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 やっと客間のドアのあく音がして、瑛子がこっちの部屋へ出て来た。上気した頬の色で、テーブルのところへ突立ったままでいた順二郎と宏子のわきを無言で通り、黙ったまま上座のきまりの席に座った。

 そういう母に宏子も順二郎も何も云えなかった。それぞれ坐り、ちぐはぐな夕飯がはじまった。瑛子は箸をとると、型どおりお椀のふたをとったり、野菜を口へ運んだりした。けれどもその様子はただそうやってたべているというだけで、全く心は娘や息子のところに来ていないことが感じられる。宏子は胸がいっぱいで味も分らなかった。

 田沢は帰らないで、別な膳が一つだけ彼のために客間の方へ運ばれている。そんなにしてまで、一家の空気の中に彼の存在が主張される不自然な苦痛な緊張が、妙にごたごたした前後のいきさつの裡にあるのであった。

 一言も口を利く者もなくてこっちの食事が、落付かない雰囲気の中でどうやら終った。すると、瑛子はすぐ立ちかかって、

「お客間へお茶がいるよ」

と女中に云ったなり、息子と娘に言葉をかけず着物の衿元をつくろいながら、化粧を直すために洗面所の方へ行ってしまった。

 白堊の天井から頭の上に煌々と百燭光が輝いている。一輪插し、銀の楊枝箱、鋏、装飾用の寒暖計などがのっている飾盆を挾んで、再び順二郎と宏子とはテーブルのところにのこされた。隈ない光を浴びている順二郎のふっくりとした柔和な顔は幾分蒼ざめて、鼻の下に和毛の微かな陰翳はごみっぽいような疲れたような感じに見える。彼はさっきからひとことも云わず、ふだんより余計瞬きをするような表情で姉を見ているのであった。しばらくして、

「順ちゃん、これからどうする?」

と、宏子がやっとのことで出したようなあたりまえの声の調子できいた。

「僕?」

 嵩の高い膝をすこし揺るようにして、順二郎はその独特なふくらみで顔に表情を与えている上瞼の下から素直に姉をみた。

「僕はドイツ語の文典をやる」

「――順ちゃん。一円ばかりもってる?」

「うん、あると思う」

「かしてね。あとで母様に云って返してもらって。――いい?」

「ああ。今すぐ?」

「うん」

 弟から金をうけとると、宏子は玄関へ出て靴をはいた。

「すっかり帰っちゃうの?」

 うしろに立って姉が靴をはくのを見ていた順二郎がきいた。

「ええ。――だって……。平気だろう?」

「僕はいいさ」

 宏子は、お茶の水駅に向って本郷通りの夜店の出ていない側をよって歩いて行った。土曜日の晩らしく、むこう側の明るい書店に白線入りの制帽をかぶった数人の学生の姿が見えたり露店の花屋の前でむき出しの電燈に顔を近々と照らされながら並んで佇んで何か云っている夫婦づれの姿も見える。宏子は合外套のポケットへ手をさしこんで、自分にかかわりのない遠いところにある風景でも眺めるような眼付で、折々賑やかな方を見ながら歩いていた。苦しい気持は複雑な思い出で過去へまで拡がった。苦しい、口では説明しきれないような心持の絡み合いを、宏子は初めて母との間に経験するのではなかった。

 宏子が女学校の二年ばかりの時であった。父親の泰造が、滅多にないことだのに家で何か特別な報告の製作をしなければならないことになった。その仕事のために富岡という三十前後の技術家が通って来ることになった。宏子が学校からかえって来る頃は丁度富岡も休む時間で、彼には紅茶とトウストが出された。そして、初めは宏子が白いブラウズの上からつった紺サージのスカアトをひろげて、とんび足に坐って自分の茶碗をかきまわしている前で、女中がそれらのものを盆にのせて、仕事場になっていた客間へ運んで行ったが、いつか、富岡も食堂へよばれて一緒に休むようになった。子供は絶対に入ってはいけないことになっていた仕事場へ、宏子もたまに行って見るようになり、数ヵ月して、その仕事が終った時は、土曜日の夜というと加賀山の家へ富岡が現れるしきたりになった。

