University of Virginia Library

3. 第三編

13. 第十三囘

 心理の上から觀れば、智愚の別なく、人咸く面白味は有る。内海文三の心状を 觀れば、それは解らう。

 前囘參看。文三は既にお勢に窘められて、憤然として部屋へ駈戻ツた。さてそ れからは獨り演劇。泡を噛んだり、拳を握ツたり、どう考へて見ても心外でたまらぬ。 「本田さんが氣に入りました。」それは一時の激語、と承知してゐるでもなく、又居 ないでも無い、から、強ち其ればかりを怒ツた譯でもないが、唯腹が立つ。まだ何か 他の事で、おそろしく、お勢に欺かれたやうな心地がして、譯もなく腹が立つ。

 腹の立つまゝ、遂に下宿と決心して、宿所を出た。では、お勢の事は、既にす ツぱり思ひ切ツてゐるか、といふに、然うではない。思ひ切ツてはゐない。思ひ切ツ てはゐないが、思ひ切らぬ譯にもゆかぬから、そこで悶々する。利害得喪、今はその やうな事は頓着無い。唯己れに逆ツてみたい。己れの望まない事をして見たい。鴆 毒? 持ツて來い。嘗めて此一生をむちやくちやにして見せよう……。

 そこで、宿所を出た。同じ下宿するなら、遠方がよいといふので、本郷邊へ往 ツて尋ねてみたが、どうも無かツた。から、彼地から小石川へ下りて、其處此處と尋 ね廻るうちに、ふと水道町で、一軒見當てた。宿料も廉、其割には座鋪も清潔。下宿 をするなら、まづ此處等と定めなければならぬ。……となると、文三急に考へ出した。 「いづれ考へてから。またそのうちに……。」

 言葉を濁して其家を出た。

「お勢と諍論ツて家を出た。――叔父が聞いたら、さぞ心持を惡くするだらうな ア……。」と歩きながら、徐々畏縮だした。「ト云ツて、どうも、此儘には濟まされ ん。……思ひ切ツて、今の家に下宿しようか?……。」

 今更心が動く。どうしてよいか、譯がわからない。時計を見れば、まだ漸く三 時半すこし廻ツた許り。今から歸るも、何となく氣が進まぬ。から、彼處から牛込見 附へ懸ツて、腹の屈託を口へ出して、折々往來の人を驚かしながら、いつ來るともな く番町へ來て、例の教師の家を訪問れてみた。

 折善く、最う、學校から歸ツてゐたので、すぐ面會した。が、授業の模樣、舊 生徒の噂、留學、龍動、「タイムス」、ハアバアト・スペンサア ――相變らぬ噺で、おもしろくも何ともない。「私、……事に寄ると……此頃に下宿 するかも知れません。」唐突に宛もない事を云ツてみたが、先生少しも驚かず、何故 か、ふむと鼻を鳴らして、只「羨ましいな、もう一度其樣な身になツてみたい、」と ばかり。とんと方角が違ふ。面白くないから、また辭して、教師の宅をも出てしまツ た。

 出た時の勢に引替へて、すご/\歸宅したは、八時ごろの事で有ツたらう。ま づ眼を配ツてお勢を搜す。見えない、お勢が……。棄てた者に用も何もないが、それ でも、文三に云はせると、人情といふものは妙なもので、何となく氣に懸るから、火 を持ツて上ツて來たお鍋に、こツそり聞いてみると、お孃さまは、氣分が惡いと仰し やツて、御膳も碌に召上らずに、もウお休みなさいました、といふ。

「御膳も碌に?……」

「御膳も碌に召しあがらずに。」

 確められて、文三急に萎れかけた……が、ふと氣をかへて、「へ、へ、へ、御 膳も召上らずに……今に、鍋燒饂飩でも喰度くなるだらう。」

 をかしな事をいふ、とは思ツたが、使に出てゐて、今朝の騒動を知らないから、 お鍋は其儘降りて仕舞ふ。

 ト、獨りになる。「へ、へ、へ、」とまた思出して冷笑ツた……が、ふと心附 いてみれば、今は、其樣な、つまらぬ、くだらぬ、藥袋も無い事に拘はツてゐる時で はない。「叔父の手前、何と云ツて出たものだらう?」と、改めて首を捻ツて見たが、 もウ何となく馬鹿氣てゐて、眞面目になツて考へられない。「何と云ツて出たものだ らう?」と強ひて考へてみても、心めがいふ事を聽かず、それとは全く關繋もない餘 所事を、何時からともなく思ツて仕舞ふ。いろ/\に紛れようとしてみても、どうも 紛れられない。意地惡くもその餘所事が氣に懸ツて、氣に懸ツて、どうもならない。 怺へに怺へて、怺へて見たが、とう/\怺へ切れなくなツて、「して見ると、同じや うに苦しんでゐるか知らん。」ハツと云ツても追付かず、かう思ふと、急におそろし く、氣の毒になツて來て、文三は狼狽てて、後悔をしてしまツた。叱るよりは謝罪る 方が、文三には似合ふ、と誰やらが云ツたが、さうかも知れない。

14. 第十四囘

「氣の毒/\、」と思ひ寢に、うと/\として、眼を覺まして見れば、烏の啼聲、 雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶を軋らせる響、少し眠足りないが、無理に起きて下座 鋪へ降りてみれば、只、お鍋が睡むさうな顏をして、釜の下を焚付けてゐるばかり。 誰も起きてゐない。

 朝寢が持前のお勢、まだ臥てゐるは當然の事。とは思ひながらも、何となく物 足らぬ心地がする。早く顏が視たい。如何な顏をしてゐるか。顏を視れば、どうせ好 い心地がしないは知れてゐれど、それでゐて、只早く顏が視たい。

 三十分たち、一時間たつ。今に起きて來るかと思へば、肉癢ゆい。髮の寢亂れ た、顏の蒼ざめた、腫瞼の美人が始終眼前にちらつく。

 「昨日下宿しようと騒いだは、誰で有ツたらう、」と云ツたやうな顏色……。

 朝飯がすむ。文三は奧座鋪を出ようとする。お勢は其頃になツて、漸々起きて 來て、入らうとする。――縁側でぴツたり出會ツた。……ハツと狼狽へた文三は、豫 て期した事ながら。それに引替へて、お勢の澄ましやうは。ジロリと文三を尻目に懸 けたまゝ、奧座鋪へツイとも云はず入ツて仕舞ツた。只それだけの事で有ツた。

 が、それだけで十分。そのジロリと視た眼付が、眼の底に染付いて、忘れよう としても忘れられない。胸は痞へた。氣は結ぼれる。搗てて加へて、朝の薄曇りが、 晝少し下る頃より、雨となツて、びしよびしよと降り出したので、氣も消える許り。

 お勢は、氣分の惡いを口實にして、英語の稽古にも往かず、只一間に籠ツたぎ り、音沙汰なし。晝飯の時、顏を合はしたが、お勢は成り丈け文三の顏を見ぬやうに してゐる。偶々眼を視合はせれば、すぐ首を据ゑて、可笑しく澄ます。それが睨付け られるより、文三には辛い。雨は歇まず。お勢は濟まぬ顏を。家内も濕り切ツて、誰 とて口を利く者も無し。文三、果は泣き出したくなツた。

 心苦しい其日も暮れて、やゝ雨はあがる。昇は遊びに來たが、門口で華やかな 聲。お鍋のけたゝましく笑ふ聲が聞える。お勢は、其時、奧座鋪に居たが、それを聞 くと、狼狽へて、起上らうとしたが、間に合はず。――氣輕に入ツて來る昇に視られ て、さも餘儀なささうに又坐ツた。

 何も知らぬから、昇、例の如く、好もしさうな目付をして、お勢の顏を視て、 挨拶よりまづ戲言をいふ。お勢は莞爾ともせず、眞面目な挨拶をする。――彼此齟齬 ふ。から、昇も怪訝な顏色をして、何か云はうとしたが、突然お政が、三日も物を云 はずにゐたやうに、たてつけて、饒舌り懸けたので、ツイ紛らされて其方を向く。其 間に、お勢は、こツそり起上ツて、座鋪を滑り出ようとして……見付けられた。

「何處へ、勢ちやん?」

 けれども、聞えませんから、返答を致しません、と云はぬ許りで、お勢は座鋪 を出て仕舞ツた。

 部屋は眞の闇。手探りで摺附木だけは探り當てたが、洋燈が見付からない。大 方お鍋が忘れて、まだ持ツて來ないので有らう。「鍋や、」と呼んで、少し待ツてみ て、又「鍋や……。」返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけに呼んでも、返答をし ない。焦燥きツてゐると、氣の拔けたころに、間の拔けた聲で、

「お呼びなさいましたか!」

「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものヲ。」

「だツて、お奧で御用をしてゐたンですものヲ。」

「用をしてゐると、返答は出來なくツて?」

「御免遊ばせ……何か御用?」

「用が無くツて呼びはしないよ。……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるの がわかツ(分ら)なツかえツ?」

 二三度聞直して、漸く分ツて、洋燈は持ツて來たが、心無し奴が、跡をも閉め ずして出て往ツた。

「ばか。」

 顏に似合はぬ惡體を吐きながら、起立ツて邪慳に障子を〆切り、再び机の邊に 坐る間もなく、折角〆めた障子をまた開けて、……己れ、やれ、もう堪忍が……と振 反ツてみれば、案外な母親。お勢は急に他處を向く。

「お勢、」と小聲ながらに、力瘤を込めてお政は呼ぶ。此方は、なに、返答をす るものか、と力んだ(?)面相。

「何だと云ツて、彼樣なをかしな處置振りをお爲だ? 本田さんが、何とか思ひ なさらアね。彼方へお出でよ。」

 と暫く待ツてゐてみたが、動きさうにも無いので。

 又聲を勵まして、

「よ。お出でと云ツたら、お出でよ。」

「其位なら、彼樣な事云はないがいゝ……。」

 と、差俯向く。其顏を窺けば、おや/\泪ぐんで……。

「ま、呆れけエツちまはア!」と母親はあきれけエツちまツた。「たンとお脹 れ。」

 とは云ツたが、又折れて、

「世話ア燒かせずと、お出でよ。」

 返答なし。

「えゝ、も、じれツたい! 勝手にするがいゝ!」

 其儘、母親は、奧座鋪へ還ツて仕舞ツた。

 これで座鋪へ還る綱も截れた。求めて截ツて置きながら、今更惜しいやうな、 じれツたいやうな、をかしな顏をして、暫く待ツてゐてみても、誰も呼びに來ても呉 れない。また呼びに來たとて、おめ/\還られもしない。それに奧座鋪では、想像の ない者共が打揃ツて、噺すやら、笑ふやら……。癇癪紛れにお勢は色鉛筆を執ツて、 まだ眞新らしなスウヰントンの文典の表紙を、ごし/\擦り始めた。不運なるスウヰ ントンの文典!

