University of Virginia Library

2. 第二編

7. 第七囘 團子坂の觀菊 上

 日曜日は、近頃に無い天下晴。風も穩かで塵も立たず、暦を繰つて見れば、舊 暦で菊月初旬といふ十一月二日の事ゆゑ、物觀遊山には、持ツて來いと云ふ日和。

 園田一家の者は、朝から觀菊行の支度とりどり。晴衣の裄丈を氣にしてのお勢 のじれこみが、お政の癇癪と成ツて、廻りの髮結の來やうの遲いのが、お鍋の落度と なり、究竟は萬古の茶瓶が生れも付かぬ缺口になるやら、架棚の擂鉢が獨手に駈出す やら、ヤツサモツサ捏返してゐる處へ、生憎な來客、加之も名打の長尻で、アノ只今 から團子坂へ參らうと存じて、トいふ言葉にまで、力瘤を入れて見ても、まや藥ほど も利かず、平氣で濟まして、便々とお神輿を据ゑてゐられる。そのじれツたさ、もど かしさ。それでも宜くしたもので、案じるよりも産むが易く、客も其内に歸れば、髮 結も來る。其處で、ソレ、支度も調ひ、十一時頃には家内も漸く靜まツて、折節には 高笑ひがするやうになツた。

 文三は拓落失路の人、仲々以て觀菊などといふ空は無い。それに昇は花で言へ ば、今を春邊と咲誇る櫻の身、此方は日蔭の枯尾花。到頭楯突く事が出來ぬ位なら、 打たせられに行くでも無いと、境涯に隨れて僻みを起し、一昨日昇に誘引れた時、既 にキツパリ辭ツて行かぬと決心したからは、人が騒がうが騒ぐまいが、隣家の疝氣で 關係のない噺。ズツと澄まして居られさうなものの、扨居られぬ。嬉しさうに、人の そはつくを見るに付け、聞くに付け、またしても昨日の我が憶出されて、五月雨頃の 空と濕る、歎息もする、面白くも無い。

 ヤ、面白からぬ。文三には、昨日お勢が「貴君もお出でなさるか、」ト尋ねた 時、「行かぬ、」ト答へたら、「ヘー然うですか、」ト平氣で澄まして落着拂つてゐ たのが面白からぬ。文三の心持では、成らう事なら、行けと勸めて貰ひ度かツた。そ れでも尚ほ強情を張ツて行かなければ、「貴君と御一所でなきやア、私も罷しませ う、」とか、何とか言ツて貰ひ度かツた……。

「しかし、是りやア嫉妬ぢやない……。」

 ト不圖何歟憶出して、我と我に分疏を言ツて見たが、また何處歟、くすぐられ るやうで……不安心で。

 行くも厭なり、留まるも厭なりで、氣がムシヤクシヤとして癇癪が起る。誰れ と云ツて取留めた相手は無いが、腹が立つ。何か火急の要事が有るやうで、また無い やうで、無いやうで、また有るやうで、立ツても居られず、坐ツてもゐられず。如何 しても、斯うしても、落着かれない。

 落着かれぬ儘に、文三が、チト讀書でもしたら紛れようか、と書函の書物を手 當放題に取出して讀みかけて見たが、いツかな爭な紛れる事でない。小六ケ敷い面相 をして、書物と疾視競をした所はまづ宜かツたが、開卷第一章の第一行目を反覆讀過 して見ても、更に其意義を解し得ない。其癖、下座鋪でのお勢の笑聲は意地惡くも善 く聞えて、一囘聞けば則ち耳の洞の主人と成ツて暫くは立ち去らぬ。舌皷を打ちなが ら、文三が腹立たしさうに書物を擲出して、腹立たしさうに机に靠着ツて、腹立たし さうに頬杖を杖き、腹立たしさうに何處ともなく凝視めて、……フトまた起直ツて、 蘇生ツたやうな顏色をして、

「モシ罷めになツたら……。」

 と取外して言ひかけて、忽ハツと心付き、周章てて口 を鉗んで、吃驚して狼狽して遂に憤然となツて、「畜生、」と言ひざま、拳を振擧げ て我と我を威して見たが、惡戯な蟲奴は心の底で、まだ……矢張……。

 しかし、生憎故障も無かツたと見えて、昇は一時頃に參ツた。今日は故意と日 本服で、茶の絲織の一つ小袖に、黒七子の羽織、帶も何歟乙なもので、相變らず立と した服飾。梯子段を踏轟かして上ツて來て、挨拶をもせずに、突如まづ大胡坐。我鼻 を視るのかと、怪しまれる程の下眼を遣ツて、文三の顏を視ながら、

「どうした、土左的宜敷といふ顏色だぜ。」

「少し頭痛がするから。」

「然うか。尼御臺に油を取られたのでもなかツたか、アハハヽヽ。」

 チヨイと云ふ事からして、まづ氣に障る。文三も怫然とはしたが、其處は内氣 だけに、何とも言はなかツた。

「どうだ、如何しても往かんか。」

「まづ、よさう。」

「剛情だな。……ゴジヤウだからお出でなさいよぢや無いか。アハヽヽヽ……と、 獨りで笑ふほかまづ仕樣が無い、何を云ツても先樣にやお通じなしだ、アハヽヽ。」

 戯言とも附かず、罵詈とも附かぬ、曖昧なお饒舌に、暫く時刻を移してゐると、 忽ち梯子段の下に、お勢の聲がして、

「本田さん。」

「何です。」

「アノ、車が參りましたから、よろしくば。」

「出懸けませう。」

「それではお早く。」

「チヨイと、お勢さん。」

「ハイ。」

「貴孃と合乘なら行ツても宜いといふのがお一方出來たが、承知ですかネ。」

 返答は無く、唯バタ/\と駈出す足音がした。

「アハヽヽ、何にも言はずに逃出すなぞは、未だしをらしいよ。」

 ト言ツたのが文三への挨拶で、昇は其儘起上ツて、二階を降りて往ツた跡を見 送りながら、文三がさも/\苦々しさうに、口の中で、

「馬鹿奴……。」

 ト言ツた其聲が、未だ中有に徘徊ツてゐる内に、フト、今年の春、向島へ櫻觀 に往ツた時のお勢の姿を憶出し、如何いふ心計か蹶然と起き上り、キヨロ/\と四邊 を環視して、火入に眼を注けたが、おもひ直して舊の座になほり、また苦々しさうに、

「馬鹿奴。」

 是は自ら叱責ツたので。

 午後はチト風が出たが、ます/\上天氣。殊には日曜と云ふので、團子坂近傍 は、花觀る人が道去り敢ぬばかり、イヤ出たぞ/\、束髮も出た、島田も出た、銀杏 返しも出た、丸髷も出た、蝶々髷も出た、おケシも出た。〇〇會幹事、實は古猫の怪 といふ、鍋島騒動を生で見るやうなマダム某も出た。芥子の實ほどの眇少しい知慧を 兩足に打ち込んで、飛んだり跳ねたりを夢にまで見るミス某も出た。お乳母も出た、 お爨婢も出た。ぞろりとした半元服、一夫數妻論の未だ行はれる證據に上りさうな婦 人も出た。イヤ出たぞ/\、坊主も出た、散髮も出た、五分刈も出た、チヨン髷も出 た。天帝の愛子、運命の寵臣、人の中の人、男の中の男と世の人の尊重の的、健羨の 府となる昔の所謂お役人樣、今の所謂官員さま、後の世になれば社會の公僕とか、何 とか名告るべき方々も出た。商賣も出た、負販の徒も出た。人の横面を打曲げるが主 義で身を忘れ家を忘れて拘留の辱に逢ひさうな毛臑暴出しの政治家も出た。猫も出た、 杓子も出た。人樣々の顏の相好、おもひおもひの結髮風姿。聞覩に聚る衣香襟影は、 紛然、雜然として千態萬状、なツかなか以て一々枚擧するに遑あらずで、それに此邊 は道巾が狹隘いので、尚一段と雜沓する。そのまた中を、合乘で乘切る心無し奴も難 有の君が代に、その日活計の土地の者が、摺附木の函を張りながら、往來の花觀る人 をのみ眺めて、遂に眞の花を觀ずに仕舞ふ歟、とおもへば。實に浮世はいろ/\さ ま%\。

 さてまた

[_]
[9]圍子坂
の景況は、例の招牌から釣込む植木屋 は、家々の招きの旗幟を飜翻と金風に飄し、木戸々々で客を呼ぶ聲は、彼此からみ合 ツて亂れ合ツて、入我我入でメツチヤラコ、唯逆上ツた木戸番の口だらけにした面が 見える而已で、何時見ても變ツた事もなし。中へ這入ツて見ても矢張その通りで。

 一體全體、菊といふものは、一本の淋敷きにもあれ、千本、八千本の賑敷きに もあれ、自然の儘に生茂ツてこそ見處の有らうものを、それを此邊の菊のやうに、斯 う無殘無殘と作られては、興も明日も覺めるてや。百草の花のとぢめと律義にも衆芳 に後れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて、小兒騙欺の木偶の衣裳、 洗張りに糊が過ぎてか、何處へ觸ツてもゴソ/\として、ギコチ無ささうな風姿も、 小言いツて觀る者は、千人に一人か二人。十人が十人、まづ花より團子を思詰めた顏 色、去りとはまた苦々しい。ト何處かの隱居が、菊細工を觀ながら、愚癡を滴したと 思食せ。(看官)何だ、つまらない。

 閑話不題。

 轟然と飛ぶが如くに驅來ツた二臺の腕車が、

[_]
[10]ビツタリと
停止る。車を下りる男女三人の者は、お馴染の昇とお勢親子の者で。

 昇の服裝は前文にある通り。

 お政は鼠微塵の絲織の一つ小袖に、黒唐繻子の丸帶。襦袢の半襟も、黒縮緬に 金絲でバラリと縫の入ツた奴か何歟で、まづ氣の利いた服飾。

 お勢は黄八丈の一つ小袖に、藍鼠金入繻珍の丸帶。勿論下にはお定りの緋縮緬 の等身襦袢、此奴も金絲で縫の入ツた、水淺黄縮緬の半襟をかけた奴で、帶上はアレ は時色縮緬。統括めて云へば、まづ上品なこしらへ。しかし、人足の留まるは、衣裳 附よりは寧ろその態度で、髮も例の束髮ながら、何とか結びとかいふ手のこんだ束ね 方で、大形の薔薇の花插頭を插し、本化粧は自然に背くとか云ツて、薄化粧の清楚な 作り、風格

[_]
[11]ぼう
神共に優美で。

「色だ。ナニ夫婦サ。」ト法界悋氣の岡燒連が、目引き袖引き取々に評判するを 漏れ聞く毎に、昇は得々として機嫌顏。是れ見よがしに母子の者を其處此處と植木屋 を引廻しながらも、片時と默してはゐない。人の傍聞するにも關はず、例の無駄口を のべつに竝べ立てた。

 お勢は、今日は取分け晴れた面相で、宛然籠を出た小鳥の如くに、言葉は勿論、 歩風身體のこなしまで、何處ともなく活々とした所が有ツて、冴が見える。昇の無駄 を聞いては、可笑しがツて絶えず笑ふが、それもさうで、強ち昇の言ふ事が可笑しい からではなく、默ツてゐても自然と可笑しいから、それで笑ふやうで。

 お政は、菊細工には甚だ冷淡なもので、唯「綺麗だことネー、」ト云ツて、ズ ラリと見亙すのみ。さして眼を注める樣子もないが、その代り、お勢と同年配頃の娘 に逢へば、丁寧にその顏貌、風姿を研究する。まづ最初に容貌を視て、次に衣服を視 て、帶を視て、爪端を視て、行過ぎてから、ズーと後姿を一瞥して、また帶を視て、 髮を視て、其跡でチヨイとお勢を横眼で視て、そして澄まして仕舞ふ。妙な癖も有れ ば有るもので。

 昇等三人の者は、最後に坂下の植木屋へ立寄ツて、次第次第に見物して、とあ る小舎の前に立止ツた。其處に飾り付けて在ツた木像の顏が、文三の欠伸をした面相 に酷く肖てゐるとか昇の云ツたのが可笑しいといツて、お勢が嬌面に袖を加てて、勾 欄におツ被さツて笑ひ出したので、傍に鵠立んでゐた書生體の男が、俄に此方を振向 いて、愕然として眼鏡越しにお勢を凝視めた。「みツともないよ、」と母親ですら小 言を言ツた位で。

 漸くの事で笑ひを留めて、お勢がまだ莞爾莞爾と微笑のこびり付いてゐる貌を 擡げて、傍を視ると、昇は居ない。「オヤ。」と云つて、キヨロキヨロと四邊を環視 して、お勢は忽ち眞面目な貌をした。

 只見れば、後の小舎の前で、昇が磬折といふ風に腰を屈めて、其處に鵠立んで ゐた洋裝紳士の背に向ツて、荐りに禮拜してゐた。されども紳士は一向心附かぬ樣子 で、尚ほ彼方を向いて鵠立んでゐたが、再三再四虚辭儀をさしてから、漸くにムシヤ クシヤと頬髯の生弘がツた、氣六ケ敷い貌を此方へ振り向けて、昇の貌を眺め、莞然 ともせず、帽子も被ツた儘で、唯鷹揚に點頭すると、昇は忽ち平身低頭、何事をか 喃々と言ひながら、續けざまに二つ三つ禮拜した。

 紳士の隨伴と見える兩人の婦人は、一人は今樣おはつとか稱へる、突兀たる大 丸髷。今一人は落雪とした妙齡の束髮頭。孰れも水際の立つた玉揃ひ。面相といひ、 風姿といひ、如何も姉妹らしく見える。昇はまづ丸髷の婦人に一禮して、次に束髮の 令孃に及ぶと、令孃は狼狽てて卒方を向いて禮を返して、サツと顏を赧めた。

 暫く立在んでの談話。間が隔離れてゐるに、四邊が騒がしいので、其の言ふ事 は能く解らないが、なにしても昇は絶えず口角に微笑を含んで、折節に手眞似をしな がら、何事をか喋々と饒舌り立ててゐた。其の内に、何か可笑しな事でも言ツたと見 えて、紳士は俄然大口を開いて、肩を搖ツて、ハツハツと笑ひ出し、丸髷の夫人も口 頭に皺を寄せて笑ひ出し、束髮の令孃もまた莞爾笑ひかけて、急に袖で口を掩ひ、額 越に昇の貌を眺めて眼元で笑ツた。身に餘る面目に、昇は得々として滿面に笑ひを含 ませ、紳士の笑ひ罷むを待ツて、また何か饒舌り出した。お勢母子の待ツてゐる事は 全く忘れてゐるらしい。

 お勢は、紳士にも、貴婦人にも、眼を注めぬ代り、束髮の令孃を穴の開く程目 守めて一心不亂、傍目を觸らなかツた、呼吸をも吻かなかツた。母親が物を言ひ懸け ても、返答をもしなかツた。

 其内に紳士の一行が、ドロ/\と此方を指して來る容子を見て、お政は、茫然 としてゐたお勢の袖をはしく曳搖かして、疾歩に外面へ立 ち出で、路傍に鵠立んで待合はせてゐると、暫くして昇も紳士の後に隨ツて出て參り、 木戸口の處でまた更に小腰を屈めて、皆其々に分袂の挨拶、丁寧に、慇懃に、喋々し く陳べ立てて、さて別れて、獨り此方へ兩三歩來て、フト何か憶出したやうな面相を して、キヨロキヨロと四邊を環視した。

「本田さん、此處だよ。」

 ト云ふお政の聲を聞付けて、昇は急足に傍へ歩寄り、

「ヤ、大にお待遠。」

「今の方は。」

「アレが課長です。」

 ト云ツて、如何した理由か、莞爾々々と笑ひ、

「今日來る筈ぢや無かツたんだが……。」

「アノ、丸髷に結ツた方は、あれは夫人ですか。」

「然うです。」

「束髮の方は。」

「アレですか、ありや……。」

 ト言ひかけて、後を振返ツて見て、

「細君の妹です。……内で見たよりか、餘程別嬪に見える。」

「別嬪も別嬪だけれども、好いお服飾ですことネー。」

「ナニ、今日は彼樣なお孃樣然とした風をしてゐるけれども、家にゐる時は疎末 な衣服で、侍婢がはりに使はれてゐるのです。」

「學問は出來ますか。」

 ト突然、お勢が尋ねたので、昇は愕然として、

「エ 學問。……出來るといふ噺も聞かんが、……それとも出來るかしらん。此 間から課長の處に來てゐるのだから、我輩もまだ、深くは情實を知らないのです。」

 ト聞くと、お勢は忽ち、眼元に冷笑の氣を含ませて、振返ツて、今將に坂の半 腹の植木屋へ、這入らうとする令孃の後姿を見送ツて、チヨイと我が帶を撫でて、而 して、ズーと澄まして仕舞つた。

