University of Virginia Library

文学の組織的生産の問題

 五ヵ年計画第二年目にラップ内で提起されたこの問題は非常に一般の注意をひいた。

 ソヴェトでこのとき云われた文学の組織的生産という意味は、偶然に出来上った作品を発表するに当ってとられる一つの出版形式として提起されたのではなかった。プロレタリア・リアリズム確立のための一つの路ではあるまいかという考えがあったのだ。

 文学、演劇、絵画等における五ヵ年計画の目標は、プロレタリア・リアリズムの確立におかれている。

 ソヴェトの芸術家たちは、社会主義社会の建設に躍進する工場農村においての現実的経験に表現を与えることから、この芸術創造の方法の課題に答える実力を次第に獲得して来たらしかった。が、同時に、文学新聞や雑誌にこういうスローガンが見られるようになって来た。

「生産への 異国趣味 エクゾチシズム を排撃せよ!」

 労働者新聞に職場からの通信がのった。

「作家たちは、俺たちの職場へやって来る。彼等は見学する。俺たちの話をきく。手帳にいろいろと書きこむ。それは大いに結構だ。だが、作家たちはやって来て、創作のための材料を集めるだけで帰ってしまった。せっかく作家が来たのに俺たちの工場では、『文学の夕』さえ持たれなかった。作家たちが俺たちのところへ、どんな文化的な助力ものこして行かなかったことを実に残念に思う。――」

 作家たちが、鉛筆と手帳とをポケットに入れて工場へ出かける。集団農場へ行って、トラクターに乗って麦の蒔つけを見る。生産の場所での日常の闘争へ参加し、国内戦時代とは性質のちがう建設期のソヴェト・プロレタリアートの英雄的行動を観察し、記録し、活々とした芸術品にまとめようとする。けれども一九三〇年の春以来、ソヴェトの作家たちは、それを実現するにやや手当りばったりであった。

 国立出版所で組織したウラル地方の重工業生産地への見学団、ソヴェト作家団体総連合主催の工場、集団農場への文学ウダールニク。いずれの場合でも、ただ応募した作家たちが一まとめに派遣されただけで、各々の作家が、これまでどの産業に一番接近していたか、どんな社会的労働があるのか? それらの経験と行くさきの新興産業とはどんな関係にあるかというような詳細に亙って、作家と目的地との関係などは詮衡されなかった。

「生産への異国趣味を排撃せよ!」というスローガンが、自己批判として現れたのは、極めて自然な結果であった。

 今が今まで見たこともない製材工場へやって来て、巨大な、精緻な機械が、梁みたいに大きな木材を片はじからパンのように截って廻っているのを目撃したら、誰しも感歎する。

 やがて職業意識をとり戻し、彼は、わきに案内役をしている工場新聞発行所の文学衝撃隊員或は工場委員会文化部員に訊くだろう。

「君、これは何て機械です? フフーム。それで、アメリカ製ですか? そうではない? 成程! 素敵だね。われわれのソヴェトでもこんな機械が出来るのか!」

 ところで彼が書いて『十月』や『成長』に発表する「職場にて」を見ると、それは十分労働者の心持を つか んでいない。

 国内戦時代は赤衛軍の指揮官をやって、現在国際革命文学局の書記をしている作家タラソフ・ロディオーノフが、彼の指導するモスクワの大金属工場「鎌と鎚」の 文学研究会 リト・クルジョーク で、丸い赤鼻を一層赤くして、こう批判したようなものが出来る。

「タワーリシチ! ここにも一つプロレタリア文学の誤った手本が出ている。この『職場にて』は、成程機械力が描かれている。機械の統制ある活動の美しさ、歓び、音響、一分間に何本の木材を切断するかという速力についても書かれている。しかし、これだけなら構成派の作家がもと盛に書いたよ。グングン働く機械を見て『アア神よ! 我々近代人を陶酔させる力はこれだ!』という工合にね。これは工場へ舞い込んでびっくりしているインテリゲンツィアの生産に対する異国趣味だ。労働者なら機械を見たとき、その機械に対するもっと異った注意や愛情、自分の道具としてそれを動かすプロレタリアートの社会的階級的な意志をはっきり感じるだろう。その機械を支配して、働いている自分達の世界的な目的を感じるだろう。この『職場にて』のどこにそういうわれわれの感情があるかね?」

