University of Virginia Library

10. 第十囘 負けるが勝

 知己を番町の家に訪へば、主人は不在。留守居の者より翻譯物を受取りて、文 三が舊と來た路を引返して、爼橋まで來た頃はモウ點火頃で、町家では皆店洋燈を點 してゐる。免職に成ツて懷淋しいから、今頃歸るに食事をもせずに來た、と思はれる も殘念、ト、つまらぬ處に力瘤を入れて、文三はトある牛店へ立寄ツた。

 此牛店は、開店してまだ間もないと見えて、見掛は至極よかツたが、裏へ這入 ツて見ると大違ひ。尤も客も相應にあツたが、給仕の婢が不慣なので、迷惑く程には 手が廻らず、帳場でも間違へれば、出し物も後れる。酒を命じ、肉を命じて、文三が 待てど暮らせど持ツて來ない。催促をしても持ツて來ない。また催促をしても、また 持ツて來ない。偶々持ツて來れば、後から來た客の處へ置いて行く。流石の文三も、 遂には癇癪を起して、嚴しく談じ付けて、不愉快、不平な思ひをして、漸くの事で食 事を濟まし、勘定を濟まして、「毎度難有う御座い、」の聲を聞流して、戸外へ出た 時には、厄落しでもしたやうな心地がした。

 兩側の夜見世を窺きながら、文三がブラ/\と、神保町の通りを通行した頃に は、胸のモヤクヤも漸く絶え%\に成ツて、どうやら酒を飮んだらしく思はれて、昇 に辱められた事も忘れ、お勢の高笑ひをした事をも忘れ、山口の言葉の氣に障ツたの も忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯かほに當る夜風の涼味をの み感じたが、しかし長持はしなかツた。

 宿所へ來た。何心なく文三が、格子戸を開けて裏へ這入ると、奧座鋪の方でワ ツ/\と云ふ高笑ひの聲がする。耳を聳てて能く聞けば、昇の聲もその中に聞える。 ……まだ居ると見える。文三は覺えず立止ツた。「若しまた無禮を加へたら、モウ、 その時は破れかぶれ」ト思へば荐りに胸が浪だつ。暫く鵠立んでゐて、度胸を据ゑて、 戰爭が始まる前の軍人の如くに、思切ツた顏色をして、文三は縁側へ廻り出た。

 奧座鋪を窺いて見ると、杯盤狼藉と取散らしてある中に、昇が背なかに、圓く 切拔いた白紙を張られて、ウロ/\として立ツてゐる。その傍にお勢とお鍋が、腹を 抱へて絶倒してゐる。が、お政の姿はカイモク見えない。顏を見合はしても「歸ツた か、」ト云ふ者もなく、「叔母さんは、」ト尋ねても、返答をする者もないので、文 三が憤々しながら、其儘にして行き過ぎて仕舞ふと、忽ち後の方で、

 昇「オヤ、此樣な惡戲をしたネ。」

 勢「アラ、私ぢや有りませんよ。アラ、鍋ですよ。オホホヽ。」

 鍋「アラ、お孃さまですよ。オホヽヽヽ。」

 昇「誰も彼も無い、二人共敵手だ。ドレまづ此の肥滿奴から。」

 鍋「アラ、私ぢや有りませんよ。オホヽヽヽ。アラ、厭ですよ。……アラー、 御新造さアん

 ト大聲を揚げさせての騒動、ドタバタと云ふ跫音も聞えた。オホヽヽと云ふ笑 ひ聲も聞えた。お勢の荐りに、「引掻いてお遣りよ、引掻いて。」ト叫喚く聲もまた 聞えた。

 騒動に氣を取られて、文三が覺えず立止まりて、後方を振向く途端に、バタ/ \と跫音がして、避ける間もなく、誰だかトンと文三に衝當ツた。狼狽てた聲で、お 政の聲で、

「オー危い。誰だネー、此樣な處に默ツて突立ツて。」

「ヤ、コリヤ失敬。……文三です。……何處ぞ痛めはしませんでしたか。」

 お政は何とも言はずに、ツイと奧座鋪へ這入りて、跡ピツシヤリ。恨めしさう に跡を見送ツて、文三は暫く立在んでゐたが、頓て二階へ上ツて來て、まづ手探りで 洋燈を點じて、机の邊に蹲踞してから、さて、

