一本の花
宮本百合子 (Ippon no hana) | ||
七
夕方近く、幸子が教えたことのある末松という娘が、も一人友達と訪ねて来た。何か職業を見出してくれと云うのであった。
「経済上、仕事がなけりゃ困るんですか」
「いいえ、そうではありませんけれど……」
「家に只いても仕方がないというわけですね――で? どんな仕事がいいんです?……何に自信があるんです?」
末松は、並んでかけた椅子の上で、友達と互に顔を見合わせるようにし、間が悪そうに、
「何って……別に自信のあるものなんかありませんけれど――、若し出来たら、雑誌か新聞に働いて見たいと思います」
「そういう方は、ここにいる朝子さんに持って行けば、何かないもんでもないかもしれないけれど……ジャアナリストになるつもりなんですか? 将来」
そこまで考えてはいなかったと見え、娘達は身じろぎをして黙り込んだ。幸子は、自分まで工合わるそうに微笑を顔に浮べ、暫く答を待っていたが、やがて学生っぽい調子で、
「――その位の気持なんなら、却って勉強つづけていたらどうなんです」
と云った。
「ひどい不景気だから、きっといい口なんぞありませんよ。あったにしろ、そんな口にはあなたがたより、もっと、今日生きるに必要な男が飛びついています」
不得要領で二人が帰った。窓際へ椅子を運び、雑誌を繰りながらそれ等の会話をきいていた大平が、体ごと椅子をこちらへ向け、
「ふうわりしたもんだな」
好意と意外さとをこめて、呟いた。
「会社に働いている連中も、ああいう娘さん達のワン・オブ・ゼムか」
「簿記や算盤が達者なだけ増しかもしれない」
「然し、変ったもんだなあ」
大平が、真面目な追想の表情を薄い煙草色の細面に現わして、云った。
「とにかく、相当教育のある連中が、脛かじりを名誉としなくなったんだからなあ。青年時代の熱情には、経済観念が、全然なかった。今の令嬢は、独立イクォル経済的自立と、きっちり結びつけているんだから油断ならない」
そして、彼は持ち前の、ちんばな、印象的な眼で、
「ここにも現に一人いらっしゃるが……」
と、朝子の顔を見て笑った。
「同じ判こをついて廻す帳面でも、中に、例えばまあ、あさ子なんて小さい印があるとちょっと悪くないな」
幾分照れ、朝子は、
「じゃ、私女学校の先生に世話して上げるわ」
と云った。
「そうしたら、右も左もボンヌ・ファム(美人)ばかりよ」
大平は、直ぐそれをもじって、皮肉に、
「ボーン・ファーム(骨ごわ)?」
と訊き返した。
朝子は、別に笑いもせず大平の顔をみていたが、やがて云い出して、
「ね、お幸さん、どう? 私この頃懐疑論よ。働く女のひとについて。女権拡張家みたいに 呑気 ( のんき ) に考えていられなくなったわ」
「ふうむ」
「自分の職業なら職業が、人生のどんな部分へ、どんな工合に結びついているか、もう少し探究的でなけりゃ嘘なんじゃないのかしら。ただ給料がとれていればいい、厭んなったらその職業すてるだけだ。それじゃ、つまり女も男なみに擦れて、而も、彼等より不熟練で半人前だというのが落ちなんじゃないの」
「女性文化なんてことは、そこが出発点だね」
大平が言葉を挾んだ。
「然しね」幸子が寧ろ大平に向って云った。
「女性文化必ずしも、女は内にを意味しやしないからね。――あなたも知ってる、ほら日野、東北大学のあのひとの奥さん、もう直き立派な女弁護士ですよ」
「変てこな表現だけど」
ちょっと笑い、朝子が、
「私のは、超女性文化主義よ」
と云った。
「その奥さんの方、きっと、男の弁護士が利益の 寡 ( すくな ) い事件に冷淡だったり、自分の依頼者を勝たせるためには法網を平気でくぐったりするのに正義派的憤慨で、勉強をお始めんなったのよ。また、女が罪を犯す心理は、女に最も理解される、そこまでが女性文化じゃない? 謂わば。それなら、自分が楯にとったり、武器にしたりする法律というものはどんなものか。どんな社会がこしらえたか。社会とはどんなものか。理窟っぽいみたいだけれど、この頃、自分の職業でも、追いつめて行くと、何だかそこまで行っちまうのよ」
「――つまり我等如何に生くべきか、と云うことだね」
朝子は、不安げな、熱心な面持で大平に合点した。
「だからね、私だって、ただ月給九十円貰って、あてがわれた雑誌の編輯が出来るだけじゃ、生きてもいないんだし、職業も持ってるんじゃないのよ――どんな雑誌を何故編輯するのか、そこまではっきりした意志が働いて、やっと人間の職業と云えるんだろうけれど……」