 泰造はいつも多忙で、かえりが十二時過ることはその頃も今も同じであった。順二郎は小さかったから、九時すぎの客間で喋っているのは富岡と瑛子と宵っぱりな宏子だけであった。濃茶色の布張りのソファにかけて、瑛子はその時も上気して、 肌理 きめ の濃やかさの一層匂うように美しい風で喋っていた。時々亢奮したように白足袋の爪先をせわしく小刻みに動かしたり、あなたのおっしゃることには絶対不賛成です、と云うような切り口上を挾んだりして。――

 そのころの宏子はもとより母と富岡とが或る時はひどく抽象的な云いまわしで、礼儀をみださず交わしている話の内容には入って行けないのであったが、客間の中に徐々にかもし出されて、夜が更けるにつれて益々濃くなって行く、暖いような、燿くような、何かがかくされてでもいるような雰囲気に、宏子は早熟に敏感に全身でひきこまれた。何でもない。だが、何だかちがう。十五の宏子の心をひッぱって、わくわくさせるものがある。父親と話している時の母とは違う空気、父と母と富岡とが三人で喋っているときにもない何かが、父のいない土曜日の晩の富岡と母との話しの間には漂った。宏子の感覚はそれに刺戟されるのであった。

 そういう晩、その頃生きていた一番末の四つの弟が泣き出す。泣く声が客間まで聴えて来ると、宏子はいつも絶望的にがっかりした。瑛子は、

「おや、敬ちゃんが泣いているよ、宏子、ちょっと」

と云った。きまって、そうであった。宏子は客間を出て、二階の両親の寝室へ行って豆電燈がともっている薄暗い中で、目ざとい小さい弟をなだめて、眠るまで子守唄をうたっていてやらなければならない。宏子は、客間へとんでゆきたい自分の心をやっと押えながら、ああちゃーんと泣き立てる弟をおさえつけ、そんなに泣くと狼が来るわよと おど した。 オカミ いやーんと弟は泣く。弟が眠るまで、母の蒲団の上に横になってついている宏子の耳に、微かに客間から母と富岡の笑い声が響いて来る。その笑い声は楽しそうであった。いかにも活気が溢れていて、宏子はどきどきする心臓が口からとび出そうに切なかった。涙も出ない。やけつくように体じゅう苦しかった。

 敬が泣かない晩はまた別な忘られない思いがあった。十一時すぎて、もうやがて泰造が程なく帰って来るという刻限、それは丁度いつも客間の空気がその魅力の絶頂をなす頃であったが、瑛子はよく、そのときを待っていたように、

「お茶でも一ついれましょう」

と云った。

「さめてしまっているわね。宏ちゃんちょっとあつくしておいで」

 客間の裏の板の間に、お茶番のための瓦斯コンロがあった。宏子はそこの板の間に坐りこんで湯わかしを瓦斯にかけた。そこは電燈がつかなくて暗かった。闇の中で宏子の柔かい顎から頬っぺたへかけて瓦斯の焔の色がうつり、そのあまりで四辺が狭くぼーと照らし出されている。客間からの話声をききながら湯がやっとたぎり出して来てだんだん煮え立つ音がしずまって行き、 まさ にふきこぼれようとするところで瓦斯を消す迄の我知らず固唾をのんでいる間の心持。――

 余りこんでいない省線電車に腰かけて、郊外の夜を疾走する車体の動揺につれ、吊皮が並んで規則正しく白い環をあっちへこっちへとゆすられているのを眺めていた宏子の若い真面目で清潔な顔の上に、心の深いところから湧いて、音になって外へはきこえない呻きのような反抗の表情が通りすぎた。

 そこの座敷には綺麗な桜んぼを盛った硝子の鉢があった。庭に桜の大木があって、その青葉が陽に透けているのが窓から眺められた。母の使いを云いつけられた宏子が富岡の家へ来ていた。富岡はあぐらをかいた膝の中に宏子を抱いて、短いおかっぱの髪と頬っぺたとへ一どきに自分の髭を剃ってある顔を押しつけた。そして、耳のなかへ、