 表紙が大方眞青になツたころ、ふと、縁側に跫音。……耳を聳てて、お勢はは ツと狼狽へた……。手ばしこく文典を開けて、倒しまになツてゐるとも心附かで、ぴ ツたり眼で喰込んだ。トント、先刻から書見してゐたやうな面相をして。

 すらりと障子が開く。文典を凝視めたまゝで、お勢は少し震へた。遠慮氣もな く、無造作に入ツて來た者は、云はでも知れた昇。華美な、輕い調子で、「遁げたね、 色男子が來たと思ツて。」

 ト云はして置いて、お勢は漸く、重さうに首を揚げて、世にも落着いた聲で、 さも膠なく、

「あの、失禮ですが、まだ明日の支度をしませんから……。」

 けれども、敵手が敵手だから、一向利かない。

「明日の支度? 明日の支度なぞは、如何でも宜いさ。」

 と、昇は、お勢の傍に陣を取ツた。

「眞個に、まだ……。」

「何をさう拗捩たんだらう? 令慈に叱られたね? え、然うでない。はてな。」

 ト首を傾けるより、早く横手を拍ツて、

「あ、あ、わかツた、成、成、それで……。それならさうと、早く一言云へば いゝのに……。なんだらう。大方かく申す拙者奴に……ウ……ウと云ツたやうな譯な んだらう? 大蛤の前ぢやア口が開きかねる。――これやア尤もだ。そこで釣寄せて 置いて……ほん、ありがた山の蜀魂、一聲漏らさうとは嬉しいぞエ/\。」

 ト妙な身振りをして、

「それなら、實は此方も、疾から其氣ありだから。それ、白癡が出來合靴を買ふ のぢやないが、しツくり嵌まるといふもんだ。嵌まると云へば、邪魔の入らない内だ。 ちよツくり抱ツこのぐい極めと往きやせう。」

 ト白けた聲を出して、手を出しながら、摺寄ツて來る。

「明日の支度が……。」

 トお勢は泣聲を出して、身を縮ませた。

「ほい、間違ツたか。失敗々々。」

 何を云ツても、敵手にならぬのみか、此上手を附けたら、雨になりさうなので、 流石の本田も少し持あぐねた所へ、お鍋が呼びに來たから、それを幸ひにして、奧座 鋪へ還ツて仕舞ツた。

 文三は昇が來たから、安心を失くして、起ツて見たり、坐ツて見たり、我他彼 此するのが薄々分るので、彌々以て堪らず、無い用を拵へて、此時二階を降りて、お 勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、拔足をして障子の間隙から内を窺いて、 はツと顏。お勢が伏臥になツて泣……い……て……。

 Explanation.(示談)と一時に胸で破裂した……。

15. 第十五回

 Explanation.(示談)と肚を極めてみると、大きに胸が透いた。己れの打解けた 心で推測るゆゑ、左程に難事とも思へない。もう些しの辛抱、と、哀む可し、文三は 眠らでとも知らず夢を見てゐた。

 機會を窺てゐる二日目の朝、見知り越しの金貸が來て、お政を連出して行く。 時機到來……今日こそは、と領を延ばしてゐるとも知らずして、歸ツて來たか、下女 部屋の入口で、「慈母さんは?」ト優しい聲。

 其聲を聞くと均しく、文三、起上りは起上ツたが、据ゑた胸も率となれば躍る。 前へ一歩、後へ一歩、躊躇ひながら二階を降りて、ふいと縁を廻つて見れば、部屋に と許り思ツてゐたお勢が、入口の柱に靠着れて、空を向上げて物思ひ顏……。ハツと 思ツて、文三立ち止まツた。お勢も、何心なく振り反ツてみて、急に顏を曇らせる… …。ツと部屋へ入ツて、跡

[_]
[14]びツしやり。
障子は柱と額合 せをして、二三寸跳ね返ツた。

 跳ね返ツた障子を文三は恨めしさうに凝視めてゐたが、軈て思ひ切りわるく、 二歩三歩 わなゝく手頭を引手へ懸けて、胸と共に障子を躍らしながら、開けてみれ ば、お勢は机の前に端坐ツて、一心に壁と睨め競。

「お勢さん。」

 と瀬蹈をしてみれば、愛度氣なく返答をしない。危きに慣れて縮めた膽を少し 太くして、また、

「お勢さん。」

 また返答をしない。

 此分なら、と文三は取越して安心をして、莞爾々々しながら、部屋へ入り、好 き程の處に座を占めて、

「少しお噺が……。」

 此時になツて、お勢は初て、首の筋でも蹙ツたやうに、徐々顏を此方へ向け、 可愛らしい眼に角を立てて、文三の樣子を見ながら、何か云ひたさうな口付をした。 今打たうと振上げた拳の下に立ツたやうに、文三はひやりとして、思はず一生懸命に、 お勢の顏を凝視めた。けれども、お勢は何とも云はず、また向うを向いて仕舞ツたの で、やゝ顏を霽らして、極りわるさうに莞爾々々しながら、

「此間は誠にどう……。」

 も、と云ひ切らぬうち、ツと起上ツたお勢の體が……、不意を打たれて、ぎよ ツとする。女帶が、友禪染の、眼前にちら/\……はツと心附く……我を忘れて、し ツかり捉へた、お勢の袂を……。

「何をなさるんです?」

 ト慳貪に云ふ。

「少しお噺……お……。」

「今、用が有ります。」

 邪慳に袂を振拂ツて、ツイと、部屋を出て仕舞ツた。

 其跡を眺めて、文三は呆れた顏。……「此期を外しては……、」と心附いて、 起ち上りてはみたが、正可、跡を慕ツて往かれもせず。萎れて二階へ、孤鼠々々と歸 ツた。

「失敗ツた。」ト口へ出して後悔して、後れ馳せに赤面。「今にお袋が歸ツて來 る。慈母さん此々の次第……。失敗ツた、失策ツた。」

 千悔萬悔、臍を噬んでゐる胸元を、貫くやうな午砲の響。それと同時に「御膳 で御座いますよ。」けれど、ホイ來たと、云ツて降りられもしない 二三度呼ばれて、 據ろ無く、薄氣味わる/\降りてみれば、お政はもう歸ツてゐて、娘と取膳で、今、 食事最中。文三は默禮をして膳に向ツた。「もう咄したか、まだ咄さぬか。」ト思へ ば胸も落着かず。臆病で、好事な眼を、額越にそツと親子へ注いでみれば、お勢は澄 ました顏。お政は意味の無い顏。咄したとも付かず、咄さぬとも付かぬ。

 壽命を縮めながら、食事をしてゐた。

「そら/\、氣をお付けなね。子供ぢやア有るまいし。」

 ふと轟いたお政の聲に、怖氣の付いた文三ゆゑ、吃驚して首を揚げてみて、安 心した。お勢が誤まつて、茶を膝に滴したので有ツた。

 氣を附けられたから、と云ふ、えこぢな顏をして、お勢は澄ましてゐる。拭き もしない。「早くお拭きなね。」と母親は叱ツた。「膝の上へ茶を滴して、ぽかんと 見てエる奴が有るもんか。三歳兒ぢやア有るまいし、意氣地の無いにも方圖が有ツた もんだ。」

 最早斯う成ツては、穩かに收まりさうもない。默ツても視てゐられなくなツた から、お鍋は一とかたけ頬張ツた飯を鵜呑にして、「はツ、はツ。」と笑ツた。同じ 心に文三も「へ、へ。」と笑ツた。

 するとお勢は佶と振向いて、可畏らしい眼付をして、文三を睨め出した。その 容子が常で無いから、お鍋はふと笑ひ罷んで、もツけな顏をする。文三は色を失ツた ……。

「どうせ、私は、意氣地が有りませんのさ、」とお勢はじぶくりだした。誰に向 ツて云ふともなく、「笑ひたきやア澤山お笑ひなさい。……失敬な、人の叱られるの が、何處が可笑しいんだらう? げた/\/\/\。」

「何だよ、やかましい! 言草云はずと、早々と拭いてお仕舞ひ。」

 ト母親は火鉢の布巾を放げ出す。けれども、お勢は手にだも 觸れず、

「意氣地がなくツたツて、まだ、自分が云ツたことを、忘れるほど耄碌はしませ ん。餘計なお世話だ。人の事よりか自分の事を考へてみるがいゝ。男の口から最う口 も利かないぞツて、云ツて置きながら……」

「お勢!」

 ト一句に力を籠めて、制する母親。その聲も、もう斯う成ツては、耳には入ら ない。文三を尻眼に懸けながら、お勢は切齒をして、

「まだ三日も經たないうちに、人の部屋へ……」

「これ、どうしたもんだ。」

「だツて私ア腹が立つものを。人の事を浮氣者だなんぞツて、罵ツて置きながら、 三日も經たないうちに、人の部屋へつか/\入ツて來て、……人の袂なんぞ捉へて、 咄が有るだの、何だの、種々な事を云ツて……なんぼ何だツて、餘り人を輕蔑した… …云ふ事が有るなら、?處でいふがいい。慈母さんの前で云へるなら、云ツて みるがいゝ……。」

 留めれば留めるほど、尚ほ喚く。散々喚かして置いて、最う好い時分と成ツて から、お政が「彼方へ。」と頤でしやくる。しやくられて、放心して、人の 顏ばかり視てゐたお鍋は初て心附き、倉皇てて箸を棄てて、お勢 の傍へ飛んで來て、いろ/\に賺かして、連れて行かうとするが、仲々素直に連れて 行かれない。