「實に淫哇だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ツ てゐるお勢が、彼樣な猥褻な席に連ツてゐる。……加之も、一所に成ツて巫山戲てゐ る。……平生の持論は何處へ遣ツた。何の爲めに學問をした。先自侮而後人侮之。そ の位の事は承知してゐるだらう。それでゐて、彼樣な眞似を……實に淫哇だ。叔父の 留守に不取締が有ツちやア我が濟まん。明日嚴敷叔母に…。」

 トまで調子に連れて默想したが、此に至ツて、フト、今の我身を省みて、グン ニヤリと萎れて仕舞ひ、暫くしてから、「まづ兎も角も、」ト氣を替へて、懷中して 來た翻譯物を取り出して讀み初めた。

 "The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……"

 ドツと下座鋪でする高笑ひの聲に、流讀の腰を折られて、文三はフト口を鉗ん で、

「チヨツ、失敬極まる。我の歸ツたのを知ツてゐながら、何奴も此奴も本田一人 の相手に成ツて、チヤホヤしてゐて、飯を喰ツて來たかと云ふ者も無い。……ア、ま た笑ツた、アリヤお勢だ。……彌々心變りがしたならしたと云ふが宜い。切れてやら んとは云はん。何の糞、我だツて男兒だ。心變のした者に……。」

 ハツと心附いて、また一越調子高に、

 "The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political ……"

 フト、格子戸の開く音がして、笑聲がピツタリ止つた。文三は耳を聳てた。匆 はしく縁側を通る人の足音がして、暫くすると梯子段の下で、洋燈を如何とか斯うと か云ふお鍋の聲がしたが、それから後は肅然として、音沙汰なしになツた。何となく 來客でもある容子。

 高笑ひの聲がする内は、何をしてゐる位は大抵想像が附いたから、まづ宜かツ たが、斯う靜ツて見ると、サア容子が解らない。文三些し不安心に成ツて來た。「客 の相手に、叔母は座鋪へ出てゐる。お鍋も用がなければ可し、有れば傍に附いてはゐ ない。シテ見ると……。」ト、文三は起ツたり居たり。

 キツと思付いた、イヤ憶出した事が有る。今始ツた事では無いが、先刻から醉 醒めの氣味で咽喉が渇く。水を飮めば渇が歇まるが、しかし水は臺所より外には無い。 而して臺所は二階には附いてゐない故に、若し水を飮まんと欲せば、是非共下座鋪へ 降りざるを得ず。「折が惡いから、何となく何だけれども、しかし我慢してゐるも馬 鹿氣てゐる。」ト、種々に分疏をして、文三は遂に二階を降りた。

 臺所へ來て見ると、小洋燈が點しては有るが、お鍋は居ない。皿小鉢の洗ひ懸 けた儘で打捨てて有る所を見れば、急に用が出來て使にでも往ツたものか。「奧座鋪 は、」と聞耳を引立てればヒソ/\と私語く聲が聞える。全身の注意を耳一つに集め て見たが、どうも聞取れない。ソコで竊むが如くに水を飮んで、拔足をして臺所を出 ようとすると、忽ち奧座鋪の障子がサツと開いた。文三は振返ツて見て、覺えず立止 ツた。お勢が開懸けた障子に掴まツて、出るでも無く出ないでもなく、唯此方へ背を 向けて立在んだ儘で座鋪の裏を窺き込んでゐる。

