。ブジョンヌイという一人の農民出身で、戦術にかけては天才的な騎兵が中心となってこしらえたものだ。自分の厩で飼い馴れた馬にとびのり「白」に向って突撃した農民の集団であった。南露に分散していた「赤のパルチザン」は、ブジョンヌイの第一騎兵隊の噂をきき、猟銃をかつぎ黒パンを入れた袋をかついで次から次へと集って来た。

 広大なソヴェト同盟内の各地方ソヴェトは、南方でも、シベリアでも勇敢な農民パルチザンと赤衛軍との血でうちたてられたのであった。

 一九一七年、一八年、そして一九年。

 国内戦はまだ鎮まらない。然しソヴェトは革命の翌日から着々土地法を制定した。

第一条 ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国領域内ニオケル土地、地中埋蔵物、水域、森林オヨビ生ケル自然力ニ対スル私有権ハ永久ニ之ヲ廃止ス。

第二条 土地ハ一切ノ(公然タル若クハ隠蔽サレタル)賠償ナクシテ今日限リ全労働大衆ノ使用ニ帰スルモノトス。

 ツァー、貴族、教会、地主、富農の土地は没収された。面積一億デシャチン、価格百三十億金ルーブリの耕地が「十月」によって確実に農民の手にわたった。

 ところが、戦後共産主義の毎日が始って見ると農村にはいろいろな困難が起って来た。

 農民の間の反動的分子は密造酒を飲みながらゴネだした。

「ヘエ、俺らコンムニストにだまされたんだ。奴等あ何て云った? 土地は農民へ! って云っといて、命をまとにソヴェト権力を守らした。――フー! 何が農民の土地だね! 昔あ地主に作物をとられた。今じゃ政府だ。その間に何の違いがあるかね? 昔あ年貢が不足すりゃ鞭打ちですんだ。コンムニストは鞭の代りに書付を出しくさる! そして監獄だ! フーッ!」

 土地を農民へ。ということを階級的意識の低い、農民のあるものは、本質を全く反対に考えていた。土地を皆に分け取りにして、取った土地で稼げば稼いだだけ自分の身上を肥やしてゆけるようになるのだとカン違いしていた。社会化した土地の利用ということの代りに、今度は自分達が地主となって元の地主からとった土地を分け合えるものと、旧い私有財産制に毒された理解に執していた。このため一九二一年までの単一経済組織における農産品の現物税徴収では、ソヴェト政府と都会のプロレタリアートとが大難儀を経験した。

 工場に働く労働者とまるで伝統が違い感情もちがう多数の富農・中農民は、永年に亙る非人間的生活にうちのめされ、個人的な打算以外の考えかたを持ち合わせていない。「十月」を自己流に考えて得だと思ったから、革命的な貧農と共に、のり越えた。が、いざとなるとプロレタリアートが建設しようと努力する社会主義社会での土地関係の必然性は農民の多数、特に富農には把握されなかった。

 強制徴発をされては 間尺 ましゃく に合わないと家族の食うだけの麦しか蒔かない、やっと食うだけのジャガイモしか植えない。麻なぞ作って骨折るだけ損だと麻畑は荒廃にまかされた。

 ソヴェトの工業はどこから必要な四七パーセントの国内的原料をとって来たらいいのか? 工場は完全に革命的労働者に管理されながら原料が足りない。軽工業生産品が出来ないから、したがって農民の買わなければならない消耗品が欠乏する。こんな不自由はいよいよ馬鹿らしいと、農民は、益々播種面をちぢめ、耕地に草は伸び放題。ソヴェト生産の鋏は、順当な交互作用を失って開きっぱなしという危機に立ち到ったのであった。

 一九二一年の果敢な 新経済政策 ネップ は、この生産関係の調整のために敢行された。新経済政策は、農民には場合によって八時間以上の労働と、土地の貸借、他人の労力の雇傭、生産品の自由売買其他を許した。反動的な農民は、当時ソレ見ろとばかり心で手を打った。富農は土地の 賃貸 ちんがし をはじめ――再び富農に搾取される小作人がソヴェトの耕地に現れた。小麦、バター、麻、羊毛あらゆる農業生産品の買占人が跳梁しはじめた。

 こうして二年三年経つうちには、富農は反ソヴェト的な利害をもった農村の階級として、意外に深い根をおろした。一九二八年の秋を見るなら、我々は立ちどころに彼等の擾乱作用を理解するであろう。ソヴェトはその播種面をヨーロッパ戦前の九五パーセントまで回復していたのに、前年より一億プードも少い麦を、而も強制買付けで辛うじて買い上げている。