「宏ちゃん、僕が好き? 僕を愛している?」

と囁いた。宏子はこっくりと合点をした。「じゃ、その証拠をくれる?」宏子はこくりと合点した。

 それからよほど経った或る日の午後、宏子が学校からの帰り、家へ曲る 蕎麦 そば 屋の角を入ると、むこうから富岡が同じ道をこっちへ向ってやって来た。宏子には遠くからそれが分ったが、地べたを向いて変にいそぎ足で来る富岡は殆どぶつかりそうに近づく迄、宏子に気づかなかった。本束の下にメリンス風呂敷の裁縫包を抱えている宏子は、立ち止りながら子供らしい調子で、

「何いそいでいるの、家へ来たの?」

と云った。地べたを見て歩いて来た富岡の顔色は宏子が見ても病気のように蒼くて、眼が血走った様子をしている。富岡は宏子もおちおち目に入れていられない風で、曖昧な意味のはっきりしない言葉をつぶやくと、はっきり宏子をよけるようにしてまた急ぎ足で行ってしまった。何事かがあった。そう感じられた。

 家へ入ってみると、客間のドアがあけっぱなしになっていた。そして、瑛子がソファの前にこちら向きに立っている。両手を後に組んで、白い顔をしゃんとこっちへ向けて、怒った気の たか ぶりが現れたままの瞬きをして、入って行く宏子を見た。宏子は、

「どうしたの」

と云った。

「富岡って男は――実に下らない!」

 瑛子は、一人前の大人に向って云うように率直な大胆な言葉で娘に云った。

「今帰ったばかりなんだが――お金がどうしても二百円とかいるんだとさ。奥さん、何とかして下されば一生何でもあなたの云うとおりになりますって、跪いて、ひとの手にキッスをしたりして、馬鹿馬鹿しい!」

 早口にそう云いながら、瑛子は後にまわしている自分の手を一層うしろへ引っぱるように肩を動かした。

「何て男だろう、金を出してくれれば一生奴隷になるなんて。あなたが僕に特別な好意をよせていて下さることはよく知っている、だってさ! 私は、きっぱりそう云ってやった。あなたの云うことをきいたら、よしんばあるお金でも出したくなくなりました、って。――人を馬鹿にしている!」

 宏子には漠然とではあるが、富岡が母へは娘という態度でいたのが判った。さっき往来で逢ったときの血走ったようになっていた富岡の眼付や宏子から一歩どいて歩き出した時の身ごなしなどが、何とも云えず厭わしい気持で思い出された。宏子は、堂々と怒っている恰幅のよい母の前に立って、瞬きもしないで富岡に対する罵倒をきき終ると、唇をひきしめた顔付でおかっぱを振りさばき、客間を出て自分の部屋に入った。

 それから後は、土曜の晩も、再び冷静な平凡な夜々に戻った。

 秋になってからの或る夕方のことであった。その頃から一層沢山本を読むようになった宏子が、おそくまで図書館にいて、街燈が点きはじめた時分、帰って来た。池の端に向って坂になった歩き難い通りの端を、いそぎもしない歩調で歩いていると、うしろから静かに来た一台の自動車が少し宏子を追い抜いたところで、スーと左側へよって止った。車は宏子の鼻の先に止ったと同じだったので、思わず首をあげると、車の後窓から宏子の方を見ているのは泰造であった。泰造は、自分を認めた宏子に向って人指しゆびをちょっと挙げる合図をすると一緒に、短いいつもする口笛を鳴らした。すぐ無帽のまま腰をかがめて車を出ながら、運転手に、ぶらぶら歩いて帰るから行ってよろしい、と云った。