「いゝえ、放擲ツといとくれ、何だか云ふ事が有るツていふンだから、それを… …聞かないうちは……いゝえ、私や、……あんまり人を輕蔑した……いゝえ。其處お 放しよ、……お放しツてツたら、お放しよツ。……」

 けれども、お鍋の腕力には敵はない。無理無體に引立てられ、がや/\喚きな がらも、座鋪を連れ出されて、稍部屋へ收まツたやうす。

 となツて、文三初て人心地が付いた。

 いづれ當擦りぐらゐは、有らうとは思ツてゐたが、かうまで とは思ひ掛けなかツた。晴天の霹靂、思ひの外なのに度肝を拔かれて、腹を立てる遑 も無い。腦は亂れ、神經は荒れ、心神錯亂して、是非の分別も付かない。只さしあた ツた面目なさに、消えも入りたく思ふばかり。叔母を觀れば、薄氣味わるく、にやり としてゐる。此儘にも置かれない、……から、餘儀なく、叔母の方へ膝を押向け、お ろおろしながら、

「實に……どうも、す、す、濟まんことをしました。……まだお咄はいたしませ んでしたが、一昨日お勢さんに……。」

 ト云ひかねる。

「其事なら、ちらと聞きました、」と叔母が受取ツて呉れた。

「それはあゝした我儘者ですから、定めしお氣に障るやうな事もいひましたらう から……。」

「いや、決してお勢さんが……。」

「それやアもう、」と一越調子高に云ツて、文三を云ひ消して仕舞ひ、また聲を 竝に落して、お叱んなさるも、彼の身の爲めだから、いゝけれども、只まだ婚嫁前の 事てすから、彼樣な者でもね、餘り身體に疵の……。」

「いや、私は決して、……其樣な……。」

「だからさ、お云ひなすツたとは、云はないけれども、是からも有る事だから、 おねがひ申して置くンですよ。わるくお聞きなすツちやアいけないよ。」

 ぴツたり釘を打たれて、ぐツとも云へず、文三は、只、口惜しさうに、叔母の 顏を視詰めるばかり。

「子を持ツてみなければ、分らない事だけれども、女の子といふものは、嫁ける までが心配なものさ。それやア、人樣にやア、彼樣な者を如何なツても、よささうに 思はれるだらうけれども、親馬鹿とは旨く云ツたもンで、彼樣な者でも子だと思へば、 有りもしねえ惡名つけられて、ひよツと縁遠くでもなると、厭なものさ。それに誰に しろ、踏付けられゝやア、あンまり好い心持もしないものさ。ねえ、文さん。」

 もウ、文三、堪りかねた。

「す、す、それぢや何ですか。……私が……私が、お勢さんを踏付けたと仰しや るンですかツ?」

「可畏い事をお云ひなさるねえ。」ト、お政はおそろしい顏になツた。

[_]
[15]「お前さんがトお勢を踏付けたと、
誰が云ひました? 私ア自 分にも覺えが有るから、只の世間咄に、踏付けられたと思ふと厭なもンだ、と云ツた 許しだよ。それを其樣な云ひもしない事をいツて、……あゝ、なンだね、お前さん、 云ひ掛りをいふんだね? 女だと思ツて。其樣な事を云ツて、人を困らせる氣だね?」

 と層に懸ツて極付ける。

「あゝわるう御座んした……、」ト文三は、狼狽てて謝罪ツたが、口惜し涙が承 知をせず、兩眼に一杯溜るので、顏を揚げてゐられない。差俯向いて、「私が……わ るう御座んした……。」

「さうお云ひなさると、さも私が難題でもいひだしたやうに、聞えるけれども、 なにも然う遁げなくツてもいゝぢやないか。其樣な事を云ひ出すからにやア、お前さ んだツて、何か譯が無くツちやア、お云ひなさりもすまい?」

「私がわるう御座んした……。」ト差俯向いたまゝで、重ねて謝罪ツた。「全く 其樣な氣で、申した譯ぢやア有りませんが……お、お、思違ひをして……ツイ……失 禮を申しました……。」

 かう云はれては、流石のお政も、最う噛付きやうが無い、と見えて、無言で、 暫く、文三を睨めるやうに視てゐたが、頓て、

「あゝ厭だ、/\、」と顏を皺めて、「此樣な厭な思ひをするも、皆彼奴のお蔭 だ。どれ、」ト起ち上ツて、「往ツて土性骨を打挫いてやりませう。」

 お政は、座鋪を出て仕舞ツた。

 お政が座鋪を出るや、否や、文三は今迄の溜涙を、一時にはら/\と落した。 たゞ其儘、さしうつむいた儘で、良久くの間、起ちも上がらず、身動きもせず、默然 として坐ツてゐた。が、そのうちに、お鍋が歸ツて來たので、文三も、餘儀なく、う つむいたまゝで、力無ささうに起ち上り、悄々我部屋へ戻らうとして、梯子段の下ま で來ると、お勢の部屋で、さも意地張ツた聲で、

「私やアもう、家に居るのは厭だ/\。」

16. 第十六囘

 あれほどまでに、お勢母子の者に辱められても、文三はまだ園田の家を去る氣 になれない。但だ、そのかはり、火の消えたやうに、鎭まツて仕舞ひ、いとど無口が、 一層口を開かなくなツて、呼んでも捗々敷く返答をもしない。用事が無ければ、下へ も降りて來ず、只一間にのみ垂れ籠めてゐる。餘り靜かなので、ツイ居ることを忘れ て、お鍋が洋燈の油を注がずに置いても、それを吩付けて注がせるでもなく、油が無 ければ無いで、眞闇な座鋪に悄然として、始終何事をか考へてゐる。

 けれど、かう靜まツてゐるは表相のみで、其胸奧の中へ立入ツてみれば、實に 一方ならぬ變動。恰も心が顛倒した如くに、昨日好いと思ツた事も、今日は惡く、今 日惡いと思ふ事も、昨日は好いとのみ思ツてゐた。情慾の曇が取れて、心の鏡が明か になり、睡入ツてゐた智慧は、俄に眼を覺まして、決然として斷案を下し出す。眼に 見えぬ處、幽妙の處で、文三は――全くとは云はず――稍生れ變ツた。

 眼を改めてみれば、今まで爲て來た事は、夢か將た現か……と怪しまれる。

 お政の浮薄、今更いふまでも無い。が、過まツた、文三は。――實に今までは お勢を見謬まツてゐた。今となツて考へてみれば、お勢はさほど高潔でも無い。移氣、 開豁、輕躁、それを高潔と取違へて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、 愧しいかな、文三はお勢に心を奪はれてゐた。

 我に心を動かしてゐる、と思ツたが、あれが抑も誤まりの緒。苟めにも人を愛 するといふからには、必ず先づ互ひに、天性氣質を知りあはねばならぬ。けれども、 お勢は、初より、文三の人と爲りを知ツてゐねば、よし多少文三に心を動かした如き 形迹が有ればとて、それは眞に心を動かしてゐたではなく、只、ほんの、一時感染れ てゐたので有ツたらう。

 感受の力の勝つ者は誰しも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのう ち、少しでも新奇な物が有れば、眼早くそれを視て取ツて、直に心に思ひ染める。け れども、惜しい哉、殆ど見た儘で別に烹煉を加ふるといふことをせずに、無造作に、 其物、其事の見解を作ツて仕舞ふから、自ら眞相を看破めるといふには至らずして、 動もすれば淺膚の見に陷る。夫故その物に感染れて、眼色を變へて狂ひ騒ぐ時を見れ ば、如何にも熱心さうに見えるものの、固より一時の浮想ゆゑ、まだ眞味を味はぬう ちに、早くも熱が冷めて、厭氣になツて、惜し氣もなく打棄てて仕舞ふ。感染れる事 の早い代りに、飽きる事も早く、得る事に熱心な代りに、既に得た物を失ふことには 無頓着。書物を買ふにしても然うで、買ひたいとなると、矢も楯もなく買ひたがるが、 買ツて仕舞へば餘り讀みもしない。英語の稽古を始めた時も、また其通りで、始める 迄は一日をも爭ツたが、始めてみれば左程に勉強もしない。萬事然うした氣風で有ツ てみれば、お勢の文三に感染れたも、また厭いたも、其間に絡まる事情を棄てて、單 に其心状をのみ繹ねてみたら、恐らくは其樣な事で有らう。

 且つお勢は、開豁な氣質、文三は朴茂な氣質。開豁が朴茂に感染れたから、何 所か假衣をしたやうに、恰當はぬ所が有ツて、落着が惡かツたらう。惡ければ良くし よう、といふが人の常情で有ツてみれば、假令免職、窮愁、恥辱、などといふ外部の 激因が無いにしても、お勢の文三に對する感情は、早晩一變せずにはゐなかツたらう。

 お勢は實に輕躁で有る。けれども、輕躁で無い者が、輕躁な事を爲ようとて爲 得ぬが如く、輕躁な者は、輕躁な事を爲まい、と思ツたとて、なか/\爲ずにはをら れまい。輕躁と自ら認めてゐる者すら、尚かうしたもので有ツてみれば、況してお勢 の如き、まだ我をも知らぬ、罪の無い處女が、己れの氣質に克ち得ぬとて、強ちにそ れを無理とも云へぬ。若しお勢を深く尤む可き者なら、較べて云へば、稍學問あり、 知識ありながら、尚ほ輕躁を免がれぬ、譬へば文三の如き者は、(はれやれ、文三の 如き者は?)何としたもので有らう?

 人事で無い。お勢も惡かツたが、文三もよろしく無かツた。「人の頭の蠅を逐 ふよりは、先づ我頭のを逐へ。」――聞舊した諺も、今は耳新らしく、身に染みて聞 かれる。から、何事につけても、己一人をのみ責めて、敢て叨りにお勢を尤めなかツ た。が、如何に贔屓眼にみても、文三の既に得た所謂認識といふものを、お勢が得て ゐるとは、どうしても見えない。輕躁と心附かねばこそ、身を輕躁に持崩しながら、 それを憂しとも思はぬ樣子。醜穢と認めねばこそ、身を不潔な境に處きながら、それ を何とも思はぬ顏色。是れが文三の、近來最も傷心な事。半夜夢覺めて燈冷かなる時、 想うて此事に到れば、常に悵然として大息せられる。

 して見ると、文三は、あゝ、まだ苦しみが嘗め足りぬさうな!

