University of Virginia Library

二つのスローガン

 ――「大衆の中へ!」

 一九二八年の末から一九二九年にかけて、ソヴェトの芸術は、「大衆の中へ!」というスローガンをかかげていた。

 だが、人々は質問するだろう。現代のソヴェト・ロシアの芸術は元来、革命とともに民衆の中から生れたものではないか。何故今更「民衆の中へ!」というようなスローガンが必要であるのか? と。

 ソヴェト同盟は革命後社会主義社会建設の第十二年目に入っていた。一般労働者、勤労者の日常生活に於ては生産・政治・文化芸術の三つが次第に理想的な割合で持たれはじめていた。

 ソヴェト同盟には一九二七年にさえ既に三千七百以上の労働者倶楽部があり、百三十万人余のクラブ員を擁していた。小図書館の数は殆ど八千四百。勤労者は、それ等のクラブまたは工場、役所内の研究会で、 政治教程 ポリトグラーモタ とともに大抵音楽とか、劇、または文学を、めいめいの好みに従って研究している。

 ソヴェト同盟内の作家の作品はもとより、外国のプロレタリア作家の代表作まで、『小説新聞』に印刷され、十五カペイキで手に入る。国立出版所はロシア及びヨーロッパ各国文学古典の価値あるものから現代の作品までを廉価版にして出した。詩の朗読会、作品朗読会はモスクワなどでは一週間に一度ぐらいずつの割合できっとどこかのクラブで催されている。

 職場の壁新聞・工場新聞は、三十万人の労働通信員、農村通信員に意見発表の機会を与えているばかりではない。やっと二年前に文字を書くことを覚えた六十の婆さんに向っても、開放されている。工場内には、はじめ、極く日常の出来事に関する感想を壁新聞に投書しているうち、ふと文学研究会へ出席するようになり、今では正規の労働通信員であると同時に、短篇小説や小評論をも書き出しているような若い男女が沢山ある。

 婦人部の機関紙『労働婦人と農婦』に掲載される読物の多くは、女流作家によって書かれたものだ。

若い親衛軍 マロダーヤ・グワルディア 』『 赤い処女地 クラースヌイ・ノーヴィ 』などという雑誌に、或る工場内の文学研究会から推薦された労働者の小さい作品が発表されることもある。

 いきなりそこから、完成した芸術作品の生れることを期待するのは無理であるけれども、同時代の専門家によって作られる作品を、自分の階級の芸術として一般のプロレタリアートが鑑賞し、再吟味し、果して自分達の生活を再現している芸術かどうかについて、少くとも批判するだけの下地と余裕とは、もう充分つくられて来ているのだ。同時に、未来の作家は、まだ工場学校生徒、共産党青年部員として、そういう芸術的啓蒙をうけつつ、クラブの研究会で育っている。

 ところで、作家の側では、ソヴェト同盟の社会的生活がじっくり腰を据えた建設時代に入るにつれ、プロレタリア芸術の発展のために必然な、種々な困難にぶつかりはじめた。

 一九一七―二一年。

 この四年間は、生れてそのときまでものなんぞ書いたこともない人間に、思わず鉛筆を握らせるような時代であった。激しい、飛躍的な、恐ろしい程豊富な時代であった。どんな平凡な一市民も、この時期には生涯の思い出となる経験を、朝から夜まで二十四時間の内とも思えぬくらい経験しつつあったのだ。

 書きつけて置きたいことは山ほどあり、しかも現実生活の展開は迅速で、革命に鉛筆を握らされた作家たちは、自分以上の力にもえたって仕事をした。書いた。革命の歴史的瞬間に全存在を引つかまれた作家たちは、自分が革命の情熱にとらわれた、そのとらわれかたについて周密な自己批判をしている暇なんかもっていなかった。グラトコフは「セメント」を書いた。ヤーコヴレフは「十月」を。イワノフは「装甲列車」を。リベディンスキーは「一週間」を。ピリニャークは代表的な「裸の年」を書いたのである。

 各作家めいめいが、めいめいの傾向のままにそれ等を書いたのであったが、十月革命は、その発展の日常具体的な過程によってあらゆる個人を集団へ、集団的行動の中へと召集した。どんな作家達でも、革命の実践が教えた集団の価値、行動のテンポを自分たちの作品の中へ反映させずにはいられなかった。それは、世界のプロレタリア文学にとって新鮮な、生気あふれる豊富な前進であった。

 当時ソヴェト同盟の民衆は、謂わば「俺等のあの時分の日記」でも読みかえして見るように、国内戦時代にかかれたそれらの作品を愛読した。作品としては下手に書かれたものでさえも、読者は、それを読んで思い出す自分達の経験の豊富さ、なまなましさで補ってくれたのである。

