University of Virginia Library

15. 第十五回

 Explanation.(示談)と肚を極めてみると、大きに胸が透いた。己れの打解けた 心で推測るゆゑ、左程に難事とも思へない。もう些しの辛抱、と、哀む可し、文三は 眠らでとも知らず夢を見てゐた。

 機會を窺てゐる二日目の朝、見知り越しの金貸が來て、お政を連出して行く。 時機到來……今日こそは、と領を延ばしてゐるとも知らずして、歸ツて來たか、下女 部屋の入口で、「慈母さんは?」ト優しい聲。

 其聲を聞くと均しく、文三、起上りは起上ツたが、据ゑた胸も率となれば躍る。 前へ一歩、後へ一歩、躊躇ひながら二階を降りて、ふいと縁を廻つて見れば、部屋に と許り思ツてゐたお勢が、入口の柱に靠着れて、空を向上げて物思ひ顏……。ハツと 思ツて、文三立ち止まツた。お勢も、何心なく振り反ツてみて、急に顏を曇らせる… …。ツと部屋へ入ツて、跡

[_]
[14]びツしやり。
障子は柱と額合 せをして、二三寸跳ね返ツた。

 跳ね返ツた障子を文三は恨めしさうに凝視めてゐたが、軈て思ひ切りわるく、 二歩三歩 わなゝく手頭を引手へ懸けて、胸と共に障子を躍らしながら、開けてみれ ば、お勢は机の前に端坐ツて、一心に壁と睨め競。

「お勢さん。」

 と瀬蹈をしてみれば、愛度氣なく返答をしない。危きに慣れて縮めた膽を少し 太くして、また、

「お勢さん。」

 また返答をしない。

 此分なら、と文三は取越して安心をして、莞爾々々しながら、部屋へ入り、好 き程の處に座を占めて、

「少しお噺が……。」

 此時になツて、お勢は初て、首の筋でも蹙ツたやうに、徐々顏を此方へ向け、 可愛らしい眼に角を立てて、文三の樣子を見ながら、何か云ひたさうな口付をした。 今打たうと振上げた拳の下に立ツたやうに、文三はひやりとして、思はず一生懸命に、 お勢の顏を凝視めた。けれども、お勢は何とも云はず、また向うを向いて仕舞ツたの で、やゝ顏を霽らして、極りわるさうに莞爾々々しながら、

「此間は誠にどう……。」

 も、と云ひ切らぬうち、ツと起上ツたお勢の體が……、不意を打たれて、ぎよ ツとする。女帶が、友禪染の、眼前にちら/\……はツと心附く……我を忘れて、し ツかり捉へた、お勢の袂を……。

「何をなさるんです?」

 ト慳貪に云ふ。

「少しお噺……お……。」

「今、用が有ります。」

 邪慳に袂を振拂ツて、ツイと、部屋を出て仕舞ツた。

 其跡を眺めて、文三は呆れた顏。……「此期を外しては……、」と心附いて、 起ち上りてはみたが、正可、跡を慕ツて往かれもせず。萎れて二階へ、孤鼠々々と歸 ツた。

「失敗ツた。」ト口へ出して後悔して、後れ馳せに赤面。「今にお袋が歸ツて來 る。慈母さん此々の次第……。失敗ツた、失策ツた。」

 千悔萬悔、臍を噬んでゐる胸元を、貫くやうな午砲の響。それと同時に「御膳 で御座いますよ。」けれど、ホイ來たと、云ツて降りられもしない 二三度呼ばれて、 據ろ無く、薄氣味わる/\降りてみれば、お政はもう歸ツてゐて、娘と取膳で、今、 食事最中。文三は默禮をして膳に向ツた。「もう咄したか、まだ咄さぬか。」ト思へ ば胸も落着かず。臆病で、好事な眼を、額越にそツと親子へ注いでみれば、お勢は澄 ました顏。お政は意味の無い顏。咄したとも付かず、咄さぬとも付かぬ。

