University of Virginia Library

7. 第七囘 團子坂の觀菊 上

 日曜日は、近頃に無い天下晴。風も穩かで塵も立たず、暦を繰つて見れば、舊 暦で菊月初旬といふ十一月二日の事ゆゑ、物觀遊山には、持ツて來いと云ふ日和。

 園田一家の者は、朝から觀菊行の支度とりどり。晴衣の裄丈を氣にしてのお勢 のじれこみが、お政の癇癪と成ツて、廻りの髮結の來やうの遲いのが、お鍋の落度と なり、究竟は萬古の茶瓶が生れも付かぬ缺口になるやら、架棚の擂鉢が獨手に駈出す やら、ヤツサモツサ捏返してゐる處へ、生憎な來客、加之も名打の長尻で、アノ只今 から團子坂へ參らうと存じて、トいふ言葉にまで、力瘤を入れて見ても、まや藥ほど も利かず、平氣で濟まして、便々とお神輿を据ゑてゐられる。そのじれツたさ、もど かしさ。それでも宜くしたもので、案じるよりも産むが易く、客も其内に歸れば、髮 結も來る。其處で、ソレ、支度も調ひ、十一時頃には家内も漸く靜まツて、折節には 高笑ひがするやうになツた。

 文三は拓落失路の人、仲々以て觀菊などといふ空は無い。それに昇は花で言へ ば、今を春邊と咲誇る櫻の身、此方は日蔭の枯尾花。到頭楯突く事が出來ぬ位なら、 打たせられに行くでも無いと、境涯に隨れて僻みを起し、一昨日昇に誘引れた時、既 にキツパリ辭ツて行かぬと決心したからは、人が騒がうが騒ぐまいが、隣家の疝氣で 關係のない噺。ズツと澄まして居られさうなものの、扨居られぬ。嬉しさうに、人の そはつくを見るに付け、聞くに付け、またしても昨日の我が憶出されて、五月雨頃の 空と濕る、歎息もする、面白くも無い。

 ヤ、面白からぬ。文三には、昨日お勢が「貴君もお出でなさるか、」ト尋ねた 時、「行かぬ、」ト答へたら、「ヘー然うですか、」ト平氣で澄まして落着拂つてゐ たのが面白からぬ。文三の心持では、成らう事なら、行けと勸めて貰ひ度かツた。そ れでも尚ほ強情を張ツて行かなければ、「貴君と御一所でなきやア、私も罷しませ う、」とか、何とか言ツて貰ひ度かツた……。

「しかし、是りやア嫉妬ぢやない……。」

 ト不圖何歟憶出して、我と我に分疏を言ツて見たが、また何處歟、くすぐられ るやうで……不安心で。

 行くも厭なり、留まるも厭なりで、氣がムシヤクシヤとして癇癪が起る。誰れ と云ツて取留めた相手は無いが、腹が立つ。何か火急の要事が有るやうで、また無い やうで、無いやうで、また有るやうで、立ツても居られず、坐ツてもゐられず。如何 しても、斯うしても、落着かれない。

 落着かれぬ儘に、文三が、チト讀書でもしたら紛れようか、と書函の書物を手 當放題に取出して讀みかけて見たが、いツかな爭な紛れる事でない。小六ケ敷い面相 をして、書物と疾視競をした所はまづ宜かツたが、開卷第一章の第一行目を反覆讀過 して見ても、更に其意義を解し得ない。其癖、下座鋪でのお勢の笑聲は意地惡くも善 く聞えて、一囘聞けば則ち耳の洞の主人と成ツて暫くは立ち去らぬ。舌皷を打ちなが ら、文三が腹立たしさうに書物を擲出して、腹立たしさうに机に靠着ツて、腹立たし さうに頬杖を杖き、腹立たしさうに何處ともなく凝視めて、……フトまた起直ツて、 蘇生ツたやうな顏色をして、

「モシ罷めになツたら……。」

 と取外して言ひかけて、忽ハツと心付き、周章てて口 を鉗んで、吃驚して狼狽して遂に憤然となツて、「畜生、」と言ひざま、拳を振擧げ て我と我を威して見たが、惡戯な蟲奴は心の底で、まだ……矢張……。