 やがて十年経った。そして十一年たった。

 ソヴェトの社会主義社会建設の道はプロレタリアートの党の指導の下にあらゆる困難を克服しつつ前進し、一般勤労者の興味はもう単純にあの時分の回想にとどまってはいなくなった。階級的自覚のある労働者たちが今や目前に見ているのは、たとえばこのソヴェト同盟の生産技術をどうして向上さすべきかという緊急問題である。

 ソヴェトの作家たちは、ボツボツこんな批評を一般読者からきくようになった。

「どうも大して面白い小説も出ないじゃないか」

「どれもこれも国内戦だな。おまけにそのことについてなら、一寸見ろ! この傷と一緒にどうも作家より俺の方がよく知ってるらしいぞ」

「何だか、型で押し出しみたいじゃないか、党員てばどいつも、こいつも英雄でさ」

 読者は文化的に高まるにつれ、文学作品を自分の経験とは独立して存在する芸術品として見るようになって来た。

 加うるに、十月革命のときにはやっと五つか六つであった子供等が、既に青年となって読者層に参加して来た。

 ソヴェトの若い新市民たちは、親、兄、姉のような自覚をもって、革命前後を経験しなかった。表現や描写の不完全な作品をよんでもそのすき間を補ってゆくような国内戦時代の自分達の経験、或る場合には感傷を持ち合せていない。だから若い読者は、容赦ない批評家として立ち現れたのである。新しいひろい社会性の上に立ち、集団生活の中で大きくなって来ている彼等は、或る時、作者よりはズッと正確な革命的・階級的観点で、当時の民衆の歴史的役割を観る力をもちはじめている。

 グラトコフのロマンチシズム、ピリニャークの傍観的な態度、それ等は、文学専門家の間で、クーズニッツァ(鍛冶屋派)及び 同伴者 パプツチキ の芸術理論として検討されるだけではなくなった。工場のコムソモールが、図書部で作品集をかりて来て、それをよんで、生活的に育っている階級的感覚から、飾りなく、どうもこういう作品は俺たちのもんじゃないや! と云うようになって来たのであった。

 ――危険な時期が、ソヴェトの作家と読者との上にのしかかって来た。

 過去の所謂文学趣味に毒されていない、溌溂たる新興プロレタリアートは「十月」とともに輩出した作家たちの書くものに、無条件に満足してはいない。真にもっと新しいもの、ほんとうに自分たちの毎日の生活を再現したものを熱烈に要求している。だが、作家たちの生活は、果してその大衆的な要求を満すに適当な条件のもとに営まれているであろうか?

 そうでないことは、否定し難い事実であった。

 第一、革命の当時は、即ち彼等が第一作を書いたときは、彼等はまだほとんど作家ではなかった。或る者は農村で、或る者は都会で、何か生産的な集団の中に目立たぬ一員として参加し、革命の歩みとともに毎日歩いたり働いたりしていた。十一年目に、はっきりめいめいの職場がわかれた。彼はもう専門的な作家で、昔の農村委員会時代の書記ではない。従って彼がその周囲にもっている集団は昔日の大衆ではなく、主としてかぎられた文学的集団になって来ている。

 文学の主題としての、国内戦は、 記録文学 ドクメンタリーヌイ の時代をすぎて既に革命の歴史的観点から、丸彫りにして再現さるべき時になっている。しかし、左翼作家のすべてがそのような大主題を、解放史の全局面から把握し、而も素晴らしい新手法で芸術品に仕上げる程の才能をもって生れているとは云えない。ファジェーエフの「壊滅」、ショーロホフの「静かなドン」などはよい作品だが、国内戦は局部的に扱われているのである。

 では、新しいコムソモールの生活を描くか。それは明かに要求されている。若い読者はすべて、そういう作品の現れるのを待っている。そして、またそれを作家は書くべきであった。しかしが、ここへも出て来てぶつかった。今十八歳のコムソモールの心持が帝政時代に十八歳であったものに、果して、わが心のように理解出来るであろうか? わかるばかりでなく、若い彼等のもっている曇らざる率直さ、科学への関心、健康な意志と、骨身について育っている集団性、国際感情などを、自分のものとして再現する実感が果して幾人の作家にあるだろうか?

