University of Virginia Library

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 学校内の空気は、不安を含んで動揺しながら、はる子がそれを予想していたように急速な一般の変化はおこらなかった。二学期の試験が迫っていたこともある。そこへ、学校側が、三田先生の送別会を来る土曜日の放課後、通学生食堂で開催、会費十五銭という予告を出した。

 各幹事ハ打合セノタメ至急庶務ヘオ出デ下サイ。

 告知板の前で、はる子が目立たない程のつよさで傍にいた宏子を小突いた。宏子にははる子の気持が通じた。それを読んで立ち去る学生の中で、

「でもまあ少しは良心があるのね、送別会だけはやらせるんだから……」

 些か憂さの晴れたように云っているものもある。

 第一時間目の終りのベルが鳴って、宏子の組が立ちかけた時幹事の飯田が、

「あの、ちょっと」

と、今日は自分から教壇の横へ出て、

「あの、土曜日の放課後、三田先生の送別会のあることは御承知と思いますが、三田先生のお気持で、もう級別の送別会はおことわりになるそうですから、どうか皆さん御出席下さいということです」

と爽かに述べた。

 前列にいた一人が、思わずも口に出た調子で、

「誰がそう云ったの」

ときいた。

「カキさんよ」

 飯田は、相手の級友の顔を眺めて自分も気取りをなくしたふだん声にかえって云った。級じゅうに不満と皮肉とがぼんやり感じられた。

「あのそれから、送別会では各級の幹事が挨拶するんですって。級の心持としてしたいと思うんですが、どんなことを云ったらいいかしら」

「分ってるじゃないの。そんな送別会なんてつまらないと思っていますって、はっきり云ってよ」

 三輪が薄く紅をつけている唇を尖らして云った。

「全くだわ、形式じゃないの、ただうわべだけの。各級から幹事だけなんて、――そんなのあるもんか」

 がやがやしはじめた中で、宏子が自分の手を叩いて注意をあつめた。視線があつまると少しはにかんだ顔付になりながら、宏子は熱心に、

「級で云ってもらうことをきめておきましょうよ」と云った。「私は、飯田さんに是非このことだけ云ってほしいんです。それは、三田先生が、教科書以外のことについて話してくれたのが、どんなに本質的に私たちの学問になっているかっていうこと。そして、三田先生がこれからどこで教えても、学生は活きた知識を求めていることを決して忘れないでくれるように。学生は先生が考えているより判断力をもっているから、リンゼイの説だって私たちは鵜呑みにしてはいない。だから安心してくれるように、って。だから、学生はそういうことを理由に先生がやめさせられるとすれば、それには心から反対ですって、どうかそれだけは云って頂戴」

「本当にそうだわ、飯田さん、しっかり云ってね」

 徳山が、首をまげるようにして力を入れた。

「私たちの級では、三田先生に留任してもらうようにって要求を出したんだから、そのことも云った方がいいわ」

 土曜日の会には全学生の三分の二ぐらいが出た。学校の側からは柿内が出ている。三年の幹事が司会をした。窓際から三列目のテーブルに杉と並んでかけている宏子の眼のうちには、会の進行につれて消えてはまた燃える小さい火のようなものが閃いた。会場全体には、尊敬する三田を公然とテーブルの中央に眺めている単純な安堵の気分と、幾らか儀式っぽい皮肉な冷静さが交流していて、自分の心にある憤懣、学生の胸にあるいろんな気持が、そのままちっとも真直ぐあらわされていない。宏子にそれがもどかしかった。

 下の級から順に挨拶をして、飯田の番になった。飯田は大体たのまれた通りの意味を云ったが、言葉づかいは彼女流に角を削られた。「心から反対だわ」と云ったところが、「まことに残念でございます」と言われている。司会をやっていた三年生が挨拶のあとにつづいて、このほかに各級には一言ずつでも直接三田先生に感謝やお訣れの言葉を述べたい人があると思うが、もし三田先生が御迷惑でなかったら許してもらえまいかとつけ足した時には、満場が歓ばしい動揺と拍手とで鳴りわたった。杉は上気して、