 この年ヨーロッパへ麦を輸出することが出来なかった。それどころか、アメリカから買い込んだメリケン粉袋が埠頭に積んであるというデマさえ飛んだ。

 これは、富農と買占人の奸策が成功した結果であった。

 前の年から、ソヴェト政府が累進税で富農の私有財産制への実際上の復帰を統制しはじめた。その復讐だ。

 ソヴェト生産拡張五ヵ年計画は、複雑な農村社会主義化の実践へ根強い組織力で迫って来た。

 先ず、耕作用トラクター七万台が進出した。

「トラクター中央」を囲むいくつかの集団農場が、生産手段の工業化につれて、労働の種別基本賃銀による共同労働、共同食堂、共同住宅、クラブ、託児所をもって、これまでと全然違う集団的労働と休息をもつようになって来た。

 集団農場では農業生産物の取引も、個人個人がやるのではない。工場が、生産組合との間に行う取引と同じような社会主義的な形態で行われることになった。本当の農業の計画的生産がはじまった。各集団農場が面積、労働力、生産手段に応じて生産予定額を生産組合との間に協定して取引する。組合員は、もう去年のように、仲買人にだまされることを心配しないでいい。集団農場が負担する税はひどく低率だ。優良種子、耕地整理、農業技師の派遣等は、生産組合が、責任を負ってやって呉れる。

 集団農場化は、大局から見て、都会の工業に対する農村のこれまでの植民地関係を止揚するばかりではない。一人一人の貧農・中農の直接の利害から云って集団農場に加入する方がずっと割がいいことを明らかにした。

 五ヵ年計画で、ソヴェト農民の一人宛収入が、六五パーセント以上八〇パーセントもあがるという事実は、既に集団農場化の第一年に認められた。農村の電化の素晴らしい勢! 真実、農村の「十月」は五ヵ年計画とともに始まった。

  富農 クラーク と貧農・中農との間の鋭い階級的対立のない村は、一九二九年の秋、どこにも見当らなかった。或る村では、集団農場化に精力的活動をする貧農とコムソモールが行方不明になった。十日も経って、沼から彼等の長靴があがり、やっと死体が発見された。或る村では、都会から派遣された集団農場の組織者が、窓越しに鉄砲を射たれて死んだ。せっかく村へよこされたトラクターが深夜何者かによって破壊されたという例は一再ならず我々の耳目にさえふれたのである。

     
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│工場と農村の 結合 スムイチカ へ!       │ 
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 都会の工場から農村の集団農場の手助けに労働者のウダールニクが数十万動員された。

 富農撲滅と富農と結托する僧侶排撃の精力的な活動と集団農場での文化向上のための文化・芸術ウダールニクが、元気のいいつむのように彼方から此方の村へと飛んだ。

 一九二九年には、ソヴェト全農戸の五〇パーセントが集団農場化し、農民の心理は急速に変化しはじめた。生産手段の工業化とともに視野はひろがった。馬鋤を押して行きつ戻りつする個人耕作の畦が消えたといっしょに、社会主義的な方法で農業生産に従事する労働者の心持が次第に農民の感情に近いものとなって来た。

 ソヴェトの土は、初めて、富農のどんよくな手から労働者農民の土地らしい生産的活躍をはじめた。

 党とそれを支持する労働者農民が、五ヵ年計画第一年から農村集団農場化の実践によって経験した国内の反動・右翼日和見との闘争、極左主義、前衛主義の克服等は、光彩ある歴史の中でも、画期的な価うちをもつものであると思う。

 全露農民作家協会の作家たちは、この波瀾に富んだソヴェト農村の数年の生活を、どんな芸術活動に反映させているだろうか?

 ソヴェトにおいて農民作家団は、十月革命から今日までの情勢の具体的基礎の上に立ち、都会のプロレタリアートの生活と農民の生活とは、その具体性において、或る相異をもっているという客観的な理由によって結成されたものであった。

 農業労働のテンポ、そこから来る生活感情そのものが、工場労働者の日常にとけ込んでいるものとは違う。毎日の関心事、その心持がまた違う。例えば、モスクワの金属工場に働く労働者が、飴牛の姙娠と出産とに、どんな熱情をもつことが出来るであろう。

 党も、 同伴者 パプツチキ 作家団を認めたと同じ友誼的指導的な態度で、全露農民作家協会に対して来た。一九二五年の文学に関するテーゼは、その組織に対する支持と、農民に影響するために必要な農民文学の独特な形象を保護することなどを明言した。

