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 順二郎に金をかりて、宏子が黙って寄宿舎へ帰ってしまった夜からは二週間たっていた。

 動いていた学校の気分に一段落がついたことと、さっきの母の声にふくまれていたやさしい調子とで、久しぶりに敷石を踏んで我家の門を入ってゆく宏子の心持には、自分の靴音も何か新しく聞かれるような感じがあるのであった。

 部屋の重い扉をあけると、瑛子が、

「ああ、やっと来た」

 遠くからきいた声に響いていた暖かさのままにほぐれた笑顔で、いつもの正面の場処から娘を迎えた。

「ずいぶん、かかるんだねえ」

「すぐ出たのよ、あれから」

 順二郎が、傍の腰かけのところにいた。宏子は、この間の晩、自分たち姉弟が味った気持の記憶の上で、順二郎に向って首をうなずけながらちょっと表情をした。順二郎は、上瞼のふっくりした落付いた顔の表情を目につかないくらいかえたが、さりげなく、

「今そと風吹いてる?」

ときいた。

「少し吹いてるわ。なあぜ?」

「僕温室の窓をすこしあけすぎているかもしれないんだ」

 部屋には、今夜の瑛子の身のまわりにあると同じ平明な気分が湛えられている。宏子は母の横のところに坐って、テーブルの上へ両腕を組み合わせた上へ自分の顎をのっけた。

「何だろう、この人ったら。犬っころ見たいに――」

 瑛子はいかにも大きい娘を話相手としている調子で高輪の井上の悶着の話をしたりした。

「行って見ると、高山がいるっきりで、麗子ちゃんが台所をしている有様なんですもの、お話にならないよ、全く」

 元大臣をしていた人の細君が天理教に凝って、同級生であった瑛子を勧誘しに来たそうである。

「ああいう迷信がああいう階級へ入りこんでいるんだからねえ。――ラスプーチンだよ」

 真面目に慨歎してそう云ったので、宏子も順二郎も笑い出した。瑛子は父親が専門は文学であったが井上円了の心霊術に反対して立ち会い演説をやったという話をした。

「私は宗教なんか信じないね」

 瑛子は断言するように云ったが、その調子にはしんから冷静な性格でそれを信じないというには余り熱がありすぎて、却って宏子には一種の不安が感じられるのであった。

 そんな話をしているうちに、宏子は、電話口でさっき云われた本のことを思い出した。

「ああ、あのシュタイン夫人への手紙って何なの? そんな本があるの?」

「あるんじゃないのかえ?」

と逆に瑛子がききかえした。

「私、知らないなあ。ゲーテの伝記や何かのほかにあるのかしら――順ちゃん、知ってる?」

「僕しらないんだ」

「そりゃそうだわね、フランス語なんだから」

 そう云うと同時に、宏子は、母にそんなドイツの本のことを告げた人物が誰であるか判った気がした。田沢という名と結びつけられるとゲーテの有名な愛人であったシュタイン夫人へやった恋愛の書簡を集めたものに違いない本そのものが、何となくいや味っぽい光に照らし出されて来て、宏子は腹立たしいような気持になって来た。

「その中に、ゲーテが自分はカルヴィン派の聖餐で満足しなければならないって云っているんだって。――カルヴィン派って……どういうのかしらね」

「どうせキリスト教だわよ。母様は今も宗教なんか信じないっておっしゃるんだから、そんな聖餐なんかどうだっていいじゃないの」

 喉の中へかたまりがこみ上げて来るような感情で宏子は意識した意地わるさで云ったのであったが、瑛子は、普通でない娘のその調子に気づかない程自分の話題に気をとられていて、

「父様は、こういう話がまるでお分りにならないもんだから、田沢さんと話しているのがお気に入らないんだよ」

と親しみの口調でゆっくり云った。宏子は何となし唇を軽くかんだ。

「話しかただっていろいろあると思うわ」

「若い人ってものは率直だからね。……父様の分らない話でも何でもかまわずその場ではじめるもんだから」

 宏子は、

「あの人、率直なもんですか!」

 覚えず父親をかばって、田沢の顔を手でつきのけるように遮った。

「あの人は、父様が専門違いでそういう話には仲間に入れないのを知っているくせに、わざとやるのよ」

「千鶴子さんも、文学的な話の相手にはなれないんだってさ。――どっかに写真があったっけ」

 瑛子は手箱をひっぱり出して、封筒やハガキの間から、むき出しで入っていた小さい素人写真を出した。自分でちょっと眺めた後、唇の上に微かな軽蔑に似た表情を現しながら宏子の前によこした。手にはとらず、テーブルの上へ斜かいにおかれたままの写真へ宏子は暗い眼差を落した。

 夏草の中に佇んでいる田沢と細君とが撮っていた。背広を着てカンカン帽をかぶっている田沢の眼鏡の隅がキラリと日光に反射しているところが、宏子が好きになれないその人物の性格を表現しているようで不快であった。麻か何からしい少しだぶっとした単衣を着た小柄な、二十をほんのすこし出たばかり位の瘠せぎすな細君が、重心を片方の脚において、並んで立っていた。口許や額は淋しいひとのようだが、こもったような情熱が肩の落ちたその躯つき全体に溢れているのである。瑛子がわきから見ながら、

