University of Virginia Library

17. 第十七囘

 お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡そ二時間許りも、何か諄々と教誨 かせてゐたが、爾後は、如何したものか、急に母子の折合が好くなツて來た。取分け てお勢が母親に孝順くする。折節には、機嫌を取るのかと思はれるほどの事をも云ふ。 親も、子も、睨める敵は同じ文三ゆゑ、かう比周ふも其筈ながら、動靜を窺るに、只 其許りでも無ささうで。

 昇は其後ふツつり遊びに來ない。顏を視れば鬩み合ふ事にしてゐた母子ゆゑ、 拔合が付いてみれば、咄も無く、文三の蔭口も今は道ひ盡す。――家内が何時からと 無く濕ツて來た。

「あゝ辛氣だこと!」ト一夜お勢が欠伸まじりに云ツて泪ぐんだ。

 新聞を拾讀してゐたお政は、眼鏡越しに娘を見遣ツて、

「欠びをして、徒然としてゐることは無いやアね。本でも出して來て、お復習ひ なさい。」

「復習へツて。」ト、お勢は鼻聲になツて眉を顰めた。

「明日の支度は、もう濟まして仕舞ツたものヲ。」……

「濟ましツちまツたツて。」

 お政は、復、新聞に取掛ツた。

「慈母さん。」ト、お勢は何をか憶出して、事有り氣に云ツた。「本田さんは何 故來ないンだらう?」

「何故だか。」

「憤ツてゐるのぢやないのだらうか?」

「然うかも知れない。」

 何を云ツても取合はぬゆゑ、お勢も仕方なく口を鉗んで、少く物思はし氣に洋 燈を凝視めてゐたが、それでもまだ氣に懸ると見えて、

「慈母さん。」

「何だよ?」と蒼蠅さうに、お政は起直ツた。

「眞個に本田さんは憤ツて來ないのだらうか?」

「何を。」

「何をツて。」ト少し氣を得て、「そら、此間來た時、私が構はなかツたから… …。」

 ト、母の顏を凝視めた。

「なに人、」ト、お政は莞爾した。何と云ツてもまだおぼこだなと云ひたさうで、 「お前に構ツて貰ひたいンで、來なさるンぢや有るまいし。」

「あら、然うぢや無いンだけれどもさ……。」ト、恥かしさうに自分も莞爾。

 おほんといふ罪を作ツてゐる、とは知らぬから、昇が例の通り、平氣な顏をし て、ふいと遣ツて來た。

「おや、ま、噂をすれば影とやらだよ。」トお政が顏を見るより饒舌り付けた。 「今貴君の噂をしてゐた所さ。え? 勿論さ。義理にも善くは云へないツさ……はゝ はゝゝ。それは冗談だが、きついお見限りですね。何處か穴でも出來たんぢやないか ね? 出來たとエ? そら/\、それだもの、だから鰻男だといふことさ。え、鰌で 無くツてお仕合? 鰌とはエ?……あ、ほンに鰌と云へば、向う横町に出來た鰻屋ね、 ちよいと異ですツさ。久し振りだツて、奢らなくツてもいゝよ、はゝゝゝ。」

 皺延ばしの太平樂、聞くに堪へぬといふは平日の事。今宵はちと情實が有るか ら、お勢は顏を皺めるは扨置き、昇の顏を横眼でみながら、追蒐け引蒐けて高笑ひ。 てれ隱しか、嬉しさの溢れか、當人に聞いてみねば、とんと分らず。

「今夜は大分御機嫌だが、」ト、昇も心附いたか、お勢を調戲りだす。「此間は 如何したもンだツた? 何を云ツても、まだ明日の支度をしませんから。はツ、はツ、 はツ、憶出すと可笑しくなる。」

「だツて、氣分が惡かツたンですものヲ。」ト、淫哇しい、形容も出來ない身振 り。

「何が何だか、譯が解りやアしません。」

 少し白けた席の穴を填めるためか、昇が俄に問はれもせぬ無沙汰の分疏をしだ して、近ごろは頼まれて、一夜はざめに課長の處へ往ツて、細君と妹に、英語の下稽 古をしてやる、といふ。「いや、迷惑な、」ト言葉を足す。

 と聞いて、お政にも似合はぬ、正直な、まうけに受けて、其不心得を、諭す。 是が立身の踏臺になるかも知れぬと云ツて。けれども、御弟子が御弟子ゆゑ、飛んだ 事まで教へはすまいか、と思ふと心配だ、と高く笑ふ。

 お勢は、昇が課長の處へ、英語を教へに往くと聞くより、如何したものか、俄 に萎れだしたが、此時母親に釣られて、淋しい顏で莞爾して、

「令妹の名は何といふの?」

「花とか耳とか云ツたツけ。」

「餘程出來るの?」

「英語かね? なアに、から駄目だ。Thank you for your kind だから、まだ/\。」

 お勢は冷笑の氣味で、

「それぢやア……。」

 I will ask to you と云ツて、今日教師に叱られた。それは、其時、忘れてゐたのだ から、仕方が無い。

「ときに、これは、」と昇は、お政の方を向いて、親指を出してみせて、「如何 しました、その後?」

「居ますよ、まだ。」トお政は思ひ切りて顏を皺めた。「づうづうしいと思ツて ねえ!……それも宜いが、また何か、お勢に云ひましたツさ。」

「お勢さんに?」

「はア。」

「如何な事を?」

 おツとまかせと饒舌り出した、文三のお勢の部屋へ忍び込んだ事から、段々と 順を逐ツて、剩さず漏さず、おまけまでつけて。昇は頤を撫でてそれを聽いてゐたが、 お勢が惡たれた一段となると、不意に聲を放ツて、大笑に笑ツて、

