University of Virginia Library

1. 第一編

1. 第一囘 アヽラ怪しの人の擧動

 千早振る神無月も、最早跡二日の餘波となツた廿八日の午後三時頃に、神田見 附の内より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子と、うよ/\ぞよ/\涌出でて來るのは、孰れ も顋を氣にし給ふ方々。しかし熟々見て篤と點檢すると、是にも種種種類のあるもの で、まづ髭から書立てれば、口髭、頬髯、顋の鬚、暴に興起した拿破崙髭に、狆の口 めいた比斯馬克髭。そのほか矮鷄髭、貉髭、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡くも いろ/\に生え分る。髭に續いて差ひのあるのは服飾。白木屋仕込みの黒い物づくめ には佛蘭西皮の靴の配偶はありうち。之を召す方樣の鼻毛は延びて蜻蛉をも釣るべし といふ。是より降ツては、背皺よると枕詞の付くスコツチの背廣にゴリゴリするほど の牛の毛皮靴。そこで踵にお飾を絶やさぬ所から泥に尾を曳く龜甲洋袴。いづれも釣 るしんぼうの苦患を今に脱せぬ顏附、でも持主は得意なもので、髭あり、服あり、我 また奚をかめんと濟ました顏色で、火をくれた木頭と反身 ツてお歸り遊ばす、イヤお羨ましいことだ。其後より續いて出てお出でなさるは孰れ も胡麻鹽頭、弓と曲げても張の弱い腰に無殘や空辧當を振垂げてヨタ/\ものでお歸 りなさる。さては老朽しても、流石はまだ職に堪へるものか。しかし日本服でも勤め られるお手輕なお身の上、さりとはまたお氣の毒な。

 途中人影の稀れに成ツた頃、同じ見附の内より兩人の青年が話しながら出て參 ツた。一人は年齡二十二三の男、顏色は蒼味七分に土氣三分、どうも宜敷ないが、秀 でた眉に儼然とした眼附で、ズーと押徹ツた鼻筋、唯惜い哉口元が些と尋常でないば かり。しかし締はよささうゆゑ繪草紙屋の前に立ツてもパツクリ開くなどといふ氣遣 ひは有るまいが、兎に角顋が尖つて頬骨が露れ、非道くれ てゐる故か、顏の造作がとげ/\してゐて、愛嬌氣といツたら微塵もなし。醜くはな いが、何處ともなくケンがある。脊はスラリとしてゐるばかりで、左而已高いといふ 程でもないが痩肉ゆゑ、半鐘なんとやらといふ人聞の惡い諢名に縁が有りさうで、年 數物ながら摺疊皺の存じた霜降スコツチの服を身に纏ツて、組紐を盤帶にした帽檐廣 な黒羅紗の帽子を

[_]
[1]戴いてる。
今一人は前の男より二つ三 つ兄らしく、中肉中脊で色白の丸顏。口元の尋常な所から眼付のパツチリとした所は 仲々の好男子ながら、顏立がひねてこせ/\してゐるので、何となく品格のない男。 黒羅紗の半フロツクコートに同じ色のチヨツキ、洋袴は何か乙な縞羅紗で、リウとし た衣裳附、縁の卷上ツた釜底形の黒の帽子を眉深に冠り、左の手を隱袋へ差入れ、右 の手で細々とした杖を玩物にしながら高い男に向ひ、

「しかしネー、若し果して課長が我輩を信用してゐるなら、蓋し已むを得ざるに 出でたんだ。何故と言ツて見給へ、局員四十有餘名と言やア大層のやうだけれども、 皆腰の曲ツた老爺に非ざれば、氣の利かない奴ばかりだらう。其内でかう言やア可笑 しい樣だけれども、若手でサ、原書も些たア噛ツてゐてサ、而して事務を取らせて捗 の往く者と言ツたら、マア我輩二三人だ。だから若し果して信用してゐるのなら、已 むを得ないのサ。」

「けれども山口を見給へ、事務を取らせたら、彼の男程捗の往く者はあるまいけ れども矢張免を喰ツたぢやアないか。」

「彼奴はいかん、彼奴は馬鹿だからいかん。」

「何故。」

「何故と言ツて、彼奴は馬鹿だ、課長に向ツて此間のやうな事を言ふ所を見りや ア、彌馬鹿だ。」

「あれは全體課長が惡いサ、自分が不條理な事を言付けながら、何にもあんなに 頭ごなしにいふこともない。」

「それは課長の方が、或は不條理かも知れぬが、しかし苟も長官たる者に向つて、 抵抗を試みるなどといふなア、馬鹿の骨頂だ。まづ考へて見給へ、山口は何んだ、屬 吏ぢやアないか、屬吏ならば假令課長の言付を不條理と思つたにしろ思はぬにしろ、 ハイ/\言ツて、其通り處辧して往きやア、職分は盡きてるぢやアないか。然るに彼 奴のやうに、苟も課長たる者に向ツてあんな指圖がましい事を……。」

「イヤあれは指圖ぢやアない、注意サ。」

「フム乙う山口を辯護するネ、矢張同病相憐れむのか、アハアハ/\。」

 高い男は中脊の男の顏を尻眼にかけて、口を鉗んで仕舞ツたので、談話がすこ し中絶れる。錦町へ曲り込んで、二つ目の横町の角まで參ツた時、中脊の男は不圖立 止ツて、

「ダガ、君の免を喰ツたのは弔すべくもまた賀すべしだぜ。」

「何故。」

「何故と言ツて君、これからは朝から晩まで情婦の側にへばり付いてゐる事が出 來らアネ。アハ/\/\。」

「フヽヽン、馬鹿を言ひ給ふな。」

 ト、高い男は顏に似氣なく微笑を含み、さて失敬の挨拶も手輕く、別れて獨り 小川町の方へ參る。顏の微笑が一かは一かは消え往くにつれ、足取も次第々々に緩か になつて、終には蟲の這ふ樣になり、悄然と頭をうな垂れて、二三町程も參つた頃、 不圖立止りて四邊を囘顧し、駭然として二足三足立戻ツて、トある横町へ曲り込んで、 角から三軒目の格子戸作りの二階家へ這入る。一所に這入ツて見よう。

 高い男は玄關を通り拔けて、縁側へ立出ると、傍の座鋪の障子がスラリ開いて、 年頃十八九の婦人の首、チヨンボリとした摘ツ鼻と、日の丸の紋を染拔いたムツクリ とした頬とで、その持主の身分が知れるといふ奴が、ヌツと出る。

「お歸ンなさいまし。」

 トいつて何故か口舐ずりをする。

「叔母さんは。」

「先程、お孃さまと何處らへか。」

「さう。」

 ト言捨てゝ高い男は縁側を傳ツて參り、突當りの段梯子を登ツて二階へ上る。 ?處は六疊の小座鋪、一間の床に三尺の押入れ付、三方は壁で唯南ばかりが障 子になツてゐる。床に掛けた軸は隅々も既に蟲喰んで、床花瓶に投入れた二本三本の 蝦夷菊はうら枯れて枯葉がち、座鋪の一隅を顧みると古びた机が一脚据ゑ付けてあツ て、筆ペン楊枝などを掴插しにした筆立一個に、齒磨の函と肩を比べた赤間の硯が一 面載せてある。机の側に押立てたは二本立の書函、是には小形の爛缶が載せてある。 机の下に差入れたは縁の缺けた火入、是には摺附木の死骸が横ツてゐる。其外座鋪一 杯に敷詰めた毛團、衣紋竹に釣るした袷衣、柱の釘に懸けた手拭、いづれを見ても皆 年數物。その證據には手擦れてゐて古色蒼然たり、だが自ら秩然と取旁付いてゐる。

 高い男は徐かに和服に着替へ、脱棄てた服を疊掛けて見て舌鼓を撃ちながら其 儘押入へへし込んで仕舞ふ。所へ、トバクサと上ツて來たは例の日の丸の紋を染拔い た首の持主。横幅の廣い筋骨の逞しいズングリムツクリとした生理學上の美人で、持 ツて來た郵便を高い男の前に差置いて、

「アノー先刻此郵便が。」

「ア、さう、何處から來たんだ。」

 ト、郵便を手に取ツて見て、

「ウー、國からか。」

「アノネ貴君、今日のお孃樣のお服飾は、ほんとにお目に懸け度いやうでしたヨ。 まづネ、お下着が格子縞の黄八丈で、お上着はパツとした宜い引縞の絲織で、お髮は 何時ものイボジリ捲きでしたがネ、お掻頭は此間出雲屋からお取んなすツた、こんな ……」

 ト、故意々々手で形を拵へて見せ、

「薔薇の花掻頭でネ、それは/\お美しう御座いましたヨ……私もあんな帶留が 一つ欲しいけれども……」

 些し塞いで、

「お孃さまは、お化粧なんぞはしない、と仰しやるけれども、今日はなんでも 内々で、薄化粧なすツたに違ひありませんよ。だツて、なんぼ色がお白いツて、あん なに……私も家にゐる時分は、是でもヘタクタ施けたもんでしたがネ、此家に上ツて から、お正月ばかりにして、不斷は施けないの。施けてもいゝけれども、御新造さま の惡口が厭ですワ。だツて何時かもお客樣のいらツしやる前で、鍋の白粉を施けたと こは、全然炭團へ霜が降ツたやうで御座いますツて……。餘りぢやア有りませんか、 ネー貴君。なんぼ私が不器量だつて餘りぢやありませんか。」

 ト敵手が傍にでもゐるやうに、眞黒になツてまくしかける。高い男は先程より 手紙を把ツては讀みかけ、讀みかけてはまた下へ措きなどして、さも迷惑な體。此時 も唯「フム」と鼻を鳴らした而已で、更に取合はぬゆゑ、生理學上の美人は左なくと も罅壞れさうな兩頬をいとゞ膨脹らしてツンとして二階を降りる。其後姿を見送つて、 高い男はホツト顏。また手早く手紙を取上げて讀下す。その文言に、

一筆示しまゐらせそろ、さても時こうがら日増しにお寒う 相成り候へども御無事に御勤め被成候や、それのみあんじくらし まゐらせそろ。母事も此頃はめつきり年をとり、髮の毛も大方は 白髮になるにつけ心まで愚癡に相成候と見え今年の晩には御地へ參られるとは知り つゝも、何となう待遠にて毎日ひにち指のみ折り暮らしまゐらせ そろ。どうぞどうぞ一日も早うお引取下され度念じまいらせ候 。さる廿四日は父上の……

 ト讀みさして、覺えずも手紙を取落し、腕を組んでホツと溜息。

2. 第二囘 風變りな戀の初峰入 上

 高い男と假に名乘らせた男は、本名を内海文三と言ツて、靜岡縣の者で、父親 は舊幕府に仕へて俸祿を食んだ者で有ツたが、幕府倒れて王政古に復り、時津風に靡 かぬ民草もない明治の御世に成ツてからは舊里靜岡に蟄居して、暫くは偸食の民とな り、爲すこともなく昨日と送り今日と暮らす内、坐して食へば山も空しの諺に漏れず、 次第々々に貯蓄の手薄になる所から、足掻き出したが、偖木から落ちた猿猴の身とい ふものは、意氣地の無い者で、腕は眞影流に固ツてゐても、鋤鍬は使へず、口は左樣 然らばと重く成ツてゐて見れば、急にはヘイの音も出されず、といツて天秤を肩へ當 てるも家名の汚れ、外聞が見ツとも宜くないといふので、足を擂木に駈廻ツて辛くし て靜岡藩の史生に住み込み、ヤレ嬉しやと言ツた所が腰辨當の境界。なかなか浮み上 る程には參らぬが、デモ感心には、多くも無い資本を吝まずして一子文三に學問を仕 込む。まづ、朝勃然起きる。辨當を背負はせて學校へ出して遣る。歸ツて來る。直ち に近傍の私塾へ通はせると言ふのだから、あけしい間がない。迚も餘所外の子供では 續かないが、其處は文三、性質が内端だけに學問には向くと見えて、餘りしぶりもせ ずして出て參る。尤も途に蜻蛉を追ふ友を見て、フト氣まぐれに遊び暮らし、悄然と して裏口から立戻つて來る事も無いではないが、其は邂逅の事で、マア大方は勉強す る。其の内に學問の味も出て來る。サア面白くなるから、昨日までは督責されなけれ ば取出さなかつた書物をも、今日は我から繙くやうになり、隨ツて學業も進歩するの で、人も賞讃せば兩親も喜ばしく、子の生長に其身の老ゆるを忘れて春を送り秋を迎 へる内、文三の十四といふ春、待ちに待ツた卒業も首尾よく濟んだので、ヤレ嬉しや といふ間もなく父親は不圖感染した風邪から餘病を引出し、年比の心勞も手傳ツてド ツと床に就く。藥餌、呪、加持祈祷と人の善いと言ふ程のことを爲盡して見たが、さ て驗も見えず、次第々々に頼み少なに成ツて遂に文三の事を言ひ死に果敢なく成ツて 仕舞ふ。生殘ツた妻子の愁傷は實に比喩を取るに言葉もなくばかり、嗟矣幾程嘆いて も仕方がない、といふ口の下から、ツイ袖に置くは泪の露、漸くの事で空しき骸を菩 提所へ送りて、荼毘一片の烟と立上らせて仕舞ふ。さてかせぎ 人が歿してから家計は一方ならぬ困難。藥禮と葬式の雜用とに多くもない貯蓄を ゲツソり遣ひ減らして、今は殘り少なになる。デモ母親は男勝りの氣丈者、貧苦にめ げない煮焚の業の片手間に、一枚三厘の襯衣を縫けて身を粉にしてかせぐに追付く貧乏もないが、如何か斯うか湯なり粥なりを啜ツ て、公債の利の細い烟を立ててゐる。文三は父親の存生中より、家計の困難に心附か ぬでは無いが、何と言ツてもまだ幼少の事、何時までも其で居られるやうな心地がさ れて、親思ひの心から今に坊が彼して斯うしてと、年齡には増せた事を言ひ出しては、 兩親に袂を絞らせた事は有ツても、又何處ともなく他愛の無い所も有ツて、波に漂う 浮艸のうかうかとして月日を重ねたが、父の死語便のない母親の辛苦心勞を見るに付 け聞くに付け、子供心にも心細くもまた悲しく、始めて浮世の鹽が身に浸みて、夢の 覺めたやうな心地。是からは給仕なりともして、母親の手足にはならずとも責めて我 口だけはとおもふ由をも母に告げて相談をしてゐると、捨てる神あれば助くる神あり で、文三だけは東京に居る叔父の許へ引取られる事になり、泣の泪で靜岡を發足して 叔父を便ツて出京したは明治十一年、文三が十五に成ツた春の事とか。