 国内戦の時代にくらべれば、革命後十年を経た建設期の日常の事件は、今は地味なものとなった。ソヴェトの建設は一見平凡な工場生活、大した変化はないらしく見えるクラブの研究室、震撼的記事はない『プラウダ』の紙面のかげに、堅実にもりあがりつつある。革命とともに出発した作家たちは、一言で云えばありすぎる社会的課題に押されて、とりつき場を失った。左から、新しい大衆に「もっと俺たちの生活を書いてくれ!」とせめつけられた。右からは古いインテリゲンツィアの残りに、嘲笑された。

「ソヴェトになってから、いい芸術的作品なんぞ一つも出来ようはずがありませんよ。第一、今の作家はロシア語そのものの美しささえ知らないじゃないですか!」

 不安な、ソヴェト文学の無風状態が来た。作家の或るもの、例えばイワーノフなどは革命当時の活力と火花のようなテンポを失い、無気力でいやに念入りな、個人的な心理主義的作風に陥って行ったのである。

 これは危い時代であった。質のよい、若いプロレタリアートは自分等の階級の本当の芸術的表現者を発見するに困難した。

 学生や若い勤人中の所謂文学好きは、構成派の詩人たちの科学性に対する異国趣味にひきつけられた。さもなければ未来派系統の、芸術左翼戦線の、作家詩人の言葉の手品を興がった。そして、自分達も、文学研究会では、やたらに文学団体の各名称について通をふりまわし、作詩と称して実際生活から遊離した言葉をこねくりまわして、並べたり、千切ったりするようになった。

 当時は、技術的に一応出来上っていた 同伴者作家 パプツチキ が、全露作家協会の指導勢力であった。トルストイ百年記念祭が一九二八年にモスクワの大劇場で行われたが、そのとき、外国からの客、ツワイグやケレルマンがそこに立って挨拶した演壇へ出て祝辞をよんだソヴェト作家代表はリベディンスキーでも、キルションでもなかった。ピリニャークであったのである。

 読者大衆を捕えるだけ強い魅力をもったプロレタリア作品の新しいものが出ないことは、ソヴェトの民衆の旺盛な読書慾の上に、一時的にではあったが別なバチルスをはびこらせる結果になった。例えば、若いコムソモールの全生活が、すぐれたプロレタリア作家の作品の中に再現されないうちに、パンテレイモン・ロマノフやグミリョフスキーのような怪しげな作家たちが、「犬横丁」(日本訳名、ソヴェト大学生の私生活)のような代物にまとめて売り出した。

「犬横丁」は全部が嘘を書いているとは云えないとしても、現れて来る何人かのコムソモールの生存重点を、彼等の性生活、而も病的に拡大された性関係の混乱にだけ置いていることに、作家は計らず自身の階級的立場を曝露している。

 パンテレイモン・ロマノフは、ソヴェト同盟内の自然発生的な日常の事件を題材として書いた。彼の書くものは、わかりやすくて読みいいと云って、多くの者によまれる。しかしロマノフは、題材を、ごく現象の局限されたあれこれの上において、通俗小説としてのヤマや泣かせや好奇心やで引っぱって行く。文章は卑俗で平板である。

 プロレタリア文学は、本質において、ブルジョア文学におけるように、芸術的小説と通俗小説との区別を持たない筈である。しかも、こういう作家たちが、全くブルジョア文学における通俗読物と等しい作物を革命後第十一年目のソヴェトの読者にうりつける隙間があったのである。

 ロシア・プロレタリア作家連盟は、左翼的作家団体の中心となってこれらの現実の状態につき猛烈な自己批判をはじめた。

 プロレタリア文学の発展のために、これまでも彼等は決して怠けていたわけではなかった。しかし、形式の探求、古典の研究、パプツチキとの理論闘争などの活溌さに比べて、直接大衆へよびかける作品そのものの生産は、目覚ましく行っているとはいえなかった。

 日に日に育ってゆく、プロレタリア・農民の現実生活からはなれたパプツチキの作品が無批判にもてはやされたり、卑俗小説がはびこり得るのは、とりも直さずプロレタリア作家の技術が一般的に未熟で、大衆を捕える力に欠けている証拠ではないか。

 また、その「形式探究の方法」に於て、何かの誤謬がなかったであろうか? プロレタリア作家が、本をつみ重ねた机の前にだけ坐りこんで、新らしい形式を見つけ出そうと頭を抱えているということは、果して真の新しい形式を発見する方法であろうか。

 大衆の中へ! 大衆に近く!

 ロシア・プロレタリア作家連盟は、プロレタリア・リアリズムの旗を高くかかげて無風帯の中から立ち上った。

 プロレタリア作家は、新たな関心で大衆に近づき、そこから階級的なわかり易い文章を書く技術を習得しなければならない。

 プロレタリア作家は、今まで充分党に近くあったであろうか?

 プロレタリア作家は、階級の心理をもっと把握せよ! 類型から脱け出して人間を描け!

