University of Virginia Library

11. 十一囘 取付く島

 翌朝朝飯の時、家内の者が顏を合はせた。お政は始終顏を皺めてゐて口も碌々 聞かず。文三もその通り。獨りお勢而已はソハ/\してゐて更に沈着かず、端手なく 囀ツて、他愛もなく笑ふ、かと思ふとフト口を鉗んで、眞面目に成ツて、憶出したや うに、額越しに文三の顏を眺めて、笑ふでも無く笑はぬでもなく、不思議さうな、劒 呑さうな、奇奇妙々な顏色をする。

 食事が濟む。お勢がまづ起立ツて、座鋪を出て、縁側でお鍋に戲れて、高笑を したかと思ふ間も無く、忽ち部屋の方で、低聲に詩吟をする聲が聞えた。

 益々顏を顰めながら、文三が續いて起上らうとして、叔母に呼留められて、又 坐直して、不思議さうに、恐る/\叔母の顏色を窺ツて見て、ウンザリした。思做か して、叔母の顏は尖ツてゐる。

 人を呼留めながら、叔母は悠々としたもので、まづ煙草を環に吹くこと五六ぷ く。お鍋の膳を引終るを見濟まして、さて漸くに、

「他の事でも有りませんがネ、昨日私が、マア傍で聞いてれば――また餘計なお 世話だツて叱られるかも知れないけれども――本田さんがアヽやツて、親切に言ツて お呉んなさるものを、お前さんはキツパリ斷ツてお仕舞ひなすツたが、ソリヤモウ、 お前さんの事だから、いづれ先に何とか確乎な見當が無くツて、彼樣な事をお言ひな さりやアすまいネ。」

「イヤ、何にも、見當が有ツての、如何の、と云ふ譯ぢや有りませんが、唯… …。」

「ヘー、見當も有りもしないのに、無暗に辭ツてお仕舞ひなすツたの。」

「目的なしに斷ると云ツては、或は無考へのやうに聞えるかも知れませんが、し かし、本田の言ツた事でも、ホンの風評と云ふだけで、ナニも確に……。」

 縁側を通る人の跫音がした。多分、お勢が英語の稽古に出懸けるので。改ツて 外出をする時を除くの外は、お勢は大抵、母親に挨拶をせずして出懸ける。それが習 慣で。

「確に然うとも……。」

「それぢや何ですか、彌々となりや、御布告にでもなりますか。」

「イヤ、其樣な、布告なんぞになる氣遣ひは有りませんが。」

「それぢや、マア、人の噂を恃にするほか、仕樣が無いと云ツたやうなもんです ネ。」

「ですが、其れは然うですが、しかし、……本田なぞの言ふ事は……。」

「恃にならない。」

「イヤ、そ、そ、さう云ふ譯でも有りませんが……ウー……しかし……幾程苦し いと云ツて……課長の處へ……。」

「何ですとエ。幾程苦しいと云ツて、課長さんの處へは往けないとエ。まだお前 さんは、其樣な氣樂な事を言ツてお出でなさるのかエ。」

 トお政が層に懸ツて、極付けかけたので、文三は狼狽てて、

「そ、そ、そればかりぢや有りません。……假令、今課長に依頼して、復職が出 來たと云ツても、迚も私のやうな者は永くは續きませんから、寧ろ官員は、モウ思切 らうかと思ひます。」

「官員は、モウ思切る。フン、何が何だか理由が解りやしない。此間、お前さん 何とお言ひだ。私が、是れから如何して行く積りだと聞いたら、また官員の口でも探 さうかと思ツてます、とお言ひぢやなかツたか。其れを今と成ツて、モウ官員は思切 る。……左樣サ、親の口は干上ツても關は無いから、モウ官員はお罷めなさるが宜い のサ。」