 叔父は園田孫兵衞と言ひて、文三の亡父の爲めには實弟に當る男。慈悲深く、 憐ツぽく、加之も律儀眞當の氣質ゆゑ、人の望けも宜いが、惜哉些と氣が弱すぎる。 維新後は兩刀を矢立に替へて、朝夕算盤を彈いては見たが、慣れぬ事とて初の内は損 耗ばかり、今日に明日にと喰込んで、果は借金の淵に陷り、如何しよう斯うしようと 足掻きもがいてゐる内、不圖した事から浮み上ツて當今では些 とは資本も出來、地面をも買ひ、小金をも貸付けて、家を東京に持ちながら、其身は 濱のさる茶店の支配人をしてゐる事なれば、左而已富貴と言ふでもないが、まづ融通 のある活計。留守を守る女房のお政は、お摩りからずる/\の後配、歴とした士族の 娘と自分ではいふが……チト考へ物。しかし兎に角、如才のない、世辭のよい、地代 から貸金の催促まで家事一切獨りで切ツて廻る程あツて、萬事に拔目のない婦人。疵 瑕と言ツては唯大酒飮みで、浮氣で、加之も針を持つ事がキツイ嫌ひといふばかり。 さしたる事もないが、人事はよく言ひたがらぬが世の習ひ。彼女は裾張蛇の變生だら う、と近邊の者は影人形を使ふとか言ふ。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢と言 ツて、其頃はまだ十二の蕾。弟を勇と言ツて、是もまた袖で鼻汁拭く灣泊盛り、(是 は當今は某校に入舎してゐて、宅には居らぬので)トいふ家内ゆゑ、叔母一人の氣に 入れば、イザコザは無いが、さて文三には人の機嫌氣褄を取る杯といふ事は出來ぬ 。唯心ばかりは主とも親とも思つて善く事へるが、氣が利かぬと 言ツては睨付けられる事何時も/\。其度ごとに親の有難さが身に染み、骨に耐へて、 袖に露を置くことは有りながら、常に自ら叱ツてヂツと辛抱、使歩行きをする暇には 近邊の私塾へ通學して、暫らく悲しい月日を送ツてゐる。ト、或る時、某學校で生徒 の召募があると塾での評判取り%\。聞けば給費だといふ。何も試しだと文三が試驗 を受けて見た所、幸ひにして及第する、入舎する、ソレ給費が貰へる。昨日までは叔 父の家とは言ひながら、食客の悲しさには追使はれたうへ氣兼苦勞而已をしてゐたの が、今日は外に掣肘る所もなく、心一杯に勉強の出來る身の上となツたから、イヤ喜 んだの喜ばないのと、夫は/\雀躍までして喜んだが、しかし書生と言ツても是もま た一苦界。固より餘所外のおぼツちやま方とは違ひ、親から仕送りなどといふ洒落は ないから、無駄遣ひとては一錢もならず、また爲ようとも思はずして、唯一心に、便 のない一人の母親の心を安めねばならぬ、世話になツた叔父へも報恩をせねばならぬ、 と思ふ心より寸陰を惜んでの刻苦勉強に、學業の進みも著るしく、何時の試驗にも一 番と言ツて二番とは下らぬ程ゆゑ、得難い書生と教員も感心する。サアさうなると傍 が喧ましい。放蕩と懶惰とを經緯の絲にして織上ツたおぼツちやま方が、不負魂の妬 み嫉みからおむづかり遊ばすけれども、文三は其等の事には頓着せず、獨りネビツチ ヨ除け物と成ツて朝夕勉強三昧に歳月を消磨する内、遂に多年螢雪の功が現はれて一 片の卒業證書を懷き、再び叔父の家を東道とするやうに成ツたか ら先づ一安心と、其れより手を替へ品を替へ種々にして仕官の口を探すが、さて探す となると無いもので、心ならずも小半年ばかり燻ツてゐる。其間始終叔母にいぶされ る辛さ苦しさ、初めは叔母も自分ながらけぶさうな貌をして、やは/\吹付けてゐる からまづ宜かツたが、次第にいぶし方に念が入ツて來て、果は生松葉に蕃椒をくべる やうに成ツたから、其けぶいこと此上なし。文三も暫くは鼻を潰してゐたれ、竟には 餘りのけぶさに堪へ兼ねて、噎返る胸を押鎭めかねた事も有ツたが、イヤ/\是れも 自分が腋甲斐ないからだと思ひ返してヂツと辛抱。さういふ所ゆゑ、其後或人の周旋 で某省の准判任御用係となツた時は天へも昇る心地がされて、ホツと一と息吐きは吐 いたが、初て出勤した時は異な感じがした。まづ取調物を受取りて我座になほり、さ て落着いて居廻りを視廻すと、仔細らしく首を傾けて書物をするもの、蚤取眼になツ て校合をするもの、筆を喰へて忙し氣に帳簿を繰るものと種々さま%\有る中に、恰 ど文三の眞向うに八字の浪を額に寄せ、忙しく眼をしばたたきながら間斷もなく算盤 を彈いてゐる年配五十前後の老人が、不圖手を止めて珠へ指ざしをしながら、「エー 六五七十の二……でもなしとエー六五、」と天下の安危此一擧に在りと言ツた樣な、 さも心配相な顏を振揚げて、其くせ口をアンゴリ開いて、眼鏡越しにヂツと文三の顏 を見守め、「ウー八十の二か、」ト一越調子高な聲を振立ててまた一心不亂に彈き出 す。餘りの可笑しさに堪へかねて、文三は覺えずも微笑したが、考へて見れば笑ふ我 と笑はれる人と餘り懸隔のない身の上。アヽ曾て身の油に根氣の心を浸し、眠い眼を 睡ずして得た學力を、斯樣な果敢ない馬鹿氣た事に使ふのかと思へば悲しく、情なく、 我にもなくホツと太息を吐いて、暫くは唯茫然としてゐたが、イヤ/\是れではなら ぬと心を取直して、其日より事務に 取掛る。當座四五日は例の老人の顏を見る毎に嘆息のみしてゐたが、其れも向ふ境界 に移る習ひとかで、日を經る隨に苦にもならなく成る。此月より國許の老母へは月々 仕送りをすれば母親も悦び、叔父へは月賦で借金濟しをすれば叔母も機嫌を直し、其 年の暮に一等進んで本官になり、昨年の暑中には久々にて歸省するなど、いよ/\喜 ばしき事が重なれば、眉の皺も自ら伸び、どうやら壽命も長くなつたやうに思はれる。 ?にチト艶いた一條のお噺があるが、此を記す前に、チヨツピリ孫兵衞の長女 のお勢の小傳を伺ひませう。

 お勢の生立の有樣、生來子煩惱の孫兵衞を父に持ち、他人には薄情でも我子に は眼の無いお政を母に持ツた事ゆゑ、幼少の折より插頭の花、衣の裏の玉と撫で愛ま れ、何でも彼でも言成次第に、オイソレと仕付けられたのが癖と成ツて、首尾よくや んちや娘に成果せた。紐解の賀の濟んだ頃より、父親の望みで小學校へ通ひ、母親の 好みで清元の稽古。生得て才溌の一徳には生覺えながら呑込みも早く、學門、遊藝、 兩つながら出來のよいやうに思はれるから、母親は目も口も一つにして大驩び。尋ね ぬ人にまで吹聽する娘自慢の手前味噌、切りに涎を垂らしてゐた。其頃新に隣家へ引 移ツて參ツた官員は、家内四人活計で、細君もあれば娘もある。隣づからの寒暖の挨 拶が喰付きで親々が心安く成るにつれ、娘同志も親しくなり、毎日のやうに訪ひつ訪 はれつした隣家の娘といふは、お勢よりは二つ三つ年層で、優し く温藉で、父親が儒者のなれの果だけ有ツて、子供ながらも學問が好こそ物の上手で 出來る。いけ年を仕ツても、兎角人眞似は輟められぬもの、況てや子供といふ中にも、 お勢は根生の輕躁者ならば、尚更たちまち其娘に薫陶れて、 起居、擧動から物の言ひざままで其れに似せ、急に三味線を擲却して唐机の上に孔雀 の羽を押立てる。お政は學問などといふ正座つた事は蟲が好かぬが、愛し娘の爲度い と思つて爲る事と、其儘に打棄てて置く内、お勢が小學校を卒業した頃、隣家の娘は 芝邊のさる私塾へ入塾することと成つた。サアさう成るとお勢は矢も楯も堪らず、急 に入塾が爲度くなる。何でも彼でもと親を責がむ、寢言にまで言ツて責がむ。トいツ て、まだ年端も往かぬに、殊にはなまよみの甲斐なき婦人の身でゐながら、入塾など とは以ての外。トサ、一旦は親の威光で叱り付けては見たが、例の絶食に腹を空かせ、 「入塾が出來ない位なら、生きて居る甲斐がない。」ト溜息噛雜ぜの愁訴。萎れ返ツ て見せるに兩親も我を折り、其程までに思ふならばと、萬事を隣家の娘に託して、覺 束無くも入塾させたは今より二年前の事で。

 お勢の入塾した塾の塾頭をして居る婦人は、新聞の受賣からグツと思ひ上りを した女丈夫。しかも氣を使ツて一飮の恩は酬いぬがちでも、睚眥の怨は必ず報ずると いふ蚰蜒魂で、氣に入らぬ者と見れば何彼につけて、眞綿に針のチクチク責をするが 性分。親の前でこそ蛤貝と反身れ、他人の前では蜆貝と縮まるお勢の事ゆゑ、責まれ るのが辛さにこの女丈夫に取入ツて卑屈を働く。固より根がお茶ツぴいゆゑ、其風に は染まり易いか忽ちの中に見違へるほど容子が變り、何時しか隣家の娘とは疎々しく なツた。其後英學を始めてからは、惡足掻もまた一段で、襦袢がシヤツになれば唐人 髷も束髮に化け、ハンケチで咽喉を緊め、鬱陶敷を耐へて眼鏡を掛け、獨よがりの人 笑はせ、天晴一個のキヤツキヤとなり濟ました。然るに去年の暮、例の女丈夫は、教 師に雇はれたとかで退塾した仕舞ひ、其手に屬したお茶ツぴい連も一人去り二人去り して殘少なになるにつけ、お勢も何となく我宿戀しく成ツたれど、正可さうとも言ひ 難ねたが、漢學は荒方出來たと拵へて、退塾して宿所へ歸ツたは今年の春の暮、櫻の 花の散る頃の事で。

 既に記した如く文三の出京した頃は、お勢はまだ十二の蕾。巾の狹い帶を締め て、姉樣を荷厄介にしてゐたなれど、こましやくれた心から、

「彼の人はお前の御亭主さんに貰ツたのだよ。」

 ト座興に言ツた言葉の露を實と汲んだか、初の内ははにかんでばかり居たが、 子供の馴むは早いもので、間もなく菓子一つを二つに割ツて喰べ る程、睦み合ツたも今は一昔。文三が某校へ入舎してからは、相逢ふ事す ら稀なれば、況て一つに居た事は半日もなし。唯今年の冬期休暇にお勢が歸宅した時 而已十日ばかりも朝夕顏を見合はしてゐたなれど、子供の時とは違ひ、年頃が年頃だ けに、文三もよろづに遠慮勝でよそよそ敷待遇して、更に打解けて物など言ツた事な し。其癖お勢が歸塾した當座兩三日は、百年の相識に別れた如く、何となく心淋敷か つたが……それも日數を經る隨に忘れて仕舞ツたのに、今また思懸けなく一つ家に起 臥して、折節は狎々敷物など言ひかけられて見れば、嬉敷もないが一月が復た來たや うで、何となく賑かな心地がした。一人一人殖えた事ゆゑ、是は左もあるべき事なが ら、唯怪しむ可きはお勢と席を同うした時の文三の感情で、何時も可笑しく氣が改ま り、圓めてゐた背を引伸して頸を据ゑ、異う濟して變に旁付ける。魂が裳拔ければ一 心に主とする所なく、居廻りに在る程のもの悉く薄烟に包れて、虚有縹緲の中に漂ひ、 有ると歟と思へばあり、無い歟と想へばない中に、唯一物ばかりは見ないでも見える が、此感情は未だ何とも名け難い。夏の初より頼まれて、お勢に英語を教授するやう に成ツてから、文三も些しく打解け出して、折節は日本婦人の有樣、束髮の利害、さ ては男女交際の得失などを論ずるやうに成ると、不思議や今まで文三を男臭いとも思 はず太平樂を竝べ大風呂敷を擴げてゐたお勢が、文三の前では何時からともなく口數 を聞かなく成ツて、何處ともなく落着いて、優しく女性らしく成ツたやうに見えた。 或一日、お勢の何時になく眼鏡を外して頸巾を取ツてゐるを怪んで、文三が尋ぬれば、 「それでも貴君が、健康な者には却て害になると仰しやツたものヲ。」トいふ。文三 は覺えずも莞然、「それは至極好い事だ。」ト言ツてまた莞然。

 お勢の落着いたに引替へ、文三は何かそはそはし出して、出勤して事務を執り ながらも、お勢の事を思ひ續けに思ひ、退省の時刻を待佗びる。歸宅したとてもお勢 の顏を見ればよし、さも無ければ落膽力拔けがする。「彼女に何したのぢやないのか 知らぬ。」ト或時、我を疑ツて覺えずも顏を赧らめた。