 ソヴェト同盟の革命的労働者は、一九一七年以来、プロレタリアートの生産技術を向上させようとしてあらゆる努力をして来ている。旧時代のインテリゲンツィアの専門技術を利用することは、そのインテリゲンツィアたちがソヴェト政権を認め、プロレタリア社会主義の社会建設の過程に協力している範囲内でだけ可能である。しかし、旧いインテリ専門技術家は、いつも良心的だとは限っていない。技師が生産組織の内部で、反革命的策動をやる例は、一九二八年、国家保安部によって摘発されたドン炭坑区に於けるドイツ資本家と結托した大規模な反革命の陰謀を見てもわかる。ソヴェトの党・労働組合がプロレタリアートの中から優良な技術家を養成しようとして、あらゆる場所に工場学校、労働予備学校、専門技術学校を設置していることの革命的意義はここにある。

 芸術の領域で、プロレタリア作家たちが、そのスローガン「プロレタリアートの技術を高めろ!」という声に無関係であり得るということはないのだ。

 同時に、一九二八年から九年にかけての、このロシア・プロレタリア作家連盟の標語、大衆の中へ! は、非常に大きい歴史的背景の前にあった。

 この一九二九年こそ、ソヴェト同盟に生産拡張の五ヵ年計画が実行されはじめた年であった。その第一年目であった。工場、役所の内部では、新しい溌溂たる生産能率増進のために、官僚主義排撃が、盛に行われた。

 反革命的異分子の清掃が、あらゆる部門にわたって積極的に行われはじめた。

 間断なき週間制によって、五日週間を働くようになった一般勤労者は、職場職場で、生産能率増進のウダールニクを組織し、家へかえる道々には、例えばモスクワ市立銀行の屋根に、赤く翻るプラカートを見た。そこには大きい字で書いてある。

我等のところ ウナス では、 清掃 チストカ 行われている イディオット 」と。

 これは、ひろい大衆に向ってなされた階級性の新たな自覚への召集であった。その銀行内に、内部の者の知らない反革命的分子がもぐりこんでいるかもしれない。諸君、それを知らせろ! そういう呼びかけである。

 ソヴェトの五ヵ年計画は、大衆の日常生活のプログラムを変化するとともに、次第次第に大衆の気分をもかえて来た。どんな小さい隅っこの職場に働いている労働者も、社会主義社会の建設のために自分が無関係ではないことを前にもまして自覚した。厳密な階級的批判が全同盟内で、新たな勢をもりかえした。

 ソヴェトの作家たちは、ロシア・プロレタリア作家連盟を中心として、彼等が社会主義の敵か味方かを決議しようとする大衆の前に立ったわけである。

「大衆の中へ!」というスローガンのかかげられていた時代に書かれた作品としてはマヤコフスキーの「南京虫」「風呂」。ベズィメンスキーの「射撃」「変人」。リベディンスキーの「英雄の誕生」等がある。

 これらは、工場内の官僚主義に対する諷刺、プロレタリア技術発展への翹望、小ブルジョア的感傷、淫酒、淫煙の排撃。工場内ウダールニクを組織しようとする若い労働者たちの歴史的使命など、それぞれに当時の段階を反映した社会的な内容をもっている。

 未組織の勤労者の、階級的良心を、正当な評価において見なおしたのが「変人」であった。

 労働者は、組合からの半額切符で、メイエルホリド座へ行った。そしてマヤコフスキーの「南京虫」を見物したが、作者の諷刺と演出者の誇張しすぎて表現派風なこりかたは、民衆によくわからなかった。

 リベディンスキーは、ロシア・プロレタリア作家の頭株の一人であるが、その長篇「英雄の誕生」は一般の注意を呼び起すと同時に、疑問をも引おこした。小説の主人公は、経歴あるボルシェヴィキだ。その男が、亡妻の妹の裸の胸を見て、煩悶しはじめる。それはあり得ることとして、その男がそれほどクドクドとこまかく、根ほり葉ほりその性的刺戟をめぐって心理穿鑿をやる。果してそれはボルシェヴィキらしい生活態度と云えようか。

 息子のピオニェールが父親に対して批判をもっている。だが、その描写の自然主義的なテンポは、現代の活きて、働いて、歩きつつ思索する彼等の生活力を表現しているであろうか?

「英雄の誕生」が、大衆によっていろいろに吟味されつつある間に、再びソヴェトでは春の種蒔時が迫って来た。一九三〇年だ。

『プラウダ』は「種」の準備、 農業機械中央部 トラクターツェントル への注意、五ヵ年計画第二年目の蒔つけ地積拡大予定計画などを次々に発表した。

『文学新聞』(ソヴェト作家団体連盟の機関紙)は、作家の農村への見学団募集をしはじめた。芸術ウダールニクを組織する必要をその社説に発表した。

 ソヴェト市民は、映画のスクリーンの上に見た、まだ雪が真白にのこっている早春の曠野で、疎らな人かげが働いているのを。測量器をかついで深い雪をこぎ、新しい集団農場の下ごしらえのために働いているコムソモールを照らす太陽と、彼等の白い元気のいい息とを。

