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 翌日、朝子は編輯所へ出かけて行った。

 事務をとっている間にも、時々、昨夜の、心を奪われた異様な感じが甦って来た。その度に朝子は一時苦しい気持になった。歓びで胸がわくわくする、そんな切なさではなく、真直ぐに立っている朝子を、どこからか重く、暗く、きつく引っ張る、その 牽引 ひっぱり の苦しさであった。

 三時頃、庶務にいる男が、

「――諸戸さん、 亀戸 かめいど ですか」

と入って来た。

「さあ、知らないね」

「白杉さん、今朝お会いになりましたか」

「文部省へ行くとかってお話でしたよ」

「――文部省へ? 何かあるのかしら……」

 矢崎が、冷淡なような、根掘り葉掘りのような口調で聞き出した。

「どうしたんだね」

「新聞社から来たんですよ」

「××じゃないのかい?」

 団体に出入りする、諸戸の子分のような記者があるのであったが、その男が告げた名はその社ではなかった。

「へえ……」

 矢崎は、不精髯の短かく生えた口をとがらせ、考えていたが、

「呼んだのかい」

と云った。

「売り込みさ、――また、ここの資金をこっそり学校の方へ流用している事実があるとか何とか云って来たらしいんだ」

「誰が会ったんだ」

「鈴本さん――そんなこと絶対にないと思うって熱心にやってましたよ」

 矢崎は、それぎり黙り込み、仕事をしつづけたが、彼の様子を見ると、朝子は、矢崎がそのことについて全然知らぬではないと感じられた。そんなことに無関係な朝子さえ、とっさにそんな事実はあるまいと思えず、漠然疑いを抱く。その程度に、団体内部の空気は清潔でないのであった。

 程経て、朝子が廊下を行くと、向うから諸戸が、ひどく急ぎ足にやって来た。朝子はちょっと会釈した。平常なら、二言三言口を利くところを、彼は殆んど朝子をも目に入れなかった風で、角を曲ろうとした。

 小使が、草履を鳴らし、それを追った。

「あの、自動車は直ぐ来させましてよろしゅうございますか」

 角を曲る急な動作でモウニングの尾を あお るようにしながら、左手を後へ振り、諸戸は、

「直ぐ! 直ぐだ」

 叫ぶように命じた。

 その廊下の外に、一本の 石榴 ざくろ の木が生えていた。このような公共建築の空地に生えた木らしくいつも 徒花 あだばな ばかり散らしていた。珍しく、今年は、低い枝にたった一つ実を結んだ。その実は落ちもせず、僅かながら色づいて来た。がらんとした長廊下や、これから相原に会い、買収策でも講じるであろう諸戸の周章した後姿、風に動く草まで、総て秋蕭々と細長い中に、たった一つ石榴の実は円く重そうで、朝子に何か好もしい感じを与えた。

 朝子は立止って、秋風の午後に光る石榴をながめた。

 締切りで、毎日編輯所に用がある。

 朝子はこれ迄と方針を変え、同じ沈滞した雑誌にも幾分活気を与えるため、経済方面の記事、時事評論など加えることにした。そのためにも用事が殖えた。朝子は、仕事に一旦かかると、等閑に出来ない気質を現わして働いた。

 ほんの一時的な火花で、神経が疲れていたせいだという位に考えていた、先夜の、大平との感覚は、思いがけずいつまでも朝子の心に影響をのこした。編輯所で手が空き、窓から濠の景色を眺めている。浅く揺れる水の面に、石垣とその上の芝との倒影がある。水に一しお柔かな緑が、朝子の活字ばかり見ていた眼に、休安を与える。微かなくつろぎに連れ、そんなとき、朝子の心に、例の引っぱりが感じられた。引っぱりは、依然重く、きつく、暗かった。然しその暗さは、精神上の不幸のように心から滲み出して、眼で見る風景までを くろず ませる種類のものではなかった。緑はどこまでも朗らかな緑に、日常のすべてのことに昨日、今日、一昨日そのまま純粋に感じられる。それ等とまるで対立して一方に暗い引っぱりと、それに かれて傾く心の傾斜とを感じているのであった。片側ずつ、夜、昼と描き分けられた一面の風景画のような心であった。言葉にすれば『苦しいぞ、だが、なかなか悪くない』朝子はそんな心持で、切ない自分の心の、二重の染め分けを眺めた。

 朝子が、夫を失ったのは二十四のときであった。彼女は近頃になって、元知らなかった多くのことを、男女の生活について理解するようになった。彼女の中に、半開であった女性の花が咲いた。