 お勢の歸宅した初より、自分には氣が付かぬでも文三の胸には蟲が生いた。な れども其頃はまだ小さく場取らず、胸に在ツても邪魔に成らぬ而已か、そのムズ/\ と蠢動く時は世界中が一所に集る如く、又此世から極樂浄土へ往生する如く、又春の 日に瓊葩綉葉の間、和氣香風の中に、臥榻を据ゑて其上に臥そべり、次第に遠ざかり 往く虻の聲を聞きながら眠るでもなく眠らぬでもなく、唯ウト/\としてゐるが如く、 何とも彼とも言樣なく愉快ツたが、蟲奴は何時の間にか太く逞しく成ツて、「何した のぢやアないか、」ト疑ツた頃には、既に「添ひ度いの蛇」といふ蛇に成ツて這廻ツ てゐた……。寧ろ難面くされたならば食すべき「たのみ」の餌がないから、蛇奴も餓 死に死んで仕舞ひもしようが、憖に卯の花くだし五月雨の、ふるでもなくふらぬでも なく、生殺しにされるだけに、蛇奴も苦しさに堪へ難ねて歟、のたうち廻ツて腸を噛 斷る……。初の快さに引替へて、文三も今は苦敷なツて來たから、竊かに叔母の顏色 を伺ツて見れば、氣の所爲か粹を通して、見ぬ風をしてゐるらしい。「若しさうなれ ば、最う叔母の許を受けたも同然…… チヨツ寧そ打附けに……」ト思ツた事は屡々 有ツたが、イヤイヤ滅多な事を言出して、取着かれぬ返答をされては、ト思ひ直して ヂツと意馬の絆を引緊め、藻に住む蟲の我から苦しんでゐた……。是からが肝腎要、 囘を改めて伺ひませう。

3. 第三囘 餘程風變りな戀の初峰入り 下

 今年の仲の夏、或る一夜、文三が散歩より歸ツて見れば、叔母のお政は夕暮よ り所用あツて出た儘未だ歸宅せず、下女のお鍋も入湯にでも參ツたものか、是も留守。 唯お勢の子舎に而已光明が射してゐる。文三初は何心なく二階の梯子段を二段三段登 ツたが、不圖立止まり、何か切りに考へながら、一段降りてまた立止まり、また考へ てまた降りる。……俄に氣を取直して、將に再び二階へ登らんとする時、忽ちお勢の 子舎の中に聲がして、

「誰方。」

 トいふ。

「私。」

 ト返答をして、文三は肩を縮める。

「オヤ、誰方かと思ツたら文さん。……淋敷ツてならないから、些とお噺しに入 らツしやいな。」

「エ、多謝う。だが、最う些と後にしませう。」

「何歟御用が有るの。」

「イヤ、何も用はないが……。」

「それぢやア宜いぢやア有りませんか。ネー入らツしやいよ。」

 文三は些し躊躇つて梯子段を降り果て、お勢の子舎の入口まで參りは參ツたが、 中へとては立入らず、唯鵠立んでゐる。

「お這入ンなさいな。」

「エ、エー……。」

 ト言ツた儘、文三は尚ほ鵠立んでモヂ/\してゐる。何歟這入り度くもあり這 入り度くもなし、といつた樣な容子。

「何故貴君、今夜に限ツてそう遠慮なさるの。」

「デモ、貴孃お一人ツ切りぢやア……なんだか……。」

「オヤマア、貴君にも似合はない……アノ何時か、氣が弱くツちやア主義の實行 は到底覺束ない、と仰しやツたのは何人だツけ。」

 ト、しんの首を斜に傾げて嫣然、片 頬に含んだお勢の微笑に釣られて文三は部屋に這入り込み、座に着きながら、

「さう言はれちやア一言もないが、しかし……。」

「些とお遣ひなさいまし。」

 ト、お勢は團扇を取出して文三に勸め、

「しかしどうしましたと。」

「エ、ナニサ、陰口がどうも五月蠅くツて。」

「それはネ。どうせ些とは何かと言ひますのサ。また何とか言ツたツて宜いぢや ア有りませんか、若しお互に潔白なら。どうせ貴君、二千年來の習慣を破るんですも のヲ、多少の艱苦は免れツこは有りませんワ。」

「トハ思つてゐるやうなものの、まさか陰口が耳に入ると厭なものサ。」

「夫はさうですよネー。此間もネ貴君、鍋が生意氣に可笑しな事を言つて私に嬲 ふのですよ。夫からネ、私が餘り五月蠅くなツたから、到底解るまいとは思ひました けれども、試みに男女交際論を説いて見たのですヨ。さうしたらネ、アノなんですツ て、私の言葉には漢語が雜るから、全然何を言ツたのだか解りませんて……眞個に教 育のないといふ者は、仕樣のないものですネー。」

「アハヽヽ其奴は大笑ひだ。……しかし可笑しく思ツてゐるのは、鍋ばかりぢや ア有りますまい、必と母親さんも…。」

「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから、始終可笑しな事を言つちやアから かひますのサ、其れでもネ、其たんびに私が辱しめ/\爲い爲いしたら、あれでも些 とは恥ぢたと見えてネ、此頃ぢやア其樣に言はなくなりましたよ。」

「ヘー、からかふ。どんな事を仰しやツて。」

「アノーなんですツて、其樣に親しくする位なら、寧ろ貴君と……(すこしモヂ /\して

[_]
[2]言ひかねて)
結婚して仕舞へツて……。」

 ト聞くと等しく文三は、駭然としてお勢の顏を見守める。されど此方は平氣の 體で、

「ですがネ、教育のない者ばかりを責める譯にもゆきませんよネー、私の朋友な んぞは、教育の有ると言ふ程有りやしませんがネ、それでもマア普通の教育は享けて ゐるんですよ。それでゐて貴君。西洋主義の解るものは廿五人の内に僅四人しかない の。その四人もネ、塾にゐるうちだけで、外へ出てからはネ、口程にもなく兩親に壓 制せられて、みんなお嫁に往ツたりお婿を取ツたりして仕舞ひましたの。だから今ま で此樣な事を言ツてるものは私ばツかりだとおもふと、何だか心細くツて/\なりま せん。でしたがネ、此頃は貴君といふ親友が出來たから、アノー大變氣丈夫になりま したワ。」

 文三はチヨイと一禮して、

「お世辭にも嬉しい。」

「アラお世辭ぢやア有りませんよ、眞實ですよ。」

「眞實なら尚ほ嬉しいが、しかし私にやア貴孃と親友の交際は到底出來ない。」

「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出來ませんエ。」

「何故といへば、私には貴孃が解らず、また貴孃には私が解らないから、どうも 親友の交際は……。」

「さうですか、それでも私には貴君はよく解ツてゐる積りですよ。貴君は學識が 有ツて、品行が方正で、親に孝行で……。」

「だから貴孃には、私が解らないといふのです。貴孃は私を、親に孝行だと仰し やるけれども、孝行ぢやア有りません。私には……親より……大切な者があります… …。」

 ト、吃りながら言ツて、文三は差俯向いて仕舞ふ。お勢は不思議さうに文三の 容子を眺めながら、

「親より大切な者……親より……大切な……者。親より大切な者は、私にも有り ますワ。」

 文三はうな垂れた頸を振揚げて、

「エ、貴孃にも有りますと。」

「ハア、有りますワ。」

「誰……誰れが。」

「人ぢやアないの。アノ眞理。」

「眞理。」

 ト文三は慄然と胴震ひをして、脣を喰ひしめた儘、暫く無言。稍あツて俄に喟 然として歎息して、

「アヽ貴孃は清淨なものだ、潔白なものだ。……親よりも大切なものは眞理…… アヽ潔白なものだ。……しかし感情といふ者は實に妙なものだナ。人と愚にしたり、 人を泣かせたり、笑はせたり、人をあへたり、揉んだりして玩弄する。玩弄されると 薄々氣が附きながら、其れを制することが出來ない、アヽ自分ながら……。」

 ト些し考へて、稍ありて熱氣となり、

「ダガ、思ひ切れない……どう有ツても思ひ切れない……お勢 さん、貴孃は御自分が潔白だから此樣な事を言ツてもお解りがないかも知れんが、私 には眞理よりか……眞理よりか大切な者があります。去年の暮から全半年、其者の爲 めに感情を支配せられて、寢ても寤めても忘らればこそ、死ぬより辛いおもひをして ゐても、先では毫しも汲んで呉れない。寧ろ強顏なくされたならば、また思ひ切りや うも

[_]
[3]有らうけれども
……。」

 ト些し聲をかすませて、

「なまじひ力におもふの、親友だのといはれて見れば、私は……どうも……どう 有ツても思ひ……。」

「アラ月が。……まるで、竹の中から出るやうですよ。鳥渡御覽なさいよ。」

 庭の一隅に栽込んだ、十竿ばかりの纖竹の葉を分けて出る月のすゞしさ。月夜 見の神の力の測りなくて、斷雲一片の翳だもない蒼空一面にてりわたる清光素色、唯 亭々皎々として雫も滴るばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮られて庭の半より這初め、 中途は縁側へ上ツて座鋪へ這込み、稗蒔の水に流されては金瀲え ん、簷馬の玻璃に透りては玉玲瓏、坐賞の一に影を添へて、孤燈一穗の光を奪ひ、 終に間の壁へ這上る。涼風一陣吹到る毎に、ませ籬によろぼひ懸る夕顏の影法師が婆 娑として舞ひ出し、さては百合の葉末にすがる露の珠が、忽ち螢と成ツて飛迷ふ。艸 花立樹の風に揉まれる音の、颯々とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも須 臾にして風が吹罷めば、また四邊蕭然となつて、軒の下艸に喞く蟲の音のみ獨り高く 聞ゆる。眼に見る景色はあはれに面白い。とはいへ、心に物ある兩人の者の眼には止 まらず、唯お勢が口ばかりで、

「アヽ佳いこと。」

 トいつて、何故ともなく莞然と笑ひ、仰向いて月に見惚れる風をする。其半面 を文三が偸むが如く眺め遣れば、眼鼻口の美しさは常に變ツたこともないが、月の光 を受けて些し蒼味を帶んだ瓜實顏にほつれ掛ツたいたづら髮二筋三筋、扇頭の微風に 戰いで頬の邊を往來する所は慄然とするほど凄味が有る。暫く文三がシゲ/\と眺め てゐると、頓て凄味のある半面が次第々々に此方へ捻れて……パツチリとした涼しい 眼がジロリと動き出して……見とれてゐた眼とピツタリ出逢ふ。螺の壺々口に莞然と 含んだ微笑を細根大根に白魚を五本竝べたやうな手が持つてゐた團扇で隱蔽して、恥 かしさうなこなし。文三の眼は俄に光り出す

「お勢さん。」

 但し震聲で。

「ハイ。」

 但し小聲で。

「お勢さん貴孃もあんまりだ、餘り……殘酷だ。私が是れ……是れ程までに… …。」

 トいひさして、文三は顏に手を宛てて默つて仕舞ふ。意を注めて能く見れば、 壁に寫ツた影法師が、慄然とばかり震へてゐる。今一言……今一言の言葉の關を踰え れば、先は妹背山。蘆垣の間近き人を戀ひ初めてより、晝は終日、夜は終夜、唯其人 の面影而已常に眼前にちらついて、砧に映る軒の月の拂ツてもまた去りかねてゐなが ら人の心を測りかねて、末摘花の色にも出さず、岩堰水の音にも立てず、獨りクヨ/ \物をおもふ胸のうやもや、もだくだを、拂ふも拂はぬも、今一言の言葉の綾……今 一言……僅一言……其一言をまだ言はぬ……折柄がら/\と表の格子戸の開く音がす る。……吃驚して文三はお勢と顏を見合はせる。蹶然と起上る。轉げるやうに部屋を 驅出る。但し其晩は是れ切りの事で、別段にお話なし。

 翌朝に至りて、兩人の者は初て顏を見合はせる。文三はお勢よりも氣まりを惡 るがツて口數をきかず。此夏の事務の鞅掌さ、暑中休暇も取れぬので匆々に出勤する。 十二時頃に歸宅する。下座鋪で晝食を濟まして二階の居間へ戻り、「アヽ熱かツた」 ト風を納れてゐる所へ、梯子パタ/\でお勢が上ツて參り、二つ三つ英語の不審を質 問する。質問して仕舞へば最早用の無い筈だが、何かモヂ/\して交野の鶉を極めて ゐる。頓て差俯向いた儘で鉛筆を玩弄にしながら、

「アノー、昨夜は貴君どうなすつたの。」

 返答なし。

「何だか私が殘酷だツて、大變憤ツていらツしたが、何が殘酷ですの。」

 ト笑顏を擡げて文三の顏を窺くと、文三は狼狽てて彼方を向いて仕舞ひ、

「大抵察してゐながら、其樣な事を。」

「アラ、それでも私にや何だか解りませんものヲ……。」

「解らなければ解らないでよう御座んす。」

「オヤ可笑しな。」

 其から後は文三と差向ひになる毎に、お勢は例の事を種にして、乙う搦んだ水 向け文句。やいの/\と責め立てて、終には「仰しやらぬとくすぐりますヨ、」とま で迫ツたが、石地藏と生れ付いたせうがには、情談のどさくさ紛れに、チヨツクリチ ヨイといツて除ける事の出來ない文三、然らばといふ口付からまづ重くろしく、折目 正しく居ずまツて、しかつべらしく思ひのたけを言ひ出さうとすれば、お勢はツイと 彼方を向いて、「アラ、鳶が飛んでますヨ、」と知らぬ顏の半兵衞模擬。さればとい ツて、手を引けばまた意あり氣な色目遣ひ。トかうじらされて文三は些とウロが來た が、兎も角も觸らば散らうといふ下心の、自ら素振に現はれるに、「ハヽア」と氣が 附いて見れば、嬉しく有難く辱けなく、罪も報も忘れ果てて、命もトントいらぬ顏附。 臍の下を住家として魂が何時の間にか有頂天外へ宿替をすれば靜には坐ツてもゐられ ず、ウロ/\坐鋪を徘徊いて、舌を吐いたり、肩を縮めたり、思ひ出し笑ひをしたり、 又は變ぽうらいな手附をしたりなど、よろづに瘋癲じみるまで喜びは喜んだが、しか しお勢の前ではいつも四角四面に喰ひしばつて、猥褻がましい擧動はしない。最も曾 てじやらくらが嵩じて、どやくやと成ツた時、今まで嬉しさうに笑ツてゐた文三が俄 に兩眼を閉ぢて靜まり返り、何と言ツても口をきかぬので、お勢が笑ひながら、「そ んなに眞面目にお成んなさると、かう爲るからいゝ、」とくすぐりに懸ツた。其の手 頭を拂ひ除けて文三が熱氣となり、「アヽ我々の感情はまだ習慣の奴隸だ。お勢さん 下へ降りて下さい。」といつた爲めに、お勢に憤られたこともあツたが、……しかし、 お勢も日を經るまゝに草臥れたか、餘りじやらくらもしなくなつて、高笑ひを罷めて、 靜かになツて、此頃では折々物思ひをするやうに成ツたが、文三に向ツては、ともす ればぞんざいな言葉遣ひをする所を見れば、泣寢入りに寢入ツたのでもない光景。