 ――「生産の場所へ!」――

 何台も連結された無蓋貨車に出来たてのトラクターがのせられた。数百露里のレールの上を、新しい集団農場に向って走ってゆく。

 そのレールを走るのは、重い貨車ばかりではなかった。三等列車も通る。

 一九三〇年の春の種蒔どきには、風変りな見かけの三等列車がソヴェト・ロシアのレールの上を運行した。三等列車の鋼鉄ではられた外側いっぱいに「五ヵ年計画を四年で!」というスローガンや、工場と農村の労働、その結合を主題にした絵、または一目見ても思わずふき出すような反宗教の漫画を描いた列車が、屋根に赤い旗をひるがえし、窓からつき出した元気な若者たちの髪の毛を早春の つよ い風に吹きとばしながら、走った。

 それは「五ヵ年計画」の文化宣伝列車である。

 国内戦当時、コムソモールと政治部員はやっぱり絵で飾った三等列車や貨車にのって、あらゆる地方をまわった。

 一九三〇年、文化宣伝列車にのりこんで遠く農村へまで行ったのはコムソモールのウダールニクのほかに映画の撮影・映写隊、劇場からのウダールニク、ロシア・プロレタリア作家連盟からの若い作家達、音楽家と舞踊家、画家などであった。

 芸術ウダールニクは、広い同盟の四方へ出かけ、そこへ文化の光をふりまくと同時に、そこにはじまっている農村または新工場都市の全然これまでとはちがう新しい社会生活、生産労働の形態から発生する心理を、めいめいの芸術の新素材として吸収しようとしたのであった。

 五ヵ年計画が、巨大な困難と闘いながら進捗するにつれて、ソヴェトの芸術全線が、実際上の必要から、はっきり生産の場所へ結びつけられて来た。

 例えば、ゴーリキーの生れたニージュニ・ノヴゴロド市について見よう。一九二七年、このヴォルガ河に面した古い都会はどんな意味をソヴェトのプロレタリアートに対してもっていただろうか?

 ニージュニ・ノヴゴロド市には、夏になると、昔から有名な 定期市 ヤールマルカ が立った。ペルシャの商人までそこに出て来て、何百万ルーブリという取引がある。ニージュニ・ノヴゴロド市の埠頭、嘗てゴーリキーが人足をしたことのある埠頭から、ヴォルガ航行の汽船が出る。母なるヴォルガ河、船唄で世界に知られているこの大河の航行は、実に心地のいい休養だ。ニージュニときくと、恐らく或る者は(来年あたり、有給一ヵ月休暇に一つヴォルガ下りをやりたいナ)そう思いもするだろう。

 いずれにせよ、ニージュニは、全ソヴェト勤労者の日常生活にとってそう密接な関係はなかった。

 ところが五ヵ年計画とともに、この古い都は新しい命をふきこまれ、ソヴェトの意識ある勤労者にとってニージュニ・ノヴゴロドという市は忘られない場所になった。

 ソヴェトは生産力増大のために全同盟の電化と自動車化に異常な努力をはらっている。ニージュニ・ノヴゴロド市には、ほかならぬソヴェト・フォードの自動車製造工場が出来たのである。

 それは、木造の門をもった大工場だ。その門から処女製作のソヴェト・フォード第一号が、歓呼の声に送られて動き出した時の光景は、ソヴキノの映画ニュースをとおして、モスクワの労働者の胸にまでつよく刻みこまれている。

 ニージュニに新しくソヴェト・フォード製作工場が出来たという事実は、ソヴェトのような社会主義社会においては、単に首府モスクワの往来を、より沢山のトラックが地響たてて疾走するようになったというだけには止らない。一つの新しい工場は、きっと新しい労働者クラブの設立を意味している。工場クラブはきっと、そこに組織される 研究会 クルジョーク と、その指導者として動員されなければならぬ 政治教程 ポリトグラーモタ の説明者(若い党員)、音楽、文学、ラジオ、科学、美術の各専門技術家を予想している。

 工場クラブ、労働者クラブは、大なり小なり講堂をもっている。講堂の壁には、絵が欲しいではないか。工場委員会の文化部は会議を開く。

「どうだね、一つここんところの壁へ何かかけた方がいいと思わないか?」

「異議なし」

「町ソヴェトの倉庫んなかに、元絹問屋の客間にあったっていう、でっかい絵があるぜ」

「ふーむ。どんな絵だい?」

「なんでも黒い髪をたらした女が踊ってるんだ、半分裸でよ。その女の前にある皿に、男の首がのっかってるんだ」

「俺等そんな絵にゃ用がないよ。ちょんぎられた首なんぞ! 欲しいのは、例えばだナ、うちの工場が盛に働いてるところを描いた絵や、ウダールニクだとか軽騎隊の活動だとかを描いたもん――つまり、われわれの社会主義的建設の記念となる絵がほしいじゃないか」