17. 第十七囘

 お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡そ二時間許りも、何か諄々と教誨 かせてゐたが、爾後は、如何したものか、急に母子の折合が好くなツて來た。取分け てお勢が母親に孝順くする。折節には、機嫌を取るのかと思はれるほどの事をも云ふ。 親も、子も、睨める敵は同じ文三ゆゑ、かう比周ふも其筈ながら、動靜を窺るに、只 其許りでも無ささうで。

 昇は其後ふツつり遊びに來ない。顏を視れば鬩み合ふ事にしてゐた母子ゆゑ、 拔合が付いてみれば、咄も無く、文三の蔭口も今は道ひ盡す。――家内が何時からと 無く濕ツて來た。

「あゝ辛氣だこと!」ト一夜お勢が欠伸まじりに云ツて泪ぐんだ。

 新聞を拾讀してゐたお政は、眼鏡越しに娘を見遣ツて、

「欠びをして、徒然としてゐることは無いやアね。本でも出して來て、お復習ひ なさい。」

「復習へツて。」ト、お勢は鼻聲になツて眉を顰めた。

「明日の支度は、もう濟まして仕舞ツたものヲ。」……

「濟ましツちまツたツて。」

 お政は、復、新聞に取掛ツた。

「慈母さん。」ト、お勢は何をか憶出して、事有り氣に云ツた。「本田さんは何 故來ないンだらう?」

「何故だか。」

「憤ツてゐるのぢやないのだらうか?」

「然うかも知れない。」

 何を云ツても取合はぬゆゑ、お勢も仕方なく口を鉗んで、少く物思はし氣に洋 燈を凝視めてゐたが、それでもまだ氣に懸ると見えて、

「慈母さん。」

「何だよ?」と蒼蠅さうに、お政は起直ツた。

「眞個に本田さんは憤ツて來ないのだらうか?」

「何を。」

「何をツて。」ト少し氣を得て、「そら、此間來た時、私が構はなかツたから… …。」

 ト、母の顏を凝視めた。

「なに人、」ト、お政は莞爾した。何と云ツてもまだおぼこだなと云ひたさうで、 「お前に構ツて貰ひたいンで、來なさるンぢや有るまいし。」

「あら、然うぢや無いンだけれどもさ……。」ト、恥かしさうに自分も莞爾。

 おほんといふ罪を作ツてゐる、とは知らぬから、昇が例の通り、平氣な顏をし て、ふいと遣ツて來た。

「おや、ま、噂をすれば影とやらだよ。」トお政が顏を見るより饒舌り付けた。 「今貴君の噂をしてゐた所さ。え? 勿論さ。義理にも善くは云へないツさ……はゝ はゝゝ。それは冗談だが、きついお見限りですね。何處か穴でも出來たんぢやないか ね? 出來たとエ? そら/\、それだもの、だから鰻男だといふことさ。え、鰌で 無くツてお仕合? 鰌とはエ?……あ、ほンに鰌と云へば、向う横町に出來た鰻屋ね、 ちよいと異ですツさ。久し振りだツて、奢らなくツてもいゝよ、はゝゝゝ。」

 皺延ばしの太平樂、聞くに堪へぬといふは平日の事。今宵はちと情實が有るか ら、お勢は顏を皺めるは扨置き、昇の顏を横眼でみながら、追蒐け引蒐けて高笑ひ。 てれ隱しか、嬉しさの溢れか、當人に聞いてみねば、とんと分らず。

「今夜は大分御機嫌だが、」ト、昇も心附いたか、お勢を調戲りだす。「此間は 如何したもンだツた? 何を云ツても、まだ明日の支度をしませんから。はツ、はツ、 はツ、憶出すと可笑しくなる。」

「だツて、氣分が惡かツたンですものヲ。」ト、淫哇しい、形容も出來ない身振 り。

「何が何だか、譯が解りやアしません。」

 少し白けた席の穴を填めるためか、昇が俄に問はれもせぬ無沙汰の分疏をしだ して、近ごろは頼まれて、一夜はざめに課長の處へ往ツて、細君と妹に、英語の下稽 古をしてやる、といふ。「いや、迷惑な、」ト言葉を足す。

 と聞いて、お政にも似合はぬ、正直な、まうけに受けて、其不心得を、諭す。 是が立身の踏臺になるかも知れぬと云ツて。けれども、御弟子が御弟子ゆゑ、飛んだ 事まで教へはすまいか、と思ふと心配だ、と高く笑ふ。

 お勢は、昇が課長の處へ、英語を教へに往くと聞くより、如何したものか、俄 に萎れだしたが、此時母親に釣られて、淋しい顏で莞爾して、

「令妹の名は何といふの?」

「花とか耳とか云ツたツけ。」

「餘程出來るの?」

「英語かね? なアに、から駄目だ。Thank you for your kind だから、まだ/\。」

 お勢は冷笑の氣味で、

「それぢやア……。」

 I will ask to you と云ツて、今日教師に叱られた。それは、其時、忘れてゐたのだ から、仕方が無い。

「ときに、これは、」と昇は、お政の方を向いて、親指を出してみせて、「如何 しました、その後?」

「居ますよ、まだ。」トお政は思ひ切りて顏を皺めた。「づうづうしいと思ツて ねえ!……それも宜いが、また何か、お勢に云ひましたツさ。」

「お勢さんに?」

「はア。」

「如何な事を?」

 おツとまかせと饒舌り出した、文三のお勢の部屋へ忍び込んだ事から、段々と 順を逐ツて、剩さず漏さず、おまけまでつけて。昇は頤を撫でてそれを聽いてゐたが、 お勢が惡たれた一段となると、不意に聲を放ツて、大笑に笑ツて、

「そいつア痛かツたらう。」

「なに其ン時こそ、些とばかし可怪な顏をしたツけが、半日も經てば、また平氣 なものさ。なんと、本田さん、づうづうしいぢやア有りませんか!」

「さうしてね、まだ私の事を浮氣者だなンぞツて。」

「ほんとに、其樣な事も云ツたさうですがね。なにも、其樣に腹がたつなら、此 處の家に居ないが宜いぢや有りませんか。私ならすぐ、下宿か何かして仕舞ひまさア。 それを、其樣な事を云ツて置きながら、づう/\しく、のんべんくらりと、大飯を食 ツて……ゐるとは、何處まで押が重いンだか、數が知れないと思ツて。」

 昇は苦笑ひをしてゐた。暫時して返答とはなく、たゞ、

「何しても困ツたもンだね。」

「ほんとに困ツちまひますよ。」

 困ツてゐる所へ、勝手口で、「梅本でござい。」梅本といふは近處の料理屋。 「おや、家では……。」と、お政は怪しむ。その顏も忽ち莞爾々々となツた、昇の吩 咐とわかツて。

「それだから此息子は可愛いよ。」ト、片腹痛い言まで云ツて、やがて下女が持 込む岡持の蓋を取ツて見るより、また意地の汚ない言をいふ。それを、今夜に限ツて、 平氣で聞いてゐるお勢どのの心持が解らない、と怪しんでゐる間も有ればこそ、それ ツと炭を繼ぐ、吹く、起こす、燗をつけるやら、鍋を懸けるやら。 瞬く間に酒となツた。あひの、おさへの、といふ蒼蠅い事の無い代り、洒落、擔ぎ合 ひ、大口、高笑、都々逸の素じぶくり、替歌の傳受等、いろいろの事が有ツたが、蒼 蠅いからそれは略す。

