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 日露戦争当時、或る篤志な婦人が、全国の有志を糾合して一つの婦人団体を組織した。戦時中、その団体は相当活動して実績を挙げた。主脳者であった婦人が死んだ後も、団体は解散せず明治時代 帷幄 いあく 政治で名のあった女流を会長にしたりして、次第に社会事業など企てて来た。

 然し精神は昔の主脳者と共に死んだ。理事、その他役員が上流婦人ばかりなので、実権は主事、または庶務課長の諸戸吉彦にあった。女は女なりに、男は男でこの団体の内部を野心の巣にした。

 雑誌部の仕事の性質と、自身の気質の上から、朝子はそれ等の外交や政治に関係出来なかったが、目につくことは多くあった。

 社会事業の一として、内職に裁縫をさせていたが、工賃は市価よりやすかった。ちょっと不出来な箇処は何度でも縫いなおさせた。

「それじゃ、つまり、いくらでも払える人に、やすいお仕立物どころをこしらえて上げてるわけね。裁縫学校じゃない、内職なんだから、もう少しどうにかするのが本当ですよ」

 朝子は、初めの時分、そんなことも云ったが、永年そこで働いている園子は、女学校長のように笑いながら、

「そんなこと云っちゃ、何も出来ませんですよ。これだってないより増しなんですから」

と、とり合わなかった。社会事業全般、ないより増しの標準でされているらしかった。

 川島が叱られたということ、それも、この働き会の方に関係していた。

 W大学へ通いながら、庶務に働いている川島が宿直のとき、小使室で、働き会の小谷という女としゃべっていた。そこへ、諸戸が外から帰ってきて、翌日川島を呼びつけ酷く詰問したのであった。

 川島は、小心そうに眉の上に小皺をよせ、

「びっくりしちまった、――とても憤慨して罷めさせそうなことを云うんだもん」

と苦笑した。

「一体何時頃だったの?」

「八時頃ですよ」

 伊田が朝子に、

「小谷さんて人、知りませんか」

と訊いた。

「さあ……河合さんなら知ってるけれど」

「ふ、ふ、ふ」

 伊田も川島も笑った。

「――色白な人で……幾つ位だい? もうよっぽど年とってるんだろう?」

「三十位なんだろう」

 弱気らしく川島が答えた。

「何でもないなあ、解ってるんだけれど……その時だって。話しでもすると思って、いやな気がしたんだろう」

「この頃馬鹿にやかましくなっちゃったね、こないだ矢崎さんもやられたらしいよ」

 朝子は、

「でも、諸戸さん、一種の性格だな」

と云った。

 諸戸は、女房子供を国許に置き、一人東京で家を持っていた。まるで一人暮しなのに、家の小綺麗なことは評判であった。現在彼等で経営主任のようなことをしている、そして将来彼のものになるだろう或る女学校長とは特別な関係で、半ば公然の秘密であったが、諸戸は近来、働き会の方の河合という女といきさつがあった、もう一人そう云う人が働き会の中にある。そんな状態であった。

 のほほんで、その河合と連れ立って帰るようなこともするのに、時々川島の場合のようにぶざまな 痙攣 けいれん 的臆病を現すのであった。

「気のいいところもある人なんだから、あなた、ただ叱られていずに、ちゃんと自分の立場を明かにして置くといいんですよ」

 朝子は川島に云った。

「こちらがしゃんとして出れば、じき折れる人なんだから」

「憤ると、でも怖いですよ」

 川島は、いかにも学生らしく、眼を大きくした。

「とてもでかい声で『君!』ってやられると、参っちゃうな。云うことなんか忘れちゃう」

「だから、あなたがそれよりもっとでかい声で『何でありますか!』って云えばいいのよ」

 多分、相原の口添えで、川島を罷めさせることは中止になったらしいと云うことだった。相原は、諸戸と同郷で、ころがり込んでいるうち、府下のセットルメント・ワークを任され、今では一方の主になっている男であった。伊田と川島は異口同音に、

「――相原氏の方があれでましでしょう」

と云った。

「男らしい点だけでもましじゃないですか」

「今度だって、諸戸氏、直き廊下であったら、やあ、なんて先から声をかけるんだよ。とてもお天気やだね。何が何だか分りゃしない」

「相原さん、諸戸さんにゃ精神的欠陥があるんだって云ってました」

 朝子は、段々いやな心持になって、

「もうやめ! やめ! こんな話」

と云った。

「第一相原さんが諸戸さんについて、そんな風にあなたがたに云えた義理ではない筈ですよ。葭町の芸者とごたごたがあった、その借金の始末だって諸戸さんにして貰ってるそうだし……第一、今の地位を作ってくれたのが諸戸さんじゃありませんか」

「――そうなんですか」

「こないだ、将来、万事は自分が切り盛りするらしい口吻でしたよ、でも……」

「若し、相原氏が、反諸戸運動を画策してるんだったら、私は見下げた男だと思う」

 朝子は、亢奮を感じた顔付で云った。

「諸戸さんにだって、卑怯なところもけちなところもあるが、一旦自分の拾った者はすて切れないというところがあります。そうしちゃ、飼犬に手を咬まれているんだけれど」

 諸戸は弱気で、どこか器のゆったりしたところがあり、相原は表面豪放そうで、内心は鼠の歯のように小さくて強い利己主義者であった。相原を食客に置いた時分から、十年近く、そういう気質の違いや、共通の利害が諸戸にとって微妙な心理的魅力であると見え、少なくとも表面、相原は不思議な感化を諸戸に持っているのであった。

 彼等はトランプをしたり、朝子が最近買ったフランスの画集を観たりして、十一時近く帰った。玄関へ送って出ながら、朝子は冗談にまぎらして云った。

「まあ、なるたけお家騒動へは嘴を入れないことね。私共の時代の仕事じゃないわ」