「チヨイト?處へお出で。」

 ト云ふは慥に昇の聲。お勢はだらしもなく頭振りを振りながら、

「厭サ、彼樣な事をなさるから。」

「モウ惡戲しないから、お出でと云へば。」

「厭。」

「ヨーシ、厭と云ツたネ。」

「眞個は、其處へ往きませうか。」

 ト、チヨイと首を傾げた。

「ア、お出で。サア……サア……。」

「何方の眼で。」

「コイツメ。」

 ト確に起上る眞似。

 オホヽヽと笑ひを溢しながら、お勢は狼狽てて駈出して來て、危く文三に衝き 當らうとして、立止ツた。

「オヤ誰。……文さん。……何時歸ツたの。」

 文三は何とも言はず、ツンとして二階へ上ツて仕舞ツた。

 その後からお勢も續いて上ツて來て、遠慮會釋も無く文三の傍にベツタリ坐ツ て、常よりは馴々敷く、加之も顏を皺めて可笑しく身體を搖りながら、

「本田さんが巫山戲て/\、仕樣がないんだもの。」

 ト鼻を鳴らした。

 文三は恐ろしい顏色をして、お勢の柳眉を顰めた嬌面を疾視付けたが、戀は曲 物、かう疾視付けた時でも、尚ほ「美は美だ、」と思はない譯にはいかなかツた。折 角の相好も、どうやら崩れさうに成ツた。……が、ハツと心附いて、故意と、苦々し さうに冷笑ひながら、外方を向いて仕舞ツた。

 折柄梯子段を蹈轟かして、昇が上ツて來た。ジロリと兩人の光景を見るや否や、 忽ちグツと身を反らして、さも仰山さうに、

「是だもの。……大切なお客樣を置去りにしておいて。」

「だツて、貴君が、彼樣な事をなさるもの。」

「何樣な事を。」

 ト云ひながら、昇は坐ツた。

「どんな事ツて、彼樣な事を。」

「ハヽヽ此奴ア宜い。それぢやア、彼樣な事ツて如何な事を。ソラ、いゝたちこ ツこだ。」

「そんなら云ツてもよう御座んすか。」

「宜しいとも。」

「ヨーシ、宜しいと仰しやツたネ。そんなら云ツて仕舞ふから宜い。アノネ、文 さん、今ネ、本田さんが……。」

 ト言懸けて、昇の顏を凝視めて、

「オホヽヽ、マア、かにして上げませう。」

「ハヽヽ、言へ無いのか。夫れぢやア我輩が代ツて噺さう。今ネ、本田さんがネ ……。」

「本田さん。」

「私の……。」

「アラ、本田さん、仰しやりやア承知しないから宜い。」

「ハヽヽ、自分から言ひ出して置きながら、然うも亭主と云ふものは恐いものか ネ。」

「恐かア無いけれども、私の不名譽になりますもの。」

「何故。」

「何故と云ツて、貴君に凌辱されたんだもの。」

「ヤ、是れは、飛んでも無いことをお云ひなさる。唯チヨイと……。」

「チヨイと/\、本田さん、敢て一問を呈す。オホヽヽ、貴君は何ですよ。口に は同權論者だ同權論者だ、と仰しやるけれども、虚言ですよ。」

「同權論者でなければ、何だと云ふんでゲス。」

「非同權論者でせう。」

「非同權論者なら。」

「絶交して仕舞ひます。」

「エ、絶交して仕舞ふ。アラ恐ろしの決心ぢやなアぢやないか。アハヽヽ。如何 して/\、我輩程熱心な同權論者は、恐らくは有るまいと思ふ。」

「虚言仰しやい。譬へばネ、熱心でも貴君のやうな同權論者は、私ア大嫌ひ。」

「是れは御挨拶。大嫌ひとは、情けない事を仰しやる。そんなら如何いふ同權論 者がお好き。」

「如何云ふツて、アノー僕の好きな同權論者はネ、アノー……。」

 ト横眼で、天井を眺めた。

 昇が小聲で、

「文さんのやうな。」

 お勢も小聲で、

「Yes……。」

 ト微かに云ツて、可笑しな身振りをして、兩手を顏に當てて笑ひ出した。文三 は愕然としてお勢を凝視めてゐたが、見る間に顏色を變へて仕舞ツた。

「イヨー妬ます。羨ましいぞ。どう だ、内海エ、今の御託宣は。文さんのやうな人が好きツ。アツ堪らぬ/\。モウ今夜、 家にや寢られん。」

「オホヽヽヽ、其樣な事仰しやるけれども、文さんのやうな同權論者が好き、と 云ツた許りで、文さんが好き、と云はないから宜いぢや有りませんか。」

「その分疏闇い/\。文さんのやうな人が好きも、文さんが好きも、同じ事で御 座います。」

「オホヽヽヽ、そんならばネ、……ア、斯うです斯うです、私はネ、文さんが好 きだけれども、文さんは私を嫌ひだから宜いぢや有りませんか。ネー、文さん、然う ですネー。」