大平が、例の目から一種鋭い、朝子を嘲弄するのか自分を嘲笑うのか分らない強い光を射出しながら呟いた。
「――朝子さんのお説によると、じゃあ、我々会社員の仕事なんていうものは、要するに月給を引き出す石臼廻しみたいなもんかな」
彼の微かな皮肉を正直に受け、朝子は非常に単純に、
「そうかも知れないのよ」
と答えた。
やがて、朝子は生来のぴちぴちした表情をとり戻して、云った。
「私、何、働いて食っているぞって、実はちょっと得意でなくもなかったんだけれど、どうも怪しくなって来たわ、この頃。今に私が本当に自分の雑誌創ったら、大平さん読者になって頂戴」
これは実際問題として、朝子の心に育ちかけていることなのであった。
幸子は机に向って、明日の講義の準備をしていた。こちらで、大平は朝子と 低声 ( こごえ ) で話していた。朝子は、編物を手にもっていた。
「だれの?」
「甥の――わるくないでしょ? この色――」
「いつか往来で会った坊ちゃんですか」
「ああ、お会いになったことがあるのね」
幸子が、それを小耳に挾んで机に向ったまま、
「だれに会ったって?」
と大きな声で云った。
「健ちゃん」
暫く幸子のペンの音と、竹の編棒の触れ合う音ばかりが夜の室内を占めた。そのうるおいある静けさが、彼の心にしみ入ったという風に、大平がうつむいている朝子の髪の辺を見ながら呟いた。
「丁度こんなときもあったんだろうなあ」
朝子が、死んだ夫と暮していた生活の中に、今夜のような家庭的な情景もあったであろうという意味を、朝子は感じた。彼女は淡い悲しみを感じ、黙った。同時に大平の心の内にも、それにつけて自ら思い出される何事もその妻との間にないと、どうして云えよう。そう、朝子は思った。彼女はこれまでも、大平の去った妻については、自分の趣味と遠慮から進んで一言も触れなかった。今も、朝子は黙ったまま、小さいスウエタアの一段を編み終った。片手で、畳に落ちている毛糸玉から、更に糸のゆとりを膝の上へたぐりあげ、向きをかえて編みつづけようと、朝子が椅子の上で、少し胸を伸ばした。そのはずみを捕えたように、
「あなたは変ってるね」
大平が云った。
「あなた、本当にまた細君になる気持はないんですか」
「あなたはいかが?」
「ふーむ」
大平はうなって、然しはっきり云った。
「ないな」
よほど間を置いて、
「それが、だが自然なんだろうな、一方から云えば」
大平は椅子の腕木に片肘をつき、その上へ頬杖をついていた姿勢を改めて、腕組みをした。彼はそのままやや久しく沈吟していたが、急のその顔を朝子の方へ向け、
「まさか発菩提心という訳じゃありますまいね」
「そんなことありゃしないわ。ただ……」
「なに?」
「……私の心持ん中で、もう結婚生活、すっかり 完結 ( コムプリート ) した気がするのよ。また、同じことを別にして見たいと思わないだけ」
彼等は、幸子の邪魔にならないように、初めっから小声で話していたが、このとき、朝子は異様な閃光が、大平と自分との低い、切れ切れな会話の内に生じているのを感じた。変に心を貫通する苦しい心持で、彼女は身動き出来なかった。大平は、一層低い声で、正面を見据えたまま、やっと聞える位に云った。
「――変りもん同士で、面白くやってゆけると思うんだがな……自由に……」
――朝子の編棒は、同じように動いている。彼女は黙っている。大平も黙ってしまった。突然、幸子が机から、
「えらく静かだな」
と云った。
「何してるの」
「うむ……」
「さあ、もう一息ですみますよ」
気を入れなおし、机にこごみかかった幸子の背なかつきを見て、朝子は愕然として気になった。彼女は、幸子がそこにいるのを知りながら忘れていた瞬間の長さ、深さが、幸子に声をかけられ、初めて朝子の意識にのぼったのであった。非常に幸子と無関係などこへかへ心が去っているようで、そのままでは、ふだんの位置に置いて幸子を認識するのにさえ困難を覚える。そんな気持だった。
この覚醒は、実に我ながらの 愕 ( おどろ ) きで朝子を打ち、彼女は、今幸子に振りかえられては堪らない心持になった。彼女は、ぼんやり燃えるような顔をして、部屋を出てしまった。
「おや、いなかったの!」
幸子の意外そうな声が、こちらの室で鏡の前に佇んでいた朝子のところまで聞えた。
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