 若し今まで結婚生活が続いていたら、自分はこのように細かに、何か木の芽でも育つのを見守るように心や官能の生長を自分に味うことが出来たであろうか。朝子はよくそう思い、世間並に考えれば、また当時にあっては、朝子にとっても大きな不幸であった不幸を、ただ不運とばかりは考えなかった。女一人の生長。――自然はその女が夫を持っていようといまいと、そんなことに頓着はしていない。時が来れば、花を咲かせる。――自然は浄きかな――

 然し、朝子は大平を愛しているのではなかった。彼のは、朝子が再び結婚を欲しない意味とは全然違う。ただ面倒くさい位の心持から、消極的自由を保っていることも判っていた。彼にすれば、悪い心持はせず一年余知り合った朝子が、ひとりで、自由で、ちょっと面白くなくもなさそうなのに不図心づき、何か恋心めいたものを感じたのであろう。

 朝子にとっても、ぼんやり幸子の 従兄 あに として見ていた大平が、一人の男としてはっきり現われた点は同じであった。けれども、細かく心持を追ってゆくと、朝子にとって魅力あるのは大平という人自身ではなかった。大平があの夜以来、朝子の心の内にかき立てた感覚が、朝子を牽っぱるのであった。

 その意識は、桃畑の前の小さな家で、静かに幸子と話したりめいめいがめいめいの仕事をもちよって一つ灯の許にいる夜など、特に明瞭に朝子の心に迫った。

 朝子は、幸子を愛していた。彼女は幸子のどんな些細な癖も知っていたし、欠点も、美しき善良さをも知っていた。幸子が癇癪を起し、またそれが時々起るのであったが、とても怖い顔をして朝子に食ってかかる。そのときの、世にも見っともない幸子の顔付を思い出してさえ、朝子は滑稽と幸福とを感じ、腹から笑うことが出来た。

 大平について、自分はそのような、何を抱いているだろう!

 朝子は、自分の感情に愕きつつ考えるのであった。幸子といて、互に扶けつつ生活を運んで行くことに、朝子は真実の不平や否定の理由を心のどこにも持っていなかった。

 それだのに、その熱い力は異様に牽きつける。真空のように吸いよせる。朝子の全身がそこへ向ってひたすら墜落することを欲した。その発作のような瞬間、朝子は自分の肉体の裡で、大きな花弁が渦巻き開き、声なき叫びで心に押しよせるように切なく感じるのであった。

 或る午後、幸子が長椅子で雑誌を読んでいる縁側に籐椅子を出し、朝子が庭を眺めていた。隣家の生垣の際に一株の金木犀があった。やや盛りを過ぎ、朝子の方に庭土の上へまで、金柑色の細かい花を散り敷いてその涼しい香を撒いていた。その香は秋の土の冷えの感じられる香であった。

 朝子は、昼過、印刷屋から帰ったところであった。そこで年とった女工が、隣室で、

「ねえ、源さん、組合ってあるんだってね、そこへ入ると毎月二十銭だか会費納めるんですってねえ」

「はあ」

「そいで何だってえじゃあないの、どっかの工場でストライキでもすると、皆でお金出し合ってすけてやるんだってね」

「へえ」

「いくらでも出さなくちゃならないのじゃ、困っちゃうね」

 源さんと呼ばれた男が、気なさそうに、

「ええ」

と返事した。そんなことを、元気に幸子に喋ってきかせた。

 朝子の黙り込んだのを、幸子はただ疲れたのだと思ったらしい。長椅子の横一杯に脚をのばし、読んでいる彼女の楽な姿勢を、朝子は っと見ていたが、突然顔と頭を、いやいやでもするように振り上げ、

「ね、ちょっと、私二つに裂けちゃう」

 小さい、弱々しい声で訴えた。

「何云ってるのさ」

 膝の上へぽたりと雑誌を伏せ、笑いかけたが、朝子の蒼ざめた顔を見ると、幸子は、

「――どうした」

 両脚を一時に椅子から下した。

「ああ二つんなっちゃうわよ、裂けちゃう」

 朝子は背中を丸め、強い力で幸子の手を掴まえて自分の手と一緒くたにたくしこんで、胸へ押しつけた。

「どうした、え? これ!」

 幸子は、駭いて、背中を押えた。

「口を利いて! 口を利いて!」

 朝子は、涙をこぼしながら、切れ切れに、

暗い瞬間 ダアク・モウメント !――暗い瞬間!」

と囁いた。