「異議なし!」

「賛成!」

 工場委員会文化部は、そこで、ニージュニ・ノヴゴロドのプロレタリア美術団に新しい講堂の壁画について交渉をはじめる。場合によってはモスクワへたのんで来る。そこで、画家は絵具箱をもって工場へと出かけて行く。

 だが、画家たちは、構図をきめるにしろ、先ずソヴェト・フォード工場の生産的活動とその革命的意義とを十分理解しなければならぬ。その工場でウダールニクはどんな階級闘争の歴史をもって組織され、成員はどんな連中であるかを知らないで、そこの労働者クラブを飾る壁画、見るものを鼓舞するような絵は描けない。

 芸術家と勤労者とは手にもっている道具の違うことについて新しい自覚をもたざるを得なくなった。画家は労働者と同じものを食べ、その職場で、率直な批判や要求の中にあって、製作する機会が非常に多くなって来た。

 このことは作家についても同じであった。例えば或る作家が同じニージュニ・ノヴゴロドのソヴェト・フォード工場へ、文学ウダールニクの一員としてやって来たとする。

 彼は、労働者の集会に列席し、職場大会に出席し、ときには大通りの「 茶飲所 チャイナヤ 」やビヤホールの群集の中にまじりこんで、一般労働者の仲間の雑談をもきく。そして、彼の見聞を記録するとしても、その作家が、ソヴェト・フォード工場の建てられた社会的意義を、社会主義的生産拡大を決心したプロレタリアートの立場から理解していなかったとしたら、果してどんな報告文学が書けるであろう。

 一九二九年から三〇年へかけてソヴェトの芸術がこのようにして生産の場所へ進出し、それと連帯をもった経験は、プロレタリア芸術史の上に実に画期的影響を与えたのである。

 複雑な再建設期の社会主義的前進の意味を理解しない右翼「同伴者」作家群の或るものが大衆から批判されるようになったばかりではない。

 実際に職場のなかへ入って労働者の建設的な生活に混り、それを観察することによって、熱心なプロレタリア芸術家たちは、自分たちがまだ現実の複雑な姿をその根源にまで突入って形象化する弁証法的な手法を充分に獲得していないことをハッキリ自覚したのだ。

 プロレタリア・リアリズムの標語は、既に数年前から問題とされていた。プロレタリア芸術家たちは、マルクシズム・レーニズムの立場から制作を正統なリアリズムの骨格と肉づけとで組立てることに努力して来た。が、農業と工業との生産労働へ日夜接触して見ると、彼等は自身のリアリズムに多分の機械的マルクシズム、生産に対する知識階級的エキゾチシズムが混合していることを自覚して来たのであった。

 ロシア・プロレタリア作家連盟(ラップ)が右翼「 同伴者 パプツチキ 」の反革命的要素と飽くまで闘争しながらも、自己の陣営内で、極左的傾向を注意ぶかく批判したわけがここにあるのである。

 プロレタリア詩人、ベズィメンスキーは、一九二九年、ラップが「大衆の中へ!」というスローガンをかかげていた頃「射撃」という詩劇を書いた。

 或る電車製作工場内におけるウダールニクの組織のための闘争とそのウダールニクの献身的な活動の歴史を描いたもので、ベズィメンスキーは、五ヵ年計画の第一年目、モスクワにウダールニクがまだたった十三しかなかったときに、この詩劇を書いたのであった。

 題材はソヴェトの現段階にとって生々しいものであった。彼がこの主題に着目したことには積極的な価値があった。けれどもこの主題の理解のしかた、扱いかたに問題があった。

 ベズィメンスキーは「射撃」の中に、社会主義的善玉・悪玉を簡単に対立させた。その電車製作工場内に、ウダールニクを組織したコムソモールを中心とする男女労働者は、階級的誤謬を犯したいと思っても犯せないような善玉。対立して描かれている工場内反革命分子は、徹頭徹尾の悪玉だ。

 劇の第一幕から終りまで、二つの型の対立的争闘が描かれてあるだけで、卓抜で精力的なコムソモールは、反動傾向の中にまじっている浮動的な分子を正しい建設に協力させ獲得するために組織的努力をすることも見落されているし、推移する工場内の情勢がおのずから反動派の内部に或る動揺や分裂を起させるという現実をも見ていない。

 党は、青年部にそういう消極的な戦術についての指令は、どんな時にでも与えたことはなかったというのが、第一の若い大衆からの批判であった。まして、社会主義的戦線の拡大と強化に熱中している一九二八年以来の実際に即して観察すれば、作家ベズィメンスキーのそういう理解は、明かに一つの非弁証主義的誤りであることが指摘されたのは当然であると思う。