 壽命を縮めながら、食事をしてゐた。

「そら/\、氣をお付けなね。子供ぢやア有るまいし。」

 ふと轟いたお政の聲に、怖氣の付いた文三ゆゑ、吃驚して首を揚げてみて、安 心した。お勢が誤まつて、茶を膝に滴したので有ツた。

 氣を附けられたから、と云ふ、えこぢな顏をして、お勢は澄ましてゐる。拭き もしない。「早くお拭きなね。」と母親は叱ツた。「膝の上へ茶を滴して、ぽかんと 見てエる奴が有るもんか。三歳兒ぢやア有るまいし、意氣地の無いにも方圖が有ツた もんだ。」

 最早斯う成ツては、穩かに收まりさうもない。默ツても視てゐられなくなツた から、お鍋は一とかたけ頬張ツた飯を鵜呑にして、「はツ、はツ。」と笑ツた。同じ 心に文三も「へ、へ。」と笑ツた。

 するとお勢は佶と振向いて、可畏らしい眼付をして、文三を睨め出した。その 容子が常で無いから、お鍋はふと笑ひ罷んで、もツけな顏をする。文三は色を失ツた ……。

「どうせ、私は、意氣地が有りませんのさ、」とお勢はじぶくりだした。誰に向 ツて云ふともなく、「笑ひたきやア澤山お笑ひなさい。……失敬な、人の叱られるの が、何處が可笑しいんだらう? げた/\/\/\。」

「何だよ、やかましい! 言草云はずと、早々と拭いてお仕舞ひ。」

 ト母親は火鉢の布巾を放げ出す。けれども、お勢は手にだも 觸れず、

「意氣地がなくツたツて、まだ、自分が云ツたことを、忘れるほど耄碌はしませ ん。餘計なお世話だ。人の事よりか自分の事を考へてみるがいゝ。男の口から最う口 も利かないぞツて、云ツて置きながら……」

「お勢!」

 ト一句に力を籠めて、制する母親。その聲も、もう斯う成ツては、耳には入ら ない。文三を尻眼に懸けながら、お勢は切齒をして、

「まだ三日も經たないうちに、人の部屋へ……」

「これ、どうしたもんだ。」

「だツて私ア腹が立つものを。人の事を浮氣者だなんぞツて、罵ツて置きながら、 三日も經たないうちに、人の部屋へつか/\入ツて來て、……人の袂なんぞ捉へて、 咄が有るだの、何だの、種々な事を云ツて……なんぼ何だツて、餘り人を輕蔑した… …云ふ事が有るなら、?處でいふがいい。慈母さんの前で云へるなら、云ツて みるがいゝ……。」

 留めれば留めるほど、尚ほ喚く。散々喚かして置いて、最う好い時分と成ツて から、お政が「彼方へ。」と頤でしやくる。しやくられて、放心して、人の 顏ばかり視てゐたお鍋は初て心附き、倉皇てて箸を棄てて、お勢 の傍へ飛んで來て、いろ/\に賺かして、連れて行かうとするが、仲々素直に連れて 行かれない。

「いゝえ、放擲ツといとくれ、何だか云ふ事が有るツていふンだから、それを… …聞かないうちは……いゝえ、私や、……あんまり人を輕蔑した……いゝえ。其處お 放しよ、……お放しツてツたら、お放しよツ。……」

 けれども、お鍋の腕力には敵はない。無理無體に引立てられ、がや/\喚きな がらも、座鋪を連れ出されて、稍部屋へ收まツたやうす。

 となツて、文三初て人心地が付いた。

 いづれ當擦りぐらゐは、有らうとは思ツてゐたが、かうまで とは思ひ掛けなかツた。晴天の霹靂、思ひの外なのに度肝を拔かれて、腹を立てる遑 も無い。腦は亂れ、神經は荒れ、心神錯亂して、是非の分別も付かない。只さしあた ツた面目なさに、消えも入りたく思ふばかり。叔母を觀れば、薄氣味わるく、にやり としてゐる。此儘にも置かれない、……から、餘儀なく、叔母の方へ膝を押向け、お ろおろしながら、