 しかし、生憎故障も無かツたと見えて、昇は一時頃に參ツた。今日は故意と日 本服で、茶の絲織の一つ小袖に、黒七子の羽織、帶も何歟乙なもので、相變らず立と した服飾。梯子段を踏轟かして上ツて來て、挨拶をもせずに、突如まづ大胡坐。我鼻 を視るのかと、怪しまれる程の下眼を遣ツて、文三の顏を視ながら、

「どうした、土左的宜敷といふ顏色だぜ。」

「少し頭痛がするから。」

「然うか。尼御臺に油を取られたのでもなかツたか、アハハヽヽ。」

 チヨイと云ふ事からして、まづ氣に障る。文三も怫然とはしたが、其處は内氣 だけに、何とも言はなかツた。

「どうだ、如何しても往かんか。」

「まづ、よさう。」

「剛情だな。……ゴジヤウだからお出でなさいよぢや無いか。アハヽヽヽ……と、 獨りで笑ふほかまづ仕樣が無い、何を云ツても先樣にやお通じなしだ、アハヽヽ。」

 戯言とも附かず、罵詈とも附かぬ、曖昧なお饒舌に、暫く時刻を移してゐると、 忽ち梯子段の下に、お勢の聲がして、

「本田さん。」

「何です。」

「アノ、車が參りましたから、よろしくば。」

「出懸けませう。」

「それではお早く。」

「チヨイと、お勢さん。」

「ハイ。」

「貴孃と合乘なら行ツても宜いといふのがお一方出來たが、承知ですかネ。」

 返答は無く、唯バタ/\と駈出す足音がした。

「アハヽヽ、何にも言はずに逃出すなぞは、未だしをらしいよ。」

 ト言ツたのが文三への挨拶で、昇は其儘起上ツて、二階を降りて往ツた跡を見 送りながら、文三がさも/\苦々しさうに、口の中で、

「馬鹿奴……。」

 ト言ツた其聲が、未だ中有に徘徊ツてゐる内に、フト、今年の春、向島へ櫻觀 に往ツた時のお勢の姿を憶出し、如何いふ心計か蹶然と起き上り、キヨロ/\と四邊 を環視して、火入に眼を注けたが、おもひ直して舊の座になほり、また苦々しさうに、

「馬鹿奴。」

 是は自ら叱責ツたので。

 午後はチト風が出たが、ます/\上天氣。殊には日曜と云ふので、團子坂近傍 は、花觀る人が道去り敢ぬばかり、イヤ出たぞ/\、束髮も出た、島田も出た、銀杏 返しも出た、丸髷も出た、蝶々髷も出た、おケシも出た。〇〇會幹事、實は古猫の怪 といふ、鍋島騒動を生で見るやうなマダム某も出た。芥子の實ほどの眇少しい知慧を 兩足に打ち込んで、飛んだり跳ねたりを夢にまで見るミス某も出た。お乳母も出た、 お爨婢も出た。ぞろりとした半元服、一夫數妻論の未だ行はれる證據に上りさうな婦 人も出た。イヤ出たぞ/\、坊主も出た、散髮も出た、五分刈も出た、チヨン髷も出 た。天帝の愛子、運命の寵臣、人の中の人、男の中の男と世の人の尊重の的、健羨の 府となる昔の所謂お役人樣、今の所謂官員さま、後の世になれば社會の公僕とか、何 とか名告るべき方々も出た。商賣も出た、負販の徒も出た。人の横面を打曲げるが主 義で身を忘れ家を忘れて拘留の辱に逢ひさうな毛臑暴出しの政治家も出た。猫も出た、 杓子も出た。人樣々の顏の相好、おもひおもひの結髮風姿。聞覩に聚る衣香襟影は、 紛然、雜然として千態萬状、なツかなか以て一々枚擧するに遑あらずで、それに此邊 は道巾が狹隘いので、尚一段と雜沓する。そのまた中を、合乘で乘切る心無し奴も難 有の君が代に、その日活計の土地の者が、摺附木の函を張りながら、往來の花觀る人 をのみ眺めて、遂に眞の花を觀ずに仕舞ふ歟、とおもへば。實に浮世はいろ/\さ ま%\。

 さてまた

[_]
[9]圍子坂
の景況は、例の招牌から釣込む植木屋 は、家々の招きの旗幟を飜翻と金風に飄し、木戸々々で客を呼ぶ聲は、彼此からみ合 ツて亂れ合ツて、入我我入でメツチヤラコ、唯逆上ツた木戸番の口だらけにした面が 見える而已で、何時見ても變ツた事もなし。中へ這入ツて見ても矢張その通りで。