 坂下に待たせて置いた車に乘ツて、三人の者はこれより上野の方へと參ツた。

 車に乘つてから、お政がお勢に向ひ、

「お勢、お前も今のお娘さんのやうに、本化粧にして來りやア、宜かツたのに ネー。」

「厭サ、彼樣な本化粧は。」

「オヤ何故エ。」

「だツて、厭味ツたらしいもの。」

「ナニ、お前、十代の内なら秋毫も厭味なこたア有りやしないわネ。アノ方が幾 程宜いか知れない、引立が好くツて。」

「フヽン、其樣に宜きやア、慈母さんお做なさいな。人が厭だといふものを、好 い/\ツて、可笑しな慈母さんだよ。」

「好いと思ツたから、唯好いぢや無いかと云ツたばかしだのに、それに其樣な事 いふツて、眞個に此娘は可笑しな娘だよ。」

 お勢は最早、辯難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言はずに默して仕舞 ツた。それからと云ふものは、鬱ぐのでもなく、萎れるのでも無く、唯何となく沈ん で仕舞ツて、母親が再び談話の墜緒を紹がうと試みても、相手にもならず、どうも乙 な鹽梅であツたが、しかし、上野公園に來着いた頃には、また口をきゝ出して、また 舊のお勢に立ち戻ツた。

 上野公園の秋景色。彼方此方に、むら/\と立駢ぶ老松奇檜は、柯を交へ葉を 折り重ねて、鬱蒼として翠も深く、觀る者の心までが蒼く染りさうなに引替へ、櫻杏 桃李の雜木は、老木稚木も押なべて、一樣に枯葉勝な立姿。見るからが、まづ、みす ぼらしい。遠近の木間隱れに立つ山茶花の一本は、枝一杯に花を持ツてはゐれど、 煢々として友欲し氣に見える。楓は既に紅葉したのも有り、まだしないのも有る。鳥 の音も時節に連れて、哀れに聞える、淋敷い。……ソラ、風が吹通る。一重櫻は戰慄 をして病葉を震ひ落し、芝生の上に散り布いた落葉は、魂の有る如くに立上りて、友 葉を追ツて舞ひ歩き、フトまた云合せたやうに、一齊にバラ/\と伏ツて仕舞ふ。滿 眸の秋色蕭條として、却却春のきほひに似るべくも無いが、しかし、さびた眺望で、 また一種の趣味が有る。團子坂へ行く者、歸る者が、?處で落合ふので、處々 に人影が見える、若い女の笑ひ動搖めく聲も聞える。

 お勢が散歩したい、と云ひ出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降り て、ブラ/\歩きながら、石橋を渡りて動物園の前へ出で、車夫には、「先へ往ツて、 觀音堂の下邊に待ツてゐろ、」ト命じて、其處から車に離れ、眞直に行ツて、矗立千 尺、空を摩でさうな杉の樹立の間を通拔けて、東照宮の側面へ出た。

 折しも其處の裏門よりLet us go on(行かう)と、「日本の」と冠詞の付く英語 を叫びながらピヨツコリ飛び出した者が有る。只見れば軍艦羅紗の洋服を着て、金鍍 金の徽章を附けた大黒帽子を仰向けざまに被ツた、年の頃十四歳許りの、栗蟲のやう に肥ツた少年で、同遊と見える同じ服裝の少年を顧みて、

「ダガ、何歟食度くなツたなア。」

「食度くなツた。」

「食度くなツてもか……。」

 ト愚癡ツぽく言懸けて、フトお政と顏を視合はせ、

「ヤ……。」

「オヤ、勇が……。」

 ト云ふ間もなく、少年は駈出して來て、狼狽てて昇に三つ四つ辭儀をして、サ ツと赤面して、

「母親さん。」

「何を狼狽ててゐるんだネー。」

「家へ往ツたら……鍋に聞いたら、文さんばツかしだツてツたから、僕ア……そ れだから……。」

「お前、モウ、試驗は濟んだのかエ。」

「ア、濟んだ。」

「如何だツたエ。」

「そんな事よりか、些し用が有るから……母親さん……。」

 ト心有氣に、母親の顏を凝視めた。

「用が有るなら、?處でお言ひな。」

 少年は横眼で、昇の顏をジロリと視て、

「チヨイと此方へ來てお呉れツてば。」

「フン、お前の用なら大抵知れたもんだ。また小遣ひが無いだらう。」

「ナニ、其樣な事ちやない。」

 ト云ツて、また昇の顏を横眼で視て、サツと赤面して、調子外れな高笑ひをし て、無理矢理に母親を引張ツて、彼方の杉の樹の下へ連れて參ツた。

 昇と、お勢は、ブラ/\と歩き出して、來るともなく往くともなしに、宮の背 後に出た。折柄四時頃の事とて、日影も大分傾いた鹽梅。立駢んだ樹立の影は、古廟 の築墻を斑に染めて、不忍の池水は、大魚の鱗かなぞのやうに燦く。ツイ眼下に、瓦 葺の大家根の、翼然として峙ツてゐるのが視下される。アレは大方馬見所の家根で。 土手に隱れて形は見えないが、車馬の聲が轆々として聞える。

 お勢は、大榎の根方の處で立止まり、翳してゐた蝙蝠傘をつぼめて、ヅイと一 通り四邊を見亙し、嫣然一笑しながら、昇の顏を窺き込んで、唐突に、

「先刻の方は、餘程別嬪でしたネー。」

「エ、先刻の方とは。」

「ソラ、課長さんの令妹とか仰しやツた。」

「ウー誰の事かと思ツたら、……然うですネー、隨分別嬪ですネ。」

「而して、家で視たよりか美しくツてネ。そんだもんだから……ネ……貴君もネ ……。」

 と、眼元と口元に一杯笑ひを溜めて、ヂツと昇の貌を凝視めて、さて、オ ホヽヽと吹溢した。

「アツ失策ツた、不意を討たれた。ヤ、どうもおそろ感心、手は二本切りかと思 ツたら、是れだもの、油斷も隙もなりやしない。」

「それに、彼孃も、オホヽヽ、何だと見えて、お辭儀する度に顏を眞赤にして、 オホヽヽヽヽ。」

「トたゝみかけて意地目つけるネ。よろしい、覺えてお出でなさい。」

「だツて、實際の事ですもの。」

「しかし、彼の娘が幾程美しいと云ツたツても、何處かの人にやア……兎ても。」

「アラ、よう御座んすよ。」

「だツて實際の事ですもの。」

「オホヽヽ直ぐ復讐して。」

「眞に、戲談は除けて……。」

 ト言懸ける折しも、官員風の男が、十許になる女の子の手を引いて來蒐ツて、 兩人の容子を不思議さうに、ジロジロ視ながら行過ぎて仕舞ツた。

 昇は再び言葉を續いで、

「戲談は除けて、幾程美しいと云ツたツて、彼樣な娘にやア、先方も然うだらう けれども、此方も氣が無い。」

「氣が無いから、横眼なんぞ遣ひはなさらなかツたのネー。」

「マアサ、お聞きなさい。彼の娘ばかりには限らない。どんな美しいのを視たツ ても、氣移りはしない。我輩にはアイドル(本尊)が一人有るから。」

「オヤ然う。それはお芽出度う。」

「所が一向お芽出度く無い事サ。所謂鮑の片思ひでネ、此方はそのアイドルの顏 を視度いばかりで、氣まりの惡いのも堪へて、毎日々々其家へ遊びに往けば、先方ぢ や五月蠅いと云ツたやうな顏をして、口も碌々きかない。」

 トあぢな眼付をして、お勢の貌をヂツと凝視めた。其の意を曉ツたか、曉らな いか、お勢は唯ニツコリして、

「厭なアイドルですネ。オホヽヽ。」

「しかし、考へて見れば此方が無理サ。先方には隱然亭主と云ツたやうな者が有 るのだから。それに……。」

「モウ何時でせう。」

「それに想を懸けるは、宜く無い/\と思ひながら、因果とまた思ひ斷る事が出 來ない。此頃ぢや夢にまで見る。」

「オヤ厭だ……モウ些と彼地の方へ行ツて見ようぢや有りませんか。」

「漸くの思ひで、一所に物觀遊山に出ると迄は、漕付けは漕付けたけれども、其 れもほんの一所に歩く而已で、慈母さんと云ふものが始終傍に附いてゐて見れば、思 ふ樣に談話もならず。」

「慈母さんと云へば、何を做てゐるのだらうネー。」

 ト背後を振返ツて觀た。

「偶々好機會が有ツて言ひ出せば、其通りとぼけてお仕舞ひなさるし、考へて見 ればつまらんナ。」

 ト愚癡ツぽくいツた。

「厭ですよ、其樣な戯談を仰しやツちや。」

 ト云ツて、お勢が莞爾々々と笑ひながら、此方を振向いて視て、些し眞面目な 顏をした。昇は萎れ返ツてゐる。

「戯談と聞かれちや填まらない。斯う言出す迄には、何位苦しんだと思ひなさ る。」

 ト昇は歎息した。お勢は眼睛を地上に注いで、默然として一語をも吐かなかツ た。

「斯う言出したと云ツて、何にも貴孃に義理を缺かして、私の望 を遂げようと云ふのぢやア無いが、唯貴孃の口から僅一言、斷念めろ、と 云ツて戴きたい。さうすりやア、私も其れを力に斷然思ひ切ツて、 今日切りでもう貴孃にもお眼に懸るまい。……ネーお勢さん。」

 お勢は尚ほ默然としてゐて、返答をしない。

「お勢さん。」

 ト云ひ乍ら、昇が、頂垂れてゐた首を振揚げて、ヂツとお勢の顏を窺き込めば、 お勢は周章狼狽して、サツと顏を赧らめ、漸く聞えるか、聞えぬ程の小聲で、

「虚言ばツかり。」

 ト云ツて、全く差俯向いて仕舞ツた。

「アハヽヽヽヽ。」

 ト突如に昇が、轟然と一大笑を發したので、お勢は吃驚して、顏を振揚げて視 て、

「オヤ厭だ。……アラ厭だ。……憎らしい本田さんだネー、眞面目くさツて、人 を威かして……。」

 と云ツて、悔しさうにでもなく、恨めしさうにでもなく、謂はゞ、氣まりが惡 さうに莞爾笑ツた。

「お巫山戯でない。」

 ト云ふ聲が、忽然、背後に聞えたので、お勢が喫驚して振返ツて視ると、母親 が帶の間へ紙入を挿みながら來る。

「大分談判が難しかツたと見えますネ。」

「大にお待遠さま。」

 ト云ツて、お勢の顏を視て、

「お前、如何したんだエ、顏を眞赤にして。」

 ト咎められて、お勢は尚ほ顏を赤くして、

「オヤ然う、歩いたら暖かに成ツたもんだから……。」

「マア本田さん、聞いてお呉んなさい。眞個に、彼兒の錢遣ひの荒いのにも困り ますよ。此間ネ、試驗の始まる前に來て、一圓前借して持ツてツたんですよ。其れを 十日も經ない内に、もう使用ツちまツて、また呉れろサ。宿所なら、こだはりを附け てやるんだけれども……。」

「彼樣な事を云ツて、虚言ですよ、慈母さんが小遣ひを遣りたがるのよ。オ ホヽヽ。」

 ト無理に押出した樣な高笑ひをした。

「默ツてお出で、お前の知ツた事ちやない。……こだはりを附けて遣るんだけれ ども、途中だからと思ツてネ、默ツて五十錢出して遣ツたら、それんばかりぢや足ら ないから、一圓呉れろと云ふんですよ。然う/\は方圖が無いと思ツて、如何しても 遣らなかツたらネ、不承々々に五十錢取ツて仕舞ツてネ、それからまた今度は、明後 日、お友達同志寄ツて、飛鳥山で饂飩會とかを……。」

「オホヽヽ。」

 此度は眞に可笑しさうに、お勢が笑ひ出した。昇は荐りに點頭いて、

「運動會。」

「そのうんどうかいとか蕎麥買ひとかをするから、もう五十錢呉れろツてネ。明 日取りにお出でと云ツても、何と云ツても聞かずに、持ツて往きましたがネ。其れも 宜いが、憎い事を云ふぢや有りませんか。私が、明日お出でか、ト聞いたらネ、是れ さへ貰へばもう用は無い、また無くなツてから行くツて……。」

「慈母さん、書生の運動會なら、會費と云ツても、高が十錢か、二十錢位なもん ですよ。」

「エ、十錢か、二十錢……オヤ其れぢや三十錢足駄を履かれたんだよ……。」

 ト云ツて、昇の顏を凝視めた。とぼけた顏であツたと見えて、昇もお勢も同時 に、

「オホヽヽ。」

「アハヽヽ。」

8. 第八囘 團子坂の觀菊 下

 お勢母子の者の出向いた後、文三は漸く些し沈着いて、徒然と机の邊に蹲踞ツ た儘、腕を拱み、顋を襟に埋めて、懊惱たる物思ひに沈んだ。

 どうも氣に懸る、お勢の事が氣に懸る。此樣な區々たる事は、苦に病むだけが 損だ/\、と思ひながら、ツイどうも氣に懸ツてならぬ。

 凡そ相愛する二の心は、一體分身で、孤立する者でもなく、又仕ようとて出來 るものでない故に、一方の心が歡ぶ時には、他方の心も共に歡び、一方の心が悲しむ 時には、他方の心も共に悲しみ、一方の心が樂しむ時には、他方の心も共に樂しみ、 一方の心が苦しむ時には、他方の心も共に苦しみ、嬉笑にも相感じ、怒罵にも相感じ、 愉快適悦、不平煩悶にも相感じ、氣が氣に通じ、心が心を喚起し、決して齟齬し、扞 挌する者で無い。と、今日が日まで文三は思ツてゐたに、今文三の痛痒をお勢の感ぜ ぬは、如何したものだらう。

 どうも氣が知れぬ、文三には平氣で澄ましてゐるお勢の心意氣が呑込めぬ。

 若し相愛してゐなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣ひを改め、起居 動作を變へ、蓮葉を罷めて、優に艶しく女性らしく成る筈もなし。又今年の夏、一夕 の情話に、我から隔の關を取り除け、乙な眼遣ひをし、麁な言葉を遣ツて、折節に物思ひをする理由もない。

 若し相愛してゐなければ、婚姻の相談が有ツた時、お勢が戯談に託辭けて、そ れとなく文三の腹を探る筈もなし、また叔母と悶着をした時、他人同然の文三を庇護 ツて、眞實の母親と抗論する理由もない。

「イヤ、妄想ぢや無い、おれを思ツてゐるに違ひない。……が……。」

 そのまた、思ツてゐるお勢が、そのまた死なば同穴と、心に誓ツた形の影が、 そのまた共に感じ、共に思慮し、共に呼吸生息する身の片割が、從兄弟なり、親友な り、未來の……夫ともなる文三の、鬱々として樂しまぬを餘所に見て、行かぬと云ツ ても勸めもせず、平氣で澄まして不知顏でゐる而已か、文三と意氣が合はねばこそ、 自家も常から嫌ひだと云ツてゐる、昇如き者に伴はれて、物觀遊山に出懸けて行く… …。

