University of Virginia Library

Search this document 

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 

  

 夜なかの三時の古川橋へ向う大通りを、一台の自動車が落付いたスピードで進んで来た。ルーム・ランプに照らされて一方の隅に浮紋レースの肩掛をした瑛子が、背中にクッションを当てがって目を瞑っている。かさばらない縮緬の袱紗包を隔てた一方の隅に、泰造が左手を肱の下へかって折々右手の拇指と人さし指で唇の両端を押えるような摘むような恰好をしながら両脚を行儀よく前に並べかけている。その泰造の顔にも、疲労の色があらわれていた。

 古川橋の交叉点へ近づいた時、通行の途絶えた暗い、昼間より広く見える軌道のところに三つ四つ入り乱れている丸提灯の赤い灯かげが見えた。自動車は更にスピードを落して静かに近よって行くと、行手の途の上で一つの提灯が大きく左右にふられ前の車もそこで止っている。非常警戒であった。顎紐をかけた巻ゲートルの警官が一人は運転手の窓のところから内部をのぞき込み何か云った。運転手が、ハアそうですと答えている。同じ服装のもう一人の警官が車室のドアを外からあけた。

「失礼します」

 泰造は、元の姿勢のまま、挨拶するように軽く人指し指を動かした。瑛子は、白粉のある瞼を薄すりあけたが、またそれを瞑った。

 バタンとドアがしめられ、さっき左右にふられた提灯が、縦に大きく動いて、前のも動き出し、泰造夫妻の自動車は再び平らかな、むらのない、おとなしい速力で進みはじめた。

 東京もこの時間には短い眠りに入っている。市場へ野菜物を運び出すトラックなどが乱暴に弾みながら電車軌道の上を疾走してゆくのに遭う。

 瑛子が背中をよじってクッションの工合をなおしながら、

「おさわさんにも全く困りますねえ」

 眼をつむっていた間じゅう、そのことを考えつづけていたような声の表情で云った。

「夜よなか、こうして呼びつけるなんて――大体あなた、勇蔵さんにもっとちゃんとした態度をお見せにならなけりゃ駄目ですよ。さわ子もてきぱきした性質でないことは認めるなんて――勇蔵さんはああいう機敏な男だから、兄さんもそう思うならって、今更おさわさんを戻されたらあなたどうなさいます?――私は御免ですよ」

 その晩、十二時時分になって白金の井上から電話がかかった。夫婦の間がもめて細君のさわ子がどうしても兄さん達に話をきいて貰うと云って手に負えないからと、勇蔵自身が電話口に立って、当惑を音声の響に現した。

 何しろ子供たちまで皆寝かさないでいる有様だもんだから、と如何にも自身の社会的な地位に対しても笑止げに云った。勇蔵は日本で屈指な生命保険会社の常務その他をやっていた。

 瑛子はくたびれて引きあげて来る途々、りゅうとした大島の揃いをちっとも引立たせず衿元などじじむさく着て、顔を充血させ、むくんだように見えたさわ子のみっともない様子を思い起した。どこから見ても粋な身じんまくのよさで、髪を真中からキッチリとわけている世間で美男という勇蔵の遣りてらしい風貌と、何というはげしい対照だろう。

 この夫妻の悶着は今にはじまったことではなかった。勇蔵の容貌と職業と地位とは、さわ子と結婚してからこれまでの二十年間にも度々細君の嫉妬を刺戟した。今度の諍いは是迄より一層深刻であり性質も重大であった。自宅ではさわ子が少し気の利く女中は片端から出してしまったりして来客に対してさえ世間並の接待が出来かねる、客は一切よそですることにしたと云い渡した。それが去年ごろのことである。高輪の海を見晴す芝生のある家は四人の子供らと、それ以来益々感情をもつれさせたさわ子との生活場所となり、主人の勇蔵は夜から朝までをここで暮していた。一昨日の午後高島屋から大森、井上様とした女物のお召が届いた。それは、さわ子の注文したものでもなかったし、惣領娘の柄でもなかった。一見花柳界好みの品であった。それが、今夜加賀山夫婦に徹夜をさせる原因となった。

