University of Virginia Library

ソヴェトの農民は文学をどう噛みこなすか

 ソヴェト同盟内の労働者大衆が、次々に発表される小説、戯曲などに対して、どのような感想批評をもつか。それは比較的はやく、はっきり反映して来る。

 彼等の批評は『文学新聞』への投書となる。『キノと生活』へ工場の労働通信員の寸評となって出て来る。工場内の文学研究会でまとめられた批判は「ラップ」の初歩的機関紙『 成長 ロスト 』などへも載せられる。芝居のプログラムのうしろには、その時上演されている戯曲についての大衆的反響が印刷されているほどである。

 ところが、農村に於ける農民大衆=一生モスクワというところを自分の目で見る機会がないような辺鄙なロシアの田舎で「十月」を経験し、国内戦を闘い、そして今は五ヵ年計画による集団農場建設のために努力しているソヴェトの農民大衆の芸術に対する反響は、どの程度に集められて参考にされているかというと、これには余り積極的な返事は与えられなかった。

 一九一七年以来、ソヴェト同盟の農村は、どんな山奥でも農村通信員というものを持っている。主として年長のピオニェールや、コムソモール、または党外の活動的な分子によって組織される農村通信員は、特におくれた文化の農村生活の中で実に多くの文化的役割を果しつつある。ソヴェト労農通信員の強みは、日常の政治・文化戦線における彼等の建設的実践力だ。単に書くより先に行うところに彼等の異常な文化建設力がある。

 五ヵ年計画がはじまってからの彼等の活動は目覚ましいものがある。一九二九年の秋から三〇年の種蒔時にかけて敢行された富農撲滅、農村の「十月」が、ソヴェトの社会主義社会建設史の頁に輝く時、その陰にかくれた農村通信員の革命的功績は決して只忘られるものではない。

 活動的な農村通信員達は、村の図書館について、「民衆の家」の文学研究会について、いろんな報告を送ってよこす。

 だが、それは大抵、農村通信員各個人個人の意見で書かれたものである。例えば、俺の村の「民衆の家」は折角「赤い隅」をもっていながら、今年の前四分の一半期には一冊も新しい本を買わなかった。国立出版所は、新刊書の配布網についてもっと研究するべきだ。そういうことは書いて来る。しかし、村の人々はどういう小説を読みたがっているか、またどの小説に対してどういう風に大衆的に批評したかというような綜合的な報告は概してすくない。自分は何々を読んだ。だが、作者は果して村の生活をよく知ってるのだろうか? 云々。そういうのはよく見かける。けれども、五人なり十人なりの農民が集団的に与えた作品評というものは、これまで殆ど見当らなかった。

 ところが、一九三〇年一つの興味ある本が国立出版所から出た。それは、アー・エム・トポーロフという男の仕事である。

 モスクワから五千キロメートル離れたシベリアのコシヒ・バルナウーリスキー地方に「五月の朝」という 共産農場 コンムーナ がある。そういう農場では、生産、利潤の分配すべてを共有に、共産主義的にやって行く農場経営の形だ。

 そのコンムーナに小学校がある。数本の白樺と檜の樹にかこまれた丸太づくりの小さい学校だ。が、そこに一人の精力的な教師が働いている。一九一七年までその教師は近所の村の教区学校の教師をしていた。コンムーナが出来るとそこの学校で教えはじめた。ガッチリした四十がらみの男で、ツルの曲った粗末な眼鏡をかけ、時によると、校舎の外の草っ原へ机と腰かけをもち出し、コンムーナ員の誰かをつかまえ、何かをきいてはそれを紙きれに書きつけている姿が見える。「五月の朝」の人々は、だんだんそういう光景を見ることに馴れた。更に一つの、事実にも馴れた。それはコンムーナの一日の仕事が終ると、殆ど毎晩小さい丸太小舎の小学校で文学朗読会があるということだ。