「解らないな。どうしても解らん。」

 解らぬ儘に、文三が想像、辨別の兩刀を執ツて、種々にして、此の氣懸りなお 勢の冷淡を解剖して見るに、何か物が有ツて其中に籠ツてゐるやうに思はれる。イヤ、 籠ツてゐるに相違ない。が、何だか、地體は更に解らぬ。依て、更に又勇氣を振起し て、唯此の一點に注意を集め、傍目を觸らず一心不亂に、?處を先途と解剖し て見るが、歌人の所謂箒木で、有りとは見えて、どうも解らぬ。文三は徐々ジレ出し た。スルト惡戯な妄想奴が、彌次馬に飛び出して來て、アヽでは無いか、斯うでは無 いか、と眞赤な贋物、宛事も無い邪推を掴ませる。贋物だ、邪推だ と、必ずしも見 透かしてゐるでもなく、又必ずしも居ないでもなく、ウカ/\と文三が掴ませられる 儘に掴んで、あえたり、揉んだり、圓めたり、また引延ばしたりして、骨を折つて事 實にして仕舞ひ、今目前にその事が出來したやうに、足掻きつ、もがきつ、四苦八苦の苦楚を嘗め、然る後フト正眼を得て、さて 觀ずれば、何の事だ。皆夢だ、邪推だ、取越苦勞だ。腹立ち紛れに贋物を取ツて、骨 灰微塵と打碎き、ホツと一息吐き敢ず、また穿鑿に取り懸り、また贋物を掴ませられ て、また事實にして、また打碎き、打碎いてはまた掴み、掴んではまた打碎くと、何 時まで經ツても果しも附かず、始終同じ處に而已止まツてゐて、前へも進まず、後へ も退かぬ。而して退いて能く視れば、尚ほ何物だか、冷淡の中に在ツて、朦朧として 見透かされる。

 文三ホツと精を盡かした。今は最う進んで穿鑿する氣力も竭き、勇氣も沮んだ。 乃ち眼を閉ぢ、頭顱を抱へて、其處へ横に倒れた儘、五官を馬鹿にし、七情の守を解 いて、是非も、曲直も、榮辱も、窮達も、叔母も、お勢も、我の吾たるをも、何も角 も忘れて仕舞ツて、一瞬時なりとも、此苦惱、此煩悶を解脱れようと力め、良暫くの 間といふものは、身動きもせず、息氣をも吐かず、死人の如くに成ツてゐたが、倏忽 勃然と跳ね起きて、

「もしや本田に……。」

 ト言ひ懸けて、敢て言ひ詰めず。宛然何歟搜索でもするやうに、愕然として四 邊を環視した。それにしても、此の疑念は何處から生じたもので有らう。天より降ツ たか、地より沸いたか、抑もまた文三の僻みから出た蜃樓海市か。忽然として生じて、 思はずして來り、恍々惚々として其來處を知るに由なし。とはいへど、何にもせよ、 彼程までに、足掻きつ、もがきつして、穿鑿しても解らなか ツた、所謂冷淡中の一物を、今譯もなく造作もなく、ツイチヨツト、突留めたらしい 心持がして、文三覺えず身の毛が彌立ツた。

 とは云ふものの、心持は未だ事實でない。事實から出た心持で無ければ、ウカ とは信を措き難い。依て今迄のお勢の擧動を憶出して、熟思審察して見るに、さらに 其樣な氣色は見えない。成程お勢はまだ若い。血氣もまだ定らない。志操も或は根強 く有るまい。が、栴檀は二葉から馨ばしく、蛇は一寸にして人を呑む氣が有る。文三 の眼より見る時は、お勢は所謂女豪の萌芽だ。見識も高尚で、氣韻も高く、洒洒落々 として愛すべく、尊ぶべき少女であツて見れば、假令道徳を飾物にする僞君子、磊落 を粧ふ似而非豪傑には、或は欺かれもしよう、迷ひもしようが、昇如き彼樣な卑屈な、 輕薄な、犬畜生にも劣ツた奴に、怪我にも迷ふ筈はない。さればこそ、常から文三に は親切でも昇には冷淡で、文三をば推尊してゐても、昇をば輕蔑してゐる。相愛は相 敬の隣に棲む。輕蔑しつゝ迷ふといふは、我輩人間の能く了解し得る事でない。

「して見れば、大丈夫かしら。……が……。」

 ト、また引懸りが有る、まだ決徹しない。文三が周章ててブル/\と首を振ツ て見たが、それでも未だ散りさうにもしない。此の「が」奴が、藕絲孔中蚊睫の間に も這入りさうな此の眇然たる一小「が」奴が、眼の中の星よりも邪魔になり、地平線 上に現はれた砲車一片の雲よりも畏ろしい。

 然り、畏ろしい。此の「が」の先には、如何な不了簡が竊まツてゐるかも知れ ぬ、と思へば文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らして仕舞ひたい。しかし、 散らして仕舞ひたいと思ふほど尚ほ散り難る。加之も、時刻の移るに隨つて、枝雲は 出來る、砲車雲は擴がる、今にも一大颶風が吹起りさうに見える。氣が氣で無い……。

 國許より郵便が參ツた。散らし藥には屈竟の物が參ツた。飢ゑた蒼鷹が小鳥を 抓むのは、此樣な鹽梅で有らうか、と思ふ程に、文三が手紙を引掴んで、封目を押切 ツて、故意と聲高に讀み出したが、中頃に至ツて……フト默して考へて……また讀出 して……また默して……また考へて……遂に天を仰いで、轟然と一大笑を發した。何 を云ふかと思へば、

「お勢を疑ふなんぞと云ツて、我も餘程如何かしてゐる。アハヽヽヽ。歸ツて來 たら全然咄して、笑ツて仕舞はう。お勢を疑ふなんぞと云ツて、アハヽヽヽ。」

 此最後の大笑で、砲車雲は全く打拂ツたが、其代り、手紙は何を讀んだのだか、 皆無判らない。

 ハツと氣を取直して、文三が眞面目に成ツて落着いて、さて再び母の手紙を讀 んで見ると、免職を知らせ手紙のその返辭で、老耋の惡い耳、愚癡を溢したり薄命を 歎いたりしさうなものの、文の面を見れば、其樣なけびらひは露程もなく、何も角も 因縁づくと斷念めた、思切りのよい文言。しかし、流石に心細いと見えて、返す書に、 跡で憶出して書き加へたやうに、薄墨で、

「かう申せば、そなたはお笑ひ被成候かは存じ不申候へども、手紙の着きし當日 より、一日も早く、舊のやうにお成り被成候やうに、○○のお祖師さまへ茶斷して、 願掛け致し居り候まゝ、そなたもその積りにて、油斷なく御奉公口をお尋ね被下度念 じまいらせそろ。」

 文三は手紙を下に措いて、默然として腕を拱んだ。

 叔母ですら愛想を盡かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがひないと云ツて 愚癡をも溢さず、茶斷までして子を勵ます、その親心を汲分けては、難有泪に暮れさ うなもの、トサ、文三自分にも思ツたが、如何したものか感涙も流れず、唯、何とな くお勢の歸りが待遠しい。

「畜生、慈母さんが是程までに思ツて下さるのに、お勢なんぞの事を……不孝極 まる。」

 ト勃然として、自ら叱責ツて、お勢の貌を視るまでは、外出などを做度く無い が、故意と意地惡く、「是から往ツて頼んで來よう。」

 ト口に言ツて、「お勢の歸ツて來ない内に」と、内心で言足しをして、憤々し ながら晩餐を喫して宿所を立出で、疾足に番町へ參ツて、知己を尋ねた。

 知己と云ふのは石田某と云ツて、某學校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋、 曾て某省へ奉職したのも、實は此の男の周旋で。

 此の男は曾て、英國に留學した事が有るとかで、英語は一通り出來る。當人の 噺に據れば、彼地では經濟學を修めて、隨分上出來の方で有ツたと云ふ事で、歸朝後 も、經濟學で立派に押し廻される所では有るが、少々仔細有ツて、當分の内(七八年 來の當分の内)唯の英語の教師をしてゐると云ふ事で。

 英國の學者社會に、多人數の知己が有る中に、夫の有名のハ アバアト・スペンサアとも、曾て半面の識が有るが、しかし、最う七八年も以前の事 ゆゑ、今面會したら、恐らくは互に面忘れをしてゐるだらうと云ふ、是も當人の噺で。

 兎も角も、流石は留學しただけ有りて、英國の事情、即ち、上下議員の宏壯、 龍動府市街の繁昌、車馬の華美、料理の献立、衣服、杖履、日用 諸雜品の名稱等、凡て閭巷猥瑣の事には、能く通曉してゐて、骨牌を弄ぶ事も出來、 紅茶の好惡を飮別ける事も出來、指頭で紙卷烟草を製する事も出來、片手で鼻汗を拭 く事も出來るが、其代り日本の事情は皆無解らない。

 日本の事情は皆無解らないが、當人は一向苦にしないのみならず、凡そ一切の 事、一切の物を、「日本の」トさへ冠詞が附けば、則ち鼻息でフムと吹飛ばして仕舞 ツて、而して平氣で濟ましてゐる。

 まだ中年の癖に、此男は宛も老人の如くに、過去の追想而已で生活してゐる。 人に會へば必ず先づ、留學して居た頃の手柄噺を咄し出す。尤も之を封じては、更に 談話の出來ない男で。

 知己の者は、此男の事を種々に評判する。或は、「懶惰」ト云ひ、或は「鐵面 皮だ」ト云ひ、或は「自惚だ」ト云ひ、或は「法螺吹きだ」ト云ふ。此の最後の説だ けには、新知、故交、統括めて總起立。藥種屋の丁稚が、熱に浮かされたやうに、 「さうだ」トいふ。

「しかし、毒が無くツて宜い、」ト誰だか評した者が有ツたが、是は極めて確評 で、恐らくは毒が無いから、懶惰で、鐵面皮で、自惚で、法螺を吹くのだ、と云ツた ら、或は「イヤ懶惰で、鐵面皮で、自惚で、法螺を吹くから、それで毒が無いやうに 見えるのだ、」ト云ふ説も出ようが、兎も角も文三は然う信じてゐるので。

 尋ねて見ると、幸ひ在宿。乃ち面會して委細を咄して依頼すると、「よろしい、 承知した。」ト手輕な挨拶。文三は肚の裏で、「毒がないから安請合をするが、其代 り、身を入れて周旋はして呉れまい。」ト思ツて、私に嘆息した。

「是れが英國だと、君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん、我輩かう 見えても、英國にゐた頃は、隨分知己が

[_]
[12]有ツたものだ。タイム ス新聞の
社員で某サ、それから……。」

 と記憶に存した知己の名を、一々言ひ立てての噺。屡々聞いて、耳にタコが入 つてゐる程では有るが、イエ、其のお噺なら、最う承りましたとも言兼ねて、文三も 初て聞くやうな面相をして、耳を貸してゐる。その焦れツたさ、もどかしさ。モヂ/ \しながら到頭二時間許りといふもの、無間斷に受けさせられた。その受賃といふ譯 でも有るまいが、歸り際になツて、

「新聞の翻譯物が有るから周旋しよう。明後日午後に來給へ、取寄せて置かう。」

 トいふから、文三は喜びを述べた。

「フン新聞か。……日本の新聞は、英國の新聞から見りや、全で小兒の新聞だ、 見られたものぢやない……。」

 文三は狼狽てて、告別の挨拶を仕直して、匆々に戸外へ立ち出で、ホツと一息 溜息を吐いた。

 早くお勢に逢ひたい。早くつまらぬ心配をした事を咄して仕舞ひたい。早く心 の清い所を見せてやり度い。ト、一心に思詰めながら、文三がいそ/\歸宅して見る と、お勢はゐない、お鍋に聞けば、一旦歸ツて、また入湯に往ツたといふ。文三些し 拍子拔けがした。

 居間へ戻ツて燈火を點じ、臥て見たり、起きて見たり、立ツて見たり、坐ツて 見たりして、今か/\と文三が一刻千秋の思ひをして、頸を延ばして待構へてゐると、 頓て格子戸の開く音がして、縁側に優しい聲がして、梯子段を上る跫音がして、お勢 が目前に現はれた。只見れば常さへ艶やかな緑の黒髮は水氣を含んで、天鵞絨をも欺 くばかり、玉と透徹る肌は鹽引の色を帶びて、眼元にはホンノリと紅を潮した鹽梅。 何處やらが惡戯らしく見えるが、ニツコリとした口元の可憐らしい處を見ては、是非 を論ずる遑がない。文三は何も角も忘れて仕舞ツて、だらしも無くニタニタと笑ひな がら、

「お歸んなさい。如何でした、團子坂は。」

「非常に雜沓しましたよ、お天氣が宜いのに、日曜だつたもんだから。」

 と言ひながら、膝から先へベツタリ坐ツて、お勢は兩手で嬌面を掩ひ、

「アヽせつない。厭だと云ふのに、本田さんが無理にお酒を飮まして。」

「母親さんは。」

 ト文三が尋ねた。お勢が何を言ツたのだか、トント解らないやうで。

「お湯から買物に回ツて……而してネ、自家もモウ好加減に酔 ツてる癖に、私が飮めないと云ふとネ、助けて遣るツて、ガブ/\、それこそ牛飮し たもんだから、究竟にはグデングデンに醉ツて仕舞ツて。」

 ト聞いて、文三は、滿面の笑を半ば引込ませた。

「それからネ、私共を家へ送り込んでから、仕樣が無いんですものヲ、巫山戲て /\。それに慈母さんも惡いのよ、今夜だけは大眼に看て置くなんぞツて、云ふもん だから、好い氣になツて尚ほ巫山戲て……オホヽヽ。」

 ト思出し笑をして、

「眞個に失敬な人だよ。」

 文三は全く笑を引込ませて仕舞ツて、腹立しさうに、

「そりや、嘸面白かツたでせう。」

 ト云ツて顏を皺めたが、お勢はさらに氣が附かぬ樣子。暫く默然として、何歟 考へてゐたが、頓てまた思出し笑をして、

「眞個に失敬な人だよ。」

 つまらぬ心配をした事を全然咄して、快く一笑に付して、心の清い所を見せて、 お勢に……お勢に……感心させて、而して自家も安心しようといふ文三の胸算用は、 是に至ツてガラリ外れた。昇が酒を強ひた、飮めぬと云ツたら助けた。何でも無い事。 送込んでから巫山戲た。……道學先生に開かせたら、巫山戲させて置くのが惡いと云 ふかも知れぬが、しかし是とても酒の上の事、一時の戲なら、然う立腹する譯にもい かなかツたらう。要するに、お勢の噺に於て、深く咎むべき節も無い。が、しかし、 文三には氣に喰はぬ。お勢の言樣が氣に喰はぬ。「昇如き犬畜生にも劣ツた奴の事を、 さも嬉しさうに、本田さん/\と、噂をしなくツても宜ささうなものだ、」ト思へば、 又不平になツて、又面白くなくなツて、又お勢の心意氣が呑込めなく成ツた。文三は 差俯向いた儘で、默然として考へてゐる。

「何を其樣に、鬱いでお出でなさるの。」

「何も鬱いぢやゐません。」

「然う、私はまた、お留さん(大方老母が文三の嫁に欲しいと云つた娘の名で) とかの事を懷出して、それで、鬱いでお出でなさるのかと思ツたら、オホヽヽ。」

 文三は愕然として、お勢の貌を暫く凝視めて、ホツと溜息を吐いた。

「オホヽヽ溜息をして、矢張當ツたんでせう。ネ、然うでせう。オホヽヽ、當ツ たもんだから默ツて仕舞ツて。」

「そんな氣樂ぢや有りません。今日母の處から郵便が來たから、讀んで見れば、 私のかういふ身に成ツたを心配して、此頃ぢや茶斷して願掛けしてゐるさうだし… …。」

「茶斷して、慈母さんが。オホヽヽ、慈母さんもまだ舊弊だ事ネー。」

 文三はジロリとお勢を尻眼に懸けて、恨めしさうに、

「貴孃にや可笑しいか知らんが、私にや薩張可笑しく無い。薄命とは云ひながら、 私の身が定らん許りで、老耋ツた母にまで、心配掛けるかと思へば、隨分……耐らな い。それに慈母さんも……。」

「また、何とか云ひましたか。」

「イヤ何とも仰しやりはしないが、アレ以來始終氣不味い顏ばかりしてゐて、打 解けては下さらんし……それに……それに……。」

「貴孃も。」ト口頭まで出たが、如何も鐵面皮しく、嫉妬も言ひかねて、思ひ返 して仕舞ひ、

「兎も角も、一日も早く、身を定めなければ成らぬと思ツて、今も石田の處へ往 ツて頼んでは來ましたが、しかし、是れとても恃にはならんし、實に……弱りました。 唯私一人苦しむのなら、何でもないが、私の身の定らぬ爲めに方方が我他彼此するの で、誠に困る。」