「ヘン、嫌ひ所か、好きも好き、足駄穿いて首ツ丈と云ふ、念の入ツた落こちや うだ。些し水層が増さうものなら、ブクブク往生しようと云ふんだ。ナア内海。」

 文三はムツとしてゐて、莞爾ともしない。その貌をお勢は、チヨイと横眼で視 て、

「あんまり、貴君が戯談仰しやるものだから、文さん、憤ツて仕舞ひなすツた よ。」

「ナニ、正可、嬉敷いとも云へないもんだから、それで彼樣な貌をしてゐるのサ。 しかし、アヽ澄ました所は内海も仲仲好男子だネ。苦味ばしツてゐて、モウ些し彼の 顋がつまると、申分がないんだけれども。アハヽヽヽ。」

「オホヽヽ。」

 ト笑ひながら、お勢はまた、文三の貌を横眼で視た。

「しかし、然うは云ふものの、内海は果報者だよ。まづお勢さんのやうな、此樣 な、」

 ト、チヨイと、お勢の膝を叩いて、

「頗る付きの別嬪、加之も實の有るのに想ひ附かれて、叔母さんに油を取られた と云ツては保護して貰ひ、ヤ、何だと云ツては保護して貰ふ。實の羨ましいネ。明治 年代の丹治と云ふのは此の男の事だ。燒いて粉にして、飮んで仕舞はうか、然うした ら些とはあやかるかも知れん。アハヽヽハ。」

「オホヽヽ。」

「オイ好男子、然う苦蟲を喰潰してゐずと、些と此方を向いてのろけ給へ。コレ サ丹治君。是れはしたり、御返答が無い。」

「オホヽヽヽ。」

 トお勢はまた作笑ひをして、また横眼でムツとしてゐる文三の貌を視て、

「アー可笑しいこと。餘り笑ツたもんだから、咽喉が渇いて來た。本田さん、下 へ往ツてお茶を入れませう。」

「マア、最う些と御亭主さんの傍に居て、顏を視せてお上げなさい。」

「厭だネー、御亭主さんなんぞツて、そんなら入れて、?處へ持ツて來ませうか。」

「茶を入れて持ツて來る實が有るなら、寧そ水を持ツて來て貰ひ度いネ。」

「水を。お砂糖入れて。」

「イヤ、砂糖の無い方が宜い。」

「そんなら、レモン入れて來ませうか。」

「レモンが這入るなら、砂糖氣がチヨツピリ有ツても宜いネ。」

「何だネー、いろんな事云ツて。」

 ト云ひながら、お勢は起上ツて、二階を降りて仕舞ツた。跡には兩人の者が、 暫く手持無沙汰と云ふ氣味で、默然としてゐたが、頓て文三は厭に落着いた聲で、

「本田。」

「エ。」

「君は酒に醉ツてゐるか。」

「イヽヤ。」

「それぢやア些し聞く事が有るが、朋友の交と云ふものは、互に尊敬してゐなけ れば、出來るものぢや有るまいネ。」

「何だ、可笑しな事を言出したな。左やう、尊敬してゐなければ出來ない。」

「それぢやア、……。」

 ト云懸けて、默してゐたが、思切ツて、些し聲を震はせて、

「君とは暫く交際してゐたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰ひ度い。」

「ナニ、絶交して貰ひ度いと。……何だ、唐突千萬な。何だと云ツて、絶交しよ うと云ふんだ。」

「その理由は、君の胸に聞いて貰はう。」

「可笑しく云ふな。我輩少しも絶交しられる覺えは無い。」

「フン、覺えは無い。彼程人を侮辱して置きながら。」

「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ツて。」

「フヽン、仕樣が無いな。」

「君がか。」

 文三は默然として、暫く昇の顏を凝視めてゐたが、頓て些し聲高に、

「何にも然う、とぼけなくツたツて宜いぢや無いか。君みたやうなものでも、人 間と思ふからして、即ち廉恥を知ツてゐる動物と思ふからして、人間らしく美しく絶 交して仕舞はうとすれば、君は一度ならず二度までも、人を侮辱して置きながら… …。」

「オイ/\/\、人に物を云ふなら、モウ些と解るやうに云ツて貰ひたいネ。君 一人位友人を失ツたと云ツて、そんなに悲しくも無いから、絶交するならしても宜し いが、しかし、その理由も説明せずして、唯無暗に人を侮辱した/\と云ふ許りぢや、 ハア然うか、とは云ツて居られんぢやないか。」

