University of Virginia Library

14. 第十四囘

「氣の毒/\、」と思ひ寢に、うと/\として、眼を覺まして見れば、烏の啼聲、 雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶を軋らせる響、少し眠足りないが、無理に起きて下座 鋪へ降りてみれば、只、お鍋が睡むさうな顏をして、釜の下を焚付けてゐるばかり。 誰も起きてゐない。

 朝寢が持前のお勢、まだ臥てゐるは當然の事。とは思ひながらも、何となく物 足らぬ心地がする。早く顏が視たい。如何な顏をしてゐるか。顏を視れば、どうせ好 い心地がしないは知れてゐれど、それでゐて、只早く顏が視たい。

 三十分たち、一時間たつ。今に起きて來るかと思へば、肉癢ゆい。髮の寢亂れ た、顏の蒼ざめた、腫瞼の美人が始終眼前にちらつく。

 「昨日下宿しようと騒いだは、誰で有ツたらう、」と云ツたやうな顏色……。

 朝飯がすむ。文三は奧座鋪を出ようとする。お勢は其頃になツて、漸々起きて 來て、入らうとする。――縁側でぴツたり出會ツた。……ハツと狼狽へた文三は、豫 て期した事ながら。それに引替へて、お勢の澄ましやうは。ジロリと文三を尻目に懸 けたまゝ、奧座鋪へツイとも云はず入ツて仕舞ツた。只それだけの事で有ツた。

 が、それだけで十分。そのジロリと視た眼付が、眼の底に染付いて、忘れよう としても忘れられない。胸は痞へた。氣は結ぼれる。搗てて加へて、朝の薄曇りが、 晝少し下る頃より、雨となツて、びしよびしよと降り出したので、氣も消える許り。

 お勢は、氣分の惡いを口實にして、英語の稽古にも往かず、只一間に籠ツたぎ り、音沙汰なし。晝飯の時、顏を合はしたが、お勢は成り丈け文三の顏を見ぬやうに してゐる。偶々眼を視合はせれば、すぐ首を据ゑて、可笑しく澄ます。それが睨付け られるより、文三には辛い。雨は歇まず。お勢は濟まぬ顏を。家内も濕り切ツて、誰 とて口を利く者も無し。文三、果は泣き出したくなツた。

 心苦しい其日も暮れて、やゝ雨はあがる。昇は遊びに來たが、門口で華やかな 聲。お鍋のけたゝましく笑ふ聲が聞える。お勢は、其時、奧座鋪に居たが、それを聞 くと、狼狽へて、起上らうとしたが、間に合はず。――氣輕に入ツて來る昇に視られ て、さも餘儀なささうに又坐ツた。

 何も知らぬから、昇、例の如く、好もしさうな目付をして、お勢の顏を視て、 挨拶よりまづ戲言をいふ。お勢は莞爾ともせず、眞面目な挨拶をする。――彼此齟齬 ふ。から、昇も怪訝な顏色をして、何か云はうとしたが、突然お政が、三日も物を云 はずにゐたやうに、たてつけて、饒舌り懸けたので、ツイ紛らされて其方を向く。其 間に、お勢は、こツそり起上ツて、座鋪を滑り出ようとして……見付けられた。

「何處へ、勢ちやん?」

 けれども、聞えませんから、返答を致しません、と云はぬ許りで、お勢は座鋪 を出て仕舞ツた。

 部屋は眞の闇。手探りで摺附木だけは探り當てたが、洋燈が見付からない。大 方お鍋が忘れて、まだ持ツて來ないので有らう。「鍋や、」と呼んで、少し待ツてみ て、又「鍋や……。」返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけに呼んでも、返答をし ない。焦燥きツてゐると、氣の拔けたころに、間の拔けた聲で、

「お呼びなさいましたか!」

「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものヲ。」

「だツて、お奧で御用をしてゐたンですものヲ。」

「用をしてゐると、返答は出來なくツて?」

「御免遊ばせ……何か御用?」

「用が無くツて呼びはしないよ。……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるの がわかツ(分ら)なツかえツ?」

 二三度聞直して、漸く分ツて、洋燈は持ツて來たが、心無し奴が、跡をも閉め ずして出て往ツた。

「ばか。」

 顏に似合はぬ惡體を吐きながら、起立ツて邪慳に障子を〆切り、再び机の邊に 坐る間もなく、折角〆めた障子をまた開けて、……己れ、やれ、もう堪忍が……と振 反ツてみれば、案外な母親。お勢は急に他處を向く。