 刺身は調味のみになツて、噎で應答をするころになツて、お政は、例の處へで も往き度くなツたか、ふと起ツて座鋪を出た。

 と、兩人差向ひになツた。顏を視合せるとも無く視合して、お勢はくす/\と 吹出したが、急に眞面目になツて、ちんと澄ます。

「これアをかしい。何がくす/\だらう?」

「何でも無いの。」

「のぼる源氏のお顏を拜んで、嬉しいか?」

「呆れて仕舞はア。ひよツとこ面の癖に。」

「何だと?」

「綺麗なお顏で御座いますといふこと。」

 昇は例の、默ツてお勢を睨め出す。

「綺麗なお顏だといふンだから、ほゝゝ、」と用心しながら退却をして、「いゝ ぢやア……おツ……。」

 ツと寄ツた昇が、お勢の傍へ。……空で手と手が閃く、からまる……と鎭まツ た所をみれば、お勢は何時か手を握られてゐた。

「これが如何したの?」と平氣な顏。

「如何もしないが、かうまづ俘虜にしておいて、どツこい……。」と振放さうと する手を握りしめる。

「あちゝゝ。」と顏を皺めて、「痛い事をなさるねえ!」

「ちツとは痛いのさ。」

「放して頂戴よ。よう、放さないと此手に喰付きますよ。」

「喰付きたいほど思へども……。」ト平氣で鼻歌。

 お勢はおそろしく顏を皺めて、甘ツたるい聲で、「よう、放して頂戴と云へば ねえ。……聲を立てますよ。」

「お立てなさいとも。」

 ト云はれて、一段聲を低めて、「あら本田さんが手なんぞ握ツて、ほゝゝゝ、いけません。ほゝゝ。」

「それはさぞお困りで御座いませう。」

「眞個に放して頂戴よ。」

「何故? 内海に知れると惡いか?」……

「なに、彼樣な奴に知れたツて……。」

「ぢや、ちツとかうしてゐ給へ。大丈夫だよ。淫褻なぞする本田にあらずだ。… …が、ちよツと……。」ト何やら小聲で云ツて、「……位は宜からう?」

 すると、お勢は、如何してか、急に心から眞面目になツて、「あたしやア知ら ないからいゝ……私やア……其樣な失敬な事ツて……。」

 昇は面白さうに、お勢の眞面目くさツた顏を眺めて、莞爾莞爾しながら、 「いゝぢやないか? だゞちよいと……。」

「厭ですよ、そんな……よツ、放して頂戴と云へばねえツ。」

 一生懸命に振放さうとする、放させまいとする、暫時爭ツて居ると、縁側に足 音がする。それを聞くと、昇は我からお勢の手を放して、大笑ひに笑ひ出した。

 ずツと、お政が入ツて來た。

「叔母さん/\。お勢さんを放飼はいけないよ。今も人を捉へて、口説いて口説 いて困らせ拔いた。」

「あら/\彼樣な虚言を吐いて、…非道い人だこと…!」

 昇は天井を仰向いて、「はツ、はツ、はツ。」

18. 第十八囘

 一週間と經ち、二週間と經つ。昇は、相かはらず、繁々遊びに來る。そこで、 お勢も益々親しくなる。

 けれど、其親しみ方が、文三の時とは大きに違ふ。彼時は、華美から野暮へと 感染れたが、此度は其反對で、野暮の上塗が次第に剥げて、漸く木地の華美に戻る。 兩人とも顏を合はせれば、只戯れる許り、落着いて談話などした事更に無し。それも、 お勢に云はせれば、昇が宜しく無いので、此方で眞面目にしてゐるものを、とぼけ顏 をして剽輕な事を云ひ、輕く、氣無しに、調子を浮かせてあやなしかける。其故、念 に掛けて笑ふまい、とはしながら、をかしくてをかしくて、どうも堪らず。脣を噛締 め、眉を釣上げ、眞赤になツても耐へ切れず、ツイ吹出して、大事の/\品格を落し て仕舞ふ。果は、何を云はれんでも、顏さへ見れば可笑しくなる。「眞個に本田さん はいけないよ、人を笑はして許りゐて。」とお勢は絶えず昇を憎がツた。

 かうお勢に對ふと、昇は戯れ散らすが、お政には無遠慮といふうちにも、何處 かしツとりした所が有ツて、戯言を云はせれば、云ひもするが、また落着く時には落 着いて、隨分眞面目な談話もする。勿論、眞面目な談話と云ツた處で、金利公債の話、 家屋敷の賣買の噂。さもなくば、借家人が更に家賃を納れぬ苦情――皆つまらぬ事ば かり。一つとしてお勢の耳には、面白くも聞えないが、それでゐて、兩人の話してゐ る所を聞けば、何か、談話の筋の外に、男女交際、婦人矯風の議論よりは、遙かに優 りて面白い所が有ツて、それを眼顏で話合ツて、娯しんでゐるらしいが、お勢には薩 張解らん。が、餘程面白いと見えて、其樣な談話が始まると、お政は勿論、昇までが、 平生の愛嬌は何處へやら遣ツて、お勢の方は見向もせず、一心になツて、或は公債を 書替へる極く簡略な法、或は誰も知ツてゐる銀行の内幕、または、お得意の課長の生 計の大した事を、喋々と話す。お勢は退屈で/\、欠び許り出る。起上ツて部屋へ歸 らう、とは思ひながら、つい起そゝくれて潮合を失ひ、まじりまじり、思慮の無い顏 をして、面白くもない談話を聞いてゐるうちに、いつしか眼が曇り、兩人の顏がかす んで、話聲もやゝ遠く籠ツて聞こえる。……「なに、十圓さ。」と突然鼓膜を破る昇 の聲に駭かされ、震へ上る拍子に、眼を看開いて、忙はしく兩人の顏を窺へば、心附 かぬ樣子。まづよかツたと安心し、何喰はぬ顏をして、また兩人の談話を聞出すと、 また眼の皮がたるみ、引入れられるやうな、快い心地になツて、睡るともなく、つい 正體を失ふ……誰かに手暴く搖ぶられて、また愕然として眼を覺ませば、耳元にどツ と高笑の聲。お勢も流石に莞爾して、「それでも睡いんだものヲ。」と睡さうに分疏 をいふ。また、かういふ事も有る。前のやうに慾張ツた談話で、兩人は夢中になツて ゐる。お勢は退屈やら、手持無沙汰やら、いびつに坐ツてみたり、跪坐ツてみたり、 耳を借してゐては際限もなし。そのうちには、また睡氣がさしさうになる。から、ち と談話の仲間入りをしてみよう、とは思ふが、一人が口を噤めば、一人が舌を揮ひ、 喋々として兩つの口が結ばるといふ事が無ければ、嘴を容れたいにも、更に其間隙が 見附からない。その見附からない間隙を、漸く見附けて、此處ぞと思へば、さて肝心 のいふことが見附からず、迷つくうちに、はや人に取られて仕舞ふ。經驗が知識を生 んで、今度はいふべき事も豫て用意して、ぢれツたさうに插頭で髮を掻きながら、漸 くの思で間隙を見附け、「公債は今幾何なの?」と嘴を插んでみれば、さて我ながら 唐突千萬! 無理では無いが、昇も、母親も、膽を潰して、顏を視合せて、大笑ひに 笑ひ出す。__今のは半襟の間違ひだらう。__なに、人形の首だツさ。__違えね え。またしても口を揃へて高笑ひ。「あんまりだから、いゝ。」トお勢は膨れる。け れど、膨れたとて、機嫌を取られゝば、それだけ畢竟安目にされる道理。どうしても、 かうしても、敵はない。

 お勢は此の事を不平に思ツて、或は口を利かぬと云ひ、或は絶交すると云ツて、 恐喝してみたが、昇は一向平氣なもの、なか/\其樣な甘手ではいかん。壓制家、利 己論者と、口では呪ひながら、お勢もつい其不屆者と親んで、玩ばれると知りつゝ、 玩ばれ、調戯られると知りつゝ、調戯られてゐる。けれど、さうはいふものの、戯け るも滿更でも無いと見えて、偶々昇が、お勢の望む通り、眞面目にしてゐれば、さて どうも物足りぬ樣子で、此方から、遠方から、危がりながら、ちよツかいを出してみ る。相手にならねば甚だ機嫌がわるい。から、餘儀なく其手を押へさうにすれば、忽 ちきやツ/\と輕忽な聲を發し、高く笑ひ、遠方へ逃げ、例の睚の裏を返して、べべ べーといふ。總て、なぶられても厭だが、なぶられぬも厭、どうしませう、トいひた さうな樣子

 母親は見ぬ風をして、見落しなく見ておくから、齒癢くてたまらん。老功の者 の眼から觀れば、年若の者のする事は、總てしだらなく、手緩くて更に埓が明かん。 そこで耐へ兼ねて娘に向ひ、嚴かに云ひ聞かせる、娘の時の心掛を。どのやうな事か と云へば、皆多年の實驗から出た交際の規則で、男、取分けて若い男といふ者は、か う/\いふ性質のもので有るから、若し戯談をいひかけられたら、かう。花を持たせ られたら、かう。弄られたら、かう待遇ふものだ、などいふ事であるが、親の心子知 らずで、かう利益を思ツて、云ひ聞かせるものを、それをお勢は、生意氣な、まだ世 の態も見知らぬ癖に、明治生れの婦人は、藝娼妓で無いから、男子に接するに其樣な 手管は入らないとて、鼻の頭で待遇ツてゐて、更に用ひようともしない。手管では無 い、是れが娘の時の心掛といふものだ、と云ひ聞かせても、其樣な深遠な道理は、ま だ青いお勢には解らない。そんな事は、女大學にだツて書いて無い、と強情を張る。 勝手にしな、と癇癪を起せば。勝手にしなくツて、と口答をする。どうにも、かうに も、なツた奴ぢやない! けれど、母親が氣を揉むまでも無く、幾程もなく、お勢は 我から自然に樣子を變へた。まづ其初めを云へば、かうで。

 此の物語の首に、ちよいと噂をした事の有るお政の知己、須賀町のお濱といふ 婦人が、近頃に、娘をさる商家へ縁付けるとて、それを吹聽かた%\、その娘を伴れ て、或日、お政を尋ねて來た。娘といふは、お勢に一つ年下で、姿色は少し劣る代り、 遊藝は一通り出來て、それでゐて、おとなしく、愛想がよくて、お政に云はせれば、 如才の無い娘で、お勢に云はせれば、舊幣な娘。お勢は大嫌ひ、母親が贔屓にするだ けに、尚ほ一層此娘を嫌ふ。但し是れは、普通の勝心のさせる業ばかりではなく、此 娘のお蔭で、をりをり高い鼻を擦られる事も有るからで。縁付けると聞いて、お政は 羨ましいと思ふ心を、少しも匿さず、顏はおろか、口へまで出して、事々しく慶びを 陳べる。娘の親も親で、慶びを陳べられて、一層得意になり、さも誇貌に婿の財産を 數へ、または支度に費ツた金額の、總計から内譯まで、細細と計算をして聞かせれば、 聞く事毎にお政は且つ驚き、且つ羨んで、果は、どうしてか、婚姻の原因を娘の行状 に見出して、これといふも、平生の心掛がいゝからだ、と口を極めて賞める。嫁る事 が何故其樣に手柄であらうか。お勢は猫が鼠を捕ツた程にも思ツてゐないのに! そ れを其娘は、恥かしさうに、俯向きは俯向きながら、己れも仕合と思ひ顏で、高慢は 自ら小鼻に現はれてゐる。見てゐられぬ程に醜態を極める! お勢は固より羨ましく も、妬ましくも有るまいが、たゞ己れ一人で、さう思ツてゐる許りでは、滿足が出來 んと見えて、をり/\さも苦々しさうに、冷笑ツてみせるが、生憎誰も心附かん。そ のうちに、母親が人の身の上を羨むにつけて、我身の薄命を歎ち、何處かの人が、親 を蔑ろにして、更にいふことを用ひず、何時身を極めるといふ考へも無い、とて苦情 をならべ出すと、娘の親は、失禮な、なに此娘の姿色なら、ゆく/\は「立派な官員 さん」でも夫に持ツて、親に安樂をさせることで有らう、と云ツて、嘲けるやうに高 く笑ふ。見やう見眞似に、娘までが、お勢の方を顧みて、これもまた嘲けるやうに、 ほゝと笑ふ。お勢はおそろしく赤面して、さも面目なげに俯向いたが、十分も經たぬ うちに、座鋪を出て仕舞ツた。我部屋へ戻ツてから、初て、後馳に憤然となツて、 「一生、お嫁になんぞ行くもんか、」ト奮激した。