「どうしましたね?」

「今日はお父様珍しいのね」

「ああ」

 泰造は宏子の片方の腕をとって自身は道の外側を暫くだまって歩いていたが、やがて、

「丁度いいところで逢ったから話すがね」

 おだやかな、圧しつけるところのない、寧ろ心配りで愁わしげな調子さえ響く声で云った。

「実は昨日、或る人をよこして富岡がお前へ結婚を申込んだ。富岡は、お前にもその心持がある事実をもっていると云っているそうだが――」

 セイラア服の宏子は、黙りこくって頑固に自分の前を見つめて歩いた。泰造は、軽い咳のようなものをして続けた。

わし は断ったよ。――あれはよくない。儂は来た男に、はっきり断った。いいだろう?」

 宏子は髪の根に汗のにじみ出すような心地で、

「ええ」

と云った。

「おっかさんには黙っていよう、また亢奮するといけないからね」

 泰造は片手で執っている宏子の腕のところを、もう一つの自分の手のひらで軽くたたいた。

「心配しないでいいよ。お前はいい娘だ。儂はお前を信じているよ。お前にはまだよく分るまいが、人間は自分のねうちというものを知らなけりゃいけない。そしてそれを大切にすることを知っていなけりゃいけない。いいかい?」

 それからは黙ったまま父娘が夕靄のかかりはじめた街路を家の方へ向ってゆっくり歩いた。もう家の門が見えるところまで来たとき、泰造が、もし煙草をふかしてでもいたなら、その吸殼をつよく地べたへたたきつける時の調子で

「あいつは、わざわざ第三者を入れてそういう話を持って来た。――」

と云った。

 その時から六年経った。宏子は今これらのことを複雑な感情で思い出すのである。

 学校前のバスの停留所のところは、片側が武蔵野らしい雑木林で、 くぬぎ の樹にまじって立てられている柱から燭光の弱い街燈が、白く埃をかぶった道端の笹を照らしている。厚く敷かれたばかりで、まだ踏みかためられていない門内の砂利が、宏子の靴の下でくずれて一足毎にザック、ザックと大きい音を立てる。門衛が、眼鏡越しの上目で、瞬間の明るみの中を横切って行った宏子の姿を見さだめた。

 同室の三輪は、外泊であった。宏子は、帽子を寝台の上に放り出すようにぬいで、先ず靴をはきかえた。それから、寝間着に着かえて、洗面所ですっかり顔と手とを洗った。机の前の椅子をずらして腰かけた。教科書が青銅のピイタア・パンの本立てで挾まれた背をこちらへ向けて机の上に並んでいる。視線をそれ等の赤や茶色の背表紙にやすめながら、宏子は教科書への興味は一向に動かされず、順二郎は今頃、何をしているだろう、としきりにそれが考えられた。順二郎の、どんなに明るい燈に照らされても冴えないようだった今夜の少年ぽい顔。母の異様な美しい程の集注、母であって母でないような心の そら なあの様子。――娘である宏子の感情は苦しまずにいられないものが漲っているのに、その擾乱の中には軽蔑をひき起すようなくずれたものは感じられないのであった。若い宏子たちと共通なような生一本なものが瑛子のとり乱した感情を貫いていたので、却って宏子の苦しさや動揺は切実なのであった。

 宏子はなお暫くそのままにいたが、やがて立ち上って寝台のところへゆき、壁際の方の掛物と敷蒲団とをめくって、下から一冊の小型な大して厚くない、ハトロン紙の覆いのかかった社会科学思想の発展の歴史を書いた本をとり出した。

 やっと読書に身がいりだした時、コンクリートの廊下にスー、スーと草履をひきずって来る跫音がきこえた。宏子は手をのばして、机の上のスタンドを消した。鍵をかけることの出来ないドアがノックなしにすこし外から開けられる気配がした。

「あら加賀山さん、おきていらしたんじゃなかったんですの」

という、寄宿舎の看護婦の沖のひきのばしたような声がした。

「寝ちゃったわ。――御用?」

「三輪さん外泊でしょう。お淋しかないかと思って……」

 宏子はむっと黙って、物音を立てずに沖の去るのを待っていた。お淋しかないかと思って! 寄宿では一応学生の感情をはばかって、舎監が自分から学生の部屋を歩き廻るようなことはしなかった。その実際上の代りを看護婦の沖がつとめた。彼女は中途半端な自分の立場をいいことにして、誰の部屋へでも時をかまわず、口実にならない口実で入りこんだ。皆に 顰蹙 ひんしゅく され切っていながら、鈍感とも鉄面皮とも判断つかない笑顔で金とプラチナの歯を光らしながら、沖は依然として部屋部屋を歩いているのであった。