University of Virginia Library

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 温室は床が煉瓦で、左右には、その中でこまかい芽のふき出している培養土の棚がある。順二郎は古い三脚をその煉瓦の通路のところへ持ちこんで休んでいた。この三脚へ腰をかけて、去年の秋姉の宏子が、高校へ入学した祝に温室一つ貰うなんてと非難めいて云った。その三脚であり、その温室である。

 きのうから、二月という季節に稀なひどい南風であった。庭の敷石がびっしょり濡れて、嶮しい空を暗い雲が叢立って北へ北へと飛んでいる。アンテナを張っている線のガイシが、暗澹として凄く美しいその空の色との対照で油絵具の白をぬたくって描いたように異常に目立っている。

 さっきから温室の前に立った順二郎が仰向いて眺めているのは、この荒天に、風にさからい、流されつつ舞っている一羽の鳶である。灰色の雲の走る中空で鳶は或る時は一枚の薄い板片のように見えた。それが或る角度へ変ると真黒に翼の形や、躯の形が浮立って見える。ずっと南の方の空にもう一羽翔んでいた。それはもっと強情に正面から風にさからっていて、暫く空の同じ点にやっと浮いていたと思うと、そのまま垂直に空の高みまで舞い上った。そして、見えなくなってしまった。そっちの空にサイカチの裸の梢が揺れていて、風は益々迅く雲を飛ばしている。荒れている早春の自然の風景の中には、順二郎の心に名状の出来ない喜悦と苦悩の混りあった感動を与える力が漲っていた。鳶が忽然として舞いあがってしまった。その後に雲ばかり走っている空の寂しさにさえ、彼の感情を牽きつけて陶酔させるようなものがあるのである。

 絣の筒っぽに黒メリンスの兵児帯を巻きつけている順二郎は、温室の床の三脚に腰をおろし嵐の音に耳を傾けた。風の音は順二郎の心の中にもある。自然の嵐は威厳をもって圧倒的に正々堂々と、順二郎の内部の旋風はやや臆病に、逡巡をもって、しかも避け難い力に押されて、互に響き合い、ひきよせ合っているようだ。その年の順二郎と宏子の短い正月休暇は奇妙な工合に終った。或る晩、温室用の石炭の話が出た。台所の横にある炭小舎からいちいち運ぶのは面倒くさいから、温室の横へトタンのさしかけを作ろうと順二郎が云い出したのであった。

「じゃ大川へ電話をかけて人足でもよこさせなきゃなるまい?」瑛子が云った。

「いいえ。僕自分でやる。何でもないもん。――それに――僕温室のことではなるたけお金つかわないことにしたんだ」

 順二郎の節倹なことは家じゅうに有名であった。植物の種を植木会社からとりよせるにしても二つ三つカタログを照らし合わせて、 抜萃 ばっすい をつくって、瑛子に書きつけを示し、これが一番いいから幾ら幾らと二円三円の金でも出して貰う。順二郎のは、しわいのではなくて、気質から来る周密なやりかたなのであった。そのときも瑛子は愛情と満足とを面に湛えて、息子を眺めた。

「そりゃ結構だけれど――」

 不図、疑問を感じたらしく、

「でも何故――何か特別にそう思うわけがあるのかい」

 そして、ふざけて、

「何か野心があるんじゃないのかい、こわい、こわい」

と云った。

「大丈夫よ母様。僕、何にも欲しがりゃしないんだから――温室だって僕考えなしでこしらえて貰ったけど、本当はこしらえない方が正しかったのかもしれないんだし」

 順二郎が余り真面目にそう云ったので、瑛子の警戒心が目醒めた。

「誰かがそんなこと云ったのかい?」

「姉ちゃんといつか話した。そして僕、姉ちゃんの云うことが本当だと思った。――でも、折角こしらえて頂いたんだから僕出来るだけ無駄づかいしないようにして使うよ」

 瑛子は、我知らず坐蒲団の上に坐り直して、羽織の袖口から袖口へと腕をさし交しにして暫く黙って考えていたが、やがて呼鈴を押した。

「宏子さんを呼んでおいで」

 風呂から上ったばかりだった宏子が、珍しく元禄袖の飛絣を着て、羽織の紐を結びながら、

「なアに」

と入って来た。

「まあちょっとお坐り」

 瑛子は、宏子を残酷だと云って攻めて、仕舞いには涙をこぼして怒った。

「この順二郎ってひとが、ほかに何か無駄なことでもしているんならともかく、花をつくるしか楽しみのない人じゃないか。それだのによくもお前は姉としてたった一つの弟のよろこびに毒を注げる! 私は順二郎を守るよ! 何処までもこの純なひとを母として守って見せる!」