 ト萎れ返ツた。

「然うですネー。」

 ト今まで冴えに冴えてゐたお勢も、トウ/\引込まれて、共に氣をめいらして 仕舞ひ、暫くの間、默然としてつまらぬものでゐたが、頓て小さな欠伸をして、

「アヽ睡く成ツた。ドレ最う往ツて寢ませう。お休みなさいまし。」

 ト會釋をして起立ツて、フト立止まり、

「ア、然うだツけ……文さん、貴君はアノー、課長さんの令妹を御存知。」

「知りません。」

「さう。今日ネ、團子坂でお眼に懸ツたの。年紀は十六七でネ、隨分別嬪は…… 別嬪だツたけれども、束髮の癖に、ヘゲル程白粉を施けて、……薄化粧なら宜いけれ ども、彼樣に施けちやア、厭味ツたらしくツてネー。……オヤ好い氣なもんだ。また 噺込んでゐる積りだと見えるよ。お休みなさいまし。」

 ト再び會釋して、お勢は二階を降りて仕舞ツた。縁側で、唯今歸ツた許りの母 親に出逢ツた。

「お勢。」

「エ。」

「エぢやないよ。またお前、二階へ上ツてたネ。」

 また始まツたと云ツたやうな面相をして、お勢は返答をもせず、其儘子舎へ這 入ツて仕舞ツた。さて子舎へ這入ツてから、お勢は手疾く寢衣を着替へて床へ這入り、 暫くの間、臥ながら今日の新聞を覽てゐたが、……フト新聞を取落した。寢入ツたの かと思へば、然うでもなく、眼はパツチリ視開いてゐる。其癖靜まり返ツてゐて、身 動きをもしない。頓て、

「何故、アヽ不活溌だらう。」

 ト口へ出して、考へて、フト兩足を踏伸ばして嫣然笑ひ、狼狽てて起揚ツて、 枕頭の洋燈を吹消して仕舞ひ、枕に就いて、二三度臥反りを打ツたかと思ふと、間も 無くスヤスヤと寢入ツた。

9. 第九囘 すわらぬ肚

 今日は十一月四日。打續いての快晴で、空は餘殘なく晴れ渡ツてはゐるが、憂 愁ある身の心は曇る文三は、朝から一室に垂籠めて、獨り屈託の頭を疾ましてゐた。 實は昨日、朝飯の時、文三が叔母に對ツて、一昨日、教師を番町に訪うて、身の振方 を依頼して來た趣を、縷々咄し出したが、叔母は木然として情寡き者の如く、「へー」 ト餘所事に聞流してゐて、さらに取合はなかツた。それが未だに氣になツて氣になツ てならないので。

 一時頃に、勇が歸宅したとて遊びに參ツた。浮世の鹽を踏まぬ身の氣散じさ、 腕押、坐相撲の噺、體操、音樂の噂、取締との議論、賄方征討の義擧から、試驗の模 樣、落第の分疏に至るまで、凡そ偶然に懷に浮んだ事は、月足らずの水子思想、まだ 完成つてゐなからうが、如何だらうが、其樣な事に頓着はない。訥辯ながら、矢鱈無 上に陳べ立てて、返答などは更に聞いてゐぬ。文三も最初こそ相手にも成ツてゐたれ、 遂にはポツと精を盡かして仕舞ひ、勇には隨意に空氣を鼓動さして置いて、自分は自 分で、餘所事をと云ツた所が、お勢の上や身の成行で、熟思默想しながら、折折間外 れな溜息噛交ぜの返答をしてゐる。と、フトお勢が階子段を上ツて來て、中途から貌 而已を差出して、

「勇。」

「だから僕ア議論して遣ツたんだ。だツて君、失敬ぢやないか。ボートの順番を、 クラツスの順番で……。」

「勇と云へば、お前の耳は木くらげかい。」

「だから、何だと云ツてるぢや無いか。」

「綻を縫つてやるから、シヤツをお脱ぎとよ。」

 勇はシヤツを脱ぎながら、

「クラツスの順番で定めると云ふんだもの、ボートの順番をクラツスの順番で定 めちやア、僕ア何だと思ふな、僕ア失敬だと思ふな。だツて君、ボートは……。」

「さツさと、お脱ぎで無いかネー、人が待ツてゐるぢや無いか。」

「其樣に、急がなくツたツて宜いやアネ。失敬な。」

「何方が失敬だ……アラ、彼樣な事言ツたら、尚ほ故意と愚頭々々してゐるよ。 チヨツ、じれツたいネー。早々としないと、姉さん知らないから宜い。」

「そんな事云ふなら、Bridle pathと云ふ字を知ツてるか。I was at our uncle'sと云ふ 事を知ツてるか。I will keep your……。」

「チヨイと、お默り……。」

 ト口早に制して、お勢が耳を聳てて、何歟聞き濟まして、忽ち滿面に笑を含ん で、さも嬉しさうに、

「必と本田さんだよ。」

 ト言ひながら、狼狽てて梯子段を駈け下りて仕舞ツた。

「オイ/\姉さん、シヤツを持ツてツとくれツてば……。オイ……ヤ、失敬な、 モウ往ツちまツた。渠奴、近頃、生意氣になツていかん。先刻も僕ア喧嘩して遣ツた んだ。婦人の癖に園田勢子と云ふ名刺を拵へるツてツたから、お勢ツ子で澤山だツて ツたら、非常に憤ツたツけ。」

「アハヽヽヽ。」

 ト今迄默想してゐた文三が、突然、無茶苦茶に高笑ひを做出したが、勿論秋毫 も、可笑しさうでは無かツた。しかし、少年の議論家は、稱讚されたのかと思ツたと 見えて、

「お勢ツ子で澤山だ。婦人の癖に、いかん、生意氣で。」

 ト云ひながら、得々として二階を降りて往ツた跡で、文三は暫くの間、また腕 を拱んで默想してゐたが、フト何歟憶出したやうな面相をして、起上ツて羽織だけを 着替へて、帽子を片手に二階を降りた。

 奧の間の障子を開けて見ると、果して昇が遊びに來てゐた。加之も、傲然と、 火鉢の側に大胡坐をかいてゐた。その傍にお勢がベツたり坐ツて、何かツベコベと端 手なく囀づツてゐた。少年の議論家は、素肌の上に上衣を羽織ツて、仔細らしく首を 傾けて、ふかし甘薯の皮を剥いて居、お政は仰々しく針箱を前に控へて、覺束ない手 振で、シヤツの綻を縫合はせてゐた。

 文三の顏を視ると、昇が顏で電光を光らせた、蓋し挨拶の積りで。お勢もまた 後方を振返ツて顧は顧たが、「誰かと思ツたら、」ト云はぬ許りの、索然とした情味 の無い相貌をして、急にまた彼方を向いて仕舞ツて、

「眞個。」

 ト云ひながら、首を傾げて、チヨイと昇の顏を凝視めた光景。

「眞個さ。」

「虚言だと聽きませんよ。」

 アノ筋の解らない、他人の談話と云ふものは、聞いて餘り快くは無いもので。

「チヨイと番町まで。」ト文三が叔母に會釋をして、起上らうとすると、昇が、

「オイ内海、些し噺が有る。」

「些と急ぐから……。」

「此方も急ぐんだ。」

 文三はグツと視下ろす、昇は視上げる。眼と眼を疾視合はした。何だか異な鹽 梅で。それでも文三は、澁々ながら、座鋪へ這入ツて座に着いた。

「他の事でも無いんだが。」

 ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政は、フト針仕事の手を止め て、不思議さうに昇の貌を凝視めた。

「今日役所での評判に、此間免職に成ツた者の中で、二三人復職する者が出來る だらうと云ふ事だ。然う云やア、課長の談話に、些し思ひ當る事も有るから、或は實 説だらうかと思ふんだ。所で、我輩考へて見るに、君が免職になツたので、叔母さん は勿論、お勢さんも……。」

 ト云懸けてお勢を尻眼に懸けてニヤリと笑ツた。お勢はお勢で、可笑しく下脣 を突出して、ムツと口を結んで、額で昇を疾視付けた、イヤ疾視付ける眞似をした。

「お勢さんも、非常に心配してお出でなさるし、且つ君だツても、ナニも遊んで ゐて食へると云ふ身分でも有るまいしするから、若し復職が出來れば此上も無いと云 ツたやうなもんだらう。そこで、若し果して然うならば、宜しく人の定らぬ内に、課 長に呑込ませて置く可しだ。が、しかし、君の事たから、今更直付けに往き難いとで も思ふなら、我輩一臂の力を假しても宜しい、橋渡しをしても宜しいが、如何だ、お 思食は。」

「それは御親切……難有いが……」

 ト言懸けて、文三は默して仕舞ツた。迷惑は匿しても匿し切れない、自ら顏色 に現はれてゐる。モヂ付く文三の光景を視て、昇は早くもそれと悟ツたか、

「厭かネ。ナニ厭なものを無理に頼んで周旋しようと云ふんぢや無いから、そり や如何とも君の隨意さ。だが、しかし、……痩我慢なら、大抵にして置く方が宜から うぜ。」

 文三は血相を變へた……。

「そんな事仰しやるが無駄だよ。」

 トお政が横合から嘴を容れた。

「内の文さんは、グツと氣位が立ち上ツてお出でだから、其樣な卑劣な事ア出來 ないツサ。」

「ハヽア、然うかネ。其れは至極お立派な事た。ヤ、是れは飛んだ失敬を申し上 げました、アハヽヽ。」

 ト聞くと等しく、文三は眞青になつて、慄然と震へ出して、拳を握ツて、齒を 喰切ツて、昇の半面をグツと疾視付けて、今にもむしやぶり付きさうな顏色をした。 ……が、ハツと心を取直して、

「エヘ。」

 何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし甘薯を頬張ツて、右の 頬を脹らませながら、モツケな顏をして文三を凝視めた。お勢もまた、不思議さうに、 文三を凝視めた。

「お勢が顏を視てゐる。……此儘で阿容々々と退くは殘念。何か云ツて遣り度い。 何かカウ品の好い惡口雜言、一言の下に、昇を氣死させる程の事を云ツて、アノ鼻頭 をヒツ擦ツて、アノ者面を赧らめて……。」トあせる許りで、凄み文句は以上見附か らず、而してお勢を視れば、尚ほ文三の顏を凝視めてゐる……。文三は周章狼狽とし た……。

「モウ、そ……それツ切りかネ。」

 ト覺えず取外して云ツて、我ながら我音聲の變ツてゐるのに吃驚した。

「何が。」

 またやられた。蒼ざめた顏をサツと赧らめて、文三が、

「用事は。」

「ナニ用事。……ウー、用事か。用事と云ふから判らない。……左やう、是れツ 切りだ。」

 モウ席にも堪へかねる。默禮するや否や、文三が蹶然起上ツて、座鋪を出て二 三歩すると、後の方で、ドツと口を揃へて高笑ひをする聲がした。文三また慄然と震 へて、また蒼ざめて、口惜しさうに奧の間の方を睨詰めたまゝ、暫くの間、釘付けに 逢ツたやうに、立在んでゐた。が、頓てまた、氣を取直して悄々と出て參ツた。

 が、文三、無念で、殘念で、口惜しくて、堪へ切れぬ憤怒の氣が、クワツと許 りに激昂したのをば、無理無體に壓着けた爲めに、發しこぢれて、内攻して、胸中に 磅はく鬱積する、胸板が張裂ける、腸が斷絶れる。

 無念々々、文三は恥辱を取ツた。ツイ近屬と云ツて、二三日前までは、官等に 些とばかり高下は有りとも、同じ一課の局員で、優り劣りが無ければ、押しも押され もしなかツた昇如き犬自物の爲めに恥辱を取ツた。然り恥辱を取ツた。しかし、何の 遺恨が有ツて、如何なる原因が有ツて。

 想ふに、文三、昇にこそ怨はあれ、昇に怨みられる覺えは更にない。然るに昇 は何の道理も無く、何の理由もなく、恰も人を辱める特權でも有ツてゐるやうに、文 三を土芥の如くに蔑視して、犬猫の如くに待遇ツて、剩へ、叔母やお勢の居る前で嘲 笑した、侮辱した。

 復職する者が有ると云ふ役所の評判も、課長の言葉に思ひ當る事が有ると云ふ も、昇の云ふ事なら恃にはならぬ。假令、其等は實説にもしろ、人の痛いのなら百年 も我慢すると云ふ昇が、自家の利益を賭物にして、他人の爲めに周旋しようと云ふ、 まづ、其れからが呑み込めぬ。

 假りに一歩を讓ツて、全く朋友の眞實心から、彼樣な事を言出したとした所で、 それなら其れで言樣が有る。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦、みすぼらしい身に 成ツたと云ツて文三を見括ツて、失敬にも、無禮にも、復職が出來たら此上が無から う、と云ツた。

 それも宜しいが、課長は、昇の爲めに課長なら、文三の爲めにもまた課長だ。 それを昇は、恰も自家一個の課長のやうに、課長々々とひけらかして、頼みもせぬに 「一臂の力を假してやらう、橋渡しをしてやらう、」と云ツた。疑ひも無く、昇は、 課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕に措く如き信用を得てゐると云ツて、それ を鼻に掛けてゐるに相違ない。それも己一個で鼻に掛けて、己一個でひけらかして、 己と己が愚を披露してゐる分の事なら、空家で棒を振ツた許り、當り觸りが無ければ、 文三も默ツても居よう、立腹もすまいが、その三文信用を挾んで、人に臨んで、人を 輕蔑して、人を嘲弄して、人を侮辱するに至ツては、文三腹に据ゑかねる。

 面と向ツて、圖大柄に、「痩我慢なら大抵にしろ、」ト、昇は云ツた。

 痩我慢、痩我慢、誰が痩我慢してゐると云ツた。また何を痩我慢してゐると云 ツた。

 俗務をおツつくねて、課長の顏色を承けて、強ひて笑ツたり、諛言を呈したり、 四ン這に這ひ廻ツたり、乞食にも劣る眞似をして、漸くの事で三十五圓の慈惠金に有 り附いた。……それが何處が榮譽になる。頼まれても文三には、其樣な卑屈な眞似は 出來ぬ。それを昇は、お政如き愚癡無智の婦人に持長じられると云ツて、我程働き者 はないと自惚れて仕舞ひ、加之も廉潔な心から、文三が手を下げて頼まぬと云へば、 嫉み妬みから負惜しみをすると、臆測を逞うして、人も有らうに、お勢の前で、「痩 我慢なら、大抵にしろ。」口惜しい、腹が立つ、餘の事は兎も角も、お勢の目前で辱 められたのが口惜しい。

「加之も、辱められる儘に辱められてゐて、手出しもしなかツた。」

 ト、何處でか、異な聲が聞えた。

「手出しをしなかツたのだ。手出しが爲度くも爲得なかツたのぢやない。」

 ト、文三、憤然として分疏を爲出した。

「我だツて男子だ。蟲も有る、膽氣も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉とも思ツてゐぬが、 しかし、彼時憖じ、此方から手出しをしては、益々向うの思ふ坪に陷ツて、玩弄され る許りだし、且つ婦人の前でも有ツたから、爲難い我慢もして遣ツたんだ。

 トは知らずして、お勢が怜悧に見えても未惚女の事なら、蟻とも、螻とも、糞 中の蛆とも云ひやうのない人非人、利の爲めにならば、人糞をさへ嘗めかねぬ廉恥知 らず、昇如き者の爲めに、文三が嘲笑されたり、玩弄されたり、侮辱されたりしても、 手出しをもせず、阿容々々として退いたのを視て、或は腑甲斐ない、意氣地が無い、 と思ひはしなかツたか。……假令、お勢は何とも思はぬにしろ、文三はお勢の手前、 面目ない、恥かしい……。

「ト云ふも、昇、貴樣から起ツた事だぞ。ウヌ、如何するか見やがれ。」

 ト憤然として、文三が拳を握ツて、齒を喰切ツて、ハツタと許りに疾視付けた。 疾視付けられた者は通りすがりの巡査で。巡査は立止ツて、不思議さうに文三の脊丈 を眼分量に見積ツてゐたが、それでも、何とも言はずに、また彼方の方へと巡行して 往ツた。

 愕然として、文三が、夢の覺めたやうな面相をして、キヨロキヨロと四邊を環 視して見れば、何時の間にか靖國神社の華表際に鵠立んでゐる。考へて見ると、成程 爼橋を渡ツて、九段坂を上ツた覺えが、微かに殘ツてゐる。乃ち社内へ進入ツて、左 手の方の杪枯れた櫻の木の植込みの間へ這入ツて、兩手を背後に合はせながら、顏を 皺めて、其處此處と徘徊き出した。蓋し、尋ねようと云ふ石田の宿所は、後門を拔け ればツイ其處では有るが、何分にも、胸に燃す修羅苦羅の火の手が盛んなので、暫く 散歩して餘熱を冷ます積りで。