 アヽ偶々咲懸ツた戀の蕾も、事情といふ思はぬ沍にかじけて、可笑しくも葛藤 れた縁の絲のすぢりもぢつた間柄。海へも附かず、河へも附かぬ中ぶらりん。月下翁 の惡戯か、それにしても餘程風變りな戀の初峯入り。

 文三の某省へ奉職したは、昨日今日のやうに思ふ間に、既に二年近くになる。 年頃節儉の功が現はれて、此頃では些しは貯金も出來た事ゆゑ、老耋ツたお袋に何時 までも一人住の不自由をさせて置くも不孝の沙汰。今年の暮には東京へ迎へて一家を 成して、而して……と思ふ旨を半分報知せてやれば、母親は大悦び、文三にはお勢と いふ心

[_]
が出來たことは知らぬが佛のやうな慈悲心から、「早く相應な 者を宛がつて、初孫の顏を見度いとおもふは、親の私としてもかうなれど、其地へ往 ツて一軒の家を成すやうになれば、家の大黒柱とて無くて叶はぬは妻。到底貰ふ事な ら親類某の次女お何どのは内端で温順く、器量も十人竝で、私には至極氣に入ツたが、 此娘を迎へて妻としては」と寫眞まで添へての相談に、文三はハツと當惑の眉を顰め て物の序に云々と叔母のお政に話せば、是れもまた當惑の體。初めお勢が退塾して家 に歸ツた頃「勇といふ嗣子があツて見れば、お勢は到底嫁に遣らなければならぬが、 如何だ文三に配偶せては」と孫兵衞に相談をかけられた事も有ツたが、其頃はお政も 左樣さネと生返事。何方附かずに綾なして月日を送る内、お勢の甚だ文三に親しむを 見てお政も遂に其氣になり、當今では孫兵衞が「あヽ仲が好いのは仕合はせなやうな ものの、兩方とも若い者同志だから、さうでもない心得違ひが有ツてはならぬから、 お前が始終看張ツてゐなくツてはなりませぬぜ。」トいツても、お政は「ナアニ大丈 夫ですよ、また些とやそツとの事なら有ツたツて好う御座んさアネ、到底早かれ晩か れ一所にしようと思ツてる所ですものヲ。」と、ズツと粹を通し顏でゐる所ゆゑ、今 文三の話説を聞いて當惑をしたも其筈の事で。「お袋の申さるゝ通り家を有ツやうに なれば、到底妻を貰はずに置けますまいが、しかし氣心も解らぬ者を無暗に貰ふのは 餘りドツとしませぬから、此縁談はまず辭ツてやらうかと思ひます。」と常に變ツた 文三の決心を聞いて、お政は漸く眉を開いて切りに點頭き、「さうともネ/\、幾程 母親さんの氣に入ツたからツて、肝腎のお前さんの氣に入らなきやア不熟の基だ。し かし、よくお話しだツた。實はネ、お前さんのお嫁の事に就ちやア、些イト良人でも 考へてる事があるんだから、是から先き母親さんが、どんな事を言ツておよこしでも、 チヨイと私に耳打してから返事を出すやうにしてお呉んなさいヨ。いづれ良人でお話 し申すだらうが、些イと考へてる事があるんだから……それは然うと、母親さんの貰 ひ度いとお言ひのは、どんなお子だか、チヨイと其寫眞をお見せナ」トいはれて、文 三はさもきまりの惡るさうに、

「エ、寫眞ですか、寫眞は……私の所には有りません。先刻アノ何が……お勢さ んが何です……持ツて往ツてお仕舞ひなすツた……。」

 トいふ光景で、母親も叔父夫婦の者も、宛とする所は思ひ思ひながら、一樣に 今年の晩れるを待侘びてゐる矢端、誰れの望みも、彼れの望みも、一ツにからげて背 負ツて立つ文三が(話を第一囘に戻して)今日思懸けなくも……諭旨免職となツた。 さてもまはりあはせといふものは、是非のないもの。トサ、 昔氣質の人ならば、言ふ所でも有らうか。

4. 第四囘 言ふに言はれぬ胸の中

 さて其日も、漸く暮れるに間もない五時頃に成ツても、叔母もお勢も更に歸宅 する光景も見えず、何時まで待ツても果てしのない事ゆゑ、文三は獨り夜食を濟まし て、二階の縁端に端居しながら、身を丁字欄干に寄せかけて暮れ行く空を眺めてゐる。 此時日は既に萬家の棟に沒しても尚ほ餘殘の影を留めて、西の半天を薄紅梅に染めた。 顧みて東方の半天を眺むれば、淡然とあがツた水色、諦視めたら宵星の一つ二つは鑿 り出せさうな空合。幽かに聞える傳通院の暮鐘の音に誘はれて、塒へ急ぐ夕鴉の聲が、 彼處此處に聞えて喧ましい。既にして日はパツタリ暮れる。四邊はほの暗くなる。仰 向いて瞻る蒼空には、餘殘の色も何時しか消え失せて、今は一面の青海原。星さへ處 斑に燦き出でて、殆んど交睫をするやうな眞似をしてゐる。今しがたまで見えた隣家 の前栽も、蒼然たる夜色に偸まれて、そよ吹く小夜嵐に、立樹の所在を知るほどの闇 さ。デモ、土藏の白壁は、流石に白い丈けに見透かせば見透かされる。……サツと軒 端近くに羽音がする。囘首ツて觀る。……何も眼に遮るものとてはなく、唯最う薄闇 い而已。

 心ない身も、秋の夕暮には哀を知るが習ひ。況て文三は絲目の切れた奴凧の身 の上、其時々の風次第で、落着く先は籬の梅か、物干の竿か、見極めの附かぬ所が浮 世とは言ひながら、父親が歿してから全十年、生死の海のうやつらやの高浪に、搖ら れ搖られて辛うじて泳出した官海も矢張波風の靜まる間がないことゆゑ、どうせ一度 は捨小舟の寄邊ない身に成らうも知れぬと、兼て覺悟をして見ても、其處が凡夫の かなしさで、危に慣れて見れば苦にもならず、宛に成らぬ事を宛にして、文三は今年 の暮にはお袋を引取ツて、チト老樂をさせずばなるまい、國へ歸ると言ツても、まさ かに素手でも往かれまい、親類の所への土産は何にしよう。「ムキ」にしようか品物 にしようかと、胸で彈いた算盤の桁は合ひながらも、兎角合ひかねるは人の身のつば め、今まで見てゐた廬生の夢も一炊の間に覺め果てて、「アヽまた情ない身の上にな ツたかナア……。」

 俄にパツと西の方が明くなツた。見懸けた夢を其儘に文三が振返ツて視遣る向 うは隣家の二階。戸を繰り忘れたものか、まだ障子の儘で人影が射してゐる……。ス ルト其人影が見る間にムク/\と膨れ出して、好加減の怪物となる。パツと消失せて 仕舞ツた跡は、まだ常闇。文三はホツと吐息を吻いて、顧みて我家の中庭を瞰下ろせ ば、處狹きまで植駢べた草花立樹なぞが、佗し氣に啼く蟲の音を包んで、黯黒の中か らヌツと半身を挺出して、硝子張の障子を漏れる火影を受けてゐる所は、家内を覘ふ 曲者かと怪まれる。……ザワ/\と庭の樹立を揉む夜風の餘りに顏を吹かれて文三は 慄然と身震をして起揚り、居間へ這入ツて手探りで洋燈を點し、立膝の上に兩手を重 ねて、何をともなく目守めた儘、暫くは唯茫然。……不圖手近に在ツた藥鑵の白湯を 茶碗に汲取りて、一息にグツト飮乾し、肘を枕に横に倒れて天井に圓く映る洋燈の火 影を見守めながら、莞爾と片頬に微笑を含んだが、開いた口が結ばツて前齒が姿を隱 すに連れ、何處からともなくまた、愁の色が顏に顯はれて參ツた。

「それはさうと如何しようか知らん、到底言はずには置けん事たから、今夜にも 歸ツたら、斷念ツて言ツて仕舞はうか知らん。嘸、叔母が厭な面をする事だらうナア ……眼に見えるやうだ……。しかし其樣な事を苦にしてゐた分には埒が明かない、何 にも是れが金錢を借りようといふのではなし、毫しも恥ケ敷事は ない。チヨツ、今夜言ツて仕舞はう。……だが……お勢がゐては言ひ難いナ、若しヒ ヨツと彼娘の前で厭味なんぞを言はれちやア困る。是は何でも居ない時を見て言ふ事 だ。ゐない……時を……見……。何故、何故言ひ難い。苟も男兒たる者が、零落した のを恥づるとは何だ。其樣な小膽な。糞ツ、今夜言ツて仕舞はう。それは勿論、彼娘 だツて口へ出してこそ言はないが、何でも、來年の春を樂しみにしてゐるらしいから、 今唐突に免職になツたと聞いたら、定めて落膽するだらう。しかし、落膽したからと 言ツて、心變りをするやうな、其樣な浮薄な婦人ぢやアなし、且つ通常の婦女子と違 ツて教育も有ることだから、大丈夫、其樣な氣遣ひはない。それは決してないが、叔 母だテ。……ハテナ、叔母だテ。叔母はあゝいふ人だから、我が免職になツたと聞い たら、急にお勢を呉れるのが厭になツて、無理に彼娘を、他へ嫁づけまいとも言はれ ない。さうなツたからと言ツて此方は何も確い約束がして有るんでないから、否、さ うは成りませんとも言はれない。……嗚呼つまらんつまらん、幾程おもひ直してもつ まらん。全體、何故我を免職にしたんだらう。解らんな。自惚ぢやアないが、我だツ て何も役に立たないといふ方でもなし、また殘された者だツて、何も別段、役に立つ といふ方でもなし。して見れば矢張課長におベツからなかツたから其れで免職にされ たのかな。……實に課長は失敬な奴だ、課長も課長だが、殘された奴等もまた卑屈極 まる。僅かの月給の爲めに腰を折ツて、奴隷同樣な眞似をするなんぞツて、實に卑屈 極まる。……しかし……待てよ……しかし今まで免官に成ツて、程なく復職した者が ないでも無いから、ヒヨツとして明日にも召喚状が……イヤ……來ない。召喚状なん ぞが來て耐るものか。よし來たからと言ツて、今度は此方から辭して仕舞ふ。誰れが 何と言はうと關はない、斷然辭して仕舞ふ。しかし、其れも短氣かな、矢張召喚状が 來たら復職するかナ。……馬鹿奴。それだから我は馬鹿だ、そん な架空な事を宛にして、心配するとは、何んだ馬鹿奴。それよりか、まづ差當り、 エート、何んだツけ……さう/\免職の事を叔母に咄して……嘸厭な面をするこツた らうな。……しかし、咄さずにも置かれないから、思切ツて今夜にも叔母に咄して… …ダガ、彼娘のゐる前では……チヨツ、ゐる前でも關はん、叔母に咄して……ダガ、 若し、彼娘のゐる前で、口汚なくでも言はれたら……チヨツ關はん、お勢に咄して、 イヤ……お勢ぢやない、叔母に咄して……さぞ……厭な顏……厭な顏を咄して……口 ……口汚なく咄……して……アヽ頭が亂れた……。」

 ト、ブル/\と頭を左右へ打振る。

 轟然と驅けて來た車の音が家の前でパツタリ止まる。ガラガラと格子が開く。 ガヤ/\と人聲がする。ソリヤコソと、文三がまづ起直ツて、度胸をついた。兩手を 杖に起たんとしてはまた坐り、坐らんとしてはまた起つ。腰の蝶番は滿足でも、胸の 蝶番が、「言ツて仕舞はうか」、「言難いナ」と離れ%\に成ツてゐるから、急には 起揚られぬ。……俄に蹶然と起揚ツて、梯子段の下口まで參ツたが、不圖立止り、些 し躊躇ツてゐて「チヨツ言ツて仕舞はう。」と獨言を言ひながら急足に二階を降りて、 奧座鋪へ立入る。奧座鋪の長手の火鉢の傍に年配四十恰好の年増、些し痩肉で、色が 淺黒いが、小股の切上ツた、垢拔けのした、何處ともでんぼふ肌の、萎れてもまだ見 處のある花。櫛卷とかいふものに髮を取上げて、小辨慶の絲織の袷衣と養老の浴衣と を重ねた奴を素肌に着て、黒繻子と八段の腹合せの帶をヒツカケ に結び、微醉機嫌の銜楊枝でいびつに坐ツてゐたのはお政で、文三の挨拶するを見て、

「ハイ只今、大層遲かツたらうネ。」

「全體今日は何方へ。」

「今日はネ、須賀町から三筋町へ廻らうと思ツて家を出たんだアネ。さうすると ネ、須賀町へ往ツたら、ツイ近所に、あれは、エート、藝人……なんとか言ツたツけ、 藝人……」

「親睦會。」

「それ/\、その親睦會が有るから一緒に往かうツてネ、お濱さんが勸めきるん サ。私は新富座か、二丁目なら兎も角も、其樣な珍木會とか、親睦會とかいふものな んざア、七里けツぱいだけれども、お勢……ウーイブー……お勢が往き度いといふも んだから、仕樣事なしのお交際で往ツて見たがネ、思ツたよりはサ、私はまた親睦會 といふから、大方演じゆつ會のやうな種のもんかしらとおもツたら、なアに矢張品の 好い寄席だネ。此度文さんも往ツて御覽な、木戸は五十錢だよ。」

「ハア然うですか、其れでは孰れまた。」

 説話が些し斷絶れる。文三は肚の裏に「同じ言ふのなら、お勢の居ない時だ。 チヨツ、今言ツて仕舞はう。」ト思ひ決めて、今將に口を開かんとする。……折しも 縁側にバタバタと跫音がして、スラリと背後の障子が開く。振反ツて見れば……お勢 で、年は鬼もといふ十八の娘盛り、瓜實顏で富士額、生死を含む眼元の鹽にピンとは ねた眉で力味を付け、壺々口の緊笑ひにも愛嬌をくくんで無暗には滴さぬほどのさび。 脊はスラリとして、風に搖めく女郎花の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよや か。慾には最うすこし、生際と襟足とを善くして貰ひ度いが、何にしても七難を隱す といふ雪白の羽二重肌。淺黒い親には似ぬ鬼子でない天人娘、艶やかな黒髮を惜氣も なく、グツと引詰めての束髮。薔薇の花插頭を插したばかりで、臙脂も嘗めねば鉛華 も施けず、衣服とても絲織の袷衣に、友禪と紫繻子の腹合せの帶か何かで、さして取 繕ひもせぬが、故意とならぬ眺めはまた格別なもので、火をくれ て枝を撓めた作花の、厭味のある色の及ぶ所でない。衣通姫に小 町の衣を懸けたといふ文三の品題は、それは、惚れた慾目の贔屓沙汰かも知れないが、 兎にも角にも十人竝優れて美しい。座鋪へ這入ざまに、文三と顏を見合はして莞然。 チヨイと會釋をして摺足でズーと火鉢の側まで參り、温藉に座に着く。