 ほんの短い期間だけ、或る工場なり集団農場なりへ出かける作家たちにとっては、自分の見学、材料蒐集をやるだけで殆どいっぱいだ。そこの大衆のために何かあとまでのこって役に立つような文化的助力を与えるということは、時間的に困難なばかりではない。作家たちはそこの大衆がもっている文化の発展過程を知っていない。よしんば工場委員会の文化部員や、工場新聞発行者たちに説明されたにしろ、急ごしらえに大衆の要求を発見し、それを現実にまとめて働きかけることはほとんど不可能事である。

 ではソヴェトのプロレタリア作家は、従来、そんなに生産場面と切りはなされて作家活動をやっていたかといえば決してそうではなかった。ラップの主な作家の一人、キルションについて見よう。

 キルションは、数年前有名な「レールは鳴る」という作品を書いた。或る汽罐車製造工場が労働者あがりの工場管理者によって管理されている。工場の技師、関係トラストの支配人、古参な職長一味が何とかして、ソヴェト権力の認めた労働者の工場管理権を、自分達の手で、ブルジョアへ奪還したいと思う。反革命的策動が組織された。労働者出の工場管理者を、いろいろなことで工場内の反革命分子がいじめる。管理者は自分の部署から退かぬ。彼にとって、工場管理者という自身の地位は、ブルジョア的な考えかたでの立身――成りあがってつかんだ地位ではない。プロレタリアートによって、そこを守れ! と命ぜられた、責任の重い生産における前線の部署である。いかに恥しめられようと、退かない。そこで、反革命分子がソヴェト法律を逆用して遂にその労働者出の工場管理者を国家保安部に捕縛させた。然し、工場内の革命的分子は、黙って見ていない。熱心な、階級的な彼等の努力が、最後に反革命分子の一人の心をうごかし自己批判をよびさました。そして、工場管理者のプロレタリア的正義は大衆の前に明かにされた。

 これは、モスクワの「エム・オー・エス・ペー・エス」劇場(モスクワ地方職業組合ソヴェトの劇場)に上演され、非常に大衆によろこばれた。

 ところで作家のキルションは、その後、その汽罐車製造工場と、どんな密接な関係を保って来ているであろうか? キルションのその後の作品はこれに対する答の材料をわれわれに与えない。その汽罐車製造工場とそこに働く労働者は「レールは鳴る」に現れたぎり、消えた。他のどの作家も、二度とそこをとりあげていない。

 しかしながら、ソヴェト五ヵ年計画は、全同盟内の運輸網一九二八年八万キロメートルであったのを、三三年には十万五千キロメートルにしようとしている。この数字は、云わずとも沢山の汽罐車が新しく造られなければならないことを示している。

 嘗て、キルションに観察され描かれた汽罐車製造工場内の大衆が、この燃え立つ社会主義達成の時期に「レールは鳴る」時代とはまた種類の違う形態と心持の内容とで、職場内の階級的闘争を経験していることに疑いはない。もし、キルションがずっと続けて、この工場と現実的な接触を保っているとしたら、彼は、この汽罐車工場における第二の革命、歴史的瞬間の諸相を見落しただろうか。

 作家キルションは、工場内の熟練労働者は勿論のこと、門番、のんだくれて同志裁判にかけられた労働者とまで知り合いなはずだ。生産の技術についても、ズブの素人以上の知識をもっているであろう。職場内の一般的気分、五ヵ年計画につれて発生し複雑に発展する様々の現象と心理とは、たった一ヵ月、或は二ヵ月その工場を見学した 文学衝撃隊 リト・ウダールニク の到底及ばない実感、正確さ、見とおしで描写される筈ではないだろうか。