 工場の文学研究会みたいに、みんなが家で小説をよんで来て、意見を話し合うというのではない。七つ八つの子供から七十近い爺さん婆さんまで、

「そろそろまた本読みさ行くか」

と、やって来る人々に向って、いつも一人の人間、つるの曲った眼鏡の先生が、あきもせず、いろんな詩、小説、戯曲をよんできかせてやる。

 みんなは唸ったり、退屈だと無遠慮に 欠伸 あくび したり、時には亢奮して涙をこぼしたりしながら、読んで呉れる作品をきき幾晩かかかってすっかりそれが終ると、

「さアてネ」

と、てんでに印象を述べだす。他人はいない。コンムーナの者ばっかりだ。何遠慮すべえとめいめいのふだんつかっている言葉で、ふだんの心持から、実際の経験からわり出した標準で批評をする。八年前から、この不思議に熱烈なロシアの田舎教師は、そういう夜々の飾りないみんなの批評を書きつけはじめた。この粘りづよいソヴェトの田舎教師がトポーロフである。国内戦のときにトポーロフはパルチザンを組織し、コルチャック軍と闘った。「五月の朝」が出来るときには本気になってその組織のために働いた。そういう仕事がすむと教区学校以来二十年の経験をかさねた小学校教師として、コンムーナの文化向上を終身の職務としてやっている。

 はじめはたった十六ルーブリの月給で、それから十九ルーブリに、一九二七年にはコンムーナの生産経済の成長とともにやっと三十二ルーブリの月給を貰うようになったトポーロフが、何を目当てに余分な精力をつかい、八年間も、冬の夜、夏の夜を農民のために文学作品を読みつづけたのだろう。

 トポーロフ自身が農民の出だ。

 二十年間、農村の小学校で働いている。革命まで、農村の小学校教師がどんな惨めな生活をしたかということは、チェホフが生きていた時分、屡々公憤をもって人にも話し、書きもした通りである。ロシアの農村での文化活動というものは、ツァーの下では無視され、或るときには意識的に低下させられていた。まして、ロシアの農村で、文学的作品がどう理解されるかなどということは、問題ではなかった。フランス語を喋るロシア人は「農民の芸術に対する野蛮性」をテンからきめてかかっていた。

 十月革命は、社会制度の根本的な建て直しとともに、文学をロシアの労農大衆にとってこれまでとまるで違う関係においた。それにも拘らず、農村で文化活動に従事しているトポーロフから見れば、専門のソヴェト文学批評は、少くとも五ヵ年計画が着手されるまで一つの誤謬を犯していた。

 先ず、誰にでもわかって、しかも労働者農民的な文学批評というものは、ソヴェトでさえもそうは見つからなかった。文学批評と云えば、術語が並んで、むずかしい文句で、小説ならばよめる労働者でも理屈の方はマアと後へまわすようなものが多い。

 その上、批評の専門家はこれまで、農民の文学に対する理解力を認めなさすぎた。やっと文盲撲滅が行われて十一二年目のソヴェトの農民が、やさしい、啓蒙的な小説を欲しがるだろうということは知っているが、農民がシェークスピアでもわかり、またわかったらそれをなかなか独特の味いかたで深く噛みこなし、その理解や批評のしかたが、ソヴェトのプロレタリア文学発達のために一つの大切な参考となるだろうというようなことは考えなかったわけだ。(一九二九年から「ラップ」の作家が多勢文学ウダールニクをつくって農村へ出かけるようになった。これは確に、従来の欠点を補う有力な方法だ。が、それもまだ試みとしては新しく、まとまった農村からの批評集というものは出来ていない)

 農民の側になって見ると、少し小説をよむような知識慾の盛な農民も、都会のインテリのように、新聞や雑誌に出る作品評をよんでから、その小説を読んで見るというような例はごく少い。大抵村のソヴェトに働いている者だとか、教師だとか、本屋の売子だとか、そういう人々が面白いぞ、とか、いいぞとか云うものを、そのまま読む癖がある。

 トポーロフが注意ぶかく観察すると、そういう村の知識分子は決していつも正しい文学批評の根底をもっているとは云えない。時にはずいぶんインチキな本を流布させる。

 ソヴェト同盟は今こそ人間の歴史がこれまで知らなかった新しい社会の建設の途中にある。農村の新しい生産方法は新しい生活様式と文化を育て、プロレタリアートと農民とは社会主義社会というものについて生々として新しい世界観をもって、新しい階級人として互に結合しつつ生れかわりつつある。