「イヤ、親の口が干上ツても關はない、と云ふ譯ぢやア有りませんが、しかし、 官員許りが職業でも有りませんから、教師に成ツても親一人位は養へますから……。」

「だから誰も、然うはならない、とは申しませんよ。そりやアお前さんの勝手だ から、教師になと、車夫になと、何になとお成んなさるが宜いのサ。」

「ですが、然う、御立腹なすツちや、私も實に……。」

「誰が腹を立ツてると云ひました。ナニ、お前さんが如何しようと、此方に關繋 の無い事だから、誰も腹も背も立ちやアしないけれども、唯本田さんが、アヽやツて、 親切に言ツてお呉んなさるもんだから、周旋ツて貰ツて、課長さんに取入ツて置きや ア、假令んば今度の復職とやらは出來ないでも、また先へよツて何ぞれ角ぞれ、お世 話アして下さるまいものでも無い。トネー、然うすりや、お前さんばかしか、慈母さ んも御安心なさる事たし、それに……何だから、三方四方、まるく納まる事たから (此時文三はフツと顏を振揚げて、不思議さうに叔母を凝視めた、)と思ツて、チヨ イとお聞き申したばかしサ。けれども、ナニ、お前さんが、然うした了簡方ならそれ 迄の事サ。」

 兩人共、暫く無言。

「鍋。」

「ハイ。」

 トお鍋が襖を開けて、顏のみを出した。見れば口をモゴ付かせてゐる。

「まだ御膳を仕舞はないのかエ。」

「ハイ、まだ。」

「それぢや、仕舞ツてからで宜いからネ、何時もの車屋へ往ツて、一人乘一梃、 誂へて來てお呉れ。濱町まで上下。」

「ハイ、それでは只今直に。」

 ト云ツて、お鍋が、襖を閉切るを待兼ねてゐた文三が、また改めて叔母に向ツ て、

「段々と承ツて見ますと、叔母さんの仰しやる事は、一々御尤のやうでも有るし、 且私一個の強情から、母親は勿論、叔母さんにまで種々御心配を懸けまして、甚だ恐 入りますから、今一應篤と考へて見まして。」

「今一應も二應も無いぢやア有りませんか、お前さんが、モウ、官員にやならな い、と決めてお出でなさるんだから。」

「そ、それは然うですが、しかし……事に寄ツたら……思ひ直すかも知れません から……。」

 お政は冷笑しながら、

「そんなら、マア、考へて御覽なさいだが、ナニモウ何ですよ、お前さんが官員 に成ツてお呉んなさらなきやア、私どもが立往か無いと云ふんぢや無いから、無理に 何ですよ、勸めはしませんよ。」

「ハイ。」

「それから序だから言ツときますがネ、聞けば昨夕、本田さんと何だか入組みな すツたさうだけれども、そんな事が有ツちやア誠に迷惑しますネ。本田さんはお前さ んのお朋友とは云ひ條、今ぢやア家のお客も同然の方だから。」

「ハイ。」

 トは云ツたが、文三、實は叔母が何を言ツたのだか、よくは解らなかツた。些 し考へ事が有るので。

「そりやア、アヽ云ふ胸の廣い方だから、其樣な事が有ツたと云ツて、それを根 葉に有ツて、周旋をしないとはお言ひなさりやすまいけれども、全體なら……マアそ れは、今言ツても無駄だ。お前さんが腹を極めてからの事にしよう。」

 ト自家撲滅。文三はフト首を振揚げて、

「ハイ。」

「イエネ、またの事にしませう、と云ふ事サ。」

「ハイ。」

 何だかトンチンカンで。

 叔母に一禮して、文三が起上つて、そこ/\に部屋へ戻ツて、室の中央に突立 ツた儘で、坐りもせず、良暫くの間と云ふものは、造付けの木偶の如くに、默然とし てゐたが、頓て溜息と共に、

「如何したものだらう。」

 ト云ツて、宛然雪達磨が、日の眼に逢ツて解けるやうにグズ/\と崩れながら に座に着いた。

 何故「如何したものだらう」かと、其理由を繹ねて見ると、概略はまづ箇樣で。

 先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途に叔母を薄情な婦人と思詰めて、 恨みもし立腹もした事では有るが、其後沈着いて考へて見ると、如何やら叔母の心意 氣が、飮込めなくなり出した。