 一體全體、菊といふものは、一本の淋敷きにもあれ、千本、八千本の賑敷きに もあれ、自然の儘に生茂ツてこそ見處の有らうものを、それを此邊の菊のやうに、斯 う無殘無殘と作られては、興も明日も覺めるてや。百草の花のとぢめと律義にも衆芳 に後れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて、小兒騙欺の木偶の衣裳、 洗張りに糊が過ぎてか、何處へ觸ツてもゴソ/\として、ギコチ無ささうな風姿も、 小言いツて觀る者は、千人に一人か二人。十人が十人、まづ花より團子を思詰めた顏 色、去りとはまた苦々しい。ト何處かの隱居が、菊細工を觀ながら、愚癡を滴したと 思食せ。(看官)何だ、つまらない。

 閑話不題。

 轟然と飛ぶが如くに驅來ツた二臺の腕車が、

[_]
[10]ビツタリと
停止る。車を下りる男女三人の者は、お馴染の昇とお勢親子の者で。

 昇の服裝は前文にある通り。

 お政は鼠微塵の絲織の一つ小袖に、黒唐繻子の丸帶。襦袢の半襟も、黒縮緬に 金絲でバラリと縫の入ツた奴か何歟で、まづ氣の利いた服飾。

 お勢は黄八丈の一つ小袖に、藍鼠金入繻珍の丸帶。勿論下にはお定りの緋縮緬 の等身襦袢、此奴も金絲で縫の入ツた、水淺黄縮緬の半襟をかけた奴で、帶上はアレ は時色縮緬。統括めて云へば、まづ上品なこしらへ。しかし、人足の留まるは、衣裳 附よりは寧ろその態度で、髮も例の束髮ながら、何とか結びとかいふ手のこんだ束ね 方で、大形の薔薇の花插頭を插し、本化粧は自然に背くとか云ツて、薄化粧の清楚な 作り、風格

[_]
[11]ぼう
神共に優美で。

「色だ。ナニ夫婦サ。」ト法界悋氣の岡燒連が、目引き袖引き取々に評判するを 漏れ聞く毎に、昇は得々として機嫌顏。是れ見よがしに母子の者を其處此處と植木屋 を引廻しながらも、片時と默してはゐない。人の傍聞するにも關はず、例の無駄口を のべつに竝べ立てた。

 お勢は、今日は取分け晴れた面相で、宛然籠を出た小鳥の如くに、言葉は勿論、 歩風身體のこなしまで、何處ともなく活々とした所が有ツて、冴が見える。昇の無駄 を聞いては、可笑しがツて絶えず笑ふが、それもさうで、強ち昇の言ふ事が可笑しい からではなく、默ツてゐても自然と可笑しいから、それで笑ふやうで。

 お政は、菊細工には甚だ冷淡なもので、唯「綺麗だことネー、」ト云ツて、ズ ラリと見亙すのみ。さして眼を注める樣子もないが、その代り、お勢と同年配頃の娘 に逢へば、丁寧にその顏貌、風姿を研究する。まづ最初に容貌を視て、次に衣服を視 て、帶を視て、爪端を視て、行過ぎてから、ズーと後姿を一瞥して、また帶を視て、 髮を視て、其跡でチヨイとお勢を横眼で視て、そして澄まして仕舞ふ。妙な癖も有れ ば有るもので。

 昇等三人の者は、最後に坂下の植木屋へ立寄ツて、次第次第に見物して、とあ る小舎の前に立止ツた。其處に飾り付けて在ツた木像の顏が、文三の欠伸をした面相 に酷く肖てゐるとか昇の云ツたのが可笑しいといツて、お勢が嬌面に袖を加てて、勾 欄におツ被さツて笑ひ出したので、傍に鵠立んでゐた書生體の男が、俄に此方を振向 いて、愕然として眼鏡越しにお勢を凝視めた。「みツともないよ、」と母親ですら小 言を言ツた位で。

 漸くの事で笑ひを留めて、お勢がまだ莞爾莞爾と微笑のこびり付いてゐる貌を 擡げて、傍を視ると、昇は居ない。「オヤ。」と云つて、キヨロキヨロと四邊を環視 して、お勢は忽ち眞面目な貌をした。