 よく選ばれた文学は、長ったらしい数字だらけの演説より勤労階級の心をつかまえる。いい一冊のプロレタリア小説は社会主義社会の建設に向って鼓舞するつよい力となる。トポーロフは、経験によって農民が文学に対してなかなか独立的な批判力をもっていることを知った。都会の或る種のプロレタリアートや学生なら、例えば或る作家の作品をよんでいろいろ不平が出ても、

「だが諸君。これはゴーリキーがとても褒めてるんだぜ」

というと、或るものは、ゴーリキーまかせにしてしまうような場合がないとは云えない。所謂専門家に対して押しがよわいところがある。農民はこの点ちがう。村の連中は、

「ふーむ」

とうなった。

「じゃ勝手に褒めさせとけ。でも、俺らゴーリキーはすきだがプリシヴィンはすかねえよ……」

 トポーロフは、ソヴェトの初等教育者というものはただ子供相手だけで納っているべきではないと考えるようになった。特に農村では大衆の文化初等教育が、広汎に要求されている。

 大衆の初等教育というのは、文盲打破にはじまって、彼等を楽しませながら教育する文学作品に対する活溌な受容力と批判力の養成を含むものではないであろうか。恐らく生れつき彼自身がひどく文学を愛しているに違いないトポーロフは、そこで、農民のための作品朗読会をもちはじめた。更にその批判を、ソヴェトの作家及出版者たちの参考にするために根気よく記録し整理しはじめた。

 トポーロフはボルシェヴィキ的耐久性で八年それをやった。

「五月の朝」の人々は、その八年の間にどんな文化的収穫を得たか?

 木綿更紗の布を三角に頭へかぶった婆さんが、ハイネを知っている。イプセンを知っている。モーパッサンをも読んで貰ったし、ロシアのものなら古典の代表作と現代の主なものは知っているという結果になった。そして、いい年をした貧農出の農場員は自分でコンムーナの生活記録を書いて見る気になった。モスクワから五千キロメートルへだたった田舎の片隅で、文化の光がそこまでひろがった。

 トポーロフの研究によるとソヴェト農民読者(この場合実際ではききてだが)は、何より先に作品の文章、言葉の面白さを追う。内容はそれから後の問題だ。

 そういう意味でコンムーナ員たちが素晴らしい作品だと決定した各国のいろんな作品の中に、ホーマーの「オデッセイ」が入っているのは非常に面白い。ゴーリキーの小説をよんでもわかるようにロシアの農民は昔から、詩の形で書かれた長い物語を口づたえにして誦して来た。その伝統がハッキリここに現われていると思う。

 現代のものでは、ニェヴェーロフの「パンの町・タシュケント」、カターエフの「使いこみした男」、ポドヤッチェフの「労働者の中」、セイフリナ「プラボナルーシチェリ」、リベディンスキー「一週間」その他。

 詩人ではエセーニン、ウヤートキン、ベズィメンスキー等があげられている。

 いくつかの作品に対してされた農民の批評の詳細が実例として示されているなかにパンフョーロフの「貧農組合」がある。

「貧農組合」は一九三〇年のロシア共産党大会のとき「ラップ」の代表キルションによって報告された四十何篇かのプロレタリア作品として優秀なものの一つに数えられている。日本でも翻訳が内外社から出版された。これは、ヴォルガ河の沿岸にあるシロコイエ村の貧農たちが、荒れきったブルスキーという土地を貰ってそこで村の富農の侮蔑や陰険なずるさと戦いながら集団農場を組織する経路を書いた長篇である。上巻だけで日本訳は六百頁余もある。英訳もある。

 トポーロフはこの長篇を十二回にわけて、農民たちに読んできかせた。十六人ばかりの農民が、この長篇小説に対してごく遠慮のないごく具体的な批評をやっている。

 真先に口をきったのはザイツェフという男であった。

 ザイツェフは、とって五十三歳の中農出のコンムーナ員だ。日露戦争へ出たことがあるし、ヨーロッパ大戦のときには 独逸 ドイツ の国境へやられた。革命前、既に上ジリンスキー村の宗教反対運動の指導者であった。農民の言葉での所謂「物しり」である。今はコンムーナ「五月の朝」の夜番をつとめ、なかなかの美術や文学ずきで、自分流にそういうものを愛している。