 お勢と顏を見合はせると、文三は不思議にもガラリと氣が變ツて、咽元まで込 み上げた免職の二字を鵜呑みにして何喰はぬ顏色、肚の裏で「最うすこし經ツてか ら。」

「母親さん、咽が涸いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ。」

「アイヨ。」

 トいツてお政は茶箪笥を覗き、

「オヤ/\、茶碗が皆汚れてる……鍋。」

 ト呼ばれて出て來た者を見れば、例の日の丸の紋を染拔いた首の持主で、空嘯 いた鼻の端に突出された汚穢物を受取り、振榮えのあるお尻を振立てて却退る。軈て 洗ツて持ツて來る、茶を入れる、サア其れからが、今日聞いて來た歌曲の噂で、母子 二つの口が結ばる暇なし。免職の事を吹聽し度くも、言出す潮がないので、文三は餘 儀なく聽き度くもない咄を聞いて、空しく時刻を移す内、説話は漸くに清元、長唄の 優劣論に移る。

「母親さんは、自分が清元が出來るもんだから、其樣な事をお言ひだけれども、 長唄の方が好いサ。」

「長唄も岡安ならまんざらでもないけれども、松永は唯つツこむばかりで、面白 くもなんとも有りやアしない。それよりか清元の事サ、どうも意氣でいゝワ……四谷 で初て逢うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の絲車。」

 ト中音で口癖の清元を唄ツて、ケロリとして、

「いゝワ。」

「其通り、品格がないから嫌ひ。」

「また始まツた。ヘン、跳馬ぢやアあるまいし、番毎に品々も五月蠅い。」

「だツて、人間は品格が第一ですワ。」

「ヘン、そんなにお人柄なら、

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[4]
込みのおでんなんぞを喰べ度いと言はないがいゝ。」

「オヤ 何時、私がそんな事を言ひました。」

「はい、一昨日の晩いひました。」

「嘘ばツかし。」

 トは言ツたが、大いにへこんだので大笑ひとなる。不圖お政は、文三の方を振 向いて、

「アノ、今日出懸けに母親さんの所から郵便が着いたツけが、お落掌か。」

「ア、眞に然うでしたツけ、薩張忘却れてゐました。……エー母からも、此度は 別段に手紙を差上げませんが、宜しく申上げろと申すことで。」

「ハアさうですか、其れは。それでも母親さんは、何時もお異ンなすツたことも 無くツて。」

「ハイ、お蔭さまと丈夫ださうで。」

「それはマア、何よりの事だ。嘸、今年の暮を樂しみにして、およこしなすツた らうネ。」

「ハイ、指ばかり屈ツて居ると申してよこしました……。」

「さうだらうてネ。可愛い息子さんの側へ來るんだものヲ。それをネー、何處か の人みたやうに、親を馬鹿にしてサ。一口いふ二口目には、直に揚足を取るやうだと 義理にも可愛いと言はれないけれど、文さんは親思ひだから、母親さんの戀しいのも 亦一倍サ。」

 トお勢を尻目にかけて、からみ文句で宛る。お勢はまた始まツた、といふ顏色 をして彼方を向いて仕舞ふ。文三は餘儀なささうに、エヘヽ笑ひをする。

「それから、アノー、例の事ネ、あの事をまた、何とか言ツてお遣しなすツたか い。」

「ハイ、また言ツてよこしました。」

「なんてツてネ。」

「ソノー、氣心が解らんから厭だといふなら、エー、今年の暮、歸省した時に、 逢ツてよく氣心を洞察いた上で極めたら好からう、といツて遣しましたが、しかし… …。」

「なに、母親さん。」

「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にも此間話したアネ、文さんの……。」

 お勢は獨り切りに點頭く。

「ヘー。其樣な事を言ツておよこしなすツたかい、ヘー、然うかい……それに 附 け ても、早く内で歸ツて來れば好いが……イエネ、此間もお咄し申した通り、お前さん のお嫁の事に付いちやア、内でも些と考へてる事も有るんだから……尤も私も聞いて 知ツてる事だから、今咄して仕舞ツてもいゝけれども……。」

 ト些し考へて、

「何時返事をお出しだ。」

「返事は最う出しました。」

「エ。モー出したの。今日。」

「ハイ。」

「オヤマア文さんでもない。私になんとか、一言咄してから、お出しならいゝの に。」

「デスガ……。」

「それはマア兎も角も、何と言ツてお上げだ。」

「エー、今は仲々婚姻どころぢやアないから……。」

「アラ、其樣な事を云ツてお上げぢやア、母親さんが尚ほ心配なさらアネ。それ よりか……。」

「イエ、まだお

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[5]咄
し申さぬから何ですが……。」

「マアサ、私の言ふ事をお聞きよ。それよりかアノ、叔父も何だか考へがあると いふから、いづれ篤りと相談した上でとか、そもなきやア此地に心當りがあるから… …。」

「母親さん、其樣な事を仰しやるけれど、文さんは此地に何か心當りがお有んな さるの。」

「マアサ、有ツても無くツても、さう言ツてお上げだと、母親さんが安心なさら アネ……イエネ、親の身に成ツて見なくツちやア解らぬ事だけれども、子供一人身を 固めさせようといふのは、どんなに苦勞なもんだらう。だから、お勢みたやうな如此 な親不孝な者でも、さう何時までもお懷中で遊ばせても置けないと思ふと、私は苦勞 で/\ならないから、此間も私がネ、『お前も最う押付けお嫁に往かなくツちやアな らないんだから、ソノー、なんだとネー、何時までも其樣なに子供の樣な心持でゐち やアなりませんと、それも母親さんのやうに此樣な氣樂な家へ、お嫁に往かれりやア 兎も角もネー、若しヒヨツと先に姑でもある處へ往ツて御覽、なか/\此樣なに、我 儘氣儘をしちやアゐられないから、今の内に些と、覺悟をして置かなくツちやアなり ませんよ。』と、私が、先へ寄ツて苦勞させるのが可憐さうだから、爲をおもツて言 ツて遣りやアネ、文さん、マア聞いてお呉れ、斯うだ。『ハイ、私にやア私の了簡が 有ります、ハイ、お嫁に往かうと往くまいと私の勝手で御座います。』といふんだよ。 それからネ、私が、『オヤ、其れぢやアお前はお嫁に往かない氣かエ。』と聞いたら ネ、『ハイ、私は生一本で通しますツて……』マア、呆れかへるぢやアないかネー、 文さん。何處の國に、お前、尼ぢやあるまいし、亭主持たずに一生暮すものが有る者 かネ。」

 是は萬更形のないお噺でもない。四五日前、何かの小言序に、お政が尖り聲で、 「ほんとにサ、戯談ぢやアない、何歳になるとお思ひだ。十八ぢやアないか。十八に も成ツてサ。好頃嫁にでも往かうといふ身でゐながら、なんぼなんだツて、餘り勘辨 がなさすぎらア。アヽ/\早く嫁にでも遣り度い。嫁に往ツて、小喧しい姑でも持ツ たら、些たア親の難有味が解るだらう。」と言ツたのが原因で、些ばかりいぢり合を した事が有ツたが、お政の言ツたのは全く其作替で。

「トいふが畢竟るとこ、是れが晩熟だからの事サ。私共がこの位の時分にやア、 チヨイとお洒落をしてサ、小色の一ツもかせいだもんだけれ ども……。」

「また猥褻。」

 トお勢は顏を顰める。

「オホヽヽヽヽ、ほんとにサ。仲々小惡戯をしたもんだけれども、此娘はヅー體 ばかり大きくツても、一向しきなお懷中だもんだから、それで何時まで經ツても、世 話ばツかり燒けてなりアしないんだよ。」

「だから母親さんは厭よ、些とばかりお酒に醉ふと、直に親子の差合ひもなく、 其樣な事をお言ひだものヲ。」

「ヘー/\、恐れ煎豆はじけ豆ツ。あべこべに御意見か。ヘン、親の謗はしりよ りか、些と自分の頭の蠅でも逐ふがいゝや、面白くもない。」

「エヘヽヽヽヽ。」

「イエネ、此通り親を馬鹿にしてゐて、何を言ツても、迚も、私共の言ふ事を用 ひるやうな、そんな素直なお孃さまぢやアないんだから、此度文さん、ヨーク腹に落 ちるやうに、言ツて聞かせてお呉んなさい。これでもお前さんの言ふ事なら、些たア 聞くかも知れないから。」

 トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖一ツ隔てて、お鍋の聲として、

「あんな帶留……どめ……を。」

 此方の三人は、吃驚して顏を見合はせ、「オヤ、鍋の寢言だよ。」と果ては大 笑ひになる。お政は仰向いて柱時計を眺め、

「オヤ、最う十一時になるよ、鍋の寢言を言ふのも無理はない。サア/\、寢ま せう/\、あんまり夜深しをすると、また翌日の朝がつらい。それぢやア文さん、先 刻の事はいづれまた、翌日にも緩り咄しませう。」

「ハイ私も……私も是非、お咄し申さなければならん事が有りますが、いづれま た明日……それではお休み。」

 ト挨拶をして、文三は座鋪を立出で、梯子段の下まで來ると、後より、

「文さん、貴君の處に今日の新聞が有りますか。」

「ハイ有ります。」

「最うお讀みなすツたの。」

「讀みました。」

「それぢやア拜借。」

 トお勢は、文三の跡に從いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ツて、 お勢に渡すと、

「文さん。」

「エ。」

 返答はせずして、お勢は唯笑ツてゐる。

「何です。」

「何時か頂戴した寫眞を、今夜だけお返し申しませうか。」

「何故。」

「それでも、お淋敷からうとおもツて、オホヽヽ。」

 ト笑ひながら、逃ぐるが如く二階を驅下りる。そのお勢の後姿を見送ツて、文 三は吻と溜息を吐いて、

「ます/\言難い。」

 一時間程を經て、文三は漸く寢支度をして褥へは這入ツたが、さて眠られぬ儘 に、過去將來を思ひ囘らせば囘らすほど、尚ほ氣が冴えて眼も合はず。是ではならぬ と氣を取直し、緊敷兩眼を閉ぢて、眠入ツた風をして見ても、自ら欺くことも出來ず、 餘儀なく寢返りを打ち、溜息を吻きながら、眠らずして夢を見てゐる内に、一番鷄が 唱ひ、二番鷄が唱ひ、漸く曉近くなる。「寧そ今夜は此儘で。」トおもふ頃に、漸く 眼がしよぼついて來て、頭が亂れだして、今迄眼面に隱見いてゐた母親の白髮首に疎 らな黒髭が生えて……課長の首になる。そのまた恐らしい髭首が、暫くの間、眼まぐ ろしく水車の如くに廻轉ツてゐる内に、次第々々に小さく成ツて、……軈て相好が變 ツて……何時の間にか薔薇の花插頭を插して……お勢の……首……に……な……。

5. 第五囘 胸算違ひから見一無法な難題

 枕頭で喚覺ます下女の聲に、見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽へた顏を振 揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜に射してゐる。「ヤレ寢過したか… …。」と思ふ間もなく、引續いてムク/\と浮み上ツた「免職」の二字で狹い胸がま づ塞がる……。おんばこを振掛けられた死蟇の身で躍り上り、 衣服を更めて夜の物を揚げあへず、楊枝を口へ頬張り、古手拭を前帶に插んで周章て て、二階を降りる。其跫音を聞きつけてか、奧の間で「文さん疾く爲ないと遲くなる よ。」トいふお政の聲は圭角はないが、文三の胸にはギツクリ應へて、返答に迷惑く。 そこで頬張ツてゐた楊枝を是れ幸ひと、我にも解らぬ出鱈目を口籠勝に言ツてまづ一 寸逃れ、

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[6]
々に顏を洗ツて朝飯の膳 に向ツたが、胸のみ塞がツて箸の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で濟まして、何 時もならグツと突き出す膳も、ソツと片寄せるほどの心遣ひ。身體まで俄に小さくな ツたやうに思はれる。

 文三が食事を濟まして縁側を廻り、竊かに奧の間を覗いて見れば、お政ばかり でお勢の姿は見えぬ。お勢は近屬、早朝より駿河臺邊へ英語の稽古に參るやうになツ たことゆゑ、偖は今日も最う出かけたのかと、恐る/\座鋪へ這入ツて來る。その文 三の顏を見て、今まで火鉢の琢磨をしてゐたお政が、俄に光澤布巾の手を止めて、不 思議さうな顏をしたも其筈。此時の文三の顏色がツイ一通の顏色でない。蒼ざめてゐ て力なささうで、悲しさうで、恨めしさうで、恥かしさうで、イヤハヤ何とも言樣が ない。

「文さん、どうかお爲か、大變顏色がわりいよ。」

「イエ、如何も爲ませぬが……。」

「其れぢやア疾くお爲よ、ソレ御覽な、モウ八時にならアネ。」

「エー、まだお話し……申しませんでしたが……實は、さくじつ……め……め… …。」

 息氣はつまる、冷汗は流れる、顏は赧くなる、如何にしても言切れぬ。暫く無 言でゐて、更に出直して、

「ム、めん職になりました。」

 ト一思ひに言放ツて、ハツと差俯向いて仕舞ふ。聞くと等しく、お政は手に持 ツてゐた光澤布巾を宙に釣るして、

「オヤ」と、一聲叫んで身を反らした儘一句も出でばこそ、暫くは唯茫然として 文三の貌を見守めてゐたが、稍あツて忙はしく布巾を擲却り出して、小膝を進ませ、

「エ、御免にお成りだとエ……オヤマア、どうしてマア。」

「ど、ど、如何してだか……私にも解りませんが、……大方……ひ、人減らしで ……。」

「オーヤ/\、仕樣がないネー、マア御免になツてサ。ほんとに仕樣がない ネー。」と落膽した容子。須臾あツて、

「マアそれはさうと、是からは如何して往く積りだエ。」

「どうも仕樣が有りませんから、母親には最う些し國に居て貰ツて、私はまた官 員の口でも探さうかと思ひます。」

「官員の口てツたツて、チヨツクラチヨイと有りやアよし、無からうもんなら、 また何時かのやうな、憂い思ひをしなくツちやアならないやアネ……。だから私が言 はない事ちやアないんだ、些イと課長さんの處へも御機嫌伺ひにお出でお出でと、口 の酸ぱくなるほど言ツても、強情張ツてお出ででなかツたもんだから、其れで此樣な 事になツたんだよ。」