「お勢、」と小聲ながらに、力瘤を込めてお政は呼ぶ。此方は、なに、返答をす るものか、と力んだ(?)面相。

「何だと云ツて、彼樣なをかしな處置振りをお爲だ? 本田さんが、何とか思ひ なさらアね。彼方へお出でよ。」

 と暫く待ツてゐてみたが、動きさうにも無いので。

 又聲を勵まして、

「よ。お出でと云ツたら、お出でよ。」

「其位なら、彼樣な事云はないがいゝ……。」

 と、差俯向く。其顏を窺けば、おや/\泪ぐんで……。

「ま、呆れけエツちまはア!」と母親はあきれけエツちまツた。「たンとお脹 れ。」

 とは云ツたが、又折れて、

「世話ア燒かせずと、お出でよ。」

 返答なし。

「えゝ、も、じれツたい! 勝手にするがいゝ!」

 其儘、母親は、奧座鋪へ還ツて仕舞ツた。

 これで座鋪へ還る綱も截れた。求めて截ツて置きながら、今更惜しいやうな、 じれツたいやうな、をかしな顏をして、暫く待ツてゐてみても、誰も呼びに來ても呉 れない。また呼びに來たとて、おめ/\還られもしない。それに奧座鋪では、想像の ない者共が打揃ツて、噺すやら、笑ふやら……。癇癪紛れにお勢は色鉛筆を執ツて、 まだ眞新らしなスウヰントンの文典の表紙を、ごし/\擦り始めた。不運なるスウヰ ントンの文典!

 表紙が大方眞青になツたころ、ふと、縁側に跫音。……耳を聳てて、お勢はは ツと狼狽へた……。手ばしこく文典を開けて、倒しまになツてゐるとも心附かで、ぴ ツたり眼で喰込んだ。トント、先刻から書見してゐたやうな面相をして。

 すらりと障子が開く。文典を凝視めたまゝで、お勢は少し震へた。遠慮氣もな く、無造作に入ツて來た者は、云はでも知れた昇。華美な、輕い調子で、「遁げたね、 色男子が來たと思ツて。」

 ト云はして置いて、お勢は漸く、重さうに首を揚げて、世にも落着いた聲で、 さも膠なく、

「あの、失禮ですが、まだ明日の支度をしませんから……。」

 けれども、敵手が敵手だから、一向利かない。

「明日の支度? 明日の支度なぞは、如何でも宜いさ。」

 と、昇は、お勢の傍に陣を取ツた。

「眞個に、まだ……。」

「何をさう拗捩たんだらう? 令慈に叱られたね? え、然うでない。はてな。」

 ト首を傾けるより、早く横手を拍ツて、

「あ、あ、わかツた、成、成、それで……。それならさうと、早く一言云へば いゝのに……。なんだらう。大方かく申す拙者奴に……ウ……ウと云ツたやうな譯な んだらう? 大蛤の前ぢやア口が開きかねる。――これやア尤もだ。そこで釣寄せて 置いて……ほん、ありがた山の蜀魂、一聲漏らさうとは嬉しいぞエ/\。」

 ト妙な身振りをして、

「それなら、實は此方も、疾から其氣ありだから。それ、白癡が出來合靴を買ふ のぢやないが、しツくり嵌まるといふもんだ。嵌まると云へば、邪魔の入らない内だ。 ちよツくり抱ツこのぐい極めと往きやせう。」

 ト白けた聲を出して、手を出しながら、摺寄ツて來る。

「明日の支度が……。」

 トお勢は泣聲を出して、身を縮ませた。

「ほい、間違ツたか。失敗々々。」

 何を云ツても、敵手にならぬのみか、此上手を附けたら、雨になりさうなので、 流石の本田も少し持あぐねた所へ、お鍋が呼びに來たから、それを幸ひにして、奧座 鋪へ還ツて仕舞ツた。

 文三は昇が來たから、安心を失くして、起ツて見たり、坐ツて見たり、我他彼 此するのが薄々分るので、彌々以て堪らず、無い用を拵へて、此時二階を降りて、お 勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、拔足をして障子の間隙から内を窺いて、 はツと顏。お勢が伏臥になツて泣……い……て……。

 Explanation.(示談)と一時に胸で破裂した……。