「そいつア痛かツたらう。」

「なに其ン時こそ、些とばかし可怪な顏をしたツけが、半日も經てば、また平氣 なものさ。なんと、本田さん、づうづうしいぢやア有りませんか!」

「さうしてね、まだ私の事を浮氣者だなンぞツて。」

「ほんとに、其樣な事も云ツたさうですがね。なにも、其樣に腹がたつなら、此 處の家に居ないが宜いぢや有りませんか。私ならすぐ、下宿か何かして仕舞ひまさア。 それを、其樣な事を云ツて置きながら、づう/\しく、のんべんくらりと、大飯を食 ツて……ゐるとは、何處まで押が重いンだか、數が知れないと思ツて。」

 昇は苦笑ひをしてゐた。暫時して返答とはなく、たゞ、

「何しても困ツたもンだね。」

「ほんとに困ツちまひますよ。」

 困ツてゐる所へ、勝手口で、「梅本でござい。」梅本といふは近處の料理屋。 「おや、家では……。」と、お政は怪しむ。その顏も忽ち莞爾々々となツた、昇の吩 咐とわかツて。

「それだから此息子は可愛いよ。」ト、片腹痛い言まで云ツて、やがて下女が持 込む岡持の蓋を取ツて見るより、また意地の汚ない言をいふ。それを、今夜に限ツて、 平氣で聞いてゐるお勢どのの心持が解らない、と怪しんでゐる間も有ればこそ、それ ツと炭を繼ぐ、吹く、起こす、燗をつけるやら、鍋を懸けるやら。 瞬く間に酒となツた。あひの、おさへの、といふ蒼蠅い事の無い代り、洒落、擔ぎ合 ひ、大口、高笑、都々逸の素じぶくり、替歌の傳受等、いろいろの事が有ツたが、蒼 蠅いからそれは略す。

 刺身は調味のみになツて、噎で應答をするころになツて、お政は、例の處へで も往き度くなツたか、ふと起ツて座鋪を出た。

 と、兩人差向ひになツた。顏を視合せるとも無く視合して、お勢はくす/\と 吹出したが、急に眞面目になツて、ちんと澄ます。

「これアをかしい。何がくす/\だらう?」

「何でも無いの。」

「のぼる源氏のお顏を拜んで、嬉しいか?」

「呆れて仕舞はア。ひよツとこ面の癖に。」

「何だと?」

「綺麗なお顏で御座いますといふこと。」

 昇は例の、默ツてお勢を睨め出す。

「綺麗なお顏だといふンだから、ほゝゝ、」と用心しながら退却をして、「いゝ ぢやア……おツ……。」

 ツと寄ツた昇が、お勢の傍へ。……空で手と手が閃く、からまる……と鎭まツ た所をみれば、お勢は何時か手を握られてゐた。

「これが如何したの?」と平氣な顏。

「如何もしないが、かうまづ俘虜にしておいて、どツこい……。」と振放さうと する手を握りしめる。

「あちゝゝ。」と顏を皺めて、「痛い事をなさるねえ!」

「ちツとは痛いのさ。」

「放して頂戴よ。よう、放さないと此手に喰付きますよ。」

「喰付きたいほど思へども……。」ト平氣で鼻歌。

 お勢はおそろしく顏を皺めて、甘ツたるい聲で、「よう、放して頂戴と云へば ねえ。……聲を立てますよ。」

「お立てなさいとも。」

 ト云はれて、一段聲を低めて、「あら本田さんが手なんぞ握ツて、ほゝゝゝ、いけません。ほゝゝ。」

「それはさぞお困りで御座いませう。」

「眞個に放して頂戴よ。」

「何故? 内海に知れると惡いか?」……

「なに、彼樣な奴に知れたツて……。」

「ぢや、ちツとかうしてゐ給へ。大丈夫だよ。淫褻なぞする本田にあらずだ。… …が、ちよツと……。」ト何やら小聲で云ツて、「……位は宜からう?」

 すると、お勢は、如何してか、急に心から眞面目になツて、「あたしやア知ら ないからいゝ……私やア……其樣な失敬な事ツて……。」

 昇は面白さうに、お勢の眞面目くさツた顏を眺めて、莞爾莞爾しながら、 「いゝぢやないか? だゞちよいと……。」

「厭ですよ、そんな……よツ、放して頂戴と云へばねえツ。」

 一生懸命に振放さうとする、放させまいとする、暫時爭ツて居ると、縁側に足 音がする。それを聞くと、昇は我からお勢の手を放して、大笑ひに笑ひ出した。

 ずツと、お政が入ツて來た。

「叔母さん/\。お勢さんを放飼はいけないよ。今も人を捉へて、口説いて口説 いて困らせ拔いた。」

「あら/\彼樣な虚言を吐いて、…非道い人だこと…!」

 昇は天井を仰向いて、「はツ、はツ、はツ。」