「まさか然ういふ譯でもありますまいが……。」

「いゝえ、必とさうに違ひないよ。でなくツて、成程人減らしだツて、罪も咎も ない者をさう無暗に御免になさる筈がないやアネ……。それとも何歟、御免になツて も仕樣がないやうな、わるい事をした覺えがお有りか。」

「イエ、何にも惡い事をした覺えは有りませんが……。」

「ソレ御覽なネ。」

 兩人とも暫く無言。

「アノ本田さんは(此男の事は第六囘に委曲しく)どうだツたエ。」

「彼の男はよう御座んした。」

「オヤ善かツたかい。さうかい。運の善い方は何方へ廻つても善いんだネー、其 れといふが、全體あの方は如才がなくツて、發明で、ハキ/\してお出でなさるから だよ。それに聞けば課長さんの處へも、常不斷御機嫌伺ひにお出でなさるといふ事だ から、必と其れで今度も善かツたのに違ひないよ。だから、お前さんも、私の言ふ事 を聞いて、課長さんに取入ツて置きやア、今度も矢張善かツたのかも知れないけれど も、人の言ふ事をお聞きでなかツたもんだから、其れで此樣な事になツちまツたん だ。」

「それはさうかも知れませんが、しかし、幾程免職になるのが恐いと言ツて、私 にはそんな卑劣な事は……。」

「出來ないとお言ひのか……。フン、瘠我慢をお言ひでない、そんな了簡方だか ら、課長さんにも睨められたんだ。マア、ヨーク考へて御覽。本田さんのやうな、彼 樣な方でさへ御免なツてはならないと思ひなさるもんだから、手間暇かいて、課長さ んに取入らうとなさるんぢやアないか。まして、お前さんなんざア、さう言ツちやア なんだけれども、本田さんから見りやア……なんだから、尚更の事だ。それもネー、 是れがお前さん一人の事なら、風見の烏みたやうに、高くばツかり止まツて、食ふや 食はずにゐようと居まいと、そりやア最う、如何なりと御勝手次第さ。けれども、お 前さんには、母親さんといふものが有るぢやアないかエ。」

 母親と聞いて、文三の萎れ返るを見て、お政は好い責道具を視付けたといふ顏 付。長羅宇の烟管で席を叩くをキツカケに、

「イエサ、母親さんが、お可哀さうぢやアないかエ。マア篤り、胸に手を宛てて 考へて御覽。母親さんだツて、父親さんには早くお別れなさるし、今ぢや便りにする なア、お前さんばツかりだから、如何樣にか心細いか知れない。なにも彼して、お國 で一人暮しの不自由な思ひをしてお出でなさり度くもあるまいけれども、それも、是 れも、皆お前さんの立身するばツかりを樂みにして、辛抱してお出でなさるんだよ。 そこを些しでも汲分けてお出でなら、假令どんな辛いと思ふ事が有ツても、厭だと思 ふ事があツても、我慢をしてサ、石に噛付いても出世をしなくツちやアならないと、 心懸けなければならない所だ。それをお前さんのやうに、ヤ、人の機嫌を取るのは厭 だの、ヤ、そんな卑劣な事は出來ないのと、其樣な我儘氣儘を言ツて、母親さんまで 路頭に迷はしちやア、今日冥利がわりいぢやないか。それやア、モウ、お前さんは自 分の勝手で、苦勞するんだから、關ふまいけれども、其れぢやア母親さんがお可哀さ うぢやないかい。」

 ト層にかゝツて極付けれど、文三は差俯向いた儘で返答をしない。

「アヽ/\、母親さんも彼樣に、今年の暮を樂みにしてお出でなさる處だから、 今度御免にお成りだとお聞きなすツたら、嘸、マア、落膽なさる事だらうが、年を寄 ツて御苦勞なさるのを見ると、眞個にお痛はしいやうだ。」

「實に母親には面目が御座んせん。」

「當然サ、二十三にも成ツて、母親さん一人さへ樂に養す事が出來ないんだもの ヲ、フヽン、面目が無くツてサ。」

 ト、ツンと濟まして空嘯き、烟草を環に吹いてゐる。其のお政の半面を、文三 は畏らしい顏をして佶と睨付け、何事をか言はんとしたが……氣を取り直して、莞爾 微笑した積りでも顏へ顯はれた所は苦笑ひ。震聲とも附かず、笑聲とも附かぬ聲で、

「ヘヽヽ面目は御座んせんが、しかし……出……出來た事なら……仕樣が有りま せん。」

「何だとエ。」

 トいひながら、徐かに此方を振向いたお政の顏を見れば、何時しか額に芋むしほどの青筋を張らせ、癇癪の眥を釣上げて、唇をヒン曲げて ゐる。

「イエサ、何とお言ひだ。出來た事なら仕樣が有りませんと……。誰れが出來し た事たエ、誰れが御免になるやうに仕向けたんだエ、みな自分の頑固から起ツた事ぢ やアないか。其れも傍で氣を附けぬ事か、さんざツぱら、人に世話を燒かして置いて、 今更御免になりながら面目ないとも思はないで、出來た事なら仕樣が有りませんとは、 何の事たエ。それはお前さんあんまりといふもんだ。餘り人を踏付けにすると言ふも んだ。全體マア、人を何だと思つてお出でだ。そりやア、お前さんの事だから、鬼老 婆とか、糞老婆とか言ツて、他人にしてお出でかも知れないが、私ア何處までも叔母 の積りだよ。ナアニ、是が他人で見るがいゝ、お前さんが御免になツたツて成らなく ツたツて、此方にやア痛くも痒くも何とも無い事だから、何で世話を燒くもんですか。 けれども、血は繋らずとも、縁あつて叔母となり、甥となりして見れば、然うしたも んぢやア有りません。ましてお前さんは、十四の春ポツと出の山出しの時から長の年 月此私が婦人の手一つで頭から足の爪頭までの事を世話アしたから、私にはお前さん を、御迷惑かは知らないが、血を分けた息子同樣に思ツてます。あゝやツてお勢や勇 といふ子供が有ツても、些しも陰陽なくしてゐる事が、お前さんにやア解らないかエ。 今までだツても然うだ、何卒マア、文さんも首尾よく立身して、早く母親さんを此地 へお呼び申すやうにして上げ度いもんだと思はない事は唯の一日も有りません。そん なに思ツてる所だものを、お前さんが御免にお成りだと聞いちやア私は愉快はしな いよ。愉快はしないから、アヽ困ツた事に成ツたと思ツて、ヤレ是れからはどうして 往く積りだ、ヤレお前さんの身になツたら嘸、母親さんに面目があるまいと、人事に しないで歎いたり、悔んだりして心配してる所だから、全體なら、叔母さんの了簡に 就かなくツて、かう御免になツて實に面目が有りません、とか何とか、詫言の一言で も言ふ筈の所だけれど、それも言はないでもよし、聞き度くもないが、人の言ふ事を 取上げなくツて御免になりながら、糞落着に落着拂つて、出來た事なら仕樣が有りま せんとは、何の事たエ。

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[7]マ 何處を
押せば其樣な音が出ま す……。アヽ/\つまらない心配をした、此方ではどこまでも實の甥と思ツて、心を 附けたり、世話を燒いたりして、親切を盡してゐても、先樣ぢや屁とも思召さない。」

「イヤ決して、然う言ふ譯ぢやア有りませんが、御存知の通り、口不調法なので、 心には存じながら、ツイ……。」

「イヽエ、其樣な言譯は聞きません。なんでも私を他人にしてお出でに違ひない、 糞老婆と思ツてお出でに違ひない……。此方はそんな不實な心意氣の人と知らないか ら、文さん何時までも彼やつて一人でもゐられまいから、來年母親さんがお出でなす ツたら、篤り御相談申して、誰れと言ツて宛もないけれども、相應なのが有ツたら一 人授け度いもんだ。夫にしても外人と違ツて、文さんがお嫁をお貰ひの事だから默ツ てもゐられない。何かしら祝つて上げなくツちやアなるまいからツて、此頃ぢやア、 アノ、博多の帶をくけ直さして、コノお召縮緬の小袖を仕立直さして、あれをかうし て、是れをかうしてと、毎日々々考へてばツかりゐたんだ。さうしたら案外で、御免 になるもいゝけれども、面目ないとも思はないで、出來た事なら仕樣が有りませぬと、 濟まアしてお出でなさる。……アヽ/\、最ういふまいいふまい、幾程言ツても他人 にしてお出でぢやア無駄だ。」

 ト厭味文句を竝べて始終癇癪の思入、暫く有ツて、

「それもさうだが、全體其位なら、昨夕の中に、實は是々で御免になりましたと、 一言位言ツたツてよささうなもんだ。お話しでないもんだから、此方は其樣な事とは 夢にも知らず、お辨當のお菜も毎日おんなじものばツかりでもお倦きだらう、アヽし て勉強してお勤にお出での事だから、其位の事は、此方で氣を附けて上げなくツちや アならないと思ツて、今日のお辨當のお菜は、玉子燒にして上げようと思ツても鍋に は出來ず、餘儀處ないから、私が面倒な思ひをして、拵へて附けましたアネ。…… アヽ/\偶に人が氣を利かせれば、此樣な事た。……しかし、飛んだ餘計なお世話で したよネー。誰れも頼みもしないのに、鍋……。」

「ハイ。」

「文さんのお辨當は打開けてお仕舞ひ。」

 お鍋女郎は、襖の彼方から横巾の廣い顏を差出して、「ヘー」ト、モツケな顏 付。

「アノネ、内の文さんは、昨日御免にお成りだツサ。」

「へーそれは。」

「どうしても働きのある人は、フヽン、違ツたもんだよ。」

 ト半まで言切らぬ内、文三は血相を變へて突と身を起し、ツカ/\と座鋪を立 出でて我子舎へ戻り、机の前にブツ坐ツて、齒を噛切ツての悔涙、ハラ/\と膝へ零 した。暫く有ツて文三は、はふり落ちる涙の雨を、ハンカチーフで拭止めた……が、 さて、拭ツても取れないのは、沸返る胸のムシヤクシヤ。熟々と思廻らせば廻らすほ ど、悔しくも、又、口惜しくなる。免職と聞くより早く、ガラリと變る人の心のさも しさは、道理らしい愚癡の蓋で、隱蔽さうとしても看透かされる。とはいへ、其れは、 忍ばうと思へば忍びもならうが、面のあたりに、意氣地なしと言はぬばかりのからみ 文句。人を見括ツた一言ばかりは、如何にしても腹に据ゑかねる。何故意氣地がない とて叔母があヽ嘲り辱めたか、其處まで思ひ廻らす暇がない。唯最う腸が斷れるばか りに悔しく、口惜しく、恨めしく、腹立たしい。文三は憤然として、「ヨシ先が其氣 なら、此方も其氣だ、畢竟姨と思へばこそ、甥と思へばこそ、言度い放題をも言はし て置くのだ。ナニ縁を斷ツて仕舞へば赤の他人、他人に遠慮も絲瓜も入らぬ事だ……。 糞ツ、面當半分に下宿をして呉れよう……。」ト腹の裏で獨言をいふと、不思議やお 勢の姿が目前にちらつく。「ハテさうしては、彼娘が……」ト文三は少し萎れたが、 ……不圖、又叔母の惡々しい者面を憶出して、又憤然となり、「糞ツ、止めても止ま らぬぞ、」ト何時にない斷念のよさ。かう腹を定めて見ると、サアモウ、一刻も居る のが厭になる、借住居かとおもへば、子舎が氣に喰はなくなる。我物でないかと思へ ば、縁の缺けた火入まで氣色に障る。時計を見れば早十一時、今から荷物を取旁付け て、是非とも今日中には下宿を爲よう、と思へば心までいそがれ、「糞ツ、止めても 止まらぬぞ、」と口癖のやうに言ひながら、焦氣となツて其處らを取旁付けにかゝり、 何か探さうとして机の抽出を開け、中に納れてあツた年頃五十の上をゆく白髮たる老 婦の寫眞にフト眼を注めて、我にもなく熟々と眺め入ツた。是れは老母の寫眞で。御 存知の通り、文三は生得の親おもひ、母親の寫眞を視て我が辛苦を嘗め艱難を忍び

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[8]なから
、定めない浮世に存生へてゐたのは、自分一人の爲 而已でない事を想出し、我と我を叱りもし又勵ましもする事何時も/\。今も今母親 の寫眞を見て、文三は日頃喰付けの感情をおこし、覺えずも悄然と萎れ返ツたが、又 惡々敷い叔母の者面を憶出して又焦氣となり、拳を握り齒を喰切り、「糞ツ、止めて も止まらぬぞ、」ト獨言を言ひながら、再び將に取旁付に懸らんとすると、二階の上 り口で、「お飯で御座いますよ、」ト下女の呼ぶ聲がする。故らに二三度呼ばして返 事にも勿體をつけ、しぶ/\二階を降りて、氣六ケ敷い、苦り切ツた怖ろしい顏色を して奧座鋪の障子を開けると……お勢がゐる。お勢が……。今まで殘念口惜しいと而 已一途に思詰めてゐた事ゆゑ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず、忘れると もなく忘れてゐたが、今突然、可愛らしい眼と眼を看合はせ、しをらしい口元で嫣然 笑はれて見ると……淡雪の日の目に逢ツて解けるが如く胸の鬱結も解けて、ムシヤク シヤも消え消えになり、今迄の我を怪しむばかりの心の變動、心底に沈んでゐた嬉し み、難有みが、思ひ懸けなくも、ニツコリ、顏へ浮み出し懸ツた……が、グツと飲込 んで仕舞ひ、心では笑ひながら、顏では懣てて膳に向ツた。さて食事も濟む。二階へ 立戻ツて、文三が再び取旁付に懸らうとして見たが、何となく拍子拔けがして、以前 のやうな氣力が出ない。ソツと小聲で「大丈夫、」ト言ツて見たが、どうも氣が引立 たぬ。依て更に出直して、「大丈夫、」と焦氣とした風をして見て、齒を喰切ツて見 て、「一旦思ひ定めた事を變がへるといふ事が有るものか。……知らん、止めても止 まらんぞ。」