 客は、一日、打くつろいで話して、夜に入ツてから歸ツた。歸ツた後に、お政 はまた人の幸福をいひだして、羨むので、お勢は最早勘辨がならず、胸に積る晝間か らの鬱憤を、一時に霽らさうといふ意氣込で、言葉鋭く云ひまくツてみると、母の方 にも存外な道理が有ツて、つひにはお勢も成程と思ツたか、少し受太刀になツた。が、 負けじ魂から、滅多には屈服せず、尚ほ彼此と諍論ツてゐる。そのうちに、お政は、 何か妙案を思ひ浮べたやうに、俄に顏色を和げ、今にも笑出しさうな眼付をして、 「そんな事をお云ひだけれども、本田さんならどうだえ? 本田さんでも、お嫁に行 くのは厭かえ?」トいふ。「厭なこツた。」ト云ツて、お勢は今まで顏へ出してゐた 思慮を、盡く内へ引込まして仕舞ふ。「おや、何故だらう。本田さんなら、いゝぢや ないか。ちよいと氣が利いてゐて、小金も少とは持ツてゐなさりさうだし、それに、 第一男が好くツて。」「厭なこツた。」「でも若し本田さんが呉れろと云ツたら。何 と云はう?」ト云はれて、お勢は少し躊躇ツたが、狼狽へて、「い……いやなこツ た。」お政はじろりと其樣子をみて、何を思ツてか、高く笑ツたばかりで、再び娘を 詰らなかツた。その後は、お勢は故らに、何喰はぬ顏を作ツてみても、どうも旨くい かぬやうすで、動もすれば沈んで、眼を細くして、何處か遠方を凝視め、恍惚として、 夢現の境に迷ふやうに見えたことも有ツた。「十一時になるよ。」ト母親に氣を附け られたときは、夢の覺めたやうな顏をして、溜息さへ吐いた。

 部屋へ戻ツても、尚ほ氣が確かにならず、何心なく寢衣を着代へて、力無ささ うに、ベツたりと床の上へ坐ツたまま、身動きもしない。何を思ツてゐるのか? 母 の端なく云ツた一言の答を求めて、求め得んのか? 夢のやうに過ぎこした昔へ、心 を引戻して、これまで文三如き者に拘ツて、良縁をも求めず、徒らに歳月を送ツたを、 惜しい事に思ツてゐるのか?

 或は母の言葉の放ツた光に、我身をめぐる暗黒を破られ、 初て今が浮沈の潮界、一生の運の定まる時と心附いたのか? 抑また狂ひ出す妄想に つれられて、我知らず心を華やかな娯しい未來へ走らし、望みを事實にし、現に夢を 見て、嬉しく、畏ろしい思をしてゐるのか? 恍惚として顏に映る内の想が無いから、 何を思ツてゐることか、すこしも解らないが、兎に角良久くの間は、身動きをもしな かツた。其儘で、十分ばかり經ツたころ、忽然として、眼が嬉しさうに光り出すかと 思ふ間に、見る/\耐へようにも耐へ切れなささうな微笑が、口頭に浮び出て、頬さ へいつしか紅を潮す。閉ぢた胸の、一時に開けた爲め、天成の美も一段の光を添へて、 艶なうちにも、何處か、豁然と晴れやかに、快ささうな所も有りて、宛然蓮の花の開 くを觀るやうに、見る眼も覺める許りで有ツた。突然、お勢は跳ね起きて、嬉しさが こみあげて、徒は坐ツてゐられぬやうに、そして、柱に懸けた薄暗い姿見に對ひ、模 糊寫る己が笑顏を覗き込んで、あやすやうな眞似をして、片足浮かせて、床の上でぐ るりと囘り、舞踏でもするやうな運歩で、部屋の中を跳ね廻ツて、また床の上へ來る と、其儘、其處へ臥倒れる拍子に、手ばしこく枕を取ツて、頭に宛がひ、渾身を搖り ながら、締殺したやうな聲を漏らして笑ひ出した。

 此狂氣じみた事の有ツた當座は、昇が來ると、お勢は、臆するでもなく、恥ら ふでもなく、只何となく落着が惡いやうで有ツた。何か心に持ツてゐる、それを悟ら れまいため、矢張今迄どほり、をさなく、愛度氣なく待遇はうと、蔭では思ふが、い ざ昇と顏を合せると、どうも、もう、さうはいかないと云ひさうな調子で、いふ事に さしたる變りも無いが、それをいふ調子に、何處か今までに無いところが有ツて、濁 ツて、厭味を含む。用も無いに、座鋪を出たり、はひツたり、をかしくも無いことに 高く笑ツたり、誰やらに顏を見られてゐるなと心附きながら、それを故意と心附かぬ 風をして、磊落に母親に物をいツたりするはまだな事。昇と眼を見合して、狼狽へて 横へ外らしたことさへ、度々有ツた。總て今までとは樣子が違ふ。それを昇の居る前 で、母親に怪しまれた時は、お勢もぱツと顏を赧めて、如何にも極りが惡さうに見え た。が、その極り惡さうなもいつしか失せて、其後は、昇に飽いたのか、珍らしくな くなツたのか、それとも何か爭ひでもしたのか、どうしたのか解らないが、兎に角昇 が來ないとても、もウ心配もせず、來たとて、一向構はなくなツた。以前は鬱々とし てゐる時でも、昇が來れば、すぐ冴えたものを、今は其反對で、冴えてゐる時でも、 昇の顏を見れば、すぐ顏を曇らして、冷淡になつて、餘り口數もきかず、總て仲のわ るい從兄妹同士のやうに、遠慮氣なく餘所々々しく待遇す。昇はさして變らず、尚ほ 折節には戯言など言ひ掛けてみるが、云ツても、もウ、お勢が相手にならず、勿論嬉 しさうにも無く、たゞ「知りませんよ、」ト彼方向くばかり。其故に、昇の戯ばみも 鋒先が鈍ツて、大抵は、泣眠入るやうに眠入ツて仕舞ふ。かうまで昇を冷遇する。其 代り、昇の來て居ない時は、おそろしい冴えやうで、誰彼の見さかひなく戯れかゝツ て、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらへて舞踏の眞似をするやら、 飛んだり、跳ねたり、高笑ひをしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、かう冴えてゐる 時でも、昇の顏さへ見れば、不意にまた眼の中を雲らして、落着いて、冷淡になツて 仕舞ふ。

 けれど、母親には大層やさしくなツて、騒いで叱られたとて、鎭まりもしない が、惡まれ口もきかず。却ツて憎氣なく、母親にまでだれかゝるので、母親も初のう ちは苦い顏を作ツてゐたものの、竟には、どうかかうか釣込まれて、叱る聲を崩して 笑ツて仕舞ふ。但し、朝起される時だけは、それは例外で、其時ばかりは少し頬を膨 らせる。が、それも其程が過ぎれば、我から機嫌を直して、華やいで、時には母親に 媚びるのか、と思ふほどの事をもいふ。初の程は、お政も不審顏をしてゐたが、慣 れゝば、それも常となツてか、後には何とも思はぬ樣子で有ツた。

 そのうちに、お勢が編物の夜稽古に通ひたいといひだす。編物よりか心易い者 に、日本の裁縫を教へる者が有るから、晝間其處へ通へ、と母親のいふを押反して、 幾度か/\、掌を合せぬばかりにして、是非に編物をと頼む。西洋の處女なら、今に も母の首にしがみ付いて頬の邊に接吻しさうに、あまえた、強請るやうな眼付で、顏 をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意氣地なく、「えゝ、うるさい! どう なと勝手におし。」と賺されて仕舞ツた。

 編物の稽古は、英語よりも面白いとみえて、隔晩の稽古を、樂しみにして通ふ。 お勢は全體、本化粧が嫌ひで、これまで外出するにも、薄化粧ばかりしてゐたが、編 物の稽古を始めてからは、「皆が大層作ツて來るから、私一人なにしないと……」と、 咎める者も無いに、我から分疏をいひ/\、こツてりと人品を落すほどに粧ツて、衣 服も成丈美いのを選んで着て行く。夜だから、此方ので宜いぢやないかと、美くない 衣服を出されゝば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。

 お政は、そは/\して出て行く娘の後姿を、何時も請難さうに見送る……。

 昇は何時からともなく、足を遠くして仕舞ツた。

19. 第十九囘

 お勢は、一旦は文三を、仂なく辱めはしたものの、心にはさほどにも思はんか、 其後はたゞ冷淡なばかりで、さして辛くも當らん。が、それに引替へて、お政はます /\文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇す。何か用事が有りて、下座鋪へ降りれ ば、家内中寄集りて、口を解いて面白さうに雜談などしてゐる時でも、皆云ひ合した やうに、ふと口を箝んで顏を曇らせる。といふうちにも取分けて、お政は不機嫌な體 で、少し文三の出やうが遲ければ、何を愚頭愚頭してゐる、と云はぬばかりに、此方 を睨めつけ、ときには氣を焦ツて、聞えよがしに舌鼓など鳴らして、聞かせる事も有 る。文三とても白癡でもなく、瘋癲でもなければ、それほどにされんでも、今此處で 身を退けば、眉を伸べて喜ぶ者が、そこらに澤山あることに心附かんでも無いから、 心苦しいことは口に云へぬほどで有る。けれど、尚ほ、園田の家を辭し去らうとは思 はん。何故にそれほどまでに、園田の家を去りたくないのか。因循な心から、あれほ どにされても、尚ほそのやうに角立ツた事は出來んか。それほどになツても、まだ、 お勢に心が殘るか。抑もまた、文三の位置では陷り易い謬。お勢との關繋が、此儘に なツて仕舞ツたとは、戯談らしくてさうは思へんのか? 總て、此等の事は、多少は 文三の羞を忍んで、尚ほ園田の家に居る原因となツたに相違ない。が、しかし、重な 原因ではない。重な原因といふは、即ち人情の二字。此二字に羈 絆られ、文三は心ならずも、尚ほ園田の家に顏を皺めながら留ツてゐる。