 パンフョーロフの「貧農組合」はこのコンムーナの夜番ザイツェフにどんな印象を与えただろうか。

「短く云っちまえば、総体として、この小説はためになるもんだネ」

 ザイツェフは云い出した。

「文句も大衆にわかりいい。だが、思想はチラバラだ。俺は、あの小説からまとまったものは何も感じなかった。何だか、こう散らばって、ブン撒かれている。頭ん中にいろんな切れぱしが残った。だが、小説を毎日少しずつ区切って読んで貰ったからじゃない。分るだろう? 特別豪勢な場面や、ハッキリした印象ってもんがちっともないんだ。小説ん中へ出て来るどの人物にしろ、何か事件を始めてそれをしまいまでやっつけるって云うことがない。小説は集団生活を書いたものだのに、実際は集団生活なんぞ、書かれてはいない。俺達は百姓が二度集団的に擲り合ったのと集団的に魚スープ(ウハー)煮たのと、そういう集団を見ただけだ。どんな集団耕作だか、びっくらするヨ。一人トラクターで耕してるぎりで残りの組合員どもは何にもしねえ、わきで魚スープを煮てる! 共同耕作の始りに何もすることがなかったって云うわけだろうか? 俺等のコンムーナはかれこれもう九年目だが、誰だって、いつだって、暇な時なんぞってものはありゃしない。たった一つシロコイエの連中はいい仕事をした。そりゃ堤防をつくったこった」

「……さて人物だが、初めのうちはカラシュークがなかなか面白いぞと思った。見てろ、と思ったね。こいつぁ本物になるぞと。ところがこいつがいつの間にか小説から消えちまった。カラシュークが 富農 クラーク どもをやっつけたってのは、本当じゃない。富農らはカラシュークの味方だ。村で誰が味方かということをカラシュークの一味はチャンと知っている。カラシュークは自分につく者を圧迫するこたしないんだ。それから、地方委員書記のジャールコフ。これが問題だ。思うに、作者はジャールコフを出してソヴェトの役人てものを皮肉ってるだね。村の階級闘争を、パンフョーロフは眠ったく、不明瞭に、ボンヤリ書いてる。シュレンカは、のらくら者の見本だよ。うまく書いてある。あとの貧農の人物を作者は説明していない。富農連が却ってスッカリ書かれてるでねえか。アグニェフがどうやら中農らしいが、ただ一人のシュレンカをぬきにして、小説ん中に本物の中農・貧農は書かれていない」

「村のいろんなゴタゴタが、よく分らない。何が何だか示されてねえ。何で村の者が集団農場はじめるようになったか――そいつを作者は描いてねえ。つまりシロコイエ村の経済状態てものが分らないんだ。農民魂は正しく観察されてる。ただ、この小説に出て来るような阿呆は、実際にゃいねえね。バカバカしい話だ!……」

「どういう塩梅に、共同耕作が組織されたか――何も分らん。どんな工合に発達したか――こいつも分らねえ。トラクター以外にゃ何も経営的なもんが説明されてねえんだ」

 ザイツェフには、集団農場生活の活々した描写の代りに作者が余分に恋愛を書いてるのも気に入らなかった。

「この本で読む者はトラクターや堤防やらを見る。ところが次に来るもんはてえと? 途方もない血みどろの擲り合だ。そんで共同耕作は終っちまってる。集団農場へ入りたがってる農民のところへ行って、この小説を読んできかして見な。入ることは考えちまうぞ。反対に、集団農場をけなしつける者はほざくにきまってる『へ、碌でなしの牝の子め! お互同士でやってけつかる、柄相応だ!』」

「この小説へ出て来る人物のあらかたは何でもない引っかかりで、大した役割は演じてはいない。これに比べて、リベディンスキーの『一週間』の人物はどうかよ! 例えば、リザ・グラチェヴァ――なんと変った人物ではねえか? それでいて、いつだってほんとに生きてるようだ」