 ト言ツて、出て往けば、彼娘を捨てなければならぬか、ト落膽したおもむき。 今更未練が出てお勢を捨てるなどといふ事は勿體なくて出來ず。ト言ツて、叔母に詫 言を言ふも無念。あれも厭なり、是れも厭なりで、思案の絲筋が縺れ出し、肚の裏で は上を下へとゴツタ返すが、此時より既にどうやら人が止めずとも、遂には我から止 まりさうな心地がせられた。「マア兎も角も、」と取旁付に懸りは懸ツたが考へなが らするので思の外暇取り、二時頃までかゝツて漸く旁付け終り、ホツと一息吐いてゐ ると、ミシリミシリと梯子段を登る人の跫音がする。跫音を聞いたばかりで、姿を見 すとも、文三にはそれと解ツた者か、先刻飮込んだニツコリを、 改めて顏へ現はして其方を振向く。上ツて來た者はお勢で、文三の顏を見て、是もま たニツコリして、さて座鋪を見廻し、

「オヤ、大變旁付いたこと。」

「餘りヒツ散らかツてゐたから。」

 ト我知らず言ツて、文三は我を怪んだ。何故虚言を言ツたか、自分にも解りか ねる。お勢は座に着きながら、さして吃驚した樣子もなく、

「アノ今母親さんがお噺しだツたが、文さん、免職におなりなすツたとネ。」

「昨日、免職になりました。」

 ト文三も今朝とはうツて反ツて、今は其處どころで無い、と言ツたやうな顏付。

「實に面目は有りませんが、しかし幾程悔んでも出來た事は仕樣が無いと思ツて、 今朝母親さんに御風聽申したが……叱られました。」

 トいツて、齒を噛切ツて差俯向く。

「さうでしたとネー、だけれども……。」

「二十三にも成ツて、親一人樂に過す事の出來ない意氣地なし、と言はないばか りに仰しやツた。」

「然うでしたとネー、だけれども……。」

「成程私は意氣地なしだ。意氣地なしに違ひないが、しかし、なんぼ叔母甥の間 柄だと言ツて、面と向ツて意氣地なしだ、と言はれては腹も立たないが、餘り……。」

「だけれども、あれは母親さんの方が不條理ですワ。今もネ、母親さんが得意に なツてお話しだツたから、私が議論したのですよ。議論したけれども、母親さんには 私の言ふ事が解らないと見えてネ、唯腹ばツかり立ててゐるのだから、教育の無い者 は仕樣がないのネー。」

 ト極り文句。文三は垂れてゐた頭をフツと振擧げて、

「エ、母親さんと議論を成すツた。」

「ハア。」

「僕の爲めに。」

「ハア、君の爲めに辯護したの。」

「アヽ。」

 ト言ツて、文三は差俯向いて仕舞ふ。何だか膝の上へ、ボツタリ零ちた物が有 る。

「どうかしたの、文さん。」

 トいはれて、文三は漸く頭を擡げ、莞爾笑ひ、其癖まぶち を濕ませながら、

「どうもしないが……實に……實に嬉しい。……母親さんの仰しやる通り、二十 三にも成ツて、お袋一人さへ過しかねる、其樣な腑甲斐ない私をかばツて、母親さん と議論をなすツたと。實に……。」

「條理を説いても解らない癖に、腹ばかり立ててゐるから、仕樣がないの。」

 ト少し得意の體。

「アヽそれ程までに私を……思ツて下さるとは知らずして、貴孃に向ツて匿立て をしたのが今更恥かしい。アヽ恥かしい。モウかうなれば、打敗けてお話して仕舞は う。實は是れから、下宿をしようかと思ツてゐました。」

「下宿を。」

「サ、爲ようかと思ツてゐたんだが、しかし、最う出來ない。他人同樣の私をか ばツて、實の母親さんと議論をなすツた、その貴孃の御親切を聞いちや、しろと仰し やツても、最う出來ない。……が、さうすると、母親さんにお詫を申さなければなら ないが……。」

「打遣ツてお置きなさいよ。あんな教育の無い者が、何と言ツたツて好う御座ん さアネ。」

「イヤさうでない、其れでは濟まない。是非お詫を申さうが、併し、お勢さん、 お志は嬉しいが、最う母親さんと議論をすることは罷めて下さい。私の爲めに貴孃を 不孝の子にしては濟まないから。」

「お勢。」

 ト下座舖の方で、お政の呼ぶ聲がする。

「ア、母親さんが呼んでお出でなさる。」

「ナアエ、用も何も有るんぢやアないの。」

「お勢。」

「マア、返事を爲さいよ。」

「お勢/\。」

「ハアイ。……チヨツ五月蠅いこと。」

 ト起上る。

「今話した事は皆母親さんにはコレですよ。」

 ト文三が手首を振ツて見せる。お勢は唯點頭いた而已で言葉はなく、二階を降 りて奧座舖へ參ツた。

 先程より癇癪の眥を釣り上げて、手藥煉引いて待ツてゐた母親のお政は、お勢 の顏を見るより早く、込上げて來る小言を、一時にさらけ出しての大怒鳴。

「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかツたかエ。聾者ぢやある まいし、人が呼んだら好加減に返事をするがいゝ……。全體まア、何の用が有ツて二 階へお出でだ。エ、何の用が有ツてだエ。」

 ト逆上せあがツて極め付けても、此方は一向平氣なもので、

「何にも用は有りやアしないけれども……。」

「用がないのに何故お出でだ。先刻あれほど、最う是からは、今迄のやうにヘタ クタ二階へ往ツてはならない、と言ツたのが、お前にはまだ解らないかエ。さかりの 附いた犬ぢやアあるまいし、間がな透がな、文三の傍へばツかし往きたがるよ。」

「今までは二階へ往ツても善くツて、是からは惡いなんぞツて、其樣な不條理 な。」

「チヨツ解らないネー、今迄の文三と文三が違ひます。お前にやア免職になツた 事が解らないかエ。」

「オヤ、免職に成ツてどうしたの。文さんが人を見ると咬付きでもする樣になツ たの、へー然う。」

「な、な、な、なんだとお言ひだ……。コレお勢、それはお前、あんまりと言ふ もんだ。餘り親を馬、馬、馬、馬鹿にすると言ふもんだ。」

「ば、ば、ば、馬鹿にはしません。へー私は、條理のある處を主張するので御座 います。」

 ト脣を反らしていふを、聞くや否や、お政は、忽ち顏色を變へて、手に持ツて ゐた長羅宇の烟管を席へ放り付け、

「エヽ、くやしい。」

 ト齒を喰切ツて口惜しがる。その顏を横眼でジロリと見たばかりで、お勢はす まアし切ツて、座鋪を立出でて仕舞ツた。

 しかしながら、此を親子喧嘩と思ふと、女丈夫の本意に背く。どうして/\親 子喧嘩……其樣な不道徳な者でない。是れはこれ辱なくも難有くも、日本文明の一原 案ともなるべき新主義と、時代後れの舊主義と、衝突をする處。よくお眼を止めて御 覽あられませう。

 其夜、文三は、斷念ツて叔母に詫言をまをしたが、ヤ、梃ずツたの梃ずらない のと言ツて、それは/\……まづお政が今朝言ツた厭味に、輪を懸け枝を添へて、百 曼陀羅ならべ立てた擧句、お勢の親を麁末にするまでを、文 三の罪にして難題を言懸ける。されども文三が、死んだ氣になツて、諸事お容されて で持切ツてゐるに、お政もスコだれの拍子拔けといふ光景で、厭味の音締をするやう に成ツたから、まづ好しと思ふ間もなく、不圖又文三の言葉尻から燃出して、以前に も立優る火勢、黒烟焔々と顏に漲る所を見ては、迚も鎭火しさうも無かツたのも、文 三が濟みませぬの水を斟盡して澆ぎかけたので、次第々々に下火になツて、プス/\ 燻になツて、遂に不精々々に鎭火る。文三は吻と一息。寸善尺魔の世の習ひ、またも や御意の變らぬ内にと、挨拶も匆匆に起ツて座鋪を立出で、二三歩すると背後の方で、 お政がさも聞えよがしの獨言。

「アヽ/\、今度こそは厄介拂ひかと思ツたら、また背負込みか。」

6. 第六囘 どちら附かずのちくらが沖

 秋の日影も稍傾いて、庭の梧桐の影法師が脊丈を伸ばす三時頃、お政は獨り徒 然と、長手の火鉢に凭れ懸ツて、斜に坐りながら、火箸を執ツて灰へ書く樂書も倭文 字、牛の角文字いろいろに、心に物を思へばか、快々たる顏の色。動ともすれば太息 を吐いてゐる。折しも表の格子戸をガラリと開けて、案内もせず這入ツて來て、隔の 障子の彼方から、ヌツと顏を差出して、

「今日は。」

 ト挨拶をした男を見れば、何處かで見たやうな顏と思ふも道理。文三の免職に なツた當日、打連れて神田見附の裏より出て來た、ソレ中脊の男と言ツた彼の男で、 今日は退省後と見えて、不斷着の秩父縞の袷衣の上へ、南部の羽織をはおり、チト疲 勞れた博多の帶に、袂時計の紐を捲付けて、手に土耳古形の帽子を携へてゐる。

「オヤ何人かと思ツたらお珍らしいこと。此間は薩張りお見限りですネ。マアお 這入りなさいナ。それとも老婆ばかりぢやアお厭かネ。オホヽヽヽヽ。」

「イヤ結構……結構も可笑しい。アハヽヽヽヽ。トキニ何は、内海は居ますか。」

「ハア居ますよ。」

「其れぢや鳥渡會ツて來てから、それから此間の復讎だ。覺悟をしてお置きなさ い。」

「返討ぢやアないかネ。」

「違ひない。」

 ト何歟判らぬ事を言ツて、中脊の男は二階へ上ツて仕舞ツた。

 歸ツて來ぬ間に、チヨツピリ此男の小傳をと言ふ可き處なれども、何者の子で、 如何な教育を享け、如何な境界を渡ツて來た事か、過去ツた事は山媛の霞に籠ツてお ぼろおぼろ、トント判らぬ事而已。風聞に據れば、總角の頃に早く怙恃を喪ひ、寄邊 渚の棚なし小舟では無く宿無小僧となり、彼處の親戚、此處の知己と、流れ渡ツてゐ る内、曾て侍奉公までした事が有るといひ、イヤ無いといふ、紛々たる人の噂は、滅 多に恃になら坂や、兒手柏の上露よりももろいもの、と旁付けて置いて、さて正味の 確な所を掻摘んで誌せば、産は東京で、水道の水臭い士族の一人だと、履歴書を見た 者の噺、是ばかりは僞でない。本田昇と言つて、文三より二年前に某省の等外を拜命 した以来、吹小歇のない仕合の風にグツとのした出來星判任。當時は六等屬の獨身で は先づ樂な身の上。昇は所謂才子で、頗る智慧才覺が有ツて、また能く智慧才覺を鼻 に懸ける。辯舌は縱横無盡、大道に出る豆藏の壘を摩して雄を爭ふも可なり、といふ 程では有るが、堅板の水の流を堰きかねて、折節は覺えず法螺を吹く事もある。また 小器用で、何一つ知らぬといふ事の無い代り、是れ一つ卓絶れて出來るといふ藝も無 く、怠けるが性分で、倦るが病だ、といへば其れも其筈歟。

 昇はまた頗る愛嬌に富んでゐて、極て世辭がよい。殊に初對面の人にはチヤホ ヤもまた一段で、婦人にもあれ、老人にもあれ、それ相應に調子を合せて、曾てそら すといふことなし。唯不思議な事には、親しくなるに隨ひ、次第に愛想が無くなり、 鼻の頭で待遇ツて、折に觸れては氣に障る事を言ふか、さなくば厭におひやらかす。 其れを憤りて喰ツて懸れば、手に合ふ者は其場で捻返し、手に合はぬ者は一時笑ツて 濟まして後、必ず讐を酬ゆる。……尾籠ながら、犬の糞で横面を打曲げる。

 兎はいふものの、昇は才子で、能く課長殿に事へる。此課長殿といふお方は、 曾て西歐の水を飮まれた事のあるだけに、「殿樣風」といふ事がキツイお嫌ひと見え て、常に口を極めて、御同僚方の尊大の風を御誹謗遊ばすが、御自分は評判の氣六ケ 敷屋で、御意に叶はぬとなると、瑣細の事にまで眼を剥出して御立腹遊ばす。言はゞ 自由主義の壓制家といふ御方だから、哀れや屬官の人々は、御機嫌の取樣に迷いて、 ウロ/\する中に、獨り昇は迷かぬ。まづ課長殿の身態、聲音はおろか、咳拂ひの樣 子から、嚔の仕方まで眞似たものだ。ヤ、其また、眞似の巧な事といふものは宛も其 人が其處に居て云爲するが如くで、そツくり其儘。たゞ、相違と言ツては、課長殿は 誰 の前でもアハヽヽとお笑ひ遊ばすが、昇は人に依ツてエヘヽ笑ひをする而已。また課 長殿に物など言懸けられた時は、まづ忙はしく席を離れ、仔細らしく小首を傾けて謹 で承り、承り終ツて、さて莞爾微笑して恭しく御返答申上げる。要するに昇は長官を 敬すると言ツても、遠ざけるには至らず、狎れるといツても涜すには至らず、諸事萬 事御意の隨意々々、曾て抵抗した事なく、加之……此處が肝腎要……他の課長の遺行 を數へて、暗に盛徳を稱揚する事も折節はあるので、課長殿は「見處のある奴ぢや」 ト御意遊ばして、御贔屓に遊ばすが、同僚の者は善く言はぬ。昇の考では、皆法界悋 氣で、善く言はぬのだといふ。