 さわ子は、泣く涙はもう流し切って半ば引攣ったような眼を勇蔵に据え、激しい愛着が体の顫える程の憎らしさにかわっている声で、

「さあ、兄さんや嫂さんが来たんだからのがしゃしません。何処にその女をかこったんです」

とむきだしに迫った。

「どうもこれなんだから困る」

 勇蔵は、敏活な表情の上に当惑の色を浮べているだけで、極めて平静にゆとりをもって加賀山夫婦を顧みた。

「だから云ってきかした通りさ。東京に井上という苗字の家は何百軒かある。電話帳を見なさい。くさる程ある。それが偶然間違ったからって、俺の知ったことではないじゃないか。第一そんな者がいるんなら毎晩どんなにおそくっても家へかえって来て寝るなんて奴があるか」

「ねえ、嫂さん、こういうずうずうしいことを云うんですよ。これまで何百遍高島屋からものを届けさせたか知れないけれど、一遍だって高輪の井上様とは書いてきませんでしたよ。あなたが、これは大森の方だよと云ったから、そう書いてあるんじゃありませんか」

「帳場でしらべて来なさい。そしたら気がすむだろう」

「帳場なんか!――自分でちゃんと口止めしといて……ああ、ああ」

 さわ子はぼってりとした肉付で重い体を捩るようにしてまた涙をこぼしはじめた。

「勇蔵ったら、御覧なさい、こうして私をどっちへも手も足も出ないようにしてしまって、死ぬのを待ってるんです」

 井上は、葉巻の先を切りながら加賀山に向って、

「君に云っては相すまんが、僕は女房には失敗した。加賀山にもこういう頭の悪い奴が出るんだね。――実は僕は子供らも母親が母親だから大して期待しないことにしたよ」

 勇蔵の言葉が子供のことに及んだ時、泰造は、非常に真面目な苦痛そうな表情を浮べた。そして、帰りに妻から彼女の心理的に微妙な理由によってその前半だけでねじこまれた言葉、

「そりゃ、おさわがてきぱきしていないから君のような活動家に不適当なところのあるのは僕もわかるが――」

 片手で例の唇の両端をさわりながら、泰造は真情をもって、

「だが、子供達には母がいる、父よりも母がいる、まあ考えてくれたまえ」

と云ったのであった。

 瑛子はさわ子に対する同情と軽蔑、勇蔵に対する不信用、どちらも隠さず面に出して、

「あなたがそんなに怪しいと思うんなら、私立探偵でも何でも勇蔵さんにつけたらいいじゃありませんか」と云った。「そして、あなたの気がすむように、社会的地位を傷つけるなり、法律上の手段をとるなりしたらいいじゃありませんか。私ならそうする!」

 それを云う瑛子の調子の中には、さわ子に向って云ってはいても、二人の男に向けられている威嚇がはっきり響いているのであった。泰造はチョッキのところで細いプラチナの鎖をいじりながら、妻の声と眼の中にもえている威嚇の意味を明瞭に感じて聞いていた。

 瑛子が本当にいざとなったらそんなことをもする女である。そのことを泰造はいろいろなことから知っている。勇蔵は、朝剃った頬のあたりが夜半になった今は少し蒼ずんで来ている顎のよく発達した顔へ苦笑いで云った。

「嫂さんにあっちゃかなわない。しかし日本の法律は御方便なもんでね。例えば財産についての告訴にしたって夫からは出来るが妻からは出来ない。――じたばたすれば結局損をするのは女なんだから、おとなしく母親として満足していればいいのさ」

「そういう男ばっかりだから、私は腹が立つ。損をしたって、人間はあなたのように損得だけで生きてやしないんだから。私がおさわさんで、あなたが妙なことをしようものなら、愚図愚図泣いてなんかいやしないから!」

 瑛子は肌理の美しい頬っぺたに血の色をのぼらして云った。

 井上は、瑛子が手洗に立った時後について、贅沢な蝶貝入りの朝鮮小箪笥などが飾ってある廊下まで出て来た。そして瑛子の常識に訴えるように云った。

「何しろああいう有様だから、万一子供たちをゾロゾロつれて、あの年で妙なことでもされると困る。一つよろしく願いますよ」

「それもあなたの体面上でしょう。――」

 瑛子は井上の眉目秀麗な中年の豊かな顔から胸へ穿鑿する視線を流しながら、声を落して辛辣に囁いた。

「あなたもいいかげんにするもんですよ。母親が母親だからなんて――揚ちゃんが赤坊の時分、耳の後がただれてつかなかったのは誰のせいだか分っていらっしゃる筈じゃありませんか」

 井上が自分で洋盃を取り揃えて食堂から運んで来て葡萄酒などが出され、最後には、若しこの次何かがあれば加賀山も何とか動くという、謂わば気休めで夫婦は帰途についたのであった。

