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 図書館のところを順二郎が通っているとき、そこから二人連の学生が出て来た。

「ひどいなア」

 一人が顔をそむけて風にさからいながら帽子の庇をおさえた。もう一人は、重吉であった。彼はいきなり真向から吹きつけた砂塵に顔をくしゃくしゃとさせたが、そのまんま黙って同じように心持上体を前へかがめて大股に表通りの方へ歩いて行った。

 電車の停留場まで行ったとき連れの山口が、

「今晩出て来るかい」

と云った。

「ああ。六時半からだったろう」

「創作方法をやるんだそうだ」

「そうかい」

「光井も来るそうだ。是非来いよ。今夜は一つ大いに 蘊蓄 うんちく を傾けて見せるぞ」

 週一回、本屋の二階でやっている文学研究会が今夜あるのであった。

「じゃ」

「うん」

 重吉は、東京でも有名な寺のある町角のところで電車を降りた。そして、二三丁先の、いつ見ても客のいたことのない印判屋の横丁を入って、古びた小さい二階家の格子をあけた。

 大工の後家である下の婆さんが襖の中から丁寧に重吉の挨拶にこたえながら、

「お手紙が来ていますよ、お机の上にのせておきました」

 重吉は、肩を左右にゆするような体癖で重い跫音を立てながら部屋へあがった。山口が、対にこしらえさせた白木の大本棚が六畳の壁際に置かれている。机の右手には三段になった飾りのない落つきのいい低い本棚がある。重吉は白キャラコの被いのついた薄い坐蒲団の上に制服のまんまあぐらをかいた。そして、左の掌でほこりっぽい顔を一撫でした後、机の手紙をとりあげた。一通は重吉の見馴れたハトロン紙にマル金醤油株式会社宇津支店と印刷した傍に、佐藤ケイとぎごちなく万年筆で書いた手紙。母親からの手紙であった。もう一通は、水色の西洋封筒が珍しいが弟の悌二の字である。封をすぐは切らないで、重吉は、二通の手紙に目をつけたまま肩をゆすってあぐらをかき直すような動作をした。

 重吉は、流し元へ下りて行って、ザブザブ顔を洗って来ると、制服の襟ホックをはずしたまま、今度は一気に二つの手紙を読んだ。商業へ通っていた悌二の汽車の定期が前学期で切れた。新しく買う都合がつかなかったので、毎日切符で通うことにして暫く辛抱して貰っていたところ、悌二がそれを苦にして学校へ行き渋りこの頃は学校をやめると云い出している。将来御許の片腕となって家運挽回をはげむにも今の世の中に小学きりではと思い、私は泣いて行ってくれと申せど、悌二は兄さんには僕の心持がきっと分ってもらえると申して承知しません。一応御許とも相談いたした上でと思い云々。父親の源太郎が、そんなことを云う意地気のない奴は学問なんどせんでええ! 馬車ひいておれ! と憤激している姿も、母親の手紙の文面に 髣髴 ほうふつ としているのであった。

 悌二の方は、いかにも永くかかって下書きしたのをまた次の晩電燈の下で永い時間かけて清書したらしく、消しの一つもない手紙に、ありどおりのいきさつと自分の心持とを披瀝していた。父上が意気地無い奴と罵られるのも無理はないと思います。けれども、僕には正直なところ、家が苦しい中からそんな思いをしてまで学校をやってゆくだけ自分の頭に自信がありません。幸僕も体の方は兄さんに負けないつもりだから、僕は兄さんの手足となって家のために働くつもりです。僕のようなたかの知れたものが、現在の家の事情でいくらかでも学資をつかうよりは、その分も兄さんにつかって貰った方が有意義だと信じるのですが如何でしょう。兄さんの将来の目ざましい成功は故郷の何人も期待して疑いません。中央の最高学府の生活は金もいるでしょうから、僕は兄さんが少しの金でも有益につかって下さると思えばうれしいです。

 重吉の刻みめの深い、しっかりした顔だちの上で優しさと苦しげな表情とが混った。家運挽回と結びつけて、少年時代から重吉にかけられているこの期待のために、重吉は決して単純な学生気質で暮せなかった。重吉の思い出のはじまりの情景には、或る午後ドタドタと土間に踏みこんで来た執達吏、家財道具や家の鴨居にまで貼られた差押えの札、家の前の往来で真昼間行われた競売とそのまわりの人だかりがやきつけられていた。