 革命的なプロレタリアートの不屈な意志と細心な努力とが日常生活の実際を貫いて、意識のおくれた勤労者たちの階級的行動に日光が植物に作用するような影響を与えている。

 五ヵ年計画実現の或る政策、特に集団農場化のような場合、はじめはグズグズ疑りぶかく、反動的に小さい自分一身の利害の勘定ばっかりしていた貧農、中農が、やがて農民としての損得から云っても集団化された方が得であることを合点し、仲間の中からの活溌な自発性に刺戟され、おいおい、積極的な集団農場員となってゆく実例は、ほとんどすべての地方の集団農場にも見られた。

 工場内でも、それは同じであった。生産の場所でのウダールニクの価値は、はじめ何人かで組織したウダールニクによって行われる組織ある戦術が次第に一般勤労者の階級的自覚をたかめ、自発性を刺戟して、遂には工場全体をウダールニクに加入させてゆくことにこそある。宗派的に少数でかたまりきって、英雄主義に耽ることではない。ベズィメンスキーは「射撃」の中で、この大切な階級的心理の洞察をおとしているのであった。

 それ等の点について大衆とラップの内部から批判がおこったとき、ベズィメンスキーは云った。「自分は反心理主義だ。現実には肯定と否定との両極しかない。現代ではそれがはっきりしているし、そうなければならないんだ。」

 ベズィメンスキーの、こういう固定した対立の理論の柱は、理論家ベスパーロフのところからもって来られたものであった。ベスパーロフは、文学理論の大家ペレウェルゼフの弟子の一人である。ペレウェルゼフは、一九二九年十一月から三〇年の一月まで、コムアカデミー内文学言語部によって彼の哲学及び文学理論上の誤謬を指摘された。後、ベスパーロフは自己批判してラップに加盟したのであった。それにも拘らずベスパーロフの理論の中には、多分な機械主義があり、詩人ベズィメンスキーの極左主義と結びついた。

 大衆は、集団農場化の実践において、仕事が困難であるため特別に多かった極左的な誤謬を、党が、どんなに厳密に批判したかを、よく知っている。農業の社会主義化に関するブハーリンの右翼的誤謬といっしょに、極左的誤謬も、スターリンのステートメントによって屡々指摘批判された。

 プロレタリア文学の領域でも左右両翼への偏向がプロレタリアートによって正当な批判を受けたのであった。

 プロレタリア・リアリズムにむかっての具体的な出直しの試みとして、ソヴェトの文学は大胆に生産の場所からの生のままの報告を、領分の中にとりいれはじめた。

 ラップの機関紙『 十月 オクチャーブリ 』をあけて見ると、生活記録とか、生活の道とかいう特別欄がある。そこに短篇風な作品がのせられているのだが、例えば「二週間」という題と筆者の名と更に「鉛筆で」とか「ブロックノートより」とか、「日記から」などと註が付されている。作者が、集団農場へ行って蒔つけ時の二週間を暮して、そこに行われる労働、農場員の性格、彼等の社会主義的達成などに関する見聞をまとめたものだ。

 素材はほんとに見たまま、聞いたままだ。文学的趣味で彩飾されたものではない。小説ではない。しかし、論文でもないし、ただの外面的な旅行記でもない。社会主義化されてゆく生産の場所とそこの人間との中からの事実的記録だ。

 ソヴェト同盟では、そういうプロレタリア文学の新形式にまだこれぞといってきまった名がつけられなかったうちに、ドイツ人が持ち前の学者気質で「報告文学」という名称を与えた。(その「報告文学」という名は更に忽ち日本につたわった。)

 同時に、若いコムソモール等が、職業的な作家としてではなく党員として麦穀買つけの実際に二年間も働いたときの経験を記録した「コサック村」などが出版紹介され、好評を博した。

 五ヵ年計画によって、生産労働者の 自発性 イニシアチーブ がたかまって来るにつれて彼等の文化的水準もメキメキ盛りあがって来た。

「ソヴェトのプロレタリアートは、もう芸術の消費者ではない。生産者となった」一九三〇年の初春に行われたラップの大会は、歓喜をもってこの事実を認めた。芸術を「生産の場所へ!」というスローガンは全くこの社会的現実を基礎としたものであった。

 一方では職業的作家たちが、書斎から出て社会主義社会建設の現実的根拠地である生産の中へ入って行く。それと同時に、芸術を生産の場所においても花咲かせよ! 種だけ生産の場所からとって行って、それを育てるのは作家の書斎の中で温室的にやるのではなく、職場にあふれているプロレタリア芸術の種を、職場で、職場の労働者自身の手で育てあげよう。作家はそのために技術的助力をすべきであるという要求が、一般勤労者の中から湧き上って来た。