 その明け方は、通夜からでも帰った時のようであった。外は真暗な寒い座敷で、眩しく電燈を反射させる鏡の面にワイシャツを真白く映しながら泰造が着換えをしている。こちらの小座敷でひろげた花莚の上へ、気むずかしげなのろい動作で、瑛子が帯止めを解きすて、帯あげをほどき、帯をたぐめて置いてある。

 泰造は手早く歯をみがいて来ると、小座敷の方へ、

「先へ寝るよ」

 声をかけただけで、活動的な跫音を響かせながら二階へあがってしまった。

 その日泰造は或る大銀行の経営のことでそこの理事会と衝突した。新たに入った理事が自分の縁故を推薦していて、泰造に顧問格になってくれと云うのであった。泰造はそれは不可能であると拒絶した。新しく推薦されている人に、理事会の意見が一致しているならば全部委せたらよかろうと云って引上げたのであったが、そのことで、彼は明朝早々、その銀行を動かしている或る財閥を訪問しなければならなかった。小さいようでもこの出来事は、この二年間、日本の財閥間に生じた或る微妙な勢力の移動を語っていることを、泰造は永年の経験で勘づいているのであった。

 瑛子は、泰造の心の中の計画については何も知らなかった。良人の跫音をききながら、白い疲れた瑛子の顔に、今は誰憚るところのない倦怠と嫌悪の色が漲った。瑛子には、高輪の夫婦のごたごたそのものも不愉快であったし、それに対する泰造の態度も気にくわなかった。泰造には深いところがない。思索的なところがない。八方美人である。日頃瑛子は良人をそういう風に観てあき足りないでいるのであったが、今夜は、泰造が井上に対して一向圧しのきく態度を示さなかったことが二重にいやな気がした。そこには井上と泰造との男のきれ工合をおのずから比較して眺めた女の虚栄心めいたものと混って、瑛子らしく、男の勝手な振舞いは男の相見互のようなものでいい加減におさめようとする泰造が、はがゆく思われた。

 こんなことで夜半に帰って来たのに、泰造はああやって何も考えないで直ぐ寝てしまえる。妻としんみり話そうとする何の問題も感じて来ていない。泰造にはそういう味のある深みがないと焦立たしいのであった。瑛子には特に井上が、加賀山にもこんな頭の悪い奴が出るんだねと、さわ子を評して云った言葉が忘られなかった。若い嫁であった自分を苦しめた、かたくなな姑の伊勢子の顔がまざまざと甦った。あの血が或る時の泰造にもやっぱり流れている。そして、子供らの中にも恐らく不可抗的に流れこんでいるだろう。それで苦しむのは自分だけである。そして、そんな良人を持ちたいと、そんな子供を生みたいと、女としての自分がいつ願ったことがあるだろう!

 生活に対する瑛子の怨恨はいつもここまで遡った。揺蕩たる雰囲気に包まれて書かれ、語られる新婚の生活も、瑛子の現実ではまるで違ったものであった。恋をせずに母とならされて来た一人の女の情熱と肉感とが、成熟の頂点、将に老年が迫ろうとする隠微な一生の季節、最後の青春の満潮時である今、猛然と瑛子をいためつけるのであった。

 いけてあった火鉢の火をかき立てて、自分用の九谷の湯呑に注いだ茶を飲みながら、凝っとテーブルの一点に据えている瑛子の睫毛の濃やかな眼から、一滴ずつの涙があふれて来てしずかに頬っぺたを顎の方へ流れた。それは、 から い、冷たい二筋の涙であった。

 勇蔵たちのごまかしだらけの夫婦の生きかたも、彼等の社会的地位にかかわらず瑛子の心に軽蔑をよび起した。自分たち夫婦の生活、これまた何であろう。そして、女には法律上の権利さえ十分に与えられていない。その絆にしばりつけられて、終に自分の女としての一生は空費されなければならないのだろうか。自分はそれを望んでいるだろうか。決して望んでいない! 望んではいない! 瑛子の心の中には足ずりをするような絶叫がある。その絶叫の端に、二十九歳の田沢の俤が浮んでいた。彼は多血性な泰造とはまるで反対な骨格と皮膚をもっていた。瘠せ形でどちらかというと蒼い田沢の青年の顔が、瑛子の大柄な、既に衰えをあらわしながらなお豊満で芳しい全存在をひっぱりよせるように招くのである。

 瑛子はいつしか自分の思いのうちにとらわれて、永い間沢山の涙をハンケチに吸わして泣いた。