「實に……どうも、す、す、濟まんことをしました。……まだお咄はいたしませ んでしたが、一昨日お勢さんに……。」

 ト云ひかねる。

「其事なら、ちらと聞きました、」と叔母が受取ツて呉れた。

「それはあゝした我儘者ですから、定めしお氣に障るやうな事もいひましたらう から……。」

「いや、決してお勢さんが……。」

「それやアもう、」と一越調子高に云ツて、文三を云ひ消して仕舞ひ、また聲を 竝に落して、お叱んなさるも、彼の身の爲めだから、いゝけれども、只まだ婚嫁前の 事てすから、彼樣な者でもね、餘り身體に疵の……。」

「いや、私は決して、……其樣な……。」

「だからさ、お云ひなすツたとは、云はないけれども、是からも有る事だから、 おねがひ申して置くンですよ。わるくお聞きなすツちやアいけないよ。」

 ぴツたり釘を打たれて、ぐツとも云へず、文三は、只、口惜しさうに、叔母の 顏を視詰めるばかり。

「子を持ツてみなければ、分らない事だけれども、女の子といふものは、嫁ける までが心配なものさ。それやア、人樣にやア、彼樣な者を如何なツても、よささうに 思はれるだらうけれども、親馬鹿とは旨く云ツたもンで、彼樣な者でも子だと思へば、 有りもしねえ惡名つけられて、ひよツと縁遠くでもなると、厭なものさ。それに誰に しろ、踏付けられゝやア、あンまり好い心持もしないものさ。ねえ、文さん。」

 もウ、文三、堪りかねた。

「す、す、それぢや何ですか。……私が……私が、お勢さんを踏付けたと仰しや るンですかツ?」

「可畏い事をお云ひなさるねえ。」ト、お政はおそろしい顏になツた。

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[15]「お前さんがトお勢を踏付けたと、
誰が云ひました? 私ア自 分にも覺えが有るから、只の世間咄に、踏付けられたと思ふと厭なもンだ、と云ツた 許しだよ。それを其樣な云ひもしない事をいツて、……あゝ、なンだね、お前さん、 云ひ掛りをいふんだね? 女だと思ツて。其樣な事を云ツて、人を困らせる氣だね?」

 と層に懸ツて極付ける。

「あゝわるう御座んした……、」ト文三は、狼狽てて謝罪ツたが、口惜し涙が承 知をせず、兩眼に一杯溜るので、顏を揚げてゐられない。差俯向いて、「私が……わ るう御座んした……。」

「さうお云ひなさると、さも私が難題でもいひだしたやうに、聞えるけれども、 なにも然う遁げなくツてもいゝぢやないか。其樣な事を云ひ出すからにやア、お前さ んだツて、何か譯が無くツちやア、お云ひなさりもすまい?」

「私がわるう御座んした……。」ト差俯向いたまゝで、重ねて謝罪ツた。「全く 其樣な氣で、申した譯ぢやア有りませんが……お、お、思違ひをして……ツイ……失 禮を申しました……。」

 かう云はれては、流石のお政も、最う噛付きやうが無い、と見えて、無言で、 暫く、文三を睨めるやうに視てゐたが、頓て、

「あゝ厭だ、/\、」と顏を皺めて、「此樣な厭な思ひをするも、皆彼奴のお蔭 だ。どれ、」ト起ち上ツて、「往ツて土性骨を打挫いてやりませう。」

 お政は、座鋪を出て仕舞ツた。

 お政が座鋪を出るや、否や、文三は今迄の溜涙を、一時にはら/\と落した。 たゞ其儘、さしうつむいた儘で、良久くの間、起ちも上がらず、身動きもせず、默然 として坐ツてゐた。が、そのうちに、お鍋が歸ツて來たので、文三も、餘儀なく、う つむいたまゝで、力無ささうに起ち上り、悄々我部屋へ戻らうとして、梯子段の下ま で來ると、お勢の部屋で、さも意地張ツた聲で、

「私やアもう、家に居るのは厭だ/\。」