 高校時代、重吉は既に貧困の社会的な理由を理解していたし、それを踏んまえて立っていたが、不規則な食事のために旺盛な肉体は不調和を起して、奇妙な神経痛に苦しんだりした。

 親たちが、昔広国屋と称した名主の家名に愛着している心持や家運を挽回させようと日夜焦慮して、重吉を唯一の希望の門としていることも、競売を目撃し、その時の親たちの感情を幼いながら共にわかちあった彼には無理ないこととして思いやられているのであった。重吉が経済学部に籍をおいていること、傍ら文学の仕事に心を打ちこみ、なお進歩的な青年らしい社会の動きに参加している気持の裏には、これらの事情を悉く慎重に思いめぐらしての上での決意がこめられているのであった。今に重吉が井沢郡から代議士にうって出て見ろ、最高点をとるにきまっとる、と云う周囲の焙りつくような待ち遠しい目を身に受けながら、重吉は寡黙に、快活に温い頑強さで、自分がそれらの人々の希望している通りの者には決してならないことを自覚して暮しているのであった。

 重吉は、故郷の家の有様を思いながら、白カナキンの日よけのかかっている窓越しに外を眺めた。表通りの紙屋と豆腐屋の裏が重吉の窓に向っている。豆腐屋の裏二階の羽目はどういうわけかあくどい萌黄色のペンキで塗られていた。何年もの風雨で さら され、もはやはげかかっているその色が今日の荒々しい灰色の空の下では、佐伯祐三の絵にあるような都会の裏町の趣を見せている。同じ都会の或る庭では竹藪を吹きざわめかせる季節はずれの南風は、重吉の部屋の在る町あたりでは、時々どっかでガワガワとトタンの煽られる音を立てている。表通りから細かい砂塵がガラスに吹き当てられた。重吉の故郷の家も、思えばこんな荒天に難航している小舟に似ていた。父親の源太郎が中央に突立って叱咤しているのであるが、その人自身絶望から希望へ、希望から絶望へと絶えずつきころがされて来た。そして、先ず家内の者が自分の命令に服さなければどうして他人を従えることが出来るかという熱烈な肉親の情と焦慮とで、源太郎は家族や使用人に暴力をふるった。その前に先ず酔っぱらってから――。

 それは大抵夜であったから、源太郎の暗い店の前に町とも村ともつかないその近所の連中がたかって来て、面白そうにどたんばたんの騒ぎを見物した。重吉は、そういう時自分の頬っぺたを流れ落ちた涙の味を刻みつけられている。善良な、一本気な父親に狂態を演じさせる力を憎悪した。

 重吉は、考えに沈んだときの癖で頭を心持右へかしげ、ゆったり大きいあぐらの片膝をゆすっていたが、やがてあり来りの馬蹄形の文鎮をのせてあった原稿紙をひきよせて万年筆をとり、母親と悌二とへの返事をかきはじめた。

 重吉には自分より気の弱い悌二が、友達どもに気をひける気持も察しられた。しかし悌二も、卑屈でなく生きてゆくためには、貧困が恥辱ではないことを知らなければならない。重吉は思いやりをこめた兄らしさで悌二の心持に元気を与え、学校をあながち無理につづける必要もないと考える彼の意見を書いた。だが、もとよりそうしたからと云って僕はその金をまわして貰うことなどは考えてもいないよ。僕は今でさえ心苦しく思っているんだから。僕も自分の満足のためだけならば或は学校をとうにやめていたかもしれないくらいだ。三分の二ほど進んだ時、