 これは、文学の分野だけのことではなかった。例えば、工場内の素人劇団の数が最近夥しく殖えた。彼等は活溌に機会を捕え、その場合場合に適した題材で即興的に反宗教、反帝国主義戦争などの小芝居をやっている。が、その沢山の素人劇団の指導は、決して、理想的統一をもってされているとは云えない状態にある。

 七月の党大会後、ラップは、これまでラップが行って来た文学研究会指導方針に、大変革を企てた。

 ソヴェトのようなところでさえも、文学研究会は、いつしか文学青年の巣になる危険が顕著であった。研究会員は、勿論職場にある若い労働者が大多数を占めている。一日七時間働いている間、彼等はいい労働者であった。少くとも五ヵ年計画の 生産経済計画 プロフィンプラン を忘れているものはない。ところが仕事が終って、さて手を洗って、文学研究会の椅子に尻をおちつけると、いつの間にか彼らは職場にいるときの彼らではなくなる。文学趣味に生きる若者に還元してしまう。さすがに今日のソヴェトで「月の樹かげのキューピッド」を主題とするロマンチストはいないにしろ、彼等は「働いている俺達」の豊富な生活面について具体的にうたわず、「建設される社会主義」とか「共産主義がそれを建てたトルクシブ!」とかいう観念的な、文学の美観と思われてるものにとびついてしまう傾向がある。

 個々の文学研究会は、狭いそこだけの興味にとらわれる傾向がつよく、例えばラップ全線が大衆とともにベズィメンスキーの「射撃」の批判で燃えていたとき、秩序をもってその問題を討究した研究会は、ほんの数えるしかなかった。この事実はラップを驚ろかした。

 文学研究会の任務は、先ず職場にいる研究会員の従来のような余技的な文学興味への引こもりをやめさせて、工場内の工場新聞、壁新聞と密接な結合を持つこと。一九三〇年の秋の新経済年度から、文学研究会は大衆の 生産経済計画 プロフィンプラン に対する理解と、それを充実する熱心を、工場新聞、壁新聞をとおして、あらゆる文学的表現で鼓舞してゆくことにあると定義した。

 このラップの指導方針は、プロレタリア文学の新しい交代者を養成するためには、根本的な意義をもつ注意であった。

 折角新しい社会関係で労働に従事し、新しい生活で鍛えられつつある若者が、芸術と生産の間にブルジョア文化がもっていたような分裂へ逆転して、既成作家が揚棄しようとしている欠点を自分達の文学修業の出発点としたりするようなことがあれば、それはとりかえしのつかぬ誤りである。

 丁度、第十六回ロシア共産党大会が終ったばかりの時、『文学新聞』に注目すべき工場労働者の決議文が現れた。それは、ソヴェトで労働大衆とプロレタリア作家とがどんなに有機的に手を結び、社会主義社会の建設のために共同作業をやろうとしているか。労働大衆が、自分たちの文学としてのプロレタリア文学発展に対して、どんな積極的態度を示して来ているかということについても非常に興味ある一文であった。

 決議はモスクワの主要な金属工場、電気工場が主となって、作家の「師匠役」をつとめようというのだ。

 その決議文の中に、こういう大衆からの提議があった。

一、作家たちはもっと大衆にわかりやすい文学的言葉をつかってくれ。

二、作品の筋書、または未完成な下書きでもいい、作家はそれを工場クラブなどの一般集会で読んで、みんなの意見や忠告をきけ。

三、各文学団体の間に行われる理論上のいろいろな論争を工場でやれ。

四、われわれ革命的生産に従事する労働者は、作家の師匠役をする決心をした。ソヴェト作家団体連盟と 赤色陸海軍作家同盟 ロカフ とは、その具体的なプランを示してくれ。

 更にラップは、文学の組織的生産の問題に向ってみんなの注意を喚起した。ソヴェトの全生産は、映画・出版のような文化生産をこめて生産経済計画によってされている。今日のあらゆる社会生活が文化的活動をこめて、この生産経済計画に支配されていることは誰にでも明らかである。即ち数字の上からだけではなく、計画的生産を基礎とする社会主義社会の建設の方向に爪先を向けている。第十六回党大会の席上、ラップの代表者ベズィメンスキーは、文学も生産経済計画以外のプランはもっていないと言った。別の言葉で云えば、社会主義の達成は同時に文学の課題であるということである。映画は毎年大体定められた生産計画によって生産されている。演劇は上演目録の計画的選定で上演されている。文学作品の生産ばかりは、個々の作家の勝手で行われて来た。めいめいの作家が、てんでの思いつきでつかまえた題材で書きたいときに書いていた。果して、それでいいものかどうか? ラップはこういう問題を提起したのであった。