 ザイツェフは、村へ襲って来たカラシュークが真先に共産党員を狩立てずに、馬の尻尾へ富農を結びつけたのも不自然だと主張している。

「こりゃ、拵え事だ。作者はきっと 富農 クラーク を皮肉ってやりたかったんだべえが、うまく行かなかったネ。俺にゃ、それに何故チュフリャノフが共産党反対の組織へ加わるのを拒絶したかも分らん。チュフリャノフは二心のある奴って訳だべか――そうも思われない。富農の奴が詩篇を読む――そんなことがあるかね! ところがパンフョーロフの小説じゃ、読むこと、読むこと、まるで何かの書付け読むように読みくさる。マルケル・ブイコフが『憲法』って言葉をつかう。ズブの無学文盲の農民は、この作者が喋らしているような喋りかたはしねえもんだ。『神聖な処女の噺』は、ありゃ新聞からとって来たもんだね。俺等の村じゃああいう、『神聖なもの』はどんな馬鹿な奴だって引きつけやしねえ」

 この農民批評家はなかなか手厳しい。ザイツェフは、繰返し繰返し「貧農組合」には印象に残るような情景が書かれていないと云っている。そして、声を立てて笑い出した。

「シュレンカが夜ふけてトラクターを動かしている。作者がそこで云ってるには、彼の眼は輝いた! とさ。シュレンカの眼は、狼の眼かね? 作者はうまい思いつきを書きたかったんだろうが、夜にゃ、向かねえ」

「この『貧農組合』についちゃまだこうも云い度いよ。こりゃ読む者が、その中から小銭を見つけ出さなけりゃならない塵塚だ、とね。誰かがそいつを見つけるかも知れん。だが、見つけられねえかもしれん。小説はまるで芝居で最後の幕がしまるように終ってる。作者の言葉は、重っ苦しい。大衆の会話は――長談議だ。聞いてると、まるで 泥濘 ぬかるみ さはまって足を抜けねえような塩梅式だ」

「思うに、無駄ばっかりだ」

 四十男の働き者のブリーノフが続いて云い出した。

「俺の好みがそうなのかも知れねえが、こういうことは二章で書けたと思うね、それをパンフョーロフは十章にしている。八章の間俺達あ歯くいしばって坐っていた。集団農場の生活を書いた小説だが、俺は、集団農場員として、この小説ん中のことは本気に出来ねえ。思って見な。『ブルスキー』へはやっと前の年からトラクターが動き出した。すると忽ち女連が肥って、脂がのりはじめた……きまりきってるサ、嘘だ! 俺達はあらかた九年コンムーナで暮してる。それでも女連の中で一人だってまだ肥えた者なんぞいねえヨ。それどころかコンムーナへ新規に入って来る者なんぞは一月に二三キロも目方が減るぐれえなもんだ。これでよく分る、『ブルスキー』へどんな連中がより集まったか。 なま けもんだ! 天からマンナが降るのを待ってるみてえだ。ブルスキーの連中は自分で云っている。トラクターで楽しようって。馬鹿のより合いだ。共同耕作の暮しなんて……信じられねえ。

 自分のところの例で見てもよ、俺達んところにも共有地のことでごたごたがあったが、ああいうもんじゃなかった。成程、揉めた。ポリトフがやって来て地方委員会書記なんぞぬきに、皆をドナリつけた。誰も彼もコンムーナへ地面をだすことに同意した。みんな沸き立って喋ったけんど擲り合なんぞはなかったんだ」

 革命までブリーノフは上ルジェンスキー村の中農で村では口ききだった。ヨーロッパ大戦当時は、運転手をつとめた。コンムーナ「五月の朝」の組織者の一人で、トラクター管理をまかされている。彼は「 貧農組合 ブルスキー の中に、今集団農場のことが出て来るか、今出て来るかと、そればっかり期待して聞いていた。ところがすっかり当がはずれた。ブリーノフはもう九年コンムーナで暮し、それがどういうものだかよく知っている。

「けれども、そういうとこで暮したことのねえ者は『ブルスキー』を読んできかせて見な、ドマついちまうよ。一体どんな集団農場だね? バカと荒地だ」

「パンフョーロフは、謎ばっかかけるけれど、その終りが、ありゃしない」

 細い、確かりした眼付でブリーノフはつづけた。

「シロコイエ村に、階級闘争が起らなくちゃ成らなかったべえか。俺にゃ分らん。村のあらかたが富農だ。たった一人の貧農シュレンカは懶けもんだ。そこにどんな闘争があるかね」