兎も角も、昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌で、他人 の一日分澤山の事を、半日で濟ましても平氣孫左衞門、難澁さうな顏色もせぬが、大 方は見せかけの勉強ぶり。小使、給仕などを叱散らして濟まして置く。退省て下宿へ 歸る。衣服を着更る。直ぐ何處へか遊びに出懸けて、落着いて在宿してゐた事は稀だ といふ。日曜日には、御機嫌伺ひと號して課長殿の私邸へ伺候し、圍碁のお相手をも すれば、御私用をも達す。先頃もお手飼に狆が欲しいと夫人の御意、聞くよりも早飮 込み、日ならずして何處で貰ツて來た事か、狆の子一疋を携へて御覽に供へる。件の 狆を御覽じて課長殿が、「此奴、妙な貌をしてゐるぢやアないか、ウー、」ト御意遊 ばすと、昇も「左樣で御座います、チト妙な貌をして居ります、」ト申上げ、夫人が 傍から「其れでも狆は、此樣に貌のしやくんだ方が好いのだと申します、」と仰しや ると、昇も「成程、夫人の仰の通り、狆は此樣に貌のしやくんだ方が好いのだと申し ます、」ト申上げて、御愛嬌にチヨイト、狆の頭を撫でて見たとか。しかし、永い間 には取外しも有ると見えて、曾て何歟の事で、些しばかり課長殿の御機嫌を損ねた時 は、昇は其當座一兩日の間、胸が閉塞へて食事が進まなかツたとかいふが、程なく夫 人のお癪から揉みやはらげて、殿さまの御癇癪も療治し、果は自分の胸の痞も押さげ たといふ、なか/\小腕のきく男で。

 下宿が眼と鼻の間の所爲歟、昇は屡々文三の處へ遊びに來る。お勢が歸宅して からは、一段足繁くなツて、三日にあげず遊びに來る。初とは違ひ近頃は文三に對し ては、氣に障る事而已を言散らすか、さもなければ同僚の非を數へて「乃公は」との 自負自讚。「人間地道に事をするやうぢや役に立たぬ、」などと、勝手な熱を吐散ら すが、それは邂逅の事で、大方は下座鋪で、お政を相手に無駄口を叩き、或る時は花 合せとかいふものを手中に弄して、如何がな眞似をした擧句、壽司などを取寄せて奢 り散らす。勿論お政には殊の外氣に入ツてチヤホヤされる。氣に入り過ぎはしないか と、岡燒をする者も有るが、正可四十面をさげて。……お勢には……、シツ、跫音が する昇ではないか。……當ツた。

「時に内海は如何も飛んだ事で、實に氣の毒な、今も往ツて慰めて來たが、鬱ぎ 切ツてゐる。」

「放擲ツてお置きなさいよ、身から出た錆だもの、些とは鬱ぐも好いのサ。」

「さう言へば其樣なやうな者だが、しかし、何しろ氣の毒だ。斯ういふ事になら うと、疾くから知ツてゐたら、又如何にか仕樣も有ツたらうけれども、何しても… …。」

「何とか言ツてましたらうネ。」

「何を。」

「私の事をサ。」

「イヤ何とも。」

「フム、貴君も頼母敷ないよ、あんな者を朋友にして、同類にお成んなさる。」

「同類にも何にも成りやアしないが、眞實に。」

「さう。」

 ト談話の内に茶を煎れ、地袋の菓子を取出して昇に侑め、またお鍋を以てお勢 を召ばせる。何時もならば文三にもと言ふ處を、今日は八分した(編者曰。はツぷと は、はぶく、又は、のけものにする意。)ゆゑ、お鍋が不審に思ひ、「お二階へは、」 ト尋ねると、「ナニ茶がカツ食ひたきやア……言はないでも宜いよ。」ト答へた。此 を名けてWoman's revenge(婦人の復讐)といふ。

「如何したんです、鬩り合ひでもしたのかネ。」

「鬩合ひなら宜いが、いぢめられたの、文三にいぢめられたの……。」

「それはまた、如何した理由で。」

「マア本田さん、聞いてお呉んなさい、斯うなんですよ。」

 ト昨日、文三にいぢめられた事をおまけにおまけを附着て、ベチヤクチヤと饒 舌り出しては止度なく、滔々蕩々として勢ひ百川の一時に決した如くで、言損じがな ければ委みもなく、多年の揣摩一時の宏辯、自然に備はる抑揚頓挫、或は開き或は闔 ぢて、縱横自在に言廻せば、鷺も烏に成らずには置かぬ。哀むべし文三は、竟に世に も怖ろしい惡棍と成り切ツた處へ、お勢は手に一部の女學雜誌を持ち、立ちながら讀 み讀み座鋪へ這入ツて來て、チヨイと昇に一禮したのみで嫣然ともせず、饒舌りなが ら母親が汲んで出す茶碗を憚りとも言はずに受取りて、一口飮んで下へ差措いたまゝ、 濟まアし切ツて復た再び讀みさしの雜誌を取り上げて眺め詰めた。昇と同席の時は何 時でも斯うで、

「トいふ譯で、ツイそれなり鳧にして仕舞ひましたがネ、マア本田さん、貴君は 何方が理窟だとお思ひなさる。」

「それは勿論内海が惡い。」

「そのまた惡い文三に肩を持ツてサ、私に喰ツて懸ツた者があると思召せ。」

「アラ、喰ツて懸りはしませんワ。」

「喰ツて懸らなくツてサ。……私は最う/\、腹が立ツて腹が立ツて堪らなかツ た。けれども、何にしても此通り氣が弱いし、それに先には文三といふ荒神樣が附い てるから、迚も叶ふ事ぢやア無いと思ツて、蟲を殺して噤默ツてましたがネ……。」

「アラ、彼樣な虚言ばツかり言ツて。」

「虚言ぢやないワ、眞實だワ……マ、なんぼなんだツて、呆れ返るぢや有りませ んか、ネー貴君、何處の國にか他人の肩を持ツてサ、シヽバヾの世話をして呉れた、 現在の親に喰ツて懸るといふものが、有るもんですかネ。ネー本田さん、然うぢやア 有りませんか。ギヤツと産れてから是までにするにア、仇や疎かな事ぢやア有りませ ん。子を持てば七十五度泣くといふけれども、此娘の事では是まで何百度泣いたか知 れやアしない。其樣にして育てて貰ツても、露程も難有いと思ツてないさうで、此頃 ぢや一口いふ二口目にや、速く惡たれ口だ。マ、なんたら因果で、此樣な邪見な子を 持ツたかと思ふと、シミジミ悲しくなりますワ。」

「人が默ツてゐれば、好い氣になつて彼樣な事を言ツて、餘りだから宜いワ。私 は三歳の小兒ぢやないから、親の恩位は知ツてゐますワ、知ツてゐますけれども、條 理……。」

「アヽモウ解ツた/\、何にも宜ふナ。よろしいよ、解ツたよ。」

 ト昇は、勃然と成ツて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸で煽り消して、さてお 政に向ひ、

「しかし叔母さん、比奴は一番失策ツたネ。平生の粹にも似合はないなされ方、 チトお恨みだ。マア考へて御覽じろ、内海といぢり合ひが有ツて見ればネ、ソレ…… といふ譯が有るから、お勢さんも默ツては見てゐられないやアネ、アハヽヽヽ……。」

 ト相手のない高笑ひ。お勢は額で昇を睨めたまゝ何とも言はぬ。お政も苦笑ひ をした而已で、是れも默然、些と席がしらけた趣き。

「それは戲談だがネ、全體叔母さん、餘り慾が深過ぎるよ。お勢さんの樣な、此 樣な上出來な娘を持ちながら……。」

「なにが、上出來なもんですか……。」

「イヤ上出來サ。上出來でないと思ふなら、まづ世間の娘子を御覽なさい。お勢 さん位の年恰好で、其樣に標致がよくツて見ると、學問や何歟かは其方退けで、是非 色狂ひとか何とか、碌な眞似はしたがらぬものだけれども、お勢さんは、流石に叔母 さんの仕込みだけ有ツて、縹致が好くツても、品行は方正で、曾て浮氣らしい眞似を した事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから、漢學は勿論出來るし、英學も… …今何を稽古してお出でなさる。」

「ナシヨナルのフオースに列國史に……。」

「フウ、ナシヨナルのフオース。ナシヨナルのフオースと言へば、なか/\難敷 い書物だ。男子でも讀めない者は幾程も有る、それを芳紀も若くツて且婦人の身でゐ ながら、稽古してお出でなさる。感心な者だ。だから此近邊ぢや ア、斯う言やア失敬のやうだけれども、鳶が鷹とは彼の事だと言つて、評判してゐま すぜ。ソレ御覽、色狂ひして親の顏に泥を塗ツても仕樣がない處を、お勢さんが出來 が宜いばツかりに、叔母さんまで人に羨まれるネ。何も足腰按るばかりが孝行ぢやア ない。親を人に善く言はせるのも孝行サ。だから全體なら、叔母さんは喜んでゐなく ツちやアならぬ處を、それをまだ不足に思ツて、兎や角ういふのは慾サ、慾が深過ぎ るのサ。」

「ナニ、些とばかりなら人樣に惡く言はれても宜いから、最う些し優敷して呉れ ると宜いんだけれども、邪慳で親を親臭いとも思ツてゐないから、憎くツて成りやア しません。」

 ト目を細くして、娘の方を顧視る。斯ういふ睨め方も有る ものと見える。

「喜び序に最う一ツ喜んで下さい。我輩、今日一等進みました。」

「エ。」

 トお政は此方を振向き、吃驚した樣子で、暫く昇の顏を目守めて、

「御結構が有ツたの……ヘエエー、それはマア、何してもお芽出度う御座いまし た。」

 ト鄭重に一禮して、偖改めて頭を振揚げ、

「ヘー御結構が有ツたの……。」

 お勢もまた、昇が御結構が有ツた、と聞くと等しく、吃驚した顏色をして、些 し顏を赧らめた、咄々怪事もあるもので。

「一等お上んなすツたと言ふと、月給は。」

「僅五圓違ひサ。」

「オヤ、五圓違ひだツて結構ですワ。かうツと今までが三十圓だツたから、五圓 殖えて……。」

「何ですネー、母親さん、他人の収入を……。」

「マアサ、五圓殖えて三十五圓、結構ですワ。結構でなくツてサ貴君、何うして 今時高利貸したツて、月三十五圓取らうと言ふなア、容易な事ぢやア有りませんよ。 ……三十五圓……どうしても働き者は違ツたもんだネー。だから、此娘とも常不斷さ う言ツてます事サ。アノー、本田さんは何だと、内の文三や何歟とは違ツて、まだ若 くツてお出でなさるけれども、利口で、氣働きが有ツて、如才が無くツて……。」

「談話も艶消しにして貰ひ度いネ。」

「艶ぢやア無い、眞個にサ、如才が無くツてお世辭がよくツて、男振も好いけれ ども、唯物喰の惡いのが、可惜珠に疵だツて、オホヽヽヽ。」

「アハヽヽヽ、貧乏人の質で、上げ下げが怖ろしい。」

「それは然うと、孰れ御結構振舞が有りませうネ。新富かネ、但しは市村かネ。」

「何處なりとも、但し負ぶで。」

「オヤ、それは難有くも何ともないこと。」

 ト、また口を揃へて高笑ひ。

「其れは戯談だがネ、芝居はマア芝居として、如何です、明後日、團子坂へ菊見 といふ奴は。」

「菊見、左樣さネ、菊見にも依りけりサ、犬川ぢやア、マア願ひ下げだネ。」

「其處にはまた、異な寸法も有らうサ。」

「笹の雪ぢやアないかネ。」

「正可。」

「眞個に往きませうか。」

「お出でなさい/\。」

「お勢、お前もお出ででないか。」

「菊見に。」

「アヽ。」

 お勢は生得の出遊き好。下地は好きなり、御意はよし、菊見の催頗る妙だが、 オイソレといふも不見識と思ツたか、手弱く辭退して直ちに同意して仕舞ふ。十分ば かりを經て、昇が立歸ツた跡で、お政は獨言のやうに、

「眞個に本田さんは感心なもんだナ。未だ年齡も若いのに、三十五圓月給取るや うに成んなすツた。それから思ふと、内の文三なんざア、盆暗の意氣地なしだツちや アない。二十三にも成ツて親を養す所か、自分の居處立處にさへ彷徨いてるんだ。な んぼ何だツて、愛想が盡きらア。」

「だけれども、本田さんは、學問は出來ないやうだワ。」

「フム、學問々々とお言ひだけれども、立身出世すればこそ學問だ。居處立處に 彷徨くやうぢやア、些とばかし書物が讀めたツて、ねツから難有味がない。」

「それは不運だから仕樣がないワ。」

 トいふ娘の顏を、お政は熟々目守めて、

「お勢、眞個にお前は、文三と何にも約束した覺えはないかエ。エ、有るなら有 ると言ツてお仕舞ひ、隱立をすると、却てお前の爲にならないよ。」

「また、彼樣な事を言ツて。……昨日あれ程、其樣な覺えは無いと言ツたのが、 母親さんには未だ解らないの。エ、まだ解らないの。」

「チヨツ、また始まツた。覺えが無いなら無いで好いやアネ。何にも其樣に、熱 くならなくツたツて。」

「だツて人をお疑りだものヲ。」

 暫く談話が斷絶れる。母親も、娘も、何歟思案顏。

「母親さん、明後日は何を着て行かうネ。」

「何なりとも。」

「エート、下着は何時ものアレにしてト、其れから、上着は何衣にしようかしら、 矢張、何時もの黄八丈にして置かうかしら……。」

「最う一つのお召縮緬の方にお爲よ。彼の方がお前にやア似合ふよ。」

「デモ彼れは品が惡いものヲ。」

「品が惡いてツたツて。」

「アヽ、此樣な時にア洋服が有ると好いのだけれどもナ……。」

「働き者を亭主に持ツて、洋服なと何なと、拵エて貰ふのサ。」

 トいふ母親の顏を、お勢はヂツと目守めて不審顏。

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[1]Gendai Nihon Bungaku Taikei, Vol. 1, (Tokyo: Chikuma Shobo, 1971; hereafter as GNBT) reads 戴いてゐ、.
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[2]GNBT reads 言ひかねて.
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[3] In the copy-text, the place for ら is blank. The word ら has been added to this e-text from GNBT.
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[4] In the copy-text this charachter is New Nelson 3442.
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[5] In the copy-text, the place for 咄 is blank. The word 咄 has been added to this e-text from GNBT.
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[6] In the copy-text this charachter is New Nelson 570.
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[7] GNBT reads マ何處を.
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[8] GNBT reads ながら.