「おう、いるかい」

 二階に向って呼ぶ声がした。重吉は万年筆を持ったまま立って縁側から下の往来を見た。

「どうした」

「いいか」

「ああ」

 今日は、口んなかまでじゃりじゃりだねと云いながら、階段をあがって来たのは光井である。光井は高校が重吉と同じで今は英文学にいた。

「今夜会えるだろうと思っていたよ」

 重吉が机の上の原稿紙を片づけながら云った。

「山口が云ってたんだろう? きのう会った。例によって例のごとしだね、未来のプラウダ主筆だっていうんだから意気は壮とすべしさ」

 煙草に火をつけて、光井は腹の下に坐蒲団をいれて畳へ腹這いになった。

「そう云えば、交叉点のところで各務の娘に会ったよ。むこうじゃ気がつかなかったらしいけど――」

「そうかい」

 母方の遠縁で、重吉は暫くそこの家にいた。電気会社の重役のその家では、重吉に書生の仕事をさせるのを当然のことと考えていた。

 光井はいくらか好奇心を動かされた表情で、

「こっちの方へ来ることなんかあるのかい」

ときいた。

「音楽の教師が、どっか、寺の裏の方にいるらしいんだ」

「ふーん。よらないのかい。ここにいるのは知ってるんだろう」

「よるもんか!」

 重吉は健康な白い歯を見せて拘泥もしていないように笑い出した。

「年ごろんなって来たら、どうも傾向がわるいよ」

 その言葉に光井も笑い出した。同級の、やはり研究会へ出たりしている学生の中には、美校の女学生と同棲している者などもある。光井自身は、女学校へ通うようになった妹と一軒もって暮しているのであった。光井は、腹の下にしいていた坐蒲団を今度は頭の後ろに枕にして、仰向きにころがりながら、

「女は影響するなあ」

 真面目に感情をもって呟いた。

「塩田の生活なんて、何か暗いものがあるよ。あいつが研究会に割合出たりしているの、そういう暗いものからの反撥が作用していると思うね」

 下宿している家の主婦の末っ子が、うしろから見ると塩田そっくりの歩きつきをする。そのことを光井はストリンドベリイの小説のように云った。

「俺は、あのちびが出て来ると何だかぞっとするね」

 重吉自身は、少年らしい淡々とした初恋の思い出や、地方の中学生らしい汽車の乗降りのロマンティックな恋心や、高校時代のマントの翼の下に娘の肩を大事に入れてやって雪の夜道を歩きまわったような、責任感と少年ぽい恋着の錯綜した感傷をも通って来ていた。先輩に当る文芸批評家が、新しい時代の黎明と青春の愛惜と重吉の才能への傾倒を、恋愛的な情熱で表現して重吉を深く考えさせたこともあった。重吉は彼らしい率直さと誠意と熱情とで或る女と性的な経験をも持ったが、現在は彼の内部でそれがひとまず落着を得ていた。現在のところ重吉のそういう方面は単純化されていて、彼が自分の恋愛や結婚に対して、はっきり認めるようになった新しい社会的意義と一緒に、急がず、注意をもってしかも青年らしい溌剌とした自然な関心で異性を眺める状態にいるのであった。

 光井は、

「一本松の山本ね、あいつの妹がやっぱり東京へ来ているらしいんだが――知らないかい」

と云った。重吉は二つ三つ瞬きをしたがさり気なく答えた。

「どっか専門学校へ行ってるらしいよ」

 特別な関心をはる子にもっているというのではなく、重吉は、はる子の活動の便宜や安全を保護したのであった。

 二人の間には、文学談が栄え、やがて光井が、

「きのう、これも主筆にきいたんだが東高へ誰かが撒いたんだってね。講堂まで入ったんだってさ。仕様がないもんだね、みんなぽけーんとしているばっかりだったってさ」

 重吉は唇を結んで、黙ったまままたちょっとあぐらの片膝をゆすった。程なく時計を見て、

「どうだい、飯をくって行かないかい」

 光井は、両脚を揃えて一ふり振って起上りながら、

「もうそんな時間かい」

と髪を直した。

「どうせ例によって、はま鍋だろう?」

「あんまり馬鹿にしたもんでもないよ、この間読売にカロリー料理って出ていたよ」

「まあ何でもいいや。飯はあるのかい?」

「あるだろう。なけりゃ下から貰って来る」

 七輪を机のわきに持ちこんで食べ終ると、重吉は戸棚をあけて、田舎風に青い綴じ糸が表に出ている 褞袍 どてら をぐるぐると畳んで新聞紙に包んだ。その下にハトロン紙で被いのある本を重ねて抱えて、階下へ降りた。靴をはきながら、重吉は膝をついて見送っている婆さんに、

「きょうは、宿直ですか?」

ときいた。

「ええ、そうなんでございますよ。何ですかお友達にたのまれましたそうでしてね、あなた」

「じゃ、おそくっても帰って来ますから」

「そうでございますか、いつもすみませんですねえ」

 一足先へ格子の外へ出ていた光井が、

「宿直って――ほかに誰かおいてるのかい」

ときいた。

「ここの娘だ。――いくらかになるもんだからね、ひとの分もやってやるらしいんだ」

 二人はやや風が落ちたかわりに時雨模様になって来た夜の街へ出て、大きい銀杏の樹が路の真中にある急な坂道を、本郷台に向って行く人混みの中にとけ込んだ。