「珍しいわね、三年のひと!」

と宏子に囁いた。宏子たちは遠方の席から眼を放さず張りきった期待で三田先生の挙止に注目した。三田は少し不意打の態で、どっちとも答えない。再び促したてるような待ち切れないような拍手が盛りかえして来た。その中で三田先生はテーブルの前に立った。そして学生の好意を丁寧に謝した。それから言葉を改めて、

「ただいま三年の方からお話しの出たことは、私としてまことにうれしいことですが、人数も多勢でいらっしゃるから、幹事の方々がそのお気持を十分代表していて下さるものとしてお受けして置いた方がよろしいと思います」

 終りを外国流に「ありがとうございました」と結んで席に復した。

 はじめの生彩は失われた。拍手が起った、宏子は拍手をする気になれなかった。三田先生はものごしで、やはり自分たち学生のそういうつよい表現を求めている気持を避けているのであった。

 散会になって、部屋へ戻って来ると、三輪が靴のまんま寝台の上にどたんと仰向けになりながら、

「あーあ、三田先生、か!」

と何かを自分の心から投げすてたような声の表情で呟いた。

「要するに先生なんだなあ」

「あの先生は、ああいうところがあるわよ、自分のものわかりのいいところが自分ですきなんだもの」

 宏子も、むしゃくしゃしている早口で云った。

「友愛結婚の話のとき、私たちの質問をあの先生は分ってなかったわよ。リンゼイは折角キリスト教道徳の偽善に反対しながら、なぜ子供を生むことも出来ないようなアメリカの社会の事情まで研究して行かないんでしょうって私たちきいたでしょう? あの先生は、リンゼイがアングロサクソンだからそういう気質なんでしょうって云ったでしょう? そこなのよ!」

 徳山のような学生は溜息をついて、

「私、涙が出そうんなったわ」

と云った。

「三田先生、本当はあんなこと云いたかなかったのよ。……カキが頑張ってるんだもの、……なんて口惜しかったんでしょう、ねえ、そう思わない?」

 宏子にはそういう感じかたは出来ないのであった。

 夕飯後に、はる子が部屋へ来た。上瞼の凹んだまるで白粉っけのない顔で、癖で少し右肩を振るようにしながら、

「――惜しかった、やっとこさ三年があすこまでのり出したのに」

と云った。

「…………」

 今の場合でも、はる子は事柄全体を初めから終りまでひっくるめてそう云っているのであって、宏子も勿論その点では同感なのだが、三田の態度に対する不満な気持は、それとして在るのであった。腕組みをして、むっつりしている宏子の顔をはる子は暫く眺めていたが、やがて黙って宏子の肩を一つ情を めてたたいて出て行った。今にも始りそうで遂に始らずに終った学生たちの感情と行動の流れ。しかもそのかけひきでは学生たちがはぐらかされたという気分が、その夜は寮全体にぼんやりと漂っていた。

 宏子が手洗から部屋へ戻ろうとすると、

「あ、ちょっと! ちょっと、加賀山さん電話よ!」

 舎監室の横から学生の一人が手招きした。電話は家からであった。瑛子が出ていて、

「どうしているの」

と云った。

「きょうは夕方でも来るかと思って待っていたんだよ」

 では、今夜は田沢は来なかったのかもしれない。宏子はその瞬間軽くなって行く自分の心を感じて、嬉しさと悲しさの交った気持になった。この間の夜以来強いてもうちのことから心をはなそうとして暮していたのであった。

「来ないのかえ?」

 時計をのぞいて見た。七時すぎたばかりである。

「行こうかしら」

「おいでよ。そしてね、もしお友達にシュタイン夫人への手紙っていうのを持ってる人があったらちょっと借りて来ておくれ」

 宏子は、よく透る甲高い声を廊下に響かせながらききかえした。

「なあに? シュタインて――ゲーテの何か?」

「そうだろう。――じゃ、待っているからね。さよなら」

 瑛子はいろいろ文学の本を読むのである。宏子はシュタイン夫人への手紙というような本はどこでも見た覚えがなかったし、友達が持っているとも思えなかった。宏子はその足で柿内の部屋へ外泊許可を貰いに入った。