 成程、ロシアの農民は「十月」と村ソヴェトの成立と同時に、彼の草鞋(ラプチ)をぬぎすてはしなかった。密造酒をつくることも、 仲介人 なこうど が結納品のかけ合をやる婚礼もすぐには絶えなかった。

 昔からの民謡を、ピオニェールも謡うだろう。「ステンカ・ラージンの岩」は伝説をもって、やっぱりヴォルガ河の崖にある。

 農民作家たちは、いつの間にか、こういう細々した農村生活の外部的、或は内面の特別性を、固定したものとして扱い、過重評価しはじめた。

「ロシアの土」の偉大さを、社会主義社会建設のために、階級的方向にどう利用して行くべきかを作品の中で指示せず、逆に或る者は「ロシアの土の力」自体が、自然発生的に社会主義を決定するかのように考えた。

 このことは、農業機械に対する農民の感情の解剖などにもよく現れた。

 例えば、エセーニンは、所謂田園詩人らしい才能と欠点とを充分発揮して、短い生涯を終った詩人の一人であった。彼は、農村の往還に、懐しいロシアの耕地に、黒い鉄の手の出現することは、どうしても理解も我慢も出来なかった。詩を書くと、類の少ない「言葉の調律師」であった彼も、ソヴェト農業というものの本質についての理解のしかたは、昔のムジークそっくりであった。彼は「農業機械のきらいな農民」を客観的に歌うのではない。いきなり、直截に、自身の心をむき出して、そんなものはイヤだ、イヤだと絶叫した。

 全露農民作家団は、革命第十年目のソヴェト同盟に生活して、エセーニンがあったほど、そのように素朴ではない。

 党は彼等を支持しているけれども、それは農民のうちに社会主義的な生産方法によって行われる新しい農業、農村生活への理解を発育させ、明日の農村のあることを予見する農民のための芸術団体として価値を認めているわけである。

 そのことを知っている農民作家は、それ故、田舎娘の赤いエプロンと、ゆっくりした碧い瞳の動き、牛の鳴声、ポプラの若葉に光るガラス玉の頸飾ばかりを書いているのではない。村のコムソモールの生活も、トラクターも書く。しかし、年とった農民がそのトラクターを眺めて溜息をついて疑わしそうに否定的に頭を振れば、農民作家はそれをそれとしてその農民の枠内でだけ把握し描写し、一歩突き進んで、ロシアの歴代の農民はなぜツルゲーニェフやトルストイ時代、農業機械をきらって来たか、その同じ機械ぎらいが、ソヴェト権力の下でさえも猶農業機械に対して排他的であり、ガンコであることは、どういうことを意味するかという、階級的根源にまでは触れて行こうとしない。

 一八六一年の農奴解放で一杯くったロシアの貧農は、生存権を守るために「旦那」に対して全く懐疑的にならずにいられなかった。二十世紀初頭に、ロシアの地主は搾取の面から、おくれたロシアの農場の資本主義経営、労働の合理化を考えて、農場へドイツやイギリスの耕作機械を買いこんだ。

 農民たちは、脱いだ帽子を手にもって地主の前へ並び、農業機械を驚きの目で見つめた。指でさわって見た。或は暫く使って見た。が、元の鋤へ逆転してもうどうしてもその原始的な器具をはなさず、「復活」に描かれているように地主トルストイを歎息させたのは何故であったろうか?

 大地主とその支配人の首枷の下で、農民は、耕作機が彼等を幸福にする道具ではないことを、本能でかぎつけた。彼等は、それを、支配者が農民の観念の統帥としてあてがって置いた悪魔という文句で表現して、機械を地主へ返却したのであった。

 ソヴェト権力の下で、村ソヴェトをもちながら農民が機械に対しては懐疑的であるのは、或る種の農民作家が認めたようにそれが「農民の本質」なのではなくて、対地主との関係に癖づけられた感情の惰勢なのであった。

 自然の描写にしても、農民作家は、自然に働きかける新しい社会の意志をうけ入れない。人間ぬきの自然美を讚歎して描く。「農村にだけほんとのロシアがのこっている」という考えかたは、農民作家共通のものと云えた。

 一九三〇年の或る秋の日のことである。わたしは、ソヴェトのいろんな作家団、劇作家団が事務所をもっている「ゲルツェンの家」の食堂で、昼飯をたべていた。作家団体に属する者は、五ルーブリの切符を半額で買って、そこで品質のいい食事が出来るのであった。