 只見れば、後の小舎の前で、昇が磬折といふ風に腰を屈めて、其處に鵠立んで ゐた洋裝紳士の背に向ツて、荐りに禮拜してゐた。されども紳士は一向心附かぬ樣子 で、尚ほ彼方を向いて鵠立んでゐたが、再三再四虚辭儀をさしてから、漸くにムシヤ クシヤと頬髯の生弘がツた、氣六ケ敷い貌を此方へ振り向けて、昇の貌を眺め、莞然 ともせず、帽子も被ツた儘で、唯鷹揚に點頭すると、昇は忽ち平身低頭、何事をか 喃々と言ひながら、續けざまに二つ三つ禮拜した。

 紳士の隨伴と見える兩人の婦人は、一人は今樣おはつとか稱へる、突兀たる大 丸髷。今一人は落雪とした妙齡の束髮頭。孰れも水際の立つた玉揃ひ。面相といひ、 風姿といひ、如何も姉妹らしく見える。昇はまづ丸髷の婦人に一禮して、次に束髮の 令孃に及ぶと、令孃は狼狽てて卒方を向いて禮を返して、サツと顏を赧めた。

 暫く立在んでの談話。間が隔離れてゐるに、四邊が騒がしいので、其の言ふ事 は能く解らないが、なにしても昇は絶えず口角に微笑を含んで、折節に手眞似をしな がら、何事をか喋々と饒舌り立ててゐた。其の内に、何か可笑しな事でも言ツたと見 えて、紳士は俄然大口を開いて、肩を搖ツて、ハツハツと笑ひ出し、丸髷の夫人も口 頭に皺を寄せて笑ひ出し、束髮の令孃もまた莞爾笑ひかけて、急に袖で口を掩ひ、額 越に昇の貌を眺めて眼元で笑ツた。身に餘る面目に、昇は得々として滿面に笑ひを含 ませ、紳士の笑ひ罷むを待ツて、また何か饒舌り出した。お勢母子の待ツてゐる事は 全く忘れてゐるらしい。

 お勢は、紳士にも、貴婦人にも、眼を注めぬ代り、束髮の令孃を穴の開く程目 守めて一心不亂、傍目を觸らなかツた、呼吸をも吻かなかツた。母親が物を言ひ懸け ても、返答をもしなかツた。

 其内に紳士の一行が、ドロ/\と此方を指して來る容子を見て、お政は、茫然 としてゐたお勢の袖をはしく曳搖かして、疾歩に外面へ立 ち出で、路傍に鵠立んで待合はせてゐると、暫くして昇も紳士の後に隨ツて出て參り、 木戸口の處でまた更に小腰を屈めて、皆其々に分袂の挨拶、丁寧に、慇懃に、喋々し く陳べ立てて、さて別れて、獨り此方へ兩三歩來て、フト何か憶出したやうな面相を して、キヨロキヨロと四邊を環視した。

「本田さん、此處だよ。」

 ト云ふお政の聲を聞付けて、昇は急足に傍へ歩寄り、

「ヤ、大にお待遠。」

「今の方は。」

「アレが課長です。」

 ト云ツて、如何した理由か、莞爾々々と笑ひ、

「今日來る筈ぢや無かツたんだが……。」

「アノ、丸髷に結ツた方は、あれは夫人ですか。」

「然うです。」

「束髮の方は。」

「アレですか、ありや……。」

 ト言ひかけて、後を振返ツて見て、

「細君の妹です。……内で見たよりか、餘程別嬪に見える。」

「別嬪も別嬪だけれども、好いお服飾ですことネー。」

「ナニ、今日は彼樣なお孃樣然とした風をしてゐるけれども、家にゐる時は疎末 な衣服で、侍婢がはりに使はれてゐるのです。」

「學問は出來ますか。」

 ト突然、お勢が尋ねたので、昇は愕然として、

「エ 學問。……出來るといふ噺も聞かんが、……それとも出來るかしらん。此 間から課長の處に來てゐるのだから、我輩もまだ、深くは情實を知らないのです。」

 ト聞くと、お勢は忽ち、眼元に冷笑の氣を含ませて、振返ツて、今將に坂の半 腹の植木屋へ、這入らうとする令孃の後姿を見送ツて、チヨイと我が帶を撫でて、而 して、ズーと澄まして仕舞つた。