「それぢや、何故、先刻、叔母やお勢のゐる前で、僕に、痩我慢なら大抵にしろ、 と云ツた。」

「それが、其樣なに、氣に障ツたのか。」

「當然サ。……何故今また、僕の事を明治年代の丹治、即ち意氣地なしと云ツ た。」

「アハヽヽ、彌々腹筋だ。それから。」

「事に大小は有ツても、理に巨細は無い。痩我慢と云ツて侮辱したも、丹治と云 ツて侮辱したも、歸する所は唯一の輕蔑からだ。即に輕蔑心が有る以上は、朋友の交 際は出來ないものと認めたからして、絶交を申出したのだ。解ツてゐるぢやないか。」

「それから。」

「但し斯うは云ふやうなものの、園田の家と絶交して呉れとは云はんからして、 今迄のやうに毎日遊びに來て、叔母と骨牌を取らうが、」

 ト云ツて、文三冷笑した。

「お勢を藝娼妓の如く弄ばうが、」

 ト云ツてまた冷笑した。

「僕の關係した事でないから、僕は何とも云ふまい。だから、君も左う落膽、イ ヤ狼狽して、遁辭を設ける必要も有るまい。」

「フヽウ、嫉妬の原素も雜ツてゐる。それから。」

「モウ、是れより外に言ふ事も無い。また君も何にも言ふ必要も有るまいから、 此儘下へ降りて貰ひ度い。」

「イヤ、言ふ必要が有る。寃罪を被ツては、此を辯解する必要が有る。だから、 此の儘下へ降りる事は出來ない。何故、痩我慢なら大抵にしろ、と「忠告」したのが 侮辱になる。成程、親友でないものに、さう直言したならば、侮辱したと云はれても 仕樣が無いが、しかし、君と我輩とは親友の關繋ぢや無いか。」

「親友の間にも禮義は有る。然るに君は面と向ツて僕に痩我慢なら大抵にしろ、 と云ツた。無禮ぢやないか。」

「何が無禮だ。痩我慢なら大抵にしろ、と云ツたツけか、大抵にした方がよから うぜ、と云ツたツけか、何方だツたか、モウ忘れて仕舞ツたが、しかし、何方にしろ 忠告だ。凡そ、忠告と云ふ者は――君にかぶれて、哲學者振るのぢやアないが――忠 告と云ふ者は、人の所行を非と認めるから云ふもので、是と認めて忠告を試みる者は 無い。故に若し非を非と直言したのが、侮辱になれば、總ての忠告と云ふ者は、皆君 の所謂無禮なものだ。若しそれで、君が我輩の忠告を怒るのならば、我輩一言もない。 謹んで罪を謝さう。が、然うか。」

「忠告なら、僕は却て聞く事を好む。しかし、君の言ツた事は、忠告ぢやない、 侮辱だ。」

「何故。」

「若し忠告なら、何故人のゐる前で言ツた。」

「叔母さんやお勢さんは、内輪の人ぢやないか。」

「そりや、内輪の者サ。……内輪の者サ。……けれども、……しかしながら、… …。」

 文三は狼狽した。昇はその光景を見て、私かに冷笑した。

「内輪の者だけれども、しかし、何にも、アヽ、口汚なく言はなくツても好いぢ やないか。」

「どうも、種々に論鋒が變化するから、君の趣意が解りかねるが、それぢやア何 か、我輩の言方、即ち忠告のMannerが氣に喰はん、と云ふのか。」

「勿論、Mannerも氣に喰はんサ。」

「Mannerが氣に喰はないのなら、改めてお斷り申さう。君には侮辱と聞えたかも 知れんが、我輩は忠告の積りで言ツたのだ。それで宜からう。それなら、モウ、絶交 する必要も有るまい。アハヽヽ。」

 文三は、何と駁して宜いか、解らなくなツた。唯ムシヤクシヤと腹が立つ。風 が宜ければ、左程にも思ふまいが、風が惡いので、尚ほ一層腹が立つ。油汗を鼻頭に にじませて、下脣を喰締めながら、暫くの間、口惜しさうに、昇の馬鹿笑ひをする顏 を疾視んで、默然としてゐた。

