University of Virginia Library

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 表玄関の受附に、人影がなかった。

 朝子は、下駄箱へ自分の下駄を入れ、廊下を真直に歩き出した。その廊下はただ一条で、つき当りに外の景色が見えた。青草の茂ったこちら側の どて にある二本の太い桜の間に、水を隔てて古い石垣とその上に生えた松の樹とが歩き進むにつれ朝子の前にくっきりとして来る。草や石垣の上に九月末近い日光が照っているのが非常に秋らしい感じであった。そこから廊下を吹きぬける風がいかにも颯爽としているので、 ひと しお日光の中に秋を感じる、そんな気持だ。朝子は右手の、窓にまだ すだれ を下げてある一室に入った。

 ここも廊下と同じように白けた床の上に、大きな長 卓子 テーブル があった。書きかけの帯封が積んである場所に人はいず、がらんとした内で、たった一人矢崎が事務を執っていた。丸顔の、小造りな矢崎は、入って来た朝子を見ると別に頭を下げもせず、

「今日は――早いんですね」

と云った。

「ええ――」

 赤インクの瓶やゴム糊、硯箱、そんなものが置いてある机の上へ 袱紗 ふくさ 包みを置き、朝子は立ったまま、

「校正まだよこしませんですか」

と矢崎に訊いた。

「さあ……どうですか、伊田君が受取ってるかも知れませんよ」

 朝子は、ここで、機関雑誌の編輯をしているのであった。

 朝子は、落ついたなかにどこか派手な感じを与える縞の袂の先を帯留に挾んで、埋草に使う切抜きを拵え始めた。

 廊下の遠くから靴音を反響させて、伊田が戻って来た。朝子が来ているのを見て、彼は青年らしい顔を微かにあからめ、

「今日は」

といった。

「校正まだですか」

「来ません」

「使も」

「ええ」

 朝子は、隅にある電話の前へ立ち、印刷所へ催促した。

 再び机へ戻り、朝子は切抜きをつづけ、伊田は、厚く重ねた帯封の紙へ宛名を書き出した。

 これは午後四時までの仕事で、それから後の伊田は、N大学の社会科の学生なのであった。

 黒毛繻子の袋を袖口にはめ、筆記でもするように首を曲げて万年筆を動かしていた伊田は、やがて、

「ああ」

 顔を擡げ、矢崎に向って尋ねた。

「先日断って来た分、こんなかから抜いてあるんでしょうか」

 むっくりした片手で小さい 算盤 そろばん の端を押え、 ふく らんだ事務服の胸を顎で押えるようにし、何か勘定している矢崎は、聞えないのか返事をしなかった。伊田は暫く待っていたが、肩を聳やかし、また書き出した。

 朝子は、新聞に西洋鋏を入れながら、声を出さず苦笑いした。笑われて、伊田は、耳の後をかいた。二日ばかり前、或る対校野球試合が外苑グランドであった。伊田は、午後から帯封書きをすてて出かけて行った。自分にそんな興味も活気もなく、毎日九時から四時までここに坐って日を過す外、暮しようのない矢崎は、それでも他の者がそんなことをすると、甚だ不機嫌になった。彼は、それを根にもって一日でも二日でも、口を利かなかった。

「どの位断って来ました」

 朝子が伊田に訊いた。

「今度はそんなに沢山じゃありません。五十位なもんでしょう」

「去年からでは、でも千ばかり減りましたね。……田舎のひとだって、この頃は婦人雑誌どんどんとるんだから、断るのが自然ですよ。比べて見れば、誰だってほかの雑誌がやすくって面白いと思うんだもの」

 一円本の話が出て、それに矢崎も加わった。

「娘がやかましく云うんで、小学生全集をとっているんですが、一体あんなものはどの位儲かるもんでしょうな……」

「社でも何か一つとってくれないかな、そうすると僕たち助かっちゃうんだが」

「矢崎さん、いかが? それ位のこと出来ませんか」

「さあ」

 伊田が、

「金欠か」

と呟いた。

 いきなり朝子が、

「ああ、矢崎さん、お引越し、どうなりました」

と尋ねた。

「いよいよ渋谷ですか」

「ええ。今月一杯で 五月蠅 うるさ いから行っちゃおうと思ったんですが……来月中には移ります」

「須田さんその後どうしていらっしゃいます?」

 矢崎は、厭な顔をして、

「この頃出かけないから」

と低く答えた。

「ここ めることは、もう決ったんですか」

「決ったでしょう」

 黙っていたが朝子の心には義憤的な感情があった。

 須田真吉は、編輯部の広告取りをしていた男で、一風変った人物であった。頭の一部が欠けているのか過剰なのか、度外れなところがあって、或る時は写真に、或る時は蓄音器に、最近はラジオに夢中に凝った。ラジオのためには金銭を惜しむことを知らなかった。種々道具をとり集めラウド・スピイカアに趣味の悪い薄絹の覆いをかけたり、それをビイズ細工のとかえて見たり、朝子に会うと、

「一度是非聴きにいらっしゃい、全くそこいら辺のガアガアの雑音の入るのとは訳が違うんです――もう二三日すると、京城も入るようにします、朝鮮語ってえものは一寸いいですね」

 嬉しげに話した。実際は、然し決して組立てに成功出来る須田ではなかった。成功しないと材料のせいにして、それが和製なら舶来に代える。舶来なら和製を買い、そんなことの度重なるうちに、彼が代表で保管していた町会の金を私消してしまった。千円近い金であった。彼はこのほかに雑誌の広告代にも費いこみがあった。死ぬ覚悟で、須田は家出をした。然し追手に無事に引戻された。須田と姻戚で、須田の紹介で雑誌部の会計となっていた矢崎は、後々の迷惑を恐れ、事が公になりもしないうち、庶務部長の諸戸へ注進した。須田のために弁護の労をとるより寧ろ自分を庇って、話しようでは示談にでもしてもらえた須田を免職させる方へ働いたのであった。須田の好人物を知っていた同僚は、矢崎の態度を非難した。その非難は、親類の間からもあるらしく、矢崎は近頃、『親類なんてものは五月蠅くていけない』と云い出した。俄に、細君の実家の近くへ家を見付けた話を、朝子も程なく聞いたのであった。

 報知新聞は漢字を制限し、ところどころ、切抜きの中にも、かん布摩さつ、機能こう進、昇コウなどと読み難い綴りがある。朝子は赤インクでそれをなおしながら、

「何時?」と訊いた。

「一時半です」

「磯田、何してるんだろう」

 朝子は、電話口へ、

「嘉造さんに一寸どうぞ」

と印刷所の若主人を呼び出した。彼女のふっくりした、勝気らしい張りのある声が、簾越しに秋風の通る殺風景な室に響いた。

「もしもし、十一時半の約束だのにまだ一台も来ないんですが、どうしたんでしょう、え? ああそう。でももう二十三日ですよ。三十分ばかりしたらそちらへ行きますから、じゃ直ぐ出るようにしといて下さい、どうぞ」