 成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない。文三の感情、思想を忖度し得ないの も勿論の事では有るが、しかし、菽麥を辨ぜぬ程の癡女子でもなければ、自家獨得の 識見をも保着してゐる、論事矩をも保着してゐる、處世の法をも保着してゐる。それ でゐて、何故、アヽ何の道理も無く、何の理由もなく、唯文三が免職に成ツたと云ふ 許りで、自身も恐らくは無理と知りつゝ無理を陳べて、一人で立腹して、罪も咎も無 い文三に手を杖かして、謝罪さしたので有らう。お勢を嫁するのが厭になツてと、或 時は思ひはしたものの、考へて見れば、其れも可笑しい。二三分時前までは、文三が 我女の夫、我女は文三の妻、と思詰めてゐた者が、免職と聞くより早くガラリ氣が渝 ツて、俄に配合せるのが厭に成ツて、急拵への愛想盡かしを陳立てて、故意に立腹さ して、而して娘と手を切らせようとした。……如何も可笑しい。

 かうした疑念が起ツたので、文三がまた叔母の言草、悔しさうな言樣、ジレツ タさうな顏色を、一々漏らさず憶起して、さらに出直して思惟して見て、文三は遂に 昨日の非を覺ツた。

 叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを樂みにしてゐたに相違な い。來年の春を心待に待ツてゐたに相違ない。その帶をアアして、この衣服をかうし てと、私に胸算用をしてゐたに相違ない。それが、文三が免職に成ツた許りでカラリ と恃が外れたので、それで失望したに相違ない。凡そ失望は落膽 を生み落膽は愚癡を生む。「叔母の言草を愛想盡かしと聞取ツたのは全く 此方の僻耳で、或は愚癡で有ツたかも知れん」ト云ふ所に文三氣が附いた。

 かう氣が附いて見ると、文三は幾分か恨が晴れた、叔母がさう憎くはなくなツ た、イヤ寧ろ叔母に對して氣の毒に成ツて來た。文三の今我は故吾でない。しかし、 お政の故吾も今我でない。

 悶着以來、まだ五日にもならぬに、お政はガラリ其容子を一變した。勿論以前 とても、ナニモ非常に文三を親愛してゐた、手車に乘せて下にも措かぬやうにしてゐ た、ト云ふでは無いが、兎も角も以前は、チヨイと顏を見る眼元、チヨイと物を云ふ 口元に、眞似て眞似のならぬ一種の和氣を帶びてゐたが、此頃は眼中には雲を懸けて、 口元には苦笑を含んでゐる。以前は言ふ事がさら/\としてゐて、厭味氣が無かツた が、此頃は言葉に針を含めば、聞いて耳が痛くなる。以前は人我の隔歴が無かツたが、 此頃は全く他人にする。霽顏を見せた事も無い、温語をきいた事も無い、物を言懸け れば、聞えぬ風をする事も有り、氣に喰はぬ事が有れば、目を側てて疾視付ける事も 有り、要するに可笑しな處置振りをして見せる。免職が種の悶着は、是に至ツて、沍 てて、かじけて、凝結し出した。

 文三は篤實温厚な男、假令その人と爲りは如何有らうとも、叔母は叔母、有恩 の人に相違ないから、尊尚親愛して、水乳の如くシツクリと、和合し度いとこそ願へ、 決して乖背し、?離したいとは願はないやうなものの、心は境に隨ツてその 相を顯ずるとかで、叔母に斯う仕向けられて見ると、萬更好い心地もしない。好い心 地もしなければ、ツイ不吉な顏も爲度くなる。が、其處は、篤實温厚だけに、何時も 思返して、ヂツと辛抱してゐる。蓋し文三の身が極まらなければ、お勢の身も極まら ぬ道理。親の事なら其も苦勞にならう。人世の困難に遭遇つて、獨りで苦惱して、獨 りで切拔けると云ふは、俊傑の爲る事。竝や通途の者ならば、然うはいかぬがち。自 心に苦惱が有る時は、必ずその由來する所を自身に求めずして、他人に求める。求め て得なければ、天命に歸して仕舞ひ、求めて得れば、即ちその人を娟嫉する。然うで もしなければ、自ら慰める事が出來ない。「叔母も、それで、かう辛く當るのだな、」 トその心を汲分けて、如何な可笑しな處置振りをされても、文三は眼を閉ツて默ツて ゐる。