「貧弱なひとだねえ」

と云った。宏子はその言葉から残酷さを感じた。宏子は、やっぱり写真を手にとらないで、

「これ――誰がとったの」

「僕が田沢さんとこの裏でとってあげた」

「じゃ自分のとこへ置いときゃいいじゃないか」

 怒ってるような姉の声に順二郎は黙っている。

「――田沢さんたら、千鶴子さんに、お前と結婚さえしていなかったら奥さんと結婚したのになんて云うもんだから、この頃は田沢さんが出かけようとすると、泣いて格子に鍵をかけたりするんだってさ。――どうしてそんな夢中になれるんだろうね。私なんかとてもそんな気持にはなれないがねえ……」

 そう云っている瑛子の眼と声の艶とは、それ等の言葉を全く裏切って、熱っぽい興味と亢奮と、宏子が知りつくしている独特の成熟したエネルギッシュな光彩を放っているのである。それらの言葉と顔付との間には瑛子が自覚していない貪婪なものが潜められていて、宏子は思わず母の手の上に自分の手をおいて、

「ねえ、母様、母様も少しは小説を読んでいる かた なんだからね」

と、低い呻くような響で云った。

「そんな風に話すのおよしなさいよ、ね――何故嘘つくのよ!」

 瑛子は心外らしく顔付をかえて大きい声で云った。

「いつ私が嘘をつきました――嘘は大嫌だよ」

「だってそうじゃありませんか。そんな気持になれないなんて――母様が……」

 宏子は、弟がいるので意味深長な、鋭く悩みのこもった一瞥を母に与えた。

「私には云えないけど――現にそうじゃないの、自分でわかっていらっしゃる癖に。私にも母様のいろんな気持、わからなくはないのよ。そう世間並にだけ見てもいやしないわ。それだのに何故そうやって嘘をおっしゃるのよ。何故冷静ぶったりするのよ。そんなの偽善だわ――だから……」

 宏子は自分を抑えて沈黙した。宏子は田沢と母との 所謂 いわゆる 文学談そのものも、想像すれば、まざまざ同じ拵えものの偽善めいたものにしか思われないのであった。

「こんな暮しをしていて」

 宏子は室内を視線でぐるりと示した。

「社会的には体面も満足させる良人をもっていて、自分の気持に対してまで偽善的だったりしたら、あんまり通俗小説だわ」

 若くて青年ぽい良心の自覚やそれを譲るまいとする荒々しさから宏子は、溢れそうな涙を無理やりのみ込んだ猛烈さで、飛びかかるように云った。

「もし母様がそんなんなら、私、もう本当に、本当に、同情なんかしやしないから!」

 宏子は女の歴史的な苦しみの一つとして母がこのことで苦しむのならば、娘である自分も堪え、皆も堪えさせようと心をきめて見ているつもりであった。どうなるのか、どんな破局がおこるのか。そこには恐怖がある。それでも母は本心に従ってやったらいい。宏子は一生懸命で気力を集めてその考えに到達していた。だのに瑛子自身が、妙に体を ねじ くらしたような態度でいいかげんな風に喋るのを見ると、宏子は我慢がならない気がした。瑛子は瑛子で、自分の本心を素直に掴むことを知らず、同時に粗暴な形であらわされる娘の健全なものも分らず、ただ自尊心を傷けられたという憤怒を、偽善というような言葉の上に集中した。

「お前もこの頃はやりの物質論者だ」

 到るところで耳目に触れるようになって来ている唯物的という言葉を、瑛子は間違った内容にとりちがえて云った。

「大方私が不自由なく食べていられるのがいけないとでも云うんだろう。父様に食わして貰っているくせにと云うんだろう。この家を今日までにしたのが父様一人の力だとでも思っているんなら、念のために云っておくがね。大間違いだよ」

 思いやりと洞察とでこういう風に焦点がずって来たのを喰いとめて母を納得させ得るだけに宏子はあらゆる点で成長していなかった。いつしか地盤の移っていることは分っていても勢におされて母娘は、益々広汎な、根本的な問題に触れながら諍った。

 間で一二度温室を見に行ったきり順二郎はずっと傍で、自分からは一言も口を挾まず、母と姉との嶮しい問答をきいていた。宏子がやがて急に気づいたように、

「さあさあ、順ちゃん、もうお休み」

と、置時計の方をすかすようにしながら云った。

「あしたはまたドイツ語だろう」

 瑛子は、

「いいよ、いいよ。たまだもの、おきといで」

 愛情と押しつよさをもって裾をひき据えるようにとめた。

「順二郎だってもう子供じゃないんだから、よくどっちが正しいかきいといで」

 腰かけのところは灯のかげになっている。順二郎はふっくりした瞼の上を誰にも見咎められずかすかに赧らめた。