 坂下に待たせて置いた車に乘ツて、三人の者はこれより上野の方へと參ツた。

 車に乘つてから、お政がお勢に向ひ、

「お勢、お前も今のお娘さんのやうに、本化粧にして來りやア、宜かツたのに ネー。」

「厭サ、彼樣な本化粧は。」

「オヤ何故エ。」

「だツて、厭味ツたらしいもの。」

「ナニ、お前、十代の内なら秋毫も厭味なこたア有りやしないわネ。アノ方が幾 程宜いか知れない、引立が好くツて。」

「フヽン、其樣に宜きやア、慈母さんお做なさいな。人が厭だといふものを、好 い/\ツて、可笑しな慈母さんだよ。」

「好いと思ツたから、唯好いぢや無いかと云ツたばかしだのに、それに其樣な事 いふツて、眞個に此娘は可笑しな娘だよ。」

 お勢は最早、辯難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言はずに默して仕舞 ツた。それからと云ふものは、鬱ぐのでもなく、萎れるのでも無く、唯何となく沈ん で仕舞ツて、母親が再び談話の墜緒を紹がうと試みても、相手にもならず、どうも乙 な鹽梅であツたが、しかし、上野公園に來着いた頃には、また口をきゝ出して、また 舊のお勢に立ち戻ツた。

 上野公園の秋景色。彼方此方に、むら/\と立駢ぶ老松奇檜は、柯を交へ葉を 折り重ねて、鬱蒼として翠も深く、觀る者の心までが蒼く染りさうなに引替へ、櫻杏 桃李の雜木は、老木稚木も押なべて、一樣に枯葉勝な立姿。見るからが、まづ、みす ぼらしい。遠近の木間隱れに立つ山茶花の一本は、枝一杯に花を持ツてはゐれど、 煢々として友欲し氣に見える。楓は既に紅葉したのも有り、まだしないのも有る。鳥 の音も時節に連れて、哀れに聞える、淋敷い。……ソラ、風が吹通る。一重櫻は戰慄 をして病葉を震ひ落し、芝生の上に散り布いた落葉は、魂の有る如くに立上りて、友 葉を追ツて舞ひ歩き、フトまた云合せたやうに、一齊にバラ/\と伏ツて仕舞ふ。滿 眸の秋色蕭條として、却却春のきほひに似るべくも無いが、しかし、さびた眺望で、 また一種の趣味が有る。團子坂へ行く者、歸る者が、?處で落合ふので、處々 に人影が見える、若い女の笑ひ動搖めく聲も聞える。

 お勢が散歩したい、と云ひ出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降り て、ブラ/\歩きながら、石橋を渡りて動物園の前へ出で、車夫には、「先へ往ツて、 觀音堂の下邊に待ツてゐろ、」ト命じて、其處から車に離れ、眞直に行ツて、矗立千 尺、空を摩でさうな杉の樹立の間を通拔けて、東照宮の側面へ出た。

 折しも其處の裏門よりLet us go on(行かう)と、「日本の」と冠詞の付く英語 を叫びながらピヨツコリ飛び出した者が有る。只見れば軍艦羅紗の洋服を着て、金鍍 金の徽章を附けた大黒帽子を仰向けざまに被ツた、年の頃十四歳許りの、栗蟲のやう に肥ツた少年で、同遊と見える同じ服裝の少年を顧みて、