 キルションは、こういう根気よい展望をもって汽罐車製造工場を見、それと結びついてはいなかった。キルションの場合にも見られるような生産場面に対する過去の作家のややその場かぎりの題材あさりの態度、及び、現在の作家と生産との結びつきの無統制から、作品活動は、その成果において十分プロレタリアの世界観に立ってのリアリズムにまで到達していない。

 そこで、文学作品の組織的生産という考えが一部の人々によってもち出されたのであった。

 主張の要点は大体次のようであった。

 作家は、一層労働者生活の現実に即し、文学におけるプロレタリア・リアリズムのために各産業別に組織されるべきだ、そして、一年に、どの産業では最少限何篇の小説、戯曲を、どの産業では散文、詩、各何篇という風に計画的に製作したらどうか。この場合重点は、ソヴェトの生産経済計画に従って、或る特定産業の上におかれる。

 五ヵ年計画に結びつけて具体的に見ると、大体の文学的重点は、五ヵ年計画がそれを基本としている通り重工業の電化、農村の集団化の主題におかれる。重工業の中でも、特に力を入れて生産拡大をされなければならない部門=鉄、石炭、石油産業が、文学の産業別上にも部門的な重点となる。或る年度に特別の注意をもって扱われなければならない生産部門に属す作家は、その年、特に量と質で沢山な文学活動を必要とされるというわけなのである。

 工場の文学ウダールニク、農村通信員、労働通信員などの間から、その「文学生産の合理化」の実現を要求する声が、あっちこっちの新聞雑誌の上に響いた。

 これに対してラップの指導部は討論を持続しながら、結語はなかなか与えなかった。いろいろの問題がそこに含まれているからである。

 第一、ソヴェトのプロレタリア作家たちが、一時的に農村や工場へ出かけて行って観察し、材料を集めて来るというような状態は、ソヴェトの芸術運動発展の方向から見て恒久的な性質をもつものであろうか?

 七月の党大会に、ラップ代表としてキルションが過去二年間のソヴェト・プロレタリア作家の業績について報告した中で、四十余名の作家の名と作品の名とを推薦した。その中に、コムソモール出身で、労農通信員だった新しい作家たちが少なからず紹介されている。

 コムソモール、労農通信員の中から、プロレタリア芸術運動の交代者が現れつつあるということは、もはや疑う余地のない事実である。

 党の文学に関するテーゼは一九二五年、既にこの点に注意を呼び起した。理論家ヴォロンスキーは最近妙な人道主義へ転落したが、昔、コムソモールや労農通信員の文学的創造性を尊重しなければならないと云った時は、完全に正しかった。その次代の交代者たるコムソモール、労農通信員たちの日常生活はどうであろうか? 彼等はめいめいの職場にあって、すっかり生産と結ばれて育って来ている。質のよい熟練工、技術家、専門家としてきっちりソヴェト生産の中軸的活動者となっている。或る産業に永年従事するものの特別な気持。階級闘争の現実的な経験。五ヵ年計画実現に関連して、或る産業に従事する労働者の独特な生活に起った独特な社会的変化などは、こういう現役兵=コムソモール出の労農通信員によって、最も自然に実感をもって把握され文学的作品の中に描写されつつある。

 これこそ、本然的な芸術における産業別ではないか。

「ラップ」の重大な責任は、社会的労働において既に産別に組織されているこういうコムソモール、労農通信員の創造力を正しく芸術活動へ導くことにある。人為的な作家の産業別わりあては、或る種のオッチョコチョイな作家が工場から工場へと鉛筆をもって飛びまわるという厄介を減らすかもしれない。然し優秀な、拡大力のある作家の芸術活動に題材の固定化を起させるという危険がある。

 さらに、芸術はその特殊性によって、石炭を掘り出すためにきめられた 生産経済計画 プロフィンプラン に従って生産されるということだけでは決して、作品の価値を高め得るものではない。