 心を留めて視なくとも、今の家内の調子が、むかしとは大に相違するは、文三 にも解る。以前まだ文三が、此の調子を成す一つの要素で有ツて、人々が眼を見合し ては微笑し、幸福といはずして、幸福を樂んでゐたころは、家内全體に生温い春風が 吹渡ツたやうに、總て穩に、和いで、沈着いて、見る事、聞く事が盡く自然に適ツて ゐたやうに思はれた。そのころの幸福は、現在の幸福ではなくて、未來の幸福の影を 樂しむ幸福で、我も、人も、皆何か不足を感じながら、強ちにそれを足さうともせず、 却ツて今は足らぬが當然、と思ツてゐたやうに、急かず、騒がず、悠々として時機の 熟するを竢ツてゐた。その心の長閑さ、寛さ、今憶ひ出しても、閉ぢた眉を開くばか りな。……其頃は人人の心が期せずして、自ら一致し、同じ事を念ひ、同じ事を樂ん で、強ちそれを匿さうともせず、また匿すまいともせず、胸に城郭を設けぬからとて、 言ツて花の散るやうな事は云はず、また聞かうともせず。まだ妻でない妻、夫でない 夫、親で無い親――と、かう三人集ツたところに、誰が作り出すこともなく、自らに 清く、穩な、優しい調子を作り出して、それに隨れて物を言ひ、 事をしたから、人々が宛も、平生の我よりは優ツたやうで、お政のやうな婦人でさへ、 尚ほ何處か、頼母し氣な所が有ツたのみならず、却ツて、これが間に介まらねば、餘 り兩人の間が接近しすぎて、穩さを缺くので、お政は文三等の幸福を成すに、無くて 叶はぬ人物とさへ思はれた。が、その温な愛念も、幸福な境界も、優しい調子も、嬉 しさうに笑ふ眼元も、口元も、文三が免職になツてから、取分けて、昇が全く家内へ 立入ツてから、皆突然に色が褪め、氣が拔けだして、遂に今日此頃の此 有樣となツた……。

 今の家内の有樣を見れば、最早以前のやうな、和いだ所も無ければ、沈着いた 所もなく、放心に見渡せば、總て華かに、賑かで、心配もなく、氣あつかひも無く、 浮々として面白さうに見えるものの、熟々視れば、それは皆衣服で、體にすれば、見るも汚はしい私慾、貪婪、淫褻、不義、無情も 塊で有る。以前、人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢を洗ツた愛念もな く、人々己一個の私をのみ思ツて、己が自恣に物を言ひ、己が

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[16]自恣に 動ふ。
欺いたり、欺かれたり、戲言に託して人の意を 測ツてみたり、二つ意味の有る言を云ツてみたり、疑ツてみたり、信じてみたり、― ―いろ/\さま%\に不徳を盡す。お政は、いふまでもなく、死灰の再び燃えぬうち に、早く娘を昇に合せて、多年の胸の塊を、一時におろして仕舞ひたいが、娘が、思 ふやうに、如才なくたちまはらんので、それで、齒癢がつて氣を揉み散らす。昇はそ れを承知してゐるゆゑ、後の面倒を慮ツて、迂闊に手は出さんが、罠のと知りつゝ、 油鼠の側を去られん老狐の如くに、遲疑しながらも、尚ほお勢の身邊を廻ツて、横眼 で睨んでは舌舐りをする。(文三は何故か、昇の妻となる者は、必ず愚で醜い代り、 權貴な人を親に持ツた、身柄の善い婦人とのみ思ひこんでゐる。)お政は、昇の心を 見拔いてゐる、昇も亦お政の意を見拔いてゐる。加之も、互ひに見拔かれてゐると、 略心附いてゐる。それゆゑに、故らに無心な顏を作り、思慮の無い言を云ひ、互ひに 瞞着しようと力めあふものの、しかし、雙方共、力は互角のしたゝかものゆゑ、優り もせず、劣りもせず、挑み疲れて、今はすこし睨合の姿となツた。總て此等の動靜は、 文三も略察してゐる。それを察してゐるから、お勢がこのやうな、危い境に身を處き ながら、それには少しも心附かず、私慾と淫慾とが爍して出來した、輕く浮いた、汚 はしい家内の調子に乘せられて、何心なく物を言ツては高笑ひをする、その樣子を見 ると、手を束ねて安坐してゐられなくなる。

 お勢は今甚だしく迷ツてゐる。豕を抱いて臭きを知らずとかで、境界の臭みに 居ても、恐らくは其臭味がわかるまい。今の心の状を察するに、譬へば酒に醉ツた如 くで、氣は暴れてゐても心は妙に昧んでゐる故、見る程の物、聞く程の事が眼や耳や へ入ツても、底の認識までは屆かず、皆中途で立消をして仕舞ふであらう。また徒だ 外界と縁遠くなツたのみならず、我内界とも疎くなツたやうで、我心ながら我心の心 地はせず、始終何か本體の得知れぬ一種不思議な力に誘はれて、言動作息するから、 我にも我が判然とは分るまい。今のお勢の眼には宇宙は鮮いて見え、萬物は美しく見 え、人は皆我一人を愛して我一人の爲めに働いてゐるやうに見えやう。若し顏を皺め て溜息を吐く者が有れば、此世はこれほど住みよいに、何故人は然う住み憂く思ふか、 殆ど其の意を解し得まい。また人の老い易く色の衰へ易い事を忘れて、今の若き美し さは永劫續くやうに心得て、未來の事などは全く思ふまい。よし思ツた所で、華かな 輝いた未來の外は夢にも想像に浮ぶまい。昇に狎れ親んでから、お勢は故の吾を亡く した。が、夫には自分も心附くまい。お勢は昇を愛してゐるやうで、實は愛してはゐ ず、只昇に限らず、總て男子に、取分けて若い美しい男子に慕はれるのが何となく快 いので有らうが、夫にも又自分は心附いてゐまい。之を要するに、お勢の病は外から 來たばかりではなく、内からも發したので、文三に感染れて少し畏縮けた血氣が、今 外界の刺戟を受けて一時に暴れだし、理性の口をも閉ぢ、認識の眼をも眩ませて、お そろしい力を以て、さま%\の醜態に奮見するので有らう。若し然うなれば、今がお 勢の一生中で、最も大事な時。能く今の境界を渡り課せれば、此一時に、さま%\の 經驗を得て、己れの人と爲りをも知り、所謂放心を求め得て、初て心で此世を渡るや うにならうが、若し躓けばもうそれまで、倒れた儘で、再び起き上る事も出來まい。 物のうちの人となるも、此一時。人の中の物となるも、亦此一時。今が浮沈の潮界、 最も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を、放心して渡ツてゐて、何時眼が覺めよ うとも見えん。

 此儘にしては置けん。早く、手遲れにならんうちに、お勢の眼ツた本心を覺ま さなければならん。が、しかし、誰がお勢のために此事に當らう!

 見渡したところ、孫兵衞は留守、假令居たとて役にも立たず。お政は彼の如く、 娘を愛する心は有りても、其道を知らんから、娘の道心を縊殺さうとしてゐながら、 加之も得意顏でゐるほどゆゑ、固よりこれは妨げになるばかり。たゞ文三のみは、愚 昧ながらも、まだお勢よりは、少しは知識も有り、經驗も有れば、若しお勢の眼を覺 ます者が必要なら、文三を措いて誰がならう?

 ト、かう、お勢を見棄てたくない許りでなく、見棄てては寧ろ義理に背くと思 へば、凝性の文三ゆゑ、おウ餘事は思ツてゐられん。朝夕只この事ばかりに心を苦し めて、悶え苦んでゐるから、宛も感覺が鈍くなツたやうで、お政が顏を顰めたとて、 舌鼓を鳴らしたとて、其時ばかり、少し居辛くおもふのみで、久しくそれに拘ツては ゐられん。それで、かう、邪魔にされると知りつゝ、園田の家を去る氣にもなれず、 いまに六疊の小座鋪に、氣を詰らして、始終壁に對ツて歎息のみしてゐるので。

 歎息のみしてゐるので。何故なればお勢を救はう、といふ志は有ツても、其道 を求めかねるから。「どうしたものだらう?」といふ問は、日に幾度となく胸に浮ぶ が、いつも浮ぶばかりで、答を得ずして消えて仕舞ひ、其跡に殘るものは、只不滿足 の三字。その不滿足の苦を脱れよう、と氣をあせるから、健康な知識は縮んで、出過 ぎた妄想が我から荒出し、抑へても抑へ切れなくなツて、遂には、尚だ如何してとい ふ手順をも思附き得ぬうちに、早くもお勢を救ひ得た後の、樂しい光景が眼前に隱現 き、拂ツても去らん事が度々有る。