「しかし、考へて見ればお勢も恨みだ。」

 ト文三が徘徊きながら、愚癡を溢し出した。

「現在自分の……我が、本田のやうな畜生に辱められるのを傍觀してゐながら、 くやしさうな顏もしなかツた。……平氣で、人の顏を視てゐた……。」

「加之も立際に、一所に成ツて高笑ひをした、」ト無慈悲な記憶が、容赦なく言 足した。

「然うだ、高笑ひをした。……して見れば、彌々心變りがしてゐるか知らん。」

 ト思ひながら、文三が力無ささうに、とある櫻の樹の下に据ゑ付けてあツたペ ンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云ふよりは寧ろ尻餅を搗いた。暫くの間は、腕を拱 んで、頤を襟に埋めて、身動きをもせずに、靜まり返ツて默想してゐたが、忽ちフツ と首を振揚げて、

「ヒヨツトしたら、お勢に愛想を盡かさして……そして自家の方に靡かさうと思 ツて……それで故意と我を……お勢のゐる處で我を……然ういへば、アノ言樣、アノ ……お勢を視た眼付……コ、コ、コリヤ、此儘には措けん……。」

 ト云ツて、文三は血相を變へて、突立ち上ツた。

 が、如何したもので有らう。

 何歟、カウ、非常な手段を用ひて、非常な豪膽を示して、

「文三は男子だ、蟲も膽氣も此の通り有る。今まで何と言はれても、笑ツて濟ま してゐたのはナ、全く恢量大度だからだぞ、無氣力だからでは無いぞ。」ト、口で言 はんでも行爲で見せ付けて、昇の膽を褫ツて、叔母の睡を覺まして、若し愛想を盡か してゐるならば、お勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も實に膽氣が 有ると……確信して見度いが、如何したもので有らう。

 思ふさま、言ツて、言ツて、言ひまくツて、而して斷然絶交する。……イヤ/ \、昇も仲々口強馬、舌戰は文三の得策でない、と云ツて、正可、腕力に訴へる事も 出來ず。

「ハテ、如何して呉れよう。」

 ト、殆んど口へ出して云ひながら、文三がまた舊の腰掛に尻餅を搗いて、熟々 と考へ込んだ儘、一時間許りと云ふものは、靜まり返ツてゐて、身動きをもしなかツ た。

「オイ、内海君。」

 ト云ふ聲が頭上に響いて、誰だか肩を叩く者が有る。吃驚して、文三がフツと 顏を振揚げて見ると、手摺れて垢光りに光ツた洋服、加之も二三ケ處手痍を負うた奴 を着た壯年の男が、餘程酩酊してゐると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿臭い香をさせ 乍ら、何時の間にか目前に突立ツてゐた。見れば舊と同僚で有ツた山口某といふ男で、 第一囘にチヨイと噂をして置いた、アノ山口と同人で、矢張踏外し連の一人。

「ヤ、誰かと思ツたら一別以來だネ。」

「ハヽヽ一別以來か。」

「大分御機嫌のやうだネ。」

「然り、御機嫌だ。しかし酒でも飮まんぢやア堪らん。アレ以來、今日で五日に なるが、毎日酒浸しだ。」

 ト云ツて、その證據立の爲めにか、胸で妙な間投詞を發して聞かせた。

「何故また、然うDespairを起したもんだネ。」

「Despairぢやア無いが、しかし、君、面目く無いぢやアないか。何等の不都合が 有ツて、我々共を追出したんだらう。また何等の取得が有ツて、彼樣な庸劣な奴許り を選んで殘したのだらう。その理由が聞いて見度いネ。」

 ト眞黒に成ツてまくし立てた、その顏を見て、傍を通りすがツた黒衣の園丁ら しい男が冷笑した。文三は些し氣まりが惡くなり出した。

「君も然うだが、僕だツても事務にかけちやア……。」

「些し小さな聲で咄し給へ、人に聞える。」

 ト氣を附けられて、俄に聲を低めて、

「事務に懸けちや、かう云やア可笑しいけれど、跡に殘ツた奴等に、敢て多くは 讓らん積りだ。然うぢやないか。」

「然うとも。」

「然うだらう。」

 ト乘地に成ツて、

「然るに唯一種事務外の事務を勉勵しないと云ツて、我我共を追出した。面白く 無いぢやないか。」

「面白く無いけれど、しかし、幾程云ツても仕樣が無いサ。」

「仕樣が無いけれども、面白く無いぢやないか。」

「時に、本田の云ふ事だから恃にはならんが、復職する者が二三人出來るだらう と云ふ事だが、君は其樣な評判を聞いたか。」

「イヤ聞かない。ヘエ、復職する者が、二三人。」

「二三人。」

 山口は俄に口を鉗んで、何歟默考してゐたが、頓て、少許絶望氣味で、

「復職する者が有ツても、僕ぢやア無い。僕はいかん。課長に憎まれてゐるから、 最う駄目だ。」

 ト云ツて、また暫く默考して、

「本田は一等上ツたと云ふぢやないか。」

「然うださうだ。」

「どうしても、事務外の事務の巧みなものは違ツたものだね。僕のやうな愚直な ものには、迚もアノ眞似は出來ない。」

「誰にも出來ない。」

「奴の事だから、さぞ得意でゐるだらうネ。」

「得意も宜いけれども、人に對ツて失敬な事を云ふから腹が立つ。」

 ト云ツて仕舞ツてから、アヽ惡い事を云ツた、と氣が附いたが、モウ取返しは 附かない。

「エ、失敬な事を。如何な事を/\。」

「エ、ナニ、些し……。」

「どんな事を。」

「ナニネ、本田が今日僕に、或人の處へ往ツてお髭の塵を拂はないかと云ツたか ら、失敬な事を云ふと思ツて、ピツタり跳付けてやツたら、痩我慢と云はん許りに云 やアがツた。」

「それで君、默ツてゐたか。」

 ト山口は憤然として、眼睛を据ゑて、文三の貌を凝視めた。

「餘程、やツつけて遣らうかと思ツたけれども、しかし、彼樣な奴の云ふ事を、 取上げるも大人氣ないと思ツて、赦して置いてやツた。」

「そ、そ、それだから不可ん。然う君は内氣だから不可ん。」

 ト苦々しさうに冷笑ツたかと思ふと、忽ちまた憤然として、文三の顏を疾視ん で、

「僕なら、直ぐ其場でブン打ツて仕舞ふ。」

「打らうと思へば譯は無いけれども、しかし、其樣な疎暴な事も出氣ない。」

「疎暴だツて關はんサ。彼樣な奴は時々打ツてやらんと、癖になツていかん。君 だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ツて仕舞ふ。」

 文三は默して仕舞ツて、最早辯駁をしなかツたが、暫くして、

「時に、君は何だと云ツて、此方の方へ來たのだ。」

 山口は俄に、何歟思ひ出したやうな面相をして、

「ア、然うだツけ。……一番町に親類が有るから、此勢で是れから其處へ往ツて 金を借りて來ようと云ふのだ。それぢやア是れで別れよう。些と遊びに遣ツて來給へ。 失敬。」

 と自己が云ふ事だけを饒舌り立てて、人の挨拶は耳にも懸けず、急足に通用門 の方へと行く。その後姿を見送りて、文三が肚の裏で、

「彼奴まで我の事を、意氣地なし、と云はん許りに云やアがる。」

10. 第十囘 負けるが勝

 知己を番町の家に訪へば、主人は不在。留守居の者より翻譯物を受取りて、文 三が舊と來た路を引返して、爼橋まで來た頃はモウ點火頃で、町家では皆店洋燈を點 してゐる。免職に成ツて懷淋しいから、今頃歸るに食事をもせずに來た、と思はれる も殘念、ト、つまらぬ處に力瘤を入れて、文三はトある牛店へ立寄ツた。

 此牛店は、開店してまだ間もないと見えて、見掛は至極よかツたが、裏へ這入 ツて見ると大違ひ。尤も客も相應にあツたが、給仕の婢が不慣なので、迷惑く程には 手が廻らず、帳場でも間違へれば、出し物も後れる。酒を命じ、肉を命じて、文三が 待てど暮らせど持ツて來ない。催促をしても持ツて來ない。また催促をしても、また 持ツて來ない。偶々持ツて來れば、後から來た客の處へ置いて行く。流石の文三も、 遂には癇癪を起して、嚴しく談じ付けて、不愉快、不平な思ひをして、漸くの事で食 事を濟まし、勘定を濟まして、「毎度難有う御座い、」の聲を聞流して、戸外へ出た 時には、厄落しでもしたやうな心地がした。

 兩側の夜見世を窺きながら、文三がブラ/\と、神保町の通りを通行した頃に は、胸のモヤクヤも漸く絶え%\に成ツて、どうやら酒を飮んだらしく思はれて、昇 に辱められた事も忘れ、お勢の高笑ひをした事をも忘れ、山口の言葉の氣に障ツたの も忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯かほに當る夜風の涼味をの み感じたが、しかし長持はしなかツた。

 宿所へ來た。何心なく文三が、格子戸を開けて裏へ這入ると、奧座鋪の方でワ ツ/\と云ふ高笑ひの聲がする。耳を聳てて能く聞けば、昇の聲もその中に聞える。 ……まだ居ると見える。文三は覺えず立止ツた。「若しまた無禮を加へたら、モウ、 その時は破れかぶれ」ト思へば荐りに胸が浪だつ。暫く鵠立んでゐて、度胸を据ゑて、 戰爭が始まる前の軍人の如くに、思切ツた顏色をして、文三は縁側へ廻り出た。

 奧座鋪を窺いて見ると、杯盤狼藉と取散らしてある中に、昇が背なかに、圓く 切拔いた白紙を張られて、ウロ/\として立ツてゐる。その傍にお勢とお鍋が、腹を 抱へて絶倒してゐる。が、お政の姿はカイモク見えない。顏を見合はしても「歸ツた か、」ト云ふ者もなく、「叔母さんは、」ト尋ねても、返答をする者もないので、文 三が憤々しながら、其儘にして行き過ぎて仕舞ふと、忽ち後の方で、

 昇「オヤ、此樣な惡戲をしたネ。」

 勢「アラ、私ぢや有りませんよ。アラ、鍋ですよ。オホホヽ。」

 鍋「アラ、お孃さまですよ。オホヽヽヽ。」

 昇「誰も彼も無い、二人共敵手だ。ドレまづ此の肥滿奴から。」

 鍋「アラ、私ぢや有りませんよ。オホヽヽヽ。アラ、厭ですよ。……アラー、 御新造さアん

 ト大聲を揚げさせての騒動、ドタバタと云ふ跫音も聞えた。オホヽヽと云ふ笑 ひ聲も聞えた。お勢の荐りに、「引掻いてお遣りよ、引掻いて。」ト叫喚く聲もまた 聞えた。

 騒動に氣を取られて、文三が覺えず立止まりて、後方を振向く途端に、バタ/ \と跫音がして、避ける間もなく、誰だかトンと文三に衝當ツた。狼狽てた聲で、お 政の聲で、

「オー危い。誰だネー、此樣な處に默ツて突立ツて。」

「ヤ、コリヤ失敬。……文三です。……何處ぞ痛めはしませんでしたか。」

 お政は何とも言はずに、ツイと奧座鋪へ這入りて、跡ピツシヤリ。恨めしさう に跡を見送ツて、文三は暫く立在んでゐたが、頓て二階へ上ツて來て、まづ手探りで 洋燈を點じて、机の邊に蹲踞してから、さて、

「實に淫哇だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ツ てゐるお勢が、彼樣な猥褻な席に連ツてゐる。……加之も、一所に成ツて巫山戲てゐ る。……平生の持論は何處へ遣ツた。何の爲めに學問をした。先自侮而後人侮之。そ の位の事は承知してゐるだらう。それでゐて、彼樣な眞似を……實に淫哇だ。叔父の 留守に不取締が有ツちやア我が濟まん。明日嚴敷叔母に…。」

 トまで調子に連れて默想したが、此に至ツて、フト、今の我身を省みて、グン ニヤリと萎れて仕舞ひ、暫くしてから、「まづ兎も角も、」ト氣を替へて、懷中して 來た翻譯物を取り出して讀み初めた。

 "The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……"

 ドツと下座鋪でする高笑ひの聲に、流讀の腰を折られて、文三はフト口を鉗ん で、

「チヨツ、失敬極まる。我の歸ツたのを知ツてゐながら、何奴も此奴も本田一人 の相手に成ツて、チヤホヤしてゐて、飯を喰ツて來たかと云ふ者も無い。……ア、ま た笑ツた、アリヤお勢だ。……彌々心變りがしたならしたと云ふが宜い。切れてやら んとは云はん。何の糞、我だツて男兒だ。心變のした者に……。」

 ハツと心附いて、また一越調子高に、

 "The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political ……"

 フト、格子戸の開く音がして、笑聲がピツタリ止つた。文三は耳を聳てた。匆 はしく縁側を通る人の足音がして、暫くすると梯子段の下で、洋燈を如何とか斯うと か云ふお鍋の聲がしたが、それから後は肅然として、音沙汰なしになツた。何となく 來客でもある容子。

 高笑ひの聲がする内は、何をしてゐる位は大抵想像が附いたから、まづ宜かツ たが、斯う靜ツて見ると、サア容子が解らない。文三些し不安心に成ツて來た。「客 の相手に、叔母は座鋪へ出てゐる。お鍋も用がなければ可し、有れば傍に附いてはゐ ない。シテ見ると……。」ト、文三は起ツたり居たり。

 キツと思付いた、イヤ憶出した事が有る。今始ツた事では無いが、先刻から醉 醒めの氣味で咽喉が渇く。水を飮めば渇が歇まるが、しかし水は臺所より外には無い。 而して臺所は二階には附いてゐない故に、若し水を飮まんと欲せば、是非共下座鋪へ 降りざるを得ず。「折が惡いから、何となく何だけれども、しかし我慢してゐるも馬 鹿氣てゐる。」ト、種々に分疏をして、文三は遂に二階を降りた。

 臺所へ來て見ると、小洋燈が點しては有るが、お鍋は居ない。皿小鉢の洗ひ懸 けた儘で打捨てて有る所を見れば、急に用が出來て使にでも往ツたものか。「奧座鋪 は、」と聞耳を引立てればヒソ/\と私語く聲が聞える。全身の注意を耳一つに集め て見たが、どうも聞取れない。ソコで竊むが如くに水を飮んで、拔足をして臺所を出 ようとすると、忽ち奧座鋪の障子がサツと開いた。文三は振返ツて見て、覺えず立止 ツた。お勢が開懸けた障子に掴まツて、出るでも無く出ないでもなく、唯此方へ背を 向けて立在んだ儘で座鋪の裏を窺き込んでゐる。

「チヨイト?處へお出で。」

 ト云ふは慥に昇の聲。お勢はだらしもなく頭振りを振りながら、

「厭サ、彼樣な事をなさるから。」

「モウ惡戲しないから、お出でと云へば。」

「厭。」

「ヨーシ、厭と云ツたネ。」

「眞個は、其處へ往きませうか。」

 ト、チヨイと首を傾げた。

「ア、お出で。サア……サア……。」

「何方の眼で。」

「コイツメ。」

 ト確に起上る眞似。

 オホヽヽと笑ひを溢しながら、お勢は狼狽てて駈出して來て、危く文三に衝き 當らうとして、立止ツた。

「オヤ誰。……文さん。……何時歸ツたの。」

 文三は何とも言はず、ツンとして二階へ上ツて仕舞ツた。

 その後からお勢も續いて上ツて來て、遠慮會釋も無く文三の傍にベツタリ坐ツ て、常よりは馴々敷く、加之も顏を皺めて可笑しく身體を搖りながら、

「本田さんが巫山戲て/\、仕樣がないんだもの。」

 ト鼻を鳴らした。

 文三は恐ろしい顏色をして、お勢の柳眉を顰めた嬌面を疾視付けたが、戀は曲 物、かう疾視付けた時でも、尚ほ「美は美だ、」と思はない譯にはいかなかツた。折 角の相好も、どうやら崩れさうに成ツた。……が、ハツと心附いて、故意と、苦々し さうに冷笑ひながら、外方を向いて仕舞ツた。