 文学的作品は新聞記事ではない。主題の強化、題材の蓄積、整理、筋の組立て。それらのためには時間がいる。

 文学はその点で、特に小説は、絵画と非常に違う。現に五ヵ年計画第二年目の一九三〇年に見ても、絵画には既に相当五ヵ年計画がもりこまれている。戯曲も、農村の集団化と都会の工場労働者との結合を主題にしたものがいくつか現れた。然し、一九三〇年度に出版された小説では、工場農村からの報告以外に、まだ五ヵ年計画は十分主題としてこなされていない。出版され、好評のあった小説は多く五ヵ年計画以前に書かれたものであった。無名な若い作者の生産の場所における現実的な経験、日常の地みちな建設への争闘が描写されているという点にそれ等の作品の価値を見出し、そういう作品を求め、次々に出版した。出版におけるその選択ぶりにソヴェト五ヵ年計画以後の芸術方針が認められると思う。

 ソヴェトの文学的生産は、社会生活の全貌を変えた五ヵ年計画と結びついて、発展の道についた。しかしながら、その衝撃的テンポは自ら石油の生産経済計画遂行の衝撃的テンポと同一ではあり得ないのであった。

 一九三〇年の党大会後「ラップ」が自己批判して、工場、クラブ内の文学研究会指導方針を変更したことは前回に書いた。

 孤立的な余技的趣味への閉じこもりを排撃しろ。

 文学研究会員は大衆的に壁新聞、工場新聞へ動員され、活溌な文学活動を通して、勤労者の世界観と自発性とを高めろ。

 新しい方針で、ラップはいつの時代よりも積極的に生産現場にある男女の青年労働者、労農通信員の文学的創造力へ呼びかけている。その支持と、指導とをラップの任務と認めている。そして、健康なプロレタリアの世界観と社会的労働の経験の中にある若い労農通信員たちよ! ドシドシ文学活動へ参加して来い! そう呼びかけている。

 この方針の実践は、今日、プロレタリア作家の産業別組織的生産の問題を起した現実的な原因――生産労働と作家活動との間に生じた分裂を、最も自然なプロレタリア文学全線の向上を社会的要因として、近い将来に揚棄する可能性を示すものであると思う。

 ファジェーエフは早速「ラップ」の仕事として、ソヴェト同盟内の各地方から労農通信員の文学ウダールニクをモスクワへ召集した。労農文学衝撃隊員は一万人ばかりやって来た。赤いプラカートの張りまわされた労働組合会館の広間で活溌な討論が数日間行われた。

 若い労農文学衝撃隊員たちは、再建設期にあるソヴェト同盟の生産と芸術に対する新しい活動の計画をもって再びめいめいの職場へ戻った。

 同時に「ラップ」は成員を拡大した。これまで、ラップ加盟員は大体から云って、もう一人前のプロレタリア作家になっている者、または、なりかけ位のものが多かった。一九三〇年、その限界線を「ラップ」は大胆に拡げ、ラップによって指導されている工場の文学研究会員も、ラップの正式な資格ある加盟員とした。

 工場内の文学研究会指導の任務は、五ヵ年計画第三年目当初において、従来に倍する重要な意味をもって、プロレタリア作家の前に現れたのである。

 工場の文学研究会というところは、労働通信員を中心とする若いプロレタリア文学の交代者が、そこで文学的技術さえ習得すれば足りる場所ではない。文学研究会を指導することによって、既成作家たち自身が、生産の場所にあるソヴェト新社会人の意志、感情に接触する大切な場所である。作家にとっての活きた勉強場だ。

 文学研究会に対するこの理解は、党大会後参加して来た構成派の作家たちを、「ラップ」がすぐいろんな工場の文学研究会指導者として配置したことでもわかる。構成派の人々のまだその尾として引いている未来派的傾向、資本主義末期の小市民的な観念や社会主義社会に対する観念は、現実の力によってだけ、健康に洗われ、鍛えられ得るであろう。