 人物が活々描かれていない点がブリーノフにとっても不満足だ。まるで村を通って、百姓に出会ったはいいが、挨拶して、そのまんまわきを通りぬけちまったような工合だ。言葉が持ってまわっている。ほんとに農民らしい、一言きいて多くのことが分るような上手い言葉なんてものは、一つもこの小説の中にはない。自然の景色が目に見えない。作者は森のことを云ってるが、何処に、どんな森があるのか、ハッキリしない。

「『貧農組合』は集団農場の建設を励まさねえ。がっかりさせちまう」

 ザイツェフが合槌を打った。すると、

「いらない本だヨ」

と、ゆっくりした調子で切り出したのは、貧農で、家族がうんとあって、コンムーナへ入ってからやっと凌げるようになったスチェカチョフだ。

「集団農場へ気をひくためにゃ、これんばっかりも役にゃ立たねえネ」

 自分の横っ腹のところを指さして、

「ここんところを、逆にひっぱられるみてえだ。俺はこれまで本読みに中坐したことはなかったが『貧農組合』にゃ半分頃で出ちまった。眠たくなってなア。本の中には滑稽なところもあるが、気持のよくねえ滑稽だ。俺は笑わねえ。集団農場の仕事で一等心をつかまえることを、作者は書いていねえ。集団農場の建設の事業はソヴェトで、もう十年もやられて来てる。もちっと親切に書くこったって出来たべえに……。小説ん中に富農の襲撃がある。けんど、集団農場建設をすける意味で、政府から何の助力も与えられていねえネ。アグニェフを半殺しにした。それっきりだ。民警さえいねえ。訊問もなければ、宣伝もねえ。俺等んとこじゃどうだったね? このコンムーナへ徒党が押しよせたってことが伝わった時、四十露里あっちから赤軍分遣隊がやって来て呉れた」

「えれエ小面倒な名前だよウ」

 そう云ったのは五十九のティトフだ。

 ブリーノフが云った。「パンフョーロフは集団農場のことを聞いてはいるらしいが、そばで暮したことはねえらしい」

「こうだべよ」

 ザイツェフが云った。

「作者は村を旅行したのよ、手帳に書えたのヨ――ホーレ、それがこの小説だ」

「たまらねえ程無駄だらけだ」

「よこ道さそれてる」

「本のどこにも、集団化がねえ!」

「思うに『貧農組合』は貧農をまっとうに書いていねえ。何故この小説に、本当のたちのいい貧農は出て来ねえんだ? 貧農はどれでもシュレンカみたよなノラクラ者ばかりじゃねえんだ!」

「この世の中に『貧農組合』みてな組合はねえヨ」

等々。遂に、彼等の結論はこういうことになった。

(一)農村にはいらない本だ。

(二)実際の仕事に関係あることは殆ど書かれていない。ちょいちょい区切って、ところどころ読んで行く分には読める。退屈ではない。然し、農村の集団化とは結びついてはいない。

(三)「貧農組合」は農村における集団農場化のために少なからぬ害を与えるが、ためになるところはない。この小説には成っていない集団農場が書かれている。

(四)農村というものが、不充分に、ボンヤリ拵えものに書かれている。

           ――○――

 ソヴェトの農民が、ソヴェトの農民小説に加えた批評だからと云って、それがいつも絶対に正しいものばかりだとはきまらない。

 この「五月の朝」コンムーナの連中は、例えばエセーニンの詩にはコロリと参っている。エセーニンの詩集は村にいる本だ。素敵なもんだと「母への手紙」というエセーニンの詩がよまれた時に衆議一決している。だが、果して詩人エセーニンは、このコンムーナの一同が武器を揃えて、パンフョーロフが正しく描写しなかったとして攻撃している農村の集団化について、社会主義的な見方を持っていただろうか?

 エセーニンは、根本的に反対な見解をもっていた。エセーニンは、集団農場化の第一歩である農業の機械化にさえ先ず命がけで反対した詩人である。

 ソヴェトのプロレタリア文学、農民文学にとって農民の批評が参考になるのは、彼等の批評そのものの中に現れて来ている正当な判断が作家を益するばかりではない。時にはこの「五月の朝」の連中の或る言葉のように間違ったものにしろ、その間違いが暗示している歴史的な階級的な現実の影響を作家が洞察することに深い意味が在るのである。