 お勢が溢れる許りに水を盛ツたコツプを、盆に載せて持ツて參ツた。

「ハイ、本田さん。」

「是れはお待遠さま。」

「何ですと。」

「エ。」

「アノ、とぼけた顏。」

 アハヽヽヽ、しかし、餘り遲かツたぢやないか。」

「だツて、用が有ツたんですもの。」

「浮氣でもしてゐやアしなかツたか。」

「貴君ぢや有るまいし。」

「我輩がそんなに浮氣に見えるかネ。……ドツコイ、課長さんの令妹と云ひたさ うな口付をする。云へば此方にも、文さんと云ふ武器が有るから、直ぐ返討だ。」

「厭な人だネー、人が何にも言はないのに、邪推を廻して。」

「邪推を廻してと云へば、」

 ト文三の方を向いて、

「如何だ、隊長、まだ胸に落ちんか。」

「君の云ふ事は皆遁辭だ。」

「何故。」

「そりや説明するに及ばん。Self-evident truthだ。」

「アハヽヽ。とう/\Self-evident truthにまで達したか。」

「どうしたの。」

「マア、聞いてゐて御覽なさい、餘程面白い議論が有るから。」

 ト云ツて、また文三の方を向いて、

「それぢや、その方の口はまづ片が附いたと。それからして、最う一口の方は何 だツけ……然う然う、丹治々々。アハヽヽ、何故、丹治と云ツたのが侮辱になるネ。 それも矢張Self-evident truthかネ。」

「どうしたの。」

「ナニネ、先刻我輩が、明治年代の丹治と云ツたのが、御氣色に障ツたと云ツて、 此の通り顏色まで變へて御立腹だ。貴孃の情夫にしちやア、些と野暮天すぎるネ。」

「本田。」

 昇は飮みかけたコツプを下に置いて、

「何でゲス。」

「人を侮辱して置きながら、咎められたと言ツて、遁辭を設けて逃げるやうな破 廉恥的の人間と舌戰は無益と認める。からして、モウ、僕は何にも言ふまいが、しか し、最初のプロポーザル(申出)より一歩も引く事は出來んから、モウ降りて呉れ給 へ。」

「まだ其樣な事を云ツてるのか。ヤ、どうも、君も驚く可き負惜みだな。」

「何だと。」

「負惜みぢやないか。君にも最う自分の惡かツた事は解ツてゐるだらう。」

「失敬な事を云ふな。降りろと云ツたら、降りたが宜いぢやないか。」

「モウお罷しなさいよ。」

「ハヽヽ、お勢さんが心配し出した。しかし、眞に然うだネ。モウ罷した方が宜 い。オイ内海、笑ツて仕舞はう。マア、考へて見給へ、馬鹿氣切ツてゐるぢやないか。 忠告の仕方が氣に喰はないの、丹治と云ツたが癪に障るの、と云ツて絶交する。全で 子供の喧嘩のやうで、人に對して噺も出來ないぢやなか。ネ、オイ、笑ツて仕舞は う。」

 文三は默ツてゐる。

「不承知か。困ツたもんだネ。それぢや宜しい、斯うしよう、我輩が謝まらう。 全く、然うした深い考へが有ツて云ツた譯ぢやアないから、お氣に障ツたら、眞平御 免下さい。それでよからう。」

 文三は、モウ、堪へ切れない憤りの聲を振上げて、

「降りろと云ツたら降りないか。」

「それでも、まだ承知が出來ないのか。それぢやア仕樣がない、降りよう。今何 を言ツても解らない、逆上ツてゐるから。」

「何だと。」

「イヤ此方の事だ。ドレ。」

 ト起上る。

「馬鹿。」

 昇も些しムツとした趣で、立止まツて、暫く文三を疾視付けてゐたが、頓てニ ヤリと冷笑ツて、

「フヽン、前後忘却の體か。」

 ト云ひながら、二階を降りて仕舞ツた。お勢も續いて起上ツて、不思議さうに 文三の容子を振反ツて觀ながら、是れも二階を降りて仕舞ツた。跡で文三は、悔しさ うに齒を喰切ツて、拳を振揚げて机を拍ツて、

「畜生ツ。」

 梯子段の下あたりで、昇とお勢のドツと笑ふ聲が聞えた。