 わたしの坐ったテーブルに、二人中年の男がいる。やっぱり切符組だ。ふとその一人と口をきくようになった。

 彼は、日本のプロレタリア文学運動の情勢などしきりに訊いた後、

「日本の農民作家団はどんな仕事をしているか」と云い出した。

 日本の農民作家団――わたしは、日本に特別そういう作家グループはないと答えた。農民を描く作家もプロレタリア文学運動の一つの分野に属すと云ったら、フフムという顔つきでその男が云った。

「われわれのところには、プロレタリア作家の団体とは別に、大きい農民作家の団体があります」

 その口調からおや、とわたしは思い、この男自身農民作家だと思った。だが、どうして、プロレタリア作家と自分等とをそんなに別々に対立するような口吻で区別するのだろう。

 続けて、相手が質問した。

「あなた、ロシアの田舎を知っていますか?」

「大してよく知ってはいないが、あっちこっち旅行はしました」

「どこです?」

 そう云いながら、ジーッとわたしの顔を見据えた。

「ドン地方、北コーカサス地方が主です」

「ふふむ――で、ヴォルガ沿岸地方は?」

「二八年にヴォルガを下って、その時分はニージュニ・ノヴゴロドに、まだソヴェト・フォード工場さえなかった」

「ぜひ、ヴォルガ沿岸へいらっしゃい!」

 まるで命令するようにその男は云った。

「私は農民作家で、ほんとの社会主義がどこにあるか、ソヴェトのほんとに新しいもの、ほんとの古いものが何処にあるか、知っている。それは、ヴォルガ地方だ。ヴォルガ地方がソヴェトの動力です。モスクワで、ソヴェトの生粋の人間なんかは見られない。モスクワには 商人 メシチャニン か、小ブルジョアしかいません!」

 思わずわたしは笑いだした。

 これは余り、農民作家的ではないか! この男は、世界革命はヴォルガ沿岸地方からだけ、というような口ぶりだ。一般的に、農民作家の地方偏重の傾向、都会への偏狭さが屡々批判されるが、この作家の言葉にもよくあらわれている。

 一九二九年の、激しい農村の階級闘争、富農征伐のとき、どちらかというと、右翼的誤謬をもち易い農民作家団の中に「工業化主義者の職場」という、左翼的スローガンをかかげた一団が現われた。

 一見このグループの立場は進歩的であり、発展の線に沿ったものらしく見えた。ところが、その内実が明らかになった時「ラップ」とソヴェト大衆とは、この階級的なスキャップ団の清掃のために少なからぬ時間と精力とを費した。彼等の工業化は、彼等の反革命的目的にかぶせた仮面であった。富農の勢力拡大と階級擁護のために、そのような名をかぶった一味がトラクターを富農の手に騙しとり、集団化を阻害しようとした。彼等がスローガンとした「工業化」の上へはもう一つ書かれぬ言葉、「反革命的」という文句があったのである。

 ところで「パルチザン」は国内戦当時におけるソヴェト農民大衆の革命的役割の見本であるが、農民作家は、では「赤いパルチザン」の業績を、芸術活動で、どう記録しているだろうか。ファジェーエフの「壊滅」、フセワロード・イワノフの「装甲列車」及「パルチザン」、フールマノフの「赤色親衛隊」などを凌駕する、どのような作品が農民作家によって呈出されたであろうか?

 ファジェーエフは「ラップ」の作家だ。イワノフは同伴者作家として、まだ新鮮な力のあった時分「装甲列車」を書いた。赤軍も、農民とは切りはなせない。なぜなら、赤軍は労働者農民の武力なのだから。しかし「騎兵隊」を書いたバーベリは同伴者作家団に属する。近頃「第一騎兵隊」を書いて、上演されている作家ウィシニェフスキーは農民作家だろうか、ちがう。「ラップ」の若いコムソモールの出身の作家である。

 現に、一九三〇年七月の第十六回ロシア共産党大会で、最近二年間の傑作として紹介された農村を主題とする文学作品、ショーロホフの「静かなドン」にしろ、ゴルブーノフの「解氷期」にしろ、「村娘」「農村通信員の手記」「貧農組合」「コサック村」、すべて「ラップ」の若手作家、主としてコムソモール出身の作家によって書かれた。

 農民作家が、厳しく自己批判すべき時が来た。

 ソヴェト農村の社会主義的な集団化は、農民の現実を大きく変化させ、急テンポで農民作家の階級的認識を追い越しつつある。

 五ヵ年計画は、農民作家に重大な任務を授けた。それは、昔の封建的で個人主義的農民気質と生活の型が、あらゆる農村生活の特殊性等が社会主義建設の現実にあっては、より高い階級的 自発性 イニシアチーブ への可変的要素であることを、複雑な新しいものと古いものの錯綜のうちに芸術化するという課題である。