 折柄梯子段を蹈轟かして、昇が上ツて來た。ジロリと兩人の光景を見るや否や、 忽ちグツと身を反らして、さも仰山さうに、

「是だもの。……大切なお客樣を置去りにしておいて。」

「だツて、貴君が、彼樣な事をなさるもの。」

「何樣な事を。」

 ト云ひながら、昇は坐ツた。

「どんな事ツて、彼樣な事を。」

「ハヽヽ此奴ア宜い。それぢやア、彼樣な事ツて如何な事を。ソラ、いゝたちこ ツこだ。」

「そんなら云ツてもよう御座んすか。」

「宜しいとも。」

「ヨーシ、宜しいと仰しやツたネ。そんなら云ツて仕舞ふから宜い。アノネ、文 さん、今ネ、本田さんが……。」

 ト言懸けて、昇の顏を凝視めて、

「オホヽヽ、マア、かにして上げませう。」

「ハヽヽ、言へ無いのか。夫れぢやア我輩が代ツて噺さう。今ネ、本田さんがネ ……。」

「本田さん。」

「私の……。」

「アラ、本田さん、仰しやりやア承知しないから宜い。」

「ハヽヽ、自分から言ひ出して置きながら、然うも亭主と云ふものは恐いものか ネ。」

「恐かア無いけれども、私の不名譽になりますもの。」

「何故。」

「何故と云ツて、貴君に凌辱されたんだもの。」

「ヤ、是れは、飛んでも無いことをお云ひなさる。唯チヨイと……。」

「チヨイと/\、本田さん、敢て一問を呈す。オホヽヽ、貴君は何ですよ。口に は同權論者だ同權論者だ、と仰しやるけれども、虚言ですよ。」

「同權論者でなければ、何だと云ふんでゲス。」

「非同權論者でせう。」

「非同權論者なら。」

「絶交して仕舞ひます。」

「エ、絶交して仕舞ふ。アラ恐ろしの決心ぢやなアぢやないか。アハヽヽ。如何 して/\、我輩程熱心な同權論者は、恐らくは有るまいと思ふ。」

「虚言仰しやい。譬へばネ、熱心でも貴君のやうな同權論者は、私ア大嫌ひ。」

「是れは御挨拶。大嫌ひとは、情けない事を仰しやる。そんなら如何いふ同權論 者がお好き。」

「如何云ふツて、アノー僕の好きな同權論者はネ、アノー……。」

 ト横眼で、天井を眺めた。

 昇が小聲で、

「文さんのやうな。」

 お勢も小聲で、

「Yes……。」

 ト微かに云ツて、可笑しな身振りをして、兩手を顏に當てて笑ひ出した。文三 は愕然としてお勢を凝視めてゐたが、見る間に顏色を變へて仕舞ツた。

「イヨー妬ます。羨ましいぞ。どう だ、内海エ、今の御託宣は。文さんのやうな人が好きツ。アツ堪らぬ/\。モウ今夜、 家にや寢られん。」

「オホヽヽヽ、其樣な事仰しやるけれども、文さんのやうな同權論者が好き、と 云ツた許りで、文さんが好き、と云はないから宜いぢや有りませんか。」

「その分疏闇い/\。文さんのやうな人が好きも、文さんが好きも、同じ事で御 座います。」

「オホヽヽヽ、そんならばネ、……ア、斯うです斯うです、私はネ、文さんが好 きだけれども、文さんは私を嫌ひだから宜いぢや有りませんか。ネー、文さん、然う ですネー。」

「ヘン、嫌ひ所か、好きも好き、足駄穿いて首ツ丈と云ふ、念の入ツた落こちや うだ。些し水層が増さうものなら、ブクブク往生しようと云ふんだ。ナア内海。」

 文三はムツとしてゐて、莞爾ともしない。その貌をお勢は、チヨイと横眼で視 て、

「あんまり、貴君が戯談仰しやるものだから、文さん、憤ツて仕舞ひなすツた よ。」

「ナニ、正可、嬉敷いとも云へないもんだから、それで彼樣な貌をしてゐるのサ。 しかし、アヽ澄ました所は内海も仲仲好男子だネ。苦味ばしツてゐて、モウ些し彼の 顋がつまると、申分がないんだけれども。アハヽヽヽ。」

「オホヽヽ。」

 ト笑ひながら、お勢はまた、文三の貌を横眼で視た。

「しかし、然うは云ふものの、内海は果報者だよ。まづお勢さんのやうな、此樣 な、」

 ト、チヨイと、お勢の膝を叩いて、

「頗る付きの別嬪、加之も實の有るのに想ひ附かれて、叔母さんに油を取られた と云ツては保護して貰ひ、ヤ、何だと云ツては保護して貰ふ。實の羨ましいネ。明治 年代の丹治と云ふのは此の男の事だ。燒いて粉にして、飮んで仕舞はうか、然うした ら些とはあやかるかも知れん。アハヽヽハ。」

「オホヽヽ。」

「オイ好男子、然う苦蟲を喰潰してゐずと、些と此方を向いてのろけ給へ。コレ サ丹治君。是れはしたり、御返答が無い。」

「オホヽヽヽ。」

 トお勢はまた作笑ひをして、また横眼でムツとしてゐる文三の貌を視て、

「アー可笑しいこと。餘り笑ツたもんだから、咽喉が渇いて來た。本田さん、下 へ往ツてお茶を入れませう。」

「マア、最う些と御亭主さんの傍に居て、顏を視せてお上げなさい。」

「厭だネー、御亭主さんなんぞツて、そんなら入れて、?處へ持ツて來ませうか。」

「茶を入れて持ツて來る實が有るなら、寧そ水を持ツて來て貰ひ度いネ。」

「水を。お砂糖入れて。」

「イヤ、砂糖の無い方が宜い。」

「そんなら、レモン入れて來ませうか。」

「レモンが這入るなら、砂糖氣がチヨツピリ有ツても宜いネ。」

「何だネー、いろんな事云ツて。」

 ト云ひながら、お勢は起上ツて、二階を降りて仕舞ツた。跡には兩人の者が、 暫く手持無沙汰と云ふ氣味で、默然としてゐたが、頓て文三は厭に落着いた聲で、

「本田。」

「エ。」

「君は酒に醉ツてゐるか。」

「イヽヤ。」

「それぢやア些し聞く事が有るが、朋友の交と云ふものは、互に尊敬してゐなけ れば、出來るものぢや有るまいネ。」

「何だ、可笑しな事を言出したな。左やう、尊敬してゐなければ出來ない。」

「それぢやア、……。」

 ト云懸けて、默してゐたが、思切ツて、些し聲を震はせて、

「君とは暫く交際してゐたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰ひ度い。」

「ナニ、絶交して貰ひ度いと。……何だ、唐突千萬な。何だと云ツて、絶交しよ うと云ふんだ。」

「その理由は、君の胸に聞いて貰はう。」

「可笑しく云ふな。我輩少しも絶交しられる覺えは無い。」

「フン、覺えは無い。彼程人を侮辱して置きながら。」

「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ツて。」

「フヽン、仕樣が無いな。」

「君がか。」

 文三は默然として、暫く昇の顏を凝視めてゐたが、頓て些し聲高に、

「何にも然う、とぼけなくツたツて宜いぢや無いか。君みたやうなものでも、人 間と思ふからして、即ち廉恥を知ツてゐる動物と思ふからして、人間らしく美しく絶 交して仕舞はうとすれば、君は一度ならず二度までも、人を侮辱して置きながら… …。」

「オイ/\/\、人に物を云ふなら、モウ些と解るやうに云ツて貰ひたいネ。君 一人位友人を失ツたと云ツて、そんなに悲しくも無いから、絶交するならしても宜し いが、しかし、その理由も説明せずして、唯無暗に人を侮辱した/\と云ふ許りぢや、 ハア然うか、とは云ツて居られんぢやないか。」

「それぢや、何故、先刻、叔母やお勢のゐる前で、僕に、痩我慢なら大抵にしろ、 と云ツた。」

「それが、其樣なに、氣に障ツたのか。」

「當然サ。……何故今また、僕の事を明治年代の丹治、即ち意氣地なしと云ツ た。」

「アハヽヽ、彌々腹筋だ。それから。」

「事に大小は有ツても、理に巨細は無い。痩我慢と云ツて侮辱したも、丹治と云 ツて侮辱したも、歸する所は唯一の輕蔑からだ。即に輕蔑心が有る以上は、朋友の交 際は出來ないものと認めたからして、絶交を申出したのだ。解ツてゐるぢやないか。」

「それから。」

「但し斯うは云ふやうなものの、園田の家と絶交して呉れとは云はんからして、 今迄のやうに毎日遊びに來て、叔母と骨牌を取らうが、」

 ト云ツて、文三冷笑した。

「お勢を藝娼妓の如く弄ばうが、」

 ト云ツてまた冷笑した。

「僕の關係した事でないから、僕は何とも云ふまい。だから、君も左う落膽、イ ヤ狼狽して、遁辭を設ける必要も有るまい。」

「フヽウ、嫉妬の原素も雜ツてゐる。それから。」

「モウ、是れより外に言ふ事も無い。また君も何にも言ふ必要も有るまいから、 此儘下へ降りて貰ひ度い。」

「イヤ、言ふ必要が有る。寃罪を被ツては、此を辯解する必要が有る。だから、 此の儘下へ降りる事は出來ない。何故、痩我慢なら大抵にしろ、と「忠告」したのが 侮辱になる。成程、親友でないものに、さう直言したならば、侮辱したと云はれても 仕樣が無いが、しかし、君と我輩とは親友の關繋ぢや無いか。」

「親友の間にも禮義は有る。然るに君は面と向ツて僕に痩我慢なら大抵にしろ、 と云ツた。無禮ぢやないか。」

「何が無禮だ。痩我慢なら大抵にしろ、と云ツたツけか、大抵にした方がよから うぜ、と云ツたツけか、何方だツたか、モウ忘れて仕舞ツたが、しかし、何方にしろ 忠告だ。凡そ、忠告と云ふ者は――君にかぶれて、哲學者振るのぢやアないが――忠 告と云ふ者は、人の所行を非と認めるから云ふもので、是と認めて忠告を試みる者は 無い。故に若し非を非と直言したのが、侮辱になれば、總ての忠告と云ふ者は、皆君 の所謂無禮なものだ。若しそれで、君が我輩の忠告を怒るのならば、我輩一言もない。 謹んで罪を謝さう。が、然うか。」

「忠告なら、僕は却て聞く事を好む。しかし、君の言ツた事は、忠告ぢやない、 侮辱だ。」

「何故。」

「若し忠告なら、何故人のゐる前で言ツた。」

「叔母さんやお勢さんは、内輪の人ぢやないか。」

「そりや、内輪の者サ。……内輪の者サ。……けれども、……しかしながら、… …。」

 文三は狼狽した。昇はその光景を見て、私かに冷笑した。

「内輪の者だけれども、しかし、何にも、アヽ、口汚なく言はなくツても好いぢ やないか。」

「どうも、種々に論鋒が變化するから、君の趣意が解りかねるが、それぢやア何 か、我輩の言方、即ち忠告のMannerが氣に喰はん、と云ふのか。」

「勿論、Mannerも氣に喰はんサ。」

「Mannerが氣に喰はないのなら、改めてお斷り申さう。君には侮辱と聞えたかも 知れんが、我輩は忠告の積りで言ツたのだ。それで宜からう。それなら、モウ、絶交 する必要も有るまい。アハヽヽ。」

 文三は、何と駁して宜いか、解らなくなツた。唯ムシヤクシヤと腹が立つ。風 が宜ければ、左程にも思ふまいが、風が惡いので、尚ほ一層腹が立つ。油汗を鼻頭に にじませて、下脣を喰締めながら、暫くの間、口惜しさうに、昇の馬鹿笑ひをする顏 を疾視んで、默然としてゐた。

 お勢が溢れる許りに水を盛ツたコツプを、盆に載せて持ツて參ツた。

「ハイ、本田さん。」

「是れはお待遠さま。」

「何ですと。」

「エ。」

「アノ、とぼけた顏。」

 アハヽヽヽ、しかし、餘り遲かツたぢやないか。」

「だツて、用が有ツたんですもの。」

「浮氣でもしてゐやアしなかツたか。」

「貴君ぢや有るまいし。」

「我輩がそんなに浮氣に見えるかネ。……ドツコイ、課長さんの令妹と云ひたさ うな口付をする。云へば此方にも、文さんと云ふ武器が有るから、直ぐ返討だ。」

「厭な人だネー、人が何にも言はないのに、邪推を廻して。」

「邪推を廻してと云へば、」

 ト文三の方を向いて、

「如何だ、隊長、まだ胸に落ちんか。」

「君の云ふ事は皆遁辭だ。」

「何故。」

「そりや説明するに及ばん。Self-evident truthだ。」

「アハヽヽ。とう/\Self-evident truthにまで達したか。」

「どうしたの。」

「マア、聞いてゐて御覽なさい、餘程面白い議論が有るから。」

 ト云ツて、また文三の方を向いて、

「それぢや、その方の口はまづ片が附いたと。それからして、最う一口の方は何 だツけ……然う然う、丹治々々。アハヽヽ、何故、丹治と云ツたのが侮辱になるネ。 それも矢張Self-evident truthかネ。」

「どうしたの。」

「ナニネ、先刻我輩が、明治年代の丹治と云ツたのが、御氣色に障ツたと云ツて、 此の通り顏色まで變へて御立腹だ。貴孃の情夫にしちやア、些と野暮天すぎるネ。」

「本田。」

 昇は飮みかけたコツプを下に置いて、

「何でゲス。」

「人を侮辱して置きながら、咎められたと言ツて、遁辭を設けて逃げるやうな破 廉恥的の人間と舌戰は無益と認める。からして、モウ、僕は何にも言ふまいが、しか し、最初のプロポーザル(申出)より一歩も引く事は出來んから、モウ降りて呉れ給 へ。」

「まだ其樣な事を云ツてるのか。ヤ、どうも、君も驚く可き負惜みだな。」

「何だと。」

「負惜みぢやないか。君にも最う自分の惡かツた事は解ツてゐるだらう。」

「失敬な事を云ふな。降りろと云ツたら、降りたが宜いぢやないか。」

「モウお罷しなさいよ。」

「ハヽヽ、お勢さんが心配し出した。しかし、眞に然うだネ。モウ罷した方が宜 い。オイ内海、笑ツて仕舞はう。マア、考へて見給へ、馬鹿氣切ツてゐるぢやないか。 忠告の仕方が氣に喰はないの、丹治と云ツたが癪に障るの、と云ツて絶交する。全で 子供の喧嘩のやうで、人に對して噺も出來ないぢやなか。ネ、オイ、笑ツて仕舞は う。」

 文三は默ツてゐる。

「不承知か。困ツたもんだネ。それぢや宜しい、斯うしよう、我輩が謝まらう。 全く、然うした深い考へが有ツて云ツた譯ぢやアないから、お氣に障ツたら、眞平御 免下さい。それでよからう。」

 文三は、モウ、堪へ切れない憤りの聲を振上げて、

「降りろと云ツたら降りないか。」

「それでも、まだ承知が出來ないのか。それぢやア仕樣がない、降りよう。今何 を言ツても解らない、逆上ツてゐるから。」

「何だと。」

「イヤ此方の事だ。ドレ。」

 ト起上る。

「馬鹿。」

 昇も些しムツとした趣で、立止まツて、暫く文三を疾視付けてゐたが、頓てニ ヤリと冷笑ツて、

「フヽン、前後忘却の體か。」

 ト云ひながら、二階を降りて仕舞ツた。お勢も續いて起上ツて、不思議さうに 文三の容子を振反ツて觀ながら、是れも二階を降りて仕舞ツた。跡で文三は、悔しさ うに齒を喰切ツて、拳を振揚げて机を拍ツて、

「畜生ツ。」

 梯子段の下あたりで、昇とお勢のドツと笑ふ聲が聞えた。

11. 十一囘 取付く島

 翌朝朝飯の時、家内の者が顏を合はせた。お政は始終顏を皺めてゐて口も碌々 聞かず。文三もその通り。獨りお勢而已はソハ/\してゐて更に沈着かず、端手なく 囀ツて、他愛もなく笑ふ、かと思ふとフト口を鉗んで、眞面目に成ツて、憶出したや うに、額越しに文三の顏を眺めて、笑ふでも無く笑はぬでもなく、不思議さうな、劒 呑さうな、奇奇妙々な顏色をする。

