University of Virginia Library

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 五時過ぎて朝子は帰途についた。

 日の短くなったことが、はっきり感じられた。印刷所を出たとき、まだ明るかったのに、伝通院で電車を待つ時分にはとっぷり暮れた。角の絵ハガキ屋の前に、やっぱり電車を待っている人群れが逆光で黒く見える、その人々も肌寒そうであった。

 朝子は、夕暮の雰囲気に感染し、必要以上いそぎ足で講道館の坂をのぼった。向うから、自動車が二台来た。それをさけ、電柱の横へ立っている朝子の肩先を指先で軽くたたいた者があった。

 朝子は振りかえった。敏捷に振り向けた顔をそのまま、立っている男を認めると、彼女は白い前歯で下唇をかむように、活気ある笑顔を見せた。

「――なかなか足が速いんだな。電車を降りると、後姿がどうもそうらしいから、追い越してやろうと思ったけれど、とうとう駄目だった」

「電車が一つ違っちゃ無理だわ」

 朝子は大平と並んで、先刻よりやや悠っくり、坂を登り切った。

「どこです? 今日は――河田町?」

 河田町に、兄が家督を継いで、朝子の生家があるのであった。

「いいえ……印刷屋」

「なるほど、二十三日だな、もう。すみましたか?」

「もう少し残ってるの、てきぱきしてくれないから閉口よ。でも、まあすんだも同然」

「一月ずつ繰り越して暮すようなもんだな、あなたなんぞは……」

 彼等は、大通りから、右へ一条細道のある角で、どっちからともなく立ち止った。

「どうなさるの」

 大平は、その通りをずっと墓地を抜けた処に、年とった雇女と暮しているのであった。

「幸子女史はどうなんです、家ですか」

「家よ、きっと」

「ちょっと敬意を表して行くか」

 向いは桃畑で、街燈の光が剪定棚の竹や、下の土を しん と照し出している。同じような生垣の 小体 こてい な門が二つ並んでいる右の方を、朝子は開けた。高く鈴の音がした。磨硝子の格子の中でそれと同時にぱっと電燈がついた。

「かえって来たらしいよ」

 女中に云う幸子の声がした。

 上り口へ出て来た幸子は大平を見て、

「ほう、一緒?」

と云った。大平は帽子の縁へ軽く手をかけた。

「相変らず元気だな」

悄気 しょげ るわけもないもん」

「はっはっは」

 大平は、神経質らしい顔つきに似ず、闊達に笑った。

「いやに理詰めだね」

 朝子は、赤インクでよごれた手が気持わるいので、先に内に入った。

「上らないの?」

「ちょっと尊顔を拝するだけのつもりだったんだが……」

「お上んなさい。――どうせ夕飯これからなんでしょう」

 問答が朝子の手を洗っている小さい 簀子 すのこ の処まで聞え、遂に大平が靴を脱ぎ、入って来た。タオルで手を拭き拭き、朝子は縁側に立って、

「いやに世話をやかすのね」と笑った。

「本当さ。昔からの癖で一生なおらないと見える」

 大平は、幸子と向い合わせに長火鉢のところへ腰を下しながら、

「まあ、お互に手に負えない従兄妹を持ったと諦めるんだね」と云った。

「――然し、実のところ、これから遙々帰って、お婆さんとさし向いで飯を食うのかと思うと足も渋る」

 わざとぞんざいに、然し暖く叱るように幸子が云った。

「だから、早く奥さんをみつけなさいって云うんだのに」

 大平はそれに答えず、幸子が心理学を教えている女子大学の噂など始めた。二年ばかり前、彼の妻は彼の許を去った。初めの愛人が、今は彼女と暮している模様だ。大平は三十六であった。

 食後、三人はぴょんぴょんをして遊んだ。初め、大平はその遊びを知らず、二枚折の盤の上の文字を、

「何? ピヨン? ピヨン?」

と読んだ。

「ぴょん、ぴょんよ」

と朝子に云われた。

 幸子が簡単にルールを説明すると、

「そんならダイアモンドじゃあないか」と云い出した。

「それなら、やったことがある。対手の境界線の上まで行っていいんだ」

「これは違うのさ、一本手前までしか行っちゃいけないの」

「一番奥のが出切るまで陣へ入っちゃいけないって云うんだろう? だから、きっと行けるんだ」

「頑固だなあ」

 幸子が、じれったそうに、力を入れて宣告した。

「これは違うんだってば」

 勝負の間、彼等は、朝子が二人に何をしても平気の癖に、大平が幸子の駒を飛びすぎたり、幸子が彼の計画を打ち壊したりすると、

「こいつめ」

「生意気なことをするな、さ、どうだ」

「ほら、朝っぺ! うまいぞうまいぞ」

などというそれ等の言葉は、本気とも冗談ともとれた。

「なんて負けず嫌いなの。二人とも?」

「ああ、女の執念ですからね」

 大平が、行き悩んで駒で盤の上を叩きながら云った。

「対手にとって不足はないが、と。……どうも詰っちゃったな。朝子さん、何とかなりますまいかね」

「相互扶助を忘れた結果だから、さあそうして当分もがもがしていらっしゃい」

 この桃畑の家を見つけたのは大平であった。幸子はそれまで 小日向 こびなた の方にいた。朝子は一年半程前に夫を失い、河田町の生家に暮していた。幸子と二人で家を持つと決ったとき、大平は、

「よし……家探しは僕が引受けてあげましょう。どうせ学校のまわりだろう? そんならお手のもんだ」

と云った。

「隣りへ空いたなんて云って来たって行きませんよ、五月蠅くてしようがありゃしない」

 すると、まだ四五遍しか会っていなかった朝子を顧み、大平は、敏感な顔面筋肉の間から、濃やかな艶のある、右と左と少しちんばなような、印象的な眼で笑いかけた。

「念を押すところが未だしも愛すべきですね。『 かしま し』に一つ足りないなんてもの、まあこちらから願い下げだ」

 或る二月の午後、幸子から電話がかかり、朝子も出かけ、この家を見た。雪降り挙句で、日向の往来は泥濘だが、煉瓦塀の下の溝などにまだ掻きよせた雪があった。そんな往来を足駄でひろって行くと、角の土管屋の砂利の堆積の上に、黒い厚い外套を着、焦茶色の 天鵞絨 ヴェルヴェット 帽をかぶった大平が立って待っていた。

「この横丁が霜解けがひどそうで御難だが、悪くないでしょう? こちら側が果樹園なのは気が利いている」

 溶け残った雪が、薄すり果樹園一面に残っていて、日光に細かくチカチカ輝いていた。青空から、快晴な雪解の日につきものの風が渡って、杉の生垣を吹き、朝子のショウルの端をひるがえした――。

 これは、一年余り前のことだ。