 宏子は大変当惑した。二人きりになったとき、宏子は真心からの心配を弟を見守る目にあらわして云った。

「ね順ちゃん、あなたしっかりしなくちゃ駄目よ。純だ純だって――本当に何だか心配だわ」

 順二郎は、柔毛でうっすり黒い上唇と下唇とをキッと結び合わせて、宏子の云うことをきいていたが、

「僕、みんなの云うこと僕として考えて聞いているんだから心配しないで」

と云った。

「そりゃそうだわね、順ちゃんは軽薄じゃないわ。だけど……」

 この休みの間に、宏子は弟と自分とのために学課以外の勉強の計画を立てて来ていた。そして、二人でふだん順二郎の机の周囲にはない雑誌や本を少しずつ読んだり、そのことについて喋ったりしたのであったが、啓蒙を目的に編輯されている一つの雑誌の表紙を凝っと眺めていて、順二郎が、

「僕、こういう絵、わからないなあ」

と云った。それは赤い大きいドタ靴が、ビール樽のような恰好のシルクハットに金鎖の髭男を踏まえようとしている絵であった。

 宏子はすこし照れた表情で黙っていた。芸術品としての意味から順二郎が云っているのかと思った。そうだとすれば、画材は素朴にあつかわれていることを宏子も認めざるを得なかったから。しかし順二郎の意味は別のところにあった。

「僕、こういう気持がわからない。何故残酷なことをこっちからもしなきゃならないのか、そこがわからない。だって理論は人間の社会に正しいことをもって来ようとしているのに、何故そのために旧い悪いことをまたやらなけりゃならないんだろう。僕実に疑問だ」

 弟の意味がはっきりして来るにつれ、宏子は、困ったような愕いたような目をだんだんに見開いて、

「だって順ちゃん」

と呻いた。

「だってさ、順ちゃん、右の頬っぺたをぶたれれば、左も、はいって出すと思える?」

「ちがう。僕だってきっとぶち返すんだと思う。だけど、僕には僕がそうしていいのかどうかが分らない。殴るってことがわるいならどっちが先だって後だって、わるいにきまってるのに」

 順二郎は苦痛をもって云った。

「人間の理窟って、考え出されたようなところがある。絶対じゃないんだもの」

「――変だわ、順ちゃんの考え方、変だわ。目的だの意味だのがちがえばちがうじゃないの」

 宏子は、彼女の及ぶ限り現実的な例で、順二郎のそういう実際の生活関係から物事を抽象してしまって考える傾向からひっぱり出そうとした。順二郎は従順であるが、宏子は愕然とさせる執拗さをもっている。今また彼が僕として考えて云々というのをきくと、再びその危険が宏子にひしひしと感じられるのであった。

「ね、順ちゃん、あなた、誰かしっかりした友達ないの? 何でも話せる友達ってないの? そういう人がいると思うなあ」

 宏子がそう云っているとき、女中が来て、順二郎を階下へよんだ。思ったより手間がかかって書斎へ戻って来た。

「何だったの?」

「母様が、姉ちゃんと何話してるって――」

「…………」

 宏子はいやな顔をした。

「姉ちゃんと話したこと、みんな聞かせろって……」

「そいであなた何て云ったの?」

「僕たち、正しいこと話してるんだから、誰にかくす必要もないと思う」

 宏子はやや暫く黙っていた。

「とにかく順ちゃんは一風あるわ」

 順二郎がほんとの友達というものを持っていないように思える、その原因もこんなところと関係がありそうにも思える。

 宏子は、次の日から時間をきめて本をよんでいたのをやめ、休暇が終る前の日、寮へかえってしまった。

 温室の中で、三脚にかけて風の音をきいている順二郎の心に、憤ったようにして自分を見つめていた姉の顔が泛んだ。それと重り合うようにして、小田だの、山瀬、桂という同級の連中の嘲弄的な声や目や肩つきが泛んだ。上唇に薄すり柔毛のかげがある順二郎の丸い顔は心持蒼ざめた。四日ばかり前、昼休みの丁度前学生集会所へ撒かれた。順二郎も拾った。読み始めていたところへ、