「ダガ、何歟食度くなツたなア。」

「食度くなツた。」

「食度くなツてもか……。」

 ト愚癡ツぽく言懸けて、フトお政と顏を視合はせ、

「ヤ……。」

「オヤ、勇が……。」

 ト云ふ間もなく、少年は駈出して來て、狼狽てて昇に三つ四つ辭儀をして、サ ツと赤面して、

「母親さん。」

「何を狼狽ててゐるんだネー。」

「家へ往ツたら……鍋に聞いたら、文さんばツかしだツてツたから、僕ア……そ れだから……。」

「お前、モウ、試驗は濟んだのかエ。」

「ア、濟んだ。」

「如何だツたエ。」

「そんな事よりか、些し用が有るから……母親さん……。」

 ト心有氣に、母親の顏を凝視めた。

「用が有るなら、?處でお言ひな。」

 少年は横眼で、昇の顏をジロリと視て、

「チヨイと此方へ來てお呉れツてば。」

「フン、お前の用なら大抵知れたもんだ。また小遣ひが無いだらう。」

「ナニ、其樣な事ちやない。」

 ト云ツて、また昇の顏を横眼で視て、サツと赤面して、調子外れな高笑ひをし て、無理矢理に母親を引張ツて、彼方の杉の樹の下へ連れて參ツた。

 昇と、お勢は、ブラ/\と歩き出して、來るともなく往くともなしに、宮の背 後に出た。折柄四時頃の事とて、日影も大分傾いた鹽梅。立駢んだ樹立の影は、古廟 の築墻を斑に染めて、不忍の池水は、大魚の鱗かなぞのやうに燦く。ツイ眼下に、瓦 葺の大家根の、翼然として峙ツてゐるのが視下される。アレは大方馬見所の家根で。 土手に隱れて形は見えないが、車馬の聲が轆々として聞える。

 お勢は、大榎の根方の處で立止まり、翳してゐた蝙蝠傘をつぼめて、ヅイと一 通り四邊を見亙し、嫣然一笑しながら、昇の顏を窺き込んで、唐突に、

「先刻の方は、餘程別嬪でしたネー。」

「エ、先刻の方とは。」

「ソラ、課長さんの令妹とか仰しやツた。」

「ウー誰の事かと思ツたら、……然うですネー、隨分別嬪ですネ。」

「而して、家で視たよりか美しくツてネ。そんだもんだから……ネ……貴君もネ ……。」

 と、眼元と口元に一杯笑ひを溜めて、ヂツと昇の貌を凝視めて、さて、オ ホヽヽと吹溢した。

「アツ失策ツた、不意を討たれた。ヤ、どうもおそろ感心、手は二本切りかと思 ツたら、是れだもの、油斷も隙もなりやしない。」

「それに、彼孃も、オホヽヽ、何だと見えて、お辭儀する度に顏を眞赤にして、 オホヽヽヽヽ。」

「トたゝみかけて意地目つけるネ。よろしい、覺えてお出でなさい。」

「だツて、實際の事ですもの。」

「しかし、彼の娘が幾程美しいと云ツたツても、何處かの人にやア……兎ても。」

「アラ、よう御座んすよ。」

「だツて實際の事ですもの。」

「オホヽヽ直ぐ復讐して。」

「眞に、戲談は除けて……。」

 ト言懸ける折しも、官員風の男が、十許になる女の子の手を引いて來蒐ツて、 兩人の容子を不思議さうに、ジロジロ視ながら行過ぎて仕舞ツた。

 昇は再び言葉を續いで、

「戲談は除けて、幾程美しいと云ツたツて、彼樣な娘にやア、先方も然うだらう けれども、此方も氣が無い。」

「氣が無いから、横眼なんぞ遣ひはなさらなかツたのネー。」

「マアサ、お聞きなさい。彼の娘ばかりには限らない。どんな美しいのを視たツ ても、氣移りはしない。我輩にはアイドル(本尊)が一人有るから。」

「オヤ然う。それはお芽出度う。」

「所が一向お芽出度く無い事サ。所謂鮑の片思ひでネ、此方はそのアイドルの顏 を視度いばかりで、氣まりの惡いのも堪へて、毎日々々其家へ遊びに往けば、先方ぢ や五月蠅いと云ツたやうな顏をして、口も碌々きかない。」

 トあぢな眼付をして、お勢の貌をヂツと凝視めた。其の意を曉ツたか、曉らな いか、お勢は唯ニツコリして、

「厭なアイドルですネ。オホヽヽ。」

「しかし、考へて見れば此方が無理サ。先方には隱然亭主と云ツたやうな者が有 るのだから。それに……。」

「モウ何時でせう。」

「それに想を懸けるは、宜く無い/\と思ひながら、因果とまた思ひ斷る事が出 來ない。此頃ぢや夢にまで見る。」

「オヤ厭だ……モウ些と彼地の方へ行ツて見ようぢや有りませんか。」

「漸くの思ひで、一所に物觀遊山に出ると迄は、漕付けは漕付けたけれども、其 れもほんの一所に歩く而已で、慈母さんと云ふものが始終傍に附いてゐて見れば、思 ふ樣に談話もならず。」