「が、若し叔母が慈母のやうに我の心を噛分けて呉れたら、若し叔母が心を和げ て、共に困厄に安んずる事が出來たら、我ほど世に幸な者は有るまいに、」ト思ツて、 文三屡々嘆息した。依ツて、至誠は天をも感ずるとか云ふ古賢の格言を力にして、折 さへ有れば、力めて叔母の機嫌を取ツて見るが、お政は油紙に水を注ぐやうに跳付け て而已ゐて、さらに取合はず、而して獨りでジレてゐる。文三は、針の筵に坐ツたや うな心地。

 しかし、まだ/\是れしきの事なら、忍んで忍ばれぬ事も無いが、?處 に尤も心配で/\耐へられぬ事が一つ有る。他でも無い、此頃叔母がお勢と文三との 間を塞くやうな容子を徐々見え出した一事で。尤も今の内は、唯お勢を戒めて、今迄 のやうに文三と親しくさせないのみで、さして思切ツた處置もしないから、まづ差迫 ツた事では無いが、しかし、此儘にして捨置けば、將來何等な傷心恨事が出來するか も測られぬ。一念此に到る毎に、文三は我も折れ、氣も挫けて、而して胸膈も塞がる。

 かう云ふ矢端には、得て疑心も起りたがる、繩麻に蛇相も生じたがる。株抗に 人想の起りたがる。實在の苦境の外に、文三が別に妄念から一苦界を産出して、求め て其の中に沈淪して、あせツて、もがいて、極大苦惱を嘗め てゐる今日此頃、我慢勝他が性質の叔母のお政が、よくせきの事なればこそ、我から 折れて出て、「お前さんさへ我を折れば三方四方圓く納まる、」ト穩便をおもツて言 ツて呉れる。それを無面目にも言破ツて、立腹をさせて、我から我他彼此の種子を蒔 く……。文三然うは爲たく無い。成らう事なら叔母の言状を立てて、その心を慰めて、 お勢の縁をも繋ぎ留めて、老母の心をも安めて、而して自分も安心したい。それで、 文三は、先刻も言葉を濁して來たので。それで文三は、今又、屈託の人と爲ツてゐる ので。

「如何したものだらう。」

 ト、文三、再び我と我に相談を懸けた。

「寧そ、叔母の意見に就いて、廉恥も良心も棄てて仕舞ツて、課長の處へ往ツて 見ようか知らん。依頼さへして置けば、假令へば、今が今如何ならんと云ツても、叔 母の氣が安まる。然うすれば、お勢さへ心變りがしなければ、まづ大丈夫と云ふもの だ。且つ慈母さんも、此頃ぢやア茶斷して心配してお出でなさる所だから、是れ許り で犠牲に成ツたと云ツても、敢て小膽とは言はれまい。コリヤ、寧そ叔母の意見に… …。」

 が、猛然として省思すれば、叔母の意見に就かうとすれば、厭でも昇に親まな ければならぬ。昇と彼儘にして置いて、獨り課長に而已取入らうとすれば、渠奴必ず 邪魔を入れるに相違ない。からして、厭でも昇に親まなければならぬ。老母の爲め、 お勢の爲めなら、或は良心を傷けて、自重の氣を拉いで、課長の鼻息を窺ひ得るかも 知れぬが、如何に窮したればと云ツて、苦しいと云ツて、昇に、面と向ツて圖大柄に、 「痩我慢なら大抵にしろ、」ト云ツた昇に、昨夜も昨夜とて、小兒の如くに人を愚弄 して、陽に負けて陰に復り討に逢はした昇に、不倶戴天の讎敵、生きながら其肉を啖 はなければ此熱腸が冷されぬと怨みに思ツてゐる昇に、今更手を杖いて一着を輸する 事は、文三には死しても出來ぬ。課長に取入るも、昇に上手を遣ふも、其趣きは同じ からうが同じく有るまいが、其樣な事に頓着はない。唯、是もなく非もなく利もなく 害もなく、昇に一着を輸する事は、文三には死しても出來ぬ。