「拾ったものは、こっちへ出したまえ! 持ってちゃいかん。出した、出した!」

  あんぺ 渾名 あだな のある体操教師が怒鳴りながら駆けつけて来た。

「おい、出した!」

 順二郎は、素直に手にもっていたものをあんぺに渡した。傍にいてそれを見ていた小田が、腰につけている手拭をやけにパッとぬきながら、

「おい加賀山、君の公明正大論もいいかげんにしろよ」

 いかにも軽蔑したように云った。きちんと制服に靴をつけ、手拭を腰に下げる趣味も持っていない順二郎は、態度は崩さぬながら顔を赧くした。まわりにいた学生たちも持っていた筈だったのに、あんぺに渡したのは順二郎一人なのであった。

 順二郎は、学校ではこの頃次第に一種の変り者と見られるようになりかかって、幾分それを自覚してもいた。山瀬などは、

「僕は加賀山のいるところで議論するのはいやだよ」

と、順二郎に向って率直に非難した。

「君はいいかげんのところへ行くと、いつも対立をぼやかす折衷論ばっかり出すんだもの、発展がありゃしないや」

 シクラメンの細かい発芽の上にとどまっている順二郎の動かない視線のなかには孤独な、思い沈んだ表情があった。順二郎から見れば、まわりの人々はみんな母だって姉だって友達たちも、何かシーソーの両端にのって、上ったり下ったりしているように思えた。結局は五分五分だのに、賛成したり諍ったりしているように思えた。そういう騒々しい、そして不確定に思える波立ちのどっかの底に、人間全体をひっぱって行く絶対な真理というものは無いだろうか。正義を愛し、平和を愛すのが人間の本性だとすれば、どうしてそれを純粋に愛と正義とによってだけこの世にもたらす真理や手段がないのだろうか。どっかにある筈なのに、人間の探求心がそこまで真剣につきつめられていないのではないだろうか。順二郎の懐疑は社会の矛盾や対立の関係に対する理解が深まるにつれて、反動的にこの点で深まって来るのであった。利害の対立で社会が苦しんでいるならば、更にそれを強調して見たところで、どうして心の解決があるのだろう、と順二郎は、歴史を後がえりさせて抽象の世界へ迷い込むのであった。この模糊として光明のない境地へ歩み込んでしまうと友達は勿論彼にとって親密な姉の宏子さえも、順二郎にとっては別の世界で自分の道を歩いて行く人としか思えないのであった。

  純なわが息子の、ふっくりとした若い面ざしの上に、このような凄まじい色が漲ることを、ただの一度だって瑛子は思い及んでいなかったであろう。暗鬱な、内部圧迫が高度に達した容貌で、順二郎は暫く季節はずれの南風に吹きあおられている庭の竹藪を眺めていた。

 部屋へ戻って、順二郎はきっちりと制服を着た。

「母様、僕ちょっと田沢さんところへ行って話して来る。よくって?」

 宏子は、彼に、順ちゃんあなた田沢さんの真似なんかしちゃ大変よ、と寮にかえる前の晩云った。田沢さんの血はひやっこい。順ちゃんの血は重くて、熱いんだもの。真似したら不幸になるだけよと云った。姉が本気にそう云った顔をも順二郎は今はっきり思い出すことが出来るのであったが彼の見かたはまた別であった。田沢がどういう性格であろうと、自分より学識の点では豊富なのだから、その学識の面でつき合うことは正しいと、ここでも亦抽象して順二郎は自分に公平だと信じられる行動の理窟を立てているのである。

 順二郎は帝大の横門から入って、田沢の研究室の方へ風や砂塵と闘いながら歩いて行った。