「慈母さんと云へば、何を做てゐるのだらうネー。」

 ト背後を振返ツて觀た。

「偶々好機會が有ツて言ひ出せば、其通りとぼけてお仕舞ひなさるし、考へて見 ればつまらんナ。」

 ト愚癡ツぽくいツた。

「厭ですよ、其樣な戯談を仰しやツちや。」

 ト云ツて、お勢が莞爾々々と笑ひながら、此方を振向いて視て、些し眞面目な 顏をした。昇は萎れ返ツてゐる。

「戯談と聞かれちや填まらない。斯う言出す迄には、何位苦しんだと思ひなさ る。」

 ト昇は歎息した。お勢は眼睛を地上に注いで、默然として一語をも吐かなかツ た。

「斯う言出したと云ツて、何にも貴孃に義理を缺かして、私の望 を遂げようと云ふのぢやア無いが、唯貴孃の口から僅一言、斷念めろ、と 云ツて戴きたい。さうすりやア、私も其れを力に斷然思ひ切ツて、 今日切りでもう貴孃にもお眼に懸るまい。……ネーお勢さん。」

 お勢は尚ほ默然としてゐて、返答をしない。

「お勢さん。」

 ト云ひ乍ら、昇が、頂垂れてゐた首を振揚げて、ヂツとお勢の顏を窺き込めば、 お勢は周章狼狽して、サツと顏を赧らめ、漸く聞えるか、聞えぬ程の小聲で、

「虚言ばツかり。」

 ト云ツて、全く差俯向いて仕舞ツた。

「アハヽヽヽヽ。」

 ト突如に昇が、轟然と一大笑を發したので、お勢は吃驚して、顏を振揚げて視 て、

「オヤ厭だ。……アラ厭だ。……憎らしい本田さんだネー、眞面目くさツて、人 を威かして……。」

 と云ツて、悔しさうにでもなく、恨めしさうにでもなく、謂はゞ、氣まりが惡 さうに莞爾笑ツた。

「お巫山戯でない。」

 ト云ふ聲が、忽然、背後に聞えたので、お勢が喫驚して振返ツて視ると、母親 が帶の間へ紙入を挿みながら來る。

「大分談判が難しかツたと見えますネ。」

「大にお待遠さま。」

 ト云ツて、お勢の顏を視て、

「お前、如何したんだエ、顏を眞赤にして。」

 ト咎められて、お勢は尚ほ顏を赤くして、

「オヤ然う、歩いたら暖かに成ツたもんだから……。」

「マア本田さん、聞いてお呉んなさい。眞個に、彼兒の錢遣ひの荒いのにも困り ますよ。此間ネ、試驗の始まる前に來て、一圓前借して持ツてツたんですよ。其れを 十日も經ない内に、もう使用ツちまツて、また呉れろサ。宿所なら、こだはりを附け てやるんだけれども……。」

「彼樣な事を云ツて、虚言ですよ、慈母さんが小遣ひを遣りたがるのよ。オ ホヽヽ。」

 ト無理に押出した樣な高笑ひをした。

「默ツてお出で、お前の知ツた事ちやない。……こだはりを附けて遣るんだけれ ども、途中だからと思ツてネ、默ツて五十錢出して遣ツたら、それんばかりぢや足ら ないから、一圓呉れろと云ふんですよ。然う/\は方圖が無いと思ツて、如何しても 遣らなかツたらネ、不承々々に五十錢取ツて仕舞ツてネ、それからまた今度は、明後 日、お友達同志寄ツて、飛鳥山で饂飩會とかを……。」

「オホヽヽ。」

 此度は眞に可笑しさうに、お勢が笑ひ出した。昇は荐りに點頭いて、

「運動會。」

「そのうんどうかいとか蕎麥買ひとかをするから、もう五十錢呉れろツてネ。明 日取りにお出でと云ツても、何と云ツても聞かずに、持ツて往きましたがネ。其れも 宜いが、憎い事を云ふぢや有りませんか。私が、明日お出でか、ト聞いたらネ、是れ さへ貰へばもう用は無い、また無くなツてから行くツて……。」

「慈母さん、書生の運動會なら、會費と云ツても、高が十錢か、二十錢位なもん ですよ。」

「エ、十錢か、二十錢……オヤ其れぢや三十錢足駄を履かれたんだよ……。」

 ト云ツて、昇の顏を凝視めた。とぼけた顏であツたと見えて、昇もお勢も同時 に、

「オホヽヽ。」

「アハヽヽ。」