 しかし、始終、空想ばかりに耽ツてゐるでも無い。多く考へるうちには、少し は稍々行はれさうな工夫を付ける。そのうちで、まづ上策といふは、此頃の家内の動 靜を、詳しく叔父の耳へ入れて、父親の口から篤とお勢に云ひ聞かせる、といふ一策 で有る。さうしたら、或はお勢も眼が覺めようかと思はれる。が、また思ひ返せば、 他人の身の上なれば兎も角も、我と入組んだ關係の有るお勢の身の上を、彼此心配し て、其親の叔父に告げるは、何となく後めたくてさうも出來ん。假令、思ひ切ツて然 うしたところで、叔父はお勢を諭し得ても、我儘なお政は説き伏せるは扨置き、反ツ て反對にいひくるめられるかも知れん。と思へば、成る可くは叔父に告げずして、事 を收めたい。叔父に告げずして事を收めようと思へば、今一度お勢の袖を扣へて、打 附けに掻口説く外、他に仕方もないが、しかし、今の如くに、かう齟齬ツてゐては、 言ツたとて聽きもすまいし、また毛を吹いて疵を求めるやうではと思へば、かうと思 ひ定めぬうちに、まづ氣が畏縮けて、どうも其氣にもなれん。から、また、思ひ詰め た心を解して、更に他にさまざまの手段を思ひ浮べ、いろ/\に考へ散らしてみるが、 一つとして行はれさうなのも見當らず。囘り囘ツてまた舊の思案に戻ツて、苦しみ悶 えるうちに、ふと又例の妄想が働きだして、無益な事を思はせられる。時としては妙 な氣になツて、總て此頃の事は皆一時の戲れで、お勢は心から文三に背いたのでは無 くて、只背いた風をして、文三を試みてゐるので、其證據には、今にお勢が上ツて來 て、例の華かな高笑で、今までの葛藤を笑ひ消して仕舞はう、と思はれる事が有る。 が、固より永くは續かん、無慈悲な記憶が働きだして、此頃あくたれた時のお勢の顏 を憶出させ、瞬息の間に、其快い夢を破ツて仕舞ふ。またかういふ事も有る。ふと氣 が渝ツて、今から零落してゐながら、其樣な藥袋も無い事に拘ツて、徒らに日を送る を、極めて愚のやうに思はれ、もうお勢の事は思ふまいと、少時思ひの道を絶ツて、 まじ/\としてゐてみるが、それではどうも、大切な用事を仕懸けて罷めたやうで、 心が落居ず。狼狽へて、またお勢の事に立戻ツて悶え苦しむ。人の心といふものは、 同一の事を間斷なく思ツてゐると、遂に考へ草臥れて、思辨力の弱るもので、文三も その通り、始終お勢の事を心配してゐるうちに、何時からともなく注意が散ツて一事 には集らぬやうになり、をり/\互ひに何の關係をも持たぬ零零碎々の事を、取締も なく思ふことも有ツた。曾て兩手を頭に敷き、仰向けに臥しながら、天井を凝視めて、 初は例の如くお勢の事を彼此と思ツてゐたが、その中にふと天井の木目が眼に入ツて、 突然妙な事を思ツた。「かう見たところは、水の流れた痕のやうだな。」かう思ふと 同時に、お勢の事は全く忘れて仕舞ツた。そして尚ほ熟々とその木目を視入ツて、 「心の取り方に依ツては、高低が有るやうにも見えるな。ふゝん、オプチカル、イリ ユウジヨンか。」フト、文三等に物理を教へた、外國教師の立派な髭の生えた顏を憶 出すと、それと同時に、また、木目の事は忘れて仕舞ツた。續いて眼前に、七八人の 學生が現はれて來たと視れば、皆同學の生徒等で、或は鉛筆を耳に挾んでゐる者も有 れば、或は書物を抱へてゐる者も有る、又は開いて視てゐる者も有る。能く視れば、 どうか文三も其中に雜ツてゐるやうに思はれる。今越歴の講義が終ツて、試驗に掛る 所で、皆エレクトリカル、マシーンの周邊に集ツて、何事とも解らんが、何か頻りに 云ひ爭ひながら騒いでゐる。かと思ふと、忽ちそのマシーンも生徒も烟の如く痕迹も なく消え失せて、ふとまた木目が目に入ツた。「ふん、オプチカル、イリユウジヨン か。」ト云ツて、何故ともなく莞爾した。「イリユウジヨンと云へば、今まで讀んだ 書物の中で、サリーの『イリユウジヨンス』ほど面白く思ツたものは無いな。二日一 晩に讀切ツて仕舞ツたツけ、あれ程の頭には如何したらなれるだらう。餘程組織が緻 密に違ひない……。」サリーの腦髓とお勢とは、何の關係も無ささうだが、此時突然 お勢のことが、噴水の迸る如くに、胸を突いて騰る。と、文三は腫物にでも觸られた やうに、あツと叫びながら跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もう其事は忘れて 仕舞ツた。何のために跳ね起きたとも解らん。久しく考へて居て、「あ、お勢の事 か。」と、辛くして、憶出しは憶出しても、宛然世を隔てた事の如くで、面白くも可 笑しくも無く、其儘に思ひ棄てた。暫くは茫然として、氣の拔けた顏をしてゐた。

 かう心の亂れるまでに心配するが、しかし只心配する許りで、事實には少しも 益が無いから、自然は己が爲すべき事をさツ/\として行ツて、お勢は益々深味へ陷 る。其樣子を視て、流石の文三も、今は殆ど志を挫き、迚も我力にも及ばん、と投首 をした。

 が、其内に、ふと嬉しく思ひ惑ふ事に出遇ツた。といふは他の事でも無い。お 勢が俄に昇と疎々敷なツた、その事で。それまではお勢の言動に一々目を注けて、そ の狂ふ意の跟に隨ひながら、我も意を狂はしてゐた文三も、此に至ツて忽ち道を失ツ て、暫く思念の歩みを止めた。彼程までにからんだ兩人の關係が、故なくして解れて 仕舞ふ筈は無いから、早まツて安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても喜ばずには 居られんは、お勢の文三に對する感情の變動で。其頃までは、お政程には無くとも、 文三に對して、一種の敵意を挾んでゐたお勢が、俄に樣子を變へて、顏を赧め合ツた 事は全く忘れたやうになり、眉を顰め、眼の中を曇らせる事は扨置き、下女と戯れて 笑ひ興じて居る所へ、行きがかりでもすれば、文三を顧みて快氣に笑ふ事さへ有る。 此分なら、若し文三が物を言ひかけたら、快く返答するかと思はれる。四邊に人目が 無い折などには、文三も數數話しかけてみようかとは思ツたが、萬一を危む心から、 暫く差控へてゐた。――差控へてゐるは寧ろ愚に近い、とは思ひながら尚ほ差控へて ゐた。

 編物を始めた四五日後の事で有ツた。或日の夕暮、何か用事が有ツて、文三は 奧座鋪へ行かうとて、二階を降りて、只見ると、お勢が此方へ背を向けて、縁端に佇 立んでゐる。少し首だれて、何か一心に爲てゐたところ、編物かと思はれる。珍らし いうちゆゑと思ひながら、文三は何心なく、お勢の背後を通り拔けようとすると、お 勢が彼方向いた儘で、突然、「まだかえ?」といふ。勿論人違ひと見える。が、此の 數週の間、妄想でなければ、言葉を交へた事の無いお勢に、今思ひ掛なく、やさしく 物を言ひかけられたので、文三はハツと當惑して、我にも無く立留る。お勢も、返答 の無いを不思議に思ツてか、ふと此方を振向く、途端に、文三と顏を相視して、おツ と云ツて驚いた。しかし、驚きは驚いても、狼狽へはせず、たゞ莞爾したばかりで、 また彼方向いて、そして編物に取掛ツた。文三は酒に醉ツた心地。如何仕ようといふ 方角もなく、只茫然として、殆ど無想の境に彷徨ツてゐるうちに、ふと心附いたは、 今日お政が留守の事。またと無い上首尾、思ひ切ツて物を言ツてみようか。……ト思 ひ掛けて、またそれと思ひ定めぬうちに、下女部屋の障子がさらりと開く。その音を 聞くと、文三は我にも無く、突と奧座鋪へ入ツて仕舞ツた――我にも無く、殆ど、見 られては不可とも思はずして、奧座鋪へ入ツて聞いてゐると、頓てお鍋がお勢の側ま で來て、ちよいと立留ツた光景で、「お待遠さま。」といふ聲が聞えた。お勢は返答 をせず、只何か口疾に囁いた樣子で、忍音に笑ふ聲が漏れて聞えると、お鍋の調子外 の聲で、「ほんとに内海……。」「しツ!……まだ其處に。」と小聲ながら聞取れる ほどに、「居るんだよ。」お鍋も小聲になりて、「ほんとう?」「ほんとうだよ。」

 かう成ツて見ると、もう潛ツてゐるも何となく極りが惡くなツて來たから、文 三が素知らぬ顏をして、ふツと奧座鋪を出る。その顏をお鍋が不思議さうに眺めなが ら、小腰を屈めて、「ちよいとお湯へ。」と云ツてから、ふと何か思ひ出して、肝を 潰した顏をして、周章てて、「それから、あの、若し御新造さまがお歸んなすツて、 御膳を召上ると仰しやツたら、お膳立をしてあの戸棚へ入れときましたから、どうぞ。 ……お孃さま、もう直ぐ宜うござんすか? それぢやア行ツてまゐります。」

 お勢は笑ひ出しさうな眼元で、じろり文三の顏を掠めながら、手ばしこく手で 持ツてゐた編物を奧座鋪へ投入れ、何やらお鍋に云ツて笑ひながら、面白さうに打連 れて出て行ツた。主從とは云ひながら、同じ程の年頃ゆゑ、雙方とも心持は朋友で。 尤も是は近頃かうなツたので、以前はお勢の心が高ぶツてゐたから、下女などには容 易に言葉をもかけなかツた。

 出て行くお勢の後姿を見送ツて、文三は莞爾した。如何してかう樣子が渝ツた のか、其を疑ツて居るに遑なく、ただ何となく、心嬉しくなツて莞爾した。それから は、例の妄想が、勃然と首を擡げて、抑へても抑へ切れぬやうになり、種々の取留も 無い事が、續々胸に浮んで、遂には、總て、此頃の事は、皆文三の疑心から出た暗鬼 で、實際はさして心配する事でも無かツたか、とまで思ひ込んだ。が、また、心を取 直して考へてみれば、故無くして文三を辱めたといひ、母親に忤ひながら、何時しか 其のいふなりに成ツたといひ、それほどまで親しかツた昇と、我に疎々敷なツたとい ひ――どうも、常事でなくも思はれる。ト思へば、喜んで宜いものか、悲んで宜いも のか、殆ど我にも胡亂になツて來たので、宛も遠方から撩る眞似をされたやうに、思 ひ切ツては笑ふ事も出來ず、泣く事も出來ず。快と不快との間に心を迷はせながら、 暫く縁側を往きつ戻りつしてゐた。が、兎に角物を云ツたら、聞いてゐさうゆゑ、今 にも歸ツて來たら、今一度運を試して、聽かれたら其通り、若し聽かれん時には、其 時こそ斷然叔父の家を辭し去らう。ト、遂にかう決心して、そして一先二階へ戻ツた。

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[14] GNBT reads ぴツしやり。.
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[15] GNBT reads「お前さんがお勢を踏付けたと、.
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[16] GNBT reads 自恣に挙動ふ。.