 ト決心して見れば、叔母の意見に負かなければならず、叔母の意見に負くまい とすれば、昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なり、是れも厭なりで、二時間 許りと云ふものは、默坐して腕を拱んで、沈吟して、嘆息して、千思萬考、審念熟慮 して屈托して見たが、詮ずる所は舊の木阿彌。

「ハテ、如何したものだらう。」

 物皆終あれば、古筵も鳶にはなりけり。久しく苦んでゐる内に、文三の屈托も 遂に其極度に達して、忽ち一つの思案を形作ツた。所謂思案とは、お勢に相談して見 ようと云ふ思案で。

 蓋し文三が叔母の意見に負き度くないと思ふも、叔母の心を汲分けて見れば、 道理な所もあるからと云ひ、叔母の苦り切ツた顏を見るも心苦しいからと云ふは少分 で、その多分は全く、それが原因でお勢の事を斷念らねばならぬやうに成行きはすま いか、と危むからで。故に、若しお勢さへ、天は荒れても、地は老いても、海は涸れ ても、石は爛れても、文三が此上何樣なに零落しても、母親が此後何樣な言を云ひ出 しても、決してその初の志を悛めない、と定ツてゐれば、叔母が面を脹らしても、眼 を剥出しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見に背く事が出來る。 既に叔母の意見に背く事が出來れば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「且つ窮し て濫するは、大丈夫の爲るを愧づる所だ。」

 然うだ/\。文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一つで、進退去就を決し さへすれば、イサクサは無い。何故、最初から、其處に心附かなかツたか。今と成ツ て考へて見ると、文三、我ながら我が怪しまれる。

 お勢に相談する、極めて上策。恐らくは此に越す思案も有るまい。若しお勢が、 小挫折に逢ツたと云ツて、その節を移さずして、尚ほ未だに文三の知識で考へて、文 三の感情で感じて、文三の息氣で呼吸して、文三を愛してゐるならば、文三に厭な事 は、お勢にもまた厭に相違は有るまい。文三が昇に一着を輸する事を屑しと思はぬな ら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくは有るまい。相談を懸けたら飛んだ手 輕く、「母が何と云はうと關やアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はお罷しなさ いよ、」ト云ツて呉れるかも知れぬ。また此後の所を念を押したら、恨めしさうに、 「貴君は、私をそんな浮薄なものだと思ツてお出でなさるの、」ト云ツて呉れるかも 知れぬ。お勢が然うさへ云ツて呉れゝば、モウ文三天下に懼るゝ者はない。火にも這 入れる、水にも飛込める。況んや叔母の意見に負く位の事は朝飯前の仕事、お茶の子 さい/\とも思はない。

「然うだ、其れが宜い。」

 ト云ツて、文三起立ツたが、また立止ツて、

「が、此頃の擧動と云ひ、容子と云ひ、ヒヨツトしたら本田に……何しては居な いかしらん。チヨツ、關はん、若し然うならば、モウ其迄の事だ。ナニ、我だツて男 子だ。心渝りのした者に、未練は殘らん。斷然手を切ツて仕舞ツて今度こそは思ひ切 ツて、非常な事をして、非常な豪膽を示して、本田を拉いで、而してお勢にも……お 勢にも後悔さして、而して……而して……而して……。」ト思ひながら、二階を降り た。

 が、此處が妙で、觀菊行の時、同感せぬお勢の心を疑ツたにも拘らず、その夜 歸宅してからのお勢の擧動を怪んだのにも拘らず、また昨日の高笑ひ、昨夜のしだら を、今以て面白からず思ツてゐるにも拘らず、文三は内心の内心では、尚ほまだお勢 に於て心變りするなどと云ふ、其樣な水臭い事は無い、と信じてゐた。尚ほまだ、相 談を懸ければ、文三の思ふ通りな事を云ツて、文三を勵ますに相違ない、と信じてゐ た、斯う信ずる理由が有るから、斯う信じてゐたのでは無くて、斯う信じたいから、 斯う信じてゐたので。