 食事が濟む。お勢がまづ起立ツて、座鋪を出て、縁側でお鍋に戲れて、高笑を したかと思ふ間も無く、忽ち部屋の方で、低聲に詩吟をする聲が聞えた。

 益々顏を顰めながら、文三が續いて起上らうとして、叔母に呼留められて、又 坐直して、不思議さうに、恐る/\叔母の顏色を窺ツて見て、ウンザリした。思做か して、叔母の顏は尖ツてゐる。

 人を呼留めながら、叔母は悠々としたもので、まづ煙草を環に吹くこと五六ぷ く。お鍋の膳を引終るを見濟まして、さて漸くに、

「他の事でも有りませんがネ、昨日私が、マア傍で聞いてれば――また餘計なお 世話だツて叱られるかも知れないけれども――本田さんがアヽやツて、親切に言ツて お呉んなさるものを、お前さんはキツパリ斷ツてお仕舞ひなすツたが、ソリヤモウ、 お前さんの事だから、いづれ先に何とか確乎な見當が無くツて、彼樣な事をお言ひな さりやアすまいネ。」

「イヤ、何にも、見當が有ツての、如何の、と云ふ譯ぢや有りませんが、唯… …。」

「ヘー、見當も有りもしないのに、無暗に辭ツてお仕舞ひなすツたの。」

「目的なしに斷ると云ツては、或は無考へのやうに聞えるかも知れませんが、し かし、本田の言ツた事でも、ホンの風評と云ふだけで、ナニも確に……。」

 縁側を通る人の跫音がした。多分、お勢が英語の稽古に出懸けるので。改ツて 外出をする時を除くの外は、お勢は大抵、母親に挨拶をせずして出懸ける。それが習 慣で。

「確に然うとも……。」

「それぢや何ですか、彌々となりや、御布告にでもなりますか。」

「イヤ、其樣な、布告なんぞになる氣遣ひは有りませんが。」

「それぢや、マア、人の噂を恃にするほか、仕樣が無いと云ツたやうなもんです ネ。」

「ですが、其れは然うですが、しかし、……本田なぞの言ふ事は……。」

「恃にならない。」

「イヤ、そ、そ、さう云ふ譯でも有りませんが……ウー……しかし……幾程苦し いと云ツて……課長の處へ……。」

「何ですとエ。幾程苦しいと云ツて、課長さんの處へは往けないとエ。まだお前 さんは、其樣な氣樂な事を言ツてお出でなさるのかエ。」

 トお政が層に懸ツて、極付けかけたので、文三は狼狽てて、

「そ、そ、そればかりぢや有りません。……假令、今課長に依頼して、復職が出 來たと云ツても、迚も私のやうな者は永くは續きませんから、寧ろ官員は、モウ思切 らうかと思ひます。」

「官員は、モウ思切る。フン、何が何だか理由が解りやしない。此間、お前さん 何とお言ひだ。私が、是れから如何して行く積りだと聞いたら、また官員の口でも探 さうかと思ツてます、とお言ひぢやなかツたか。其れを今と成ツて、モウ官員は思切 る。……左樣サ、親の口は干上ツても關は無いから、モウ官員はお罷めなさるが宜い のサ。」

「イヤ、親の口が干上ツても關はない、と云ふ譯ぢやア有りませんが、しかし、 官員許りが職業でも有りませんから、教師に成ツても親一人位は養へますから……。」

「だから誰も、然うはならない、とは申しませんよ。そりやアお前さんの勝手だ から、教師になと、車夫になと、何になとお成んなさるが宜いのサ。」

「ですが、然う、御立腹なすツちや、私も實に……。」

「誰が腹を立ツてると云ひました。ナニ、お前さんが如何しようと、此方に關繋 の無い事だから、誰も腹も背も立ちやアしないけれども、唯本田さんが、アヽやツて、 親切に言ツてお呉んなさるもんだから、周旋ツて貰ツて、課長さんに取入ツて置きや ア、假令んば今度の復職とやらは出來ないでも、また先へよツて何ぞれ角ぞれ、お世 話アして下さるまいものでも無い。トネー、然うすりや、お前さんばかしか、慈母さ んも御安心なさる事たし、それに……何だから、三方四方、まるく納まる事たから (此時文三はフツと顏を振揚げて、不思議さうに叔母を凝視めた、)と思ツて、チヨ イとお聞き申したばかしサ。けれども、ナニ、お前さんが、然うした了簡方ならそれ 迄の事サ。」

 兩人共、暫く無言。

「鍋。」

「ハイ。」

 トお鍋が襖を開けて、顏のみを出した。見れば口をモゴ付かせてゐる。

「まだ御膳を仕舞はないのかエ。」

「ハイ、まだ。」

「それぢや、仕舞ツてからで宜いからネ、何時もの車屋へ往ツて、一人乘一梃、 誂へて來てお呉れ。濱町まで上下。」

「ハイ、それでは只今直に。」

 ト云ツて、お鍋が、襖を閉切るを待兼ねてゐた文三が、また改めて叔母に向ツ て、

「段々と承ツて見ますと、叔母さんの仰しやる事は、一々御尤のやうでも有るし、 且私一個の強情から、母親は勿論、叔母さんにまで種々御心配を懸けまして、甚だ恐 入りますから、今一應篤と考へて見まして。」

「今一應も二應も無いぢやア有りませんか、お前さんが、モウ、官員にやならな い、と決めてお出でなさるんだから。」

「そ、それは然うですが、しかし……事に寄ツたら……思ひ直すかも知れません から……。」

 お政は冷笑しながら、

「そんなら、マア、考へて御覽なさいだが、ナニモウ何ですよ、お前さんが官員 に成ツてお呉んなさらなきやア、私どもが立往か無いと云ふんぢや無いから、無理に 何ですよ、勸めはしませんよ。」

「ハイ。」

「それから序だから言ツときますがネ、聞けば昨夕、本田さんと何だか入組みな すツたさうだけれども、そんな事が有ツちやア誠に迷惑しますネ。本田さんはお前さ んのお朋友とは云ひ條、今ぢやア家のお客も同然の方だから。」

「ハイ。」

 トは云ツたが、文三、實は叔母が何を言ツたのだか、よくは解らなかツた。些 し考へ事が有るので。

「そりやア、アヽ云ふ胸の廣い方だから、其樣な事が有ツたと云ツて、それを根 葉に有ツて、周旋をしないとはお言ひなさりやすまいけれども、全體なら……マアそ れは、今言ツても無駄だ。お前さんが腹を極めてからの事にしよう。」

 ト自家撲滅。文三はフト首を振揚げて、

「ハイ。」

「イエネ、またの事にしませう、と云ふ事サ。」

「ハイ。」

 何だかトンチンカンで。

 叔母に一禮して、文三が起上つて、そこ/\に部屋へ戻ツて、室の中央に突立 ツた儘で、坐りもせず、良暫くの間と云ふものは、造付けの木偶の如くに、默然とし てゐたが、頓て溜息と共に、

「如何したものだらう。」

 ト云ツて、宛然雪達磨が、日の眼に逢ツて解けるやうにグズ/\と崩れながら に座に着いた。

 何故「如何したものだらう」かと、其理由を繹ねて見ると、概略はまづ箇樣で。

 先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途に叔母を薄情な婦人と思詰めて、 恨みもし立腹もした事では有るが、其後沈着いて考へて見ると、如何やら叔母の心意 氣が、飮込めなくなり出した。

 成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない。文三の感情、思想を忖度し得ないの も勿論の事では有るが、しかし、菽麥を辨ぜぬ程の癡女子でもなければ、自家獨得の 識見をも保着してゐる、論事矩をも保着してゐる、處世の法をも保着してゐる。それ でゐて、何故、アヽ何の道理も無く、何の理由もなく、唯文三が免職に成ツたと云ふ 許りで、自身も恐らくは無理と知りつゝ無理を陳べて、一人で立腹して、罪も咎も無 い文三に手を杖かして、謝罪さしたので有らう。お勢を嫁するのが厭になツてと、或 時は思ひはしたものの、考へて見れば、其れも可笑しい。二三分時前までは、文三が 我女の夫、我女は文三の妻、と思詰めてゐた者が、免職と聞くより早くガラリ氣が渝 ツて、俄に配合せるのが厭に成ツて、急拵への愛想盡かしを陳立てて、故意に立腹さ して、而して娘と手を切らせようとした。……如何も可笑しい。

 かうした疑念が起ツたので、文三がまた叔母の言草、悔しさうな言樣、ジレツ タさうな顏色を、一々漏らさず憶起して、さらに出直して思惟して見て、文三は遂に 昨日の非を覺ツた。

 叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを樂みにしてゐたに相違な い。來年の春を心待に待ツてゐたに相違ない。その帶をアアして、この衣服をかうし てと、私に胸算用をしてゐたに相違ない。それが、文三が免職に成ツた許りでカラリ と恃が外れたので、それで失望したに相違ない。凡そ失望は落膽 を生み落膽は愚癡を生む。「叔母の言草を愛想盡かしと聞取ツたのは全く 此方の僻耳で、或は愚癡で有ツたかも知れん」ト云ふ所に文三氣が附いた。

 かう氣が附いて見ると、文三は幾分か恨が晴れた、叔母がさう憎くはなくなツ た、イヤ寧ろ叔母に對して氣の毒に成ツて來た。文三の今我は故吾でない。しかし、 お政の故吾も今我でない。

 悶着以來、まだ五日にもならぬに、お政はガラリ其容子を一變した。勿論以前 とても、ナニモ非常に文三を親愛してゐた、手車に乘せて下にも措かぬやうにしてゐ た、ト云ふでは無いが、兎も角も以前は、チヨイと顏を見る眼元、チヨイと物を云ふ 口元に、眞似て眞似のならぬ一種の和氣を帶びてゐたが、此頃は眼中には雲を懸けて、 口元には苦笑を含んでゐる。以前は言ふ事がさら/\としてゐて、厭味氣が無かツた が、此頃は言葉に針を含めば、聞いて耳が痛くなる。以前は人我の隔歴が無かツたが、 此頃は全く他人にする。霽顏を見せた事も無い、温語をきいた事も無い、物を言懸け れば、聞えぬ風をする事も有り、氣に喰はぬ事が有れば、目を側てて疾視付ける事も 有り、要するに可笑しな處置振りをして見せる。免職が種の悶着は、是に至ツて、沍 てて、かじけて、凝結し出した。

 文三は篤實温厚な男、假令その人と爲りは如何有らうとも、叔母は叔母、有恩 の人に相違ないから、尊尚親愛して、水乳の如くシツクリと、和合し度いとこそ願へ、 決して乖背し、?離したいとは願はないやうなものの、心は境に隨ツてその 相を顯ずるとかで、叔母に斯う仕向けられて見ると、萬更好い心地もしない。好い心 地もしなければ、ツイ不吉な顏も爲度くなる。が、其處は、篤實温厚だけに、何時も 思返して、ヂツと辛抱してゐる。蓋し文三の身が極まらなければ、お勢の身も極まら ぬ道理。親の事なら其も苦勞にならう。人世の困難に遭遇つて、獨りで苦惱して、獨 りで切拔けると云ふは、俊傑の爲る事。竝や通途の者ならば、然うはいかぬがち。自 心に苦惱が有る時は、必ずその由來する所を自身に求めずして、他人に求める。求め て得なければ、天命に歸して仕舞ひ、求めて得れば、即ちその人を娟嫉する。然うで もしなければ、自ら慰める事が出來ない。「叔母も、それで、かう辛く當るのだな、」 トその心を汲分けて、如何な可笑しな處置振りをされても、文三は眼を閉ツて默ツて ゐる。

「が、若し叔母が慈母のやうに我の心を噛分けて呉れたら、若し叔母が心を和げ て、共に困厄に安んずる事が出來たら、我ほど世に幸な者は有るまいに、」ト思ツて、 文三屡々嘆息した。依ツて、至誠は天をも感ずるとか云ふ古賢の格言を力にして、折 さへ有れば、力めて叔母の機嫌を取ツて見るが、お政は油紙に水を注ぐやうに跳付け て而已ゐて、さらに取合はず、而して獨りでジレてゐる。文三は、針の筵に坐ツたや うな心地。

 しかし、まだ/\是れしきの事なら、忍んで忍ばれぬ事も無いが、?處 に尤も心配で/\耐へられぬ事が一つ有る。他でも無い、此頃叔母がお勢と文三との 間を塞くやうな容子を徐々見え出した一事で。尤も今の内は、唯お勢を戒めて、今迄 のやうに文三と親しくさせないのみで、さして思切ツた處置もしないから、まづ差迫 ツた事では無いが、しかし、此儘にして捨置けば、將來何等な傷心恨事が出來するか も測られぬ。一念此に到る毎に、文三は我も折れ、氣も挫けて、而して胸膈も塞がる。

 かう云ふ矢端には、得て疑心も起りたがる、繩麻に蛇相も生じたがる。株抗に 人想の起りたがる。實在の苦境の外に、文三が別に妄念から一苦界を産出して、求め て其の中に沈淪して、あせツて、もがいて、極大苦惱を嘗め てゐる今日此頃、我慢勝他が性質の叔母のお政が、よくせきの事なればこそ、我から 折れて出て、「お前さんさへ我を折れば三方四方圓く納まる、」ト穩便をおもツて言 ツて呉れる。それを無面目にも言破ツて、立腹をさせて、我から我他彼此の種子を蒔 く……。文三然うは爲たく無い。成らう事なら叔母の言状を立てて、その心を慰めて、 お勢の縁をも繋ぎ留めて、老母の心をも安めて、而して自分も安心したい。それで、 文三は、先刻も言葉を濁して來たので。それで文三は、今又、屈託の人と爲ツてゐる ので。

「如何したものだらう。」

 ト、文三、再び我と我に相談を懸けた。

「寧そ、叔母の意見に就いて、廉恥も良心も棄てて仕舞ツて、課長の處へ往ツて 見ようか知らん。依頼さへして置けば、假令へば、今が今如何ならんと云ツても、叔 母の氣が安まる。然うすれば、お勢さへ心變りがしなければ、まづ大丈夫と云ふもの だ。且つ慈母さんも、此頃ぢやア茶斷して心配してお出でなさる所だから、是れ許り で犠牲に成ツたと云ツても、敢て小膽とは言はれまい。コリヤ、寧そ叔母の意見に… …。」

 が、猛然として省思すれば、叔母の意見に就かうとすれば、厭でも昇に親まな ければならぬ。昇と彼儘にして置いて、獨り課長に而已取入らうとすれば、渠奴必ず 邪魔を入れるに相違ない。からして、厭でも昇に親まなければならぬ。老母の爲め、 お勢の爲めなら、或は良心を傷けて、自重の氣を拉いで、課長の鼻息を窺ひ得るかも 知れぬが、如何に窮したればと云ツて、苦しいと云ツて、昇に、面と向ツて圖大柄に、 「痩我慢なら大抵にしろ、」ト云ツた昇に、昨夜も昨夜とて、小兒の如くに人を愚弄 して、陽に負けて陰に復り討に逢はした昇に、不倶戴天の讎敵、生きながら其肉を啖 はなければ此熱腸が冷されぬと怨みに思ツてゐる昇に、今更手を杖いて一着を輸する 事は、文三には死しても出來ぬ。課長に取入るも、昇に上手を遣ふも、其趣きは同じ からうが同じく有るまいが、其樣な事に頓着はない。唯、是もなく非もなく利もなく 害もなく、昇に一着を輸する事は、文三には死しても出來ぬ。

 ト決心して見れば、叔母の意見に負かなければならず、叔母の意見に負くまい とすれば、昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なり、是れも厭なりで、二時間 許りと云ふものは、默坐して腕を拱んで、沈吟して、嘆息して、千思萬考、審念熟慮 して屈托して見たが、詮ずる所は舊の木阿彌。

「ハテ、如何したものだらう。」

 物皆終あれば、古筵も鳶にはなりけり。久しく苦んでゐる内に、文三の屈托も 遂に其極度に達して、忽ち一つの思案を形作ツた。所謂思案とは、お勢に相談して見 ようと云ふ思案で。

 蓋し文三が叔母の意見に負き度くないと思ふも、叔母の心を汲分けて見れば、 道理な所もあるからと云ひ、叔母の苦り切ツた顏を見るも心苦しいからと云ふは少分 で、その多分は全く、それが原因でお勢の事を斷念らねばならぬやうに成行きはすま いか、と危むからで。故に、若しお勢さへ、天は荒れても、地は老いても、海は涸れ ても、石は爛れても、文三が此上何樣なに零落しても、母親が此後何樣な言を云ひ出 しても、決してその初の志を悛めない、と定ツてゐれば、叔母が面を脹らしても、眼 を剥出しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見に背く事が出來る。 既に叔母の意見に背く事が出來れば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「且つ窮し て濫するは、大丈夫の爲るを愧づる所だ。」

 然うだ/\。文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一つで、進退去就を決し さへすれば、イサクサは無い。何故、最初から、其處に心附かなかツたか。今と成ツ て考へて見ると、文三、我ながら我が怪しまれる。

 お勢に相談する、極めて上策。恐らくは此に越す思案も有るまい。若しお勢が、 小挫折に逢ツたと云ツて、その節を移さずして、尚ほ未だに文三の知識で考へて、文 三の感情で感じて、文三の息氣で呼吸して、文三を愛してゐるならば、文三に厭な事 は、お勢にもまた厭に相違は有るまい。文三が昇に一着を輸する事を屑しと思はぬな ら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくは有るまい。相談を懸けたら飛んだ手 輕く、「母が何と云はうと關やアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はお罷しなさ いよ、」ト云ツて呉れるかも知れぬ。また此後の所を念を押したら、恨めしさうに、 「貴君は、私をそんな浮薄なものだと思ツてお出でなさるの、」ト云ツて呉れるかも 知れぬ。お勢が然うさへ云ツて呉れゝば、モウ文三天下に懼るゝ者はない。火にも這 入れる、水にも飛込める。況んや叔母の意見に負く位の事は朝飯前の仕事、お茶の子 さい/\とも思はない。

「然うだ、其れが宜い。」

 ト云ツて、文三起立ツたが、また立止ツて、

「が、此頃の擧動と云ひ、容子と云ひ、ヒヨツトしたら本田に……何しては居な いかしらん。チヨツ、關はん、若し然うならば、モウ其迄の事だ。ナニ、我だツて男 子だ。心渝りのした者に、未練は殘らん。斷然手を切ツて仕舞ツて今度こそは思ひ切 ツて、非常な事をして、非常な豪膽を示して、本田を拉いで、而してお勢にも……お 勢にも後悔さして、而して……而して……而して……。」ト思ひながら、二階を降り た。

 が、此處が妙で、觀菊行の時、同感せぬお勢の心を疑ツたにも拘らず、その夜 歸宅してからのお勢の擧動を怪んだのにも拘らず、また昨日の高笑ひ、昨夜のしだら を、今以て面白からず思ツてゐるにも拘らず、文三は内心の内心では、尚ほまだお勢 に於て心變りするなどと云ふ、其樣な水臭い事は無い、と信じてゐた。尚ほまだ、相 談を懸ければ、文三の思ふ通りな事を云ツて、文三を勵ますに相違ない、と信じてゐ た、斯う信ずる理由が有るから、斯う信じてゐたのでは無くて、斯う信じたいから、 斯う信じてゐたので。

12. 第十二囘 いすかの嘴

 文三が二階を降りて、ソツとお勢の部屋の障子を開ける其の途端に、今迄机に 頬杖をついて、何事か物思ひをしてゐたお勢が、吃驚した面相をして、些し飛上ツて 居住居を直した。顏に手の痕の赤く殘ツてゐる所を觀ると、久敷頬杖をついてゐたも のと見える。

「お邪魔ぢや有りませんか。」

「イヽエ。」

「それぢやア。」

 ト云ひ乍ら、文三は、部屋へ這入ツて、座に着いて、

「昨夜は大に失敬しました。」

「私こそ。」

「實に面目が無い。貴孃の前をも憚らずして……今朝その事で慈母さんに小言を 聞きました。アハヽヽ。」

「さう。オホヽヽ。」

 ト無理に押出したやうな笑ひ聲、何となく冷淡い。今朝のお勢とは、全で他人 のやうで。

「時に些し、貴孃に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの仰しやる には……しかし、最うお聞きなすツたか。」

「イヽエ。」

「成程然うだ、御存知ない筈だ。……慈母さんの仰しやるには、本田がアヽ親切 に云ツて呉れるものだから、橋渡しをして貰ツて、課長の處へ往ツたらば如何だ、仰 しやるのです。そりや、成程、慈母さんの仰しやる通り、今?處で私さへ我を 折れば、私の身も極まるし、老母も安心するし、三方四方、(ト言葉に力瘤を入れ て)圓く納まる事だから、私も出來る事なら然うしたいが、しかし、然う爲ようとす るには、良心を絞殺さなければならん、課長の鼻息を窺はなければならん。其樣な事 は我々には出來んぢや有りませんか。」

 「出來なければ、其迄ぢや有りませんか。」

「サ、其處です。私には出來ないが、しかし、然うしなければ、慈母さんがまた 惡い顏をなさるかも知れん。」

「母が惡い顏をしたツて、其樣な事は何だけれども……。」

「エ、關はんと仰しやるのですか。」

 ト文三は、ニコ/\と笑ひながら問懸けた。

「だツて然うぢや有りませんか、貴君が貴君の考どほりに進退して、良心に對し て毫しも恥づる所が無ければ、人が如何な貌をしたツて宜いぢや有りませんか。」

 文三は笑ひを停めて、

「ですが、唯、慈母さんが惡い顏をなさる許りならまだ宜いが、或はそれが原因 と成ツて、……貴孃には如何かはしらんが、……私の爲めには最も忌むべき、最も哀 む可き結果が生じはしないか、と危ぶまれるから、それで私も困るのです。……尤も、 其樣な結果が生ずると、生じないとは、貴孃の……貴孃の……。」

 ト云懸けて、默して仕舞ツたが、頓て聞えるか聞えぬ程の小聲で、

「心一つに在る事だけれども……。」

 ト云ツて差俯向いた。文三の懸けた謎々が、解けても解けない風をするのか、 それとも如何だか其處は判然しないが、兎も角もお勢は頗る無頓着な容子で、

「私にはまだ貴君の仰しやる事がよく解りませんよ。何故然う課長さんの處へ往 くのがお厭だらう。石田さんの處へ往ツてお頼みなさるも、課長さんの處へ往ツてお 頼みなさるも、その趣は同一ぢや有りませんか。」

「イヤ違ひます。」

 ト云ツて、文三は首を振揚げた。

「非常な差が有る、石田は私を知つてゐるけれど課長は私を知らないから……。」

「そりや如何だか解りやしませんやアネ、往ツて見ない内は。」

「イヤ、そりや、今迄の經驗で解ります。そりや掩ふ可らざる事實だから、何だ けれども……それに課長の處へ往かうとすれば、是非とも先づ本田に依頼をしなけれ ばなりません。勿論課長は、私も知らない人ぢやないけれども……。」

「宜いぢや有りませんか、本田さんに依頼したツて。」

「エ、本田に依頼をしろと。」

 ト云ツた時は、文三は、モウ、今迄の文三で無い、顏色が些し變ツてゐた。

「命令するのぢや有りませんがネ、唯依頼したツて宜いぢや有りませんか、と云 ふの。」

「本田に。」

 ト文三は、恰も我耳を信じないやうに、再び尋ねた。

「ハア。」

「彼樣な卑屈な奴に……課長の腰巾着……奴隷……。」

「そんな……。」

「奴隷と云はれても恥とも思はんやうな犬……犬……犬猫同然な奴に、手を杖い て頼めと仰しやるのですか。」

 ト云ツて、ヂツとお勢の顏を凝視めた。

「昨夜の事が有るから、それで貴君は其樣に仰しやるんだらうけれども、本田さ んだツて、其樣に卑屈な人ぢや有りませんワ。」

「フヽン、卑屈でない、本田を卑屈でない。」

 ト云ツて、さも苦々しさうに冷笑ひながら、顏を背けたが、忽ちまたキツとお 勢の方を振向いて、

「何時か貴孃、何と仰しやツた。本田が貴孃に對ツて、失敬な戯謔を言ツた時に ……。」

「そりや彼時には、厭な感じも起ツたけれども、能く交際して見れば、其樣に貴 君のお言ひなさるやうに、破廉恥の人ぢや有りませんワ。」

 文三は默然として、お勢の顏を凝視めてゐた。但し宜敷ない徴候で。

「昨夜もアレから下へ降りて、本田さんがアノー、慈母さんが聞くと必と喧まし く言出すに違ひない、然うすると僕は何だけれども、アノ内海が困るだらうから、默 ツてゐて呉れろ、ト口止めしたから、私は何とも言はなかツたけれども、鍋がツイ饒 舌ツて……。」

「古狸奴、そんな事を言やアがツたか。」

「また彼樣な事を云ツて……そりや文さん、貴君が惡いよ。彼程貴君に罵詈され ても、腹も立てずに、矢張貴君の

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[13]利益 思ツて
云ふ者を、 それをそんな古狸なんぞツて……。そりや貴君は温順だのに、本田さんは活溌だから、 氣が合はないかも知れないけれども、貴君と氣の合はないものは、皆破廉恥と極ツて も居ないから、……それを無暗に罵詈して……其樣な失敬な事ツて……。」

 ト些し顏を赧めて、口早に云ツた。文三は、益々腹立しさうな面相をして、

「それでは何ですか、本田は貴孃の氣に入ツたと云ふんですか。」

「氣に入るも入らないも無いけれども、貴君の云ふやうな、其樣な破廉恥な人ぢ や有りませんワ。……それを古狸なんぞツて、無暗に人を罵詈して……。」

「イヤ、まづ、私の聞く事に返答して下さい。彌々本田が氣に入ツたと云ふんで すか。」

 言樣が些し烈しかツた。お勢はムツとして、暫く、文三の容子をジロリ/\と 視てゐたが、頓て、「其樣な事を聞いて何になさる。本田さんが私の氣に入らうと、 入るまいと、貴君の關係した事は無いぢや有りませんか。」

「有るから聞くのです。」

「そんなら、如何な關係が有ります。」

「如何な關係でもよろしい。それを今説明する必要は無い。」

「そんなら、私も、貴君の問に答へる必要は有りません。」

「それぢやア宜しい、聞かなくツても。」

 ト云ツて、文三はまた顏を背けて、さも苦々しさうに、獨言のやうに、

「人に問詰められて、逃げるなんぞと云ツて、實に卑、卑、卑劣極まる。」

「何ですと、卑劣極まると。……宜う御座んす。……其樣な事お言ひなさるなら、 匿したツて仕樣がない、言ツて仕舞ひます……言ツて仕舞ひますとも……。」

 ト云ツて、少し胸を突出して、儼然として、

「ハイ、本田さんは、私の氣に入りました。……それが如何しました。」

 ト聞くと、文三は慄然と震へた、眞蒼に成ツた。……暫くの間は言葉はなくて、 唯だ恨めしさうに、ヂツとお勢の澄ました顏を凝視めてゐた其の眼縁が、見る/\う るみ出した……が、忽ちハツと氣を取直して、儼然と容を改めて、震聲で、

「それぢや……それぢや斯うしませう、今迄の事は全然……水に……。」

 言切れない。胸が一杯に成ツて、暫く杜絶れてゐたが、思ひ切ツて、

「水に流して仕舞ひませう……。」

「何です、今迄の事とは。」

「此場に成ツて、然うとぼけなくツても宜いぢや有りませんか。寧そ別れるもの なら……綺麗に……別れようぢや……有りませんか……。」

「誰がとぼけてゐます。誰が誰に別れようと云ふのです。」

 文三はムラ/\とした。些し聲高に成ツて、

「とぼけるのも好加減になさい。誰が誰に別れるのだとは、何の事です。今まで さんざ人の感情を弄んで置きながら、今と成ツて……本田なぞに見返るさへ有るに、 人が穩かに出れば、附上ツて、誰が誰に別れるのだとは何の事です。」

「何ですと、人の感情を弄んで置きながら。……誰が人の感情を弄びました。… …誰が人の感情を弄びましたよ。」

 ト云ツた時は、お勢もうるみ眼に成ツてゐた。文三は、グツとお勢の顏を疾視 付けてゐる而已で、一語をも發しなかツた。

「餘りだから宜い……人の感情を弄んだの、本田に見返ツたのと、いろんな事を 云ツて讒謗して……自分が己惚れて如何な夢を見てゐたツて、人の知ツた事ちや有り やしない……。」

 トまだ言終らぬ内に、文三はスツクと起上ツて、お勢を疾視付けて、

「モウ言ふ事も無い、聞く事も無い。モウ是れが口のきゝ納めだから、然う思ツ てお出でなさい。」

「さう思ひますとも。」

「澤山……浮氣をなさい。」

「何ですと。」

 ト云ツた時には、モウ文三は、部屋には居なかツた。

「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いて呉れなくツたツて、些とも困りやしないぞ。 ……馬鹿……。」

 ト跡でお勢が敵手も無いのに獨りで熱氣となツて、惡口を竝べ立ててゐる處へ、 何時の間に歸宅したか、ふと母親が這入ツて來た。

「如何したんだエ。」

「畜生……。」

「如何したんだと云へば。」

「文三と喧嘩したんだよ。……文三の畜生と……。」

「如何して。」

「先刻突然這入ツて來て、今日慈母さんが斯う/\言ツたが、如何しようと相談 するから、それから昨夜慈母さんが言ツた通りに……。」

「コレサ、靜かにお言ひ。」

「慈母さんの言ツた通りに云ツて勸めたら、腹を立てやアがツて、人の事をいろ んな事を云ツて。」

 ト手短かに、勿論自分に不利な處は悉皆取除いて、次第を咄して、

「慈母さん、私ア口惜しくツて/\ならないよ。」

 ト云ツて、襦袢の袖口で泪を拭いた。

「フウ然うかエ、其樣な事を云ツたかエ。それぢや最うそれまでの事だ。彼樣な 者でも家大人の血筋だから、今と成ツて彼此言出しちや面倒臭いと思つて、此方から 折れて出て遣れば、附上ツて其樣な我儘勝手を云ふ。……モウ勘辨がならない。」

 ト云ツて、些し考へてゐたが、頓てまた、娘の方を向いて、 一段聲を低めて、

「實はネ、お前には、まだ内々でゐたけれども、家大人はネ、行々はお前を文三 に配合せる積りでお出でなさるんだが、お前は……厭だらうネ。」

「厭サ/\、誰が彼樣な奴に……。」

「必と然うかエ。」

「誰が彼樣な奴に……乞食したツて、彼樣な奴のお嫁に成るもんか。」

「その一言をお忘れでないよ。お前が彌々その氣なら、慈母さんも了簡が有るか ら。」

「慈母さん、今日から、私を下宿さしてお呉んなさいな。」

「なんだネ、此娘は。藪から棒に。」

「だツて私ア、モウ文さんの顏を見るのも厭だもの。」

「そんな事言ツたツて、仕樣が無いやアネ。マア最う些と辛抱してお出で。その 内にや慈母さんが宜いやうにして上げるから。」

 此時は、お勢は默してゐた、何か考へてゐるやうで。

「是からは、眞個に、慈母さんの言ふ事を聽いて、モウ餘り文三と口なんぞお利 きでないよ。」

「誰が利いてやるもんか。」

「文三許りぢや無い、本田さんにだツても然うだよ。彼樣に昨夜のやうに遠慮の 無い事をお言ひでないよ。それアお前の事だから、正可そんな……不埓なんぞはお爲 ぢや有るまいけれども、今が嫁入前で一番大事な時だから。」

「慈母さんまで其樣な事を云ツて、……そんなら、モウ、是れから本田さんが來 たツて、口も利かないから宜い。」

「口を利くなぢや無いが、唯昨夜のやうに……。」

「イヽエ/\、モウ口も利かない/\。」

「さうぢや無いと云へばネ。」

「イヽエ、モウ口も利かない/\。」

 ト頭を振る娘の顏を視て、母親は、

「全で狂氣だ。チヨイと人が一言いへば、直に腹を立ツて仕舞ツて、手も附けら れやアしない。」

 ト云ひ捨てて、起上ツて、部屋を出て仕舞ツた。

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[9] GNBT reads 団子坂.
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[10] GNBT reads ピツタリと.
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[11] In copy-text this character is New Nelson 27.
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[12] GNBT reads 有ツたものだ。まづ『タイムス』新聞の.
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[13] GNBT reads 利益を思ツて.