University of Virginia Library

天の羽衣

かやうにて、御心を互に慰め給ふ程に、三年ばかりありて、春の初より、赫映姫、月の面白う出でたるを見て、常よりも物思ひたる樣なり。或人の、「月の顏見るは忌む事」と制しけれども、ともすれば人間には月を見ていみじく泣き給ふ。七月の望の月に出で居て、切に物思へる氣色なり。近く使はるゝ人々、竹取の翁に告げていはく、「赫映姫例も月を哀れがり給ひけれども、この比となりては、たゞ事にも侍らざめり。いみじく思し歎く事あるべし。よく/\見奉らせ給へ」といふを聞きて、赫映姫にいふやう、「なでふ心地すれば、斯く物を思ひたる樣にて月を見給ふぞ、うましき世に」といふ。赫映姫、「月を見れば、世の中心細く哀れに侍り。なでふ物をか歎き侍るべき」といふ。赫映姫のある所にいたりて見れば、猶物思へる氣色なり。これを見て、「あが佛何事を思ひ給ふぞ。思すらむこと何事ぞ」といへば、「思ふことも無し。物なむ心細く覺ゆる」といへば、翁、「月な見給ひそ。これを見給へば、物思す氣色はあるぞ」といへば、「いかでか月を見ずてはあらむ」とて、猶、月出づれば、出で居つゝ歎き思へり。夕暗には物思はぬ氣色なり。月の程になりぬれば、猶時々は打歎き泣きなどす。これを、使ふ者ども、「猶物思す事あるべし」と私言けど、親を始めて何事とも知らず。

八月の望ばかりの月に出で居て、赫映姫いといたく泣き給ふ。人目も今はつゝみ給はず泣き給ふ。これを見て、親どもも、「何事ぞ」と問ひ騷ぐ。赫映姫泣く/\いふ、「さきざきも申さむと思ひしかども、必ず心惑はし給はむものぞと思ひて、今まで過し侍りつるなり。さのみやはとて、打出で侍りぬるぞ。己が身は、この國の人にもあらず、月の都の人なり。それを昔の契りありけるによりてなむ、この世界にはまうで來たりける。今は歸るべきになりにければ、この月の望に、かの本の國より迎に人々まうで來むず。さらず罷りぬべければ、思し歎かむが悲しきことを、この春より思ひ歎き侍るなり」といひて、いみじう泣く。翁、「こはなでふ事を宣ふぞ。竹の中より見つけ聞えたりしかど、菜種の大さおはせしを、我が丈立ち竝ぶまで養ひ奉りたる我が子を、何人か迎へ聞えむ。まさに許さむや」といひて、「我こそ死なめ」とて、泣きのゝしることいと堪へ難げなり。赫映姫のいはく、「月の都の人にて父母あり。片時の間とてかの國よりまうで來しかども、斯くこの國には、數多の年を經ぬるになむありける。かの國の父母の事も覺えず。此處には斯く久しく遊び聞えて馴らひ奉れり。いみじからむ心地もせず、悲しくのみなむある。されど己が心ならず罷りなむとする」といひて、諸共にいみじう泣く。使はるゝ人々も、年比馴らひて、立ち別れなむことを、心ばへなどあてやかに美しかりつることを見慣らひて、戀しからむことの堪へ難く、湯水も飮まれず、同じ心に歎かしがりけり。

この事を帝きこしめして、竹取が家に御使遣はさせ給ふ。御使に竹取出で逢ひて、泣くこと限りなし。この事を歎くに、髮も白く、腰も屈り、目も爛れにけり。翁今年は五十許なりけれども、物思には片時になむ老になりにけると見ゆ。御使、仰言とて翁にいはく、「いと心苦しく物思ふなるは、眞にか」と仰せ給ふ。竹取泣く/\申す、「この望になむ、月の都より赫映姫の迎にまうで來なる。尊く問はせ給ふ。この望には人々賜はりて、月の都の人まうで來ば、捉へさせむ」と申す。御使歸り參りて、翁の有樣申して、奏しつる事ども申すを、聞しめして宣ふ。「一目見給ひし御心にだに忘れ給はぬに、明暮見馴れたる赫映姫をやりては、如何思ふべき」。かの十五日、司々に仰せて、勅使には少將高野大國といふ人を差して、六衞の司合はせて、二千人の人を竹取が家に遣はす。家に罷りて築地の上に千人、屋の上に千人、家の人々いと多かりけるに合はせて、あける隙もなく守らす。この守る人々も弓箭を帶して居り。母屋の内には女共を番に居ゑて守らす。嫗、塗籠の内に赫映姫を抱かへて居り。翁も塗籠の戸を鎖して戸口に居り。翁のいはく、「斯ばかり守る所に、天の人にも負けむや」といひて、屋の上に居る人々にいはく、「つゆも物空に翔らば、ふと射殺し給へ」。守る人々のいはく、「斯ばかりして守る所に、蝙蝠一つだにあらば、まづ射殺して外に晒さむと思ひ侍る」といふ。翁これを聞きて、頼もしがり居り。

これを聞きて、赫映姫は、「鎖し籠めて守り戰ふべきしたくみをしたりとも、あの國の人をえ戰はぬなり。弓箭して射られじ。斯く鎖し籠めてありとも、かの國の人來ば皆開きなむとす。相戰はむとすとも、かの國の人來なば、猛き心つかふ人よもあらじ」。翁のいふやう、「御迎に來む人をば、長き爪して眼を掴み潰さむ。さが髮を取りてかなぐり落さん。さが尻を掻き出でて、許多のおほやけ人に見せて恥見せむ」と腹立ち居り。赫映姫いはく、「聲高にな宣ひそ。屋の上に居る人どもの聞くに、いとまさなし。いますかりつる志どもを思ひも知らで、罷りなむずることの口惜しう侍りけり。長き契りの無かりければ、程なく罷りぬべきなめりと思ふが、悲しく侍るなり。親達の顧みを聊かだに仕う奉らで、罷らむ道も安くもあるまじきに、月比も出で居て、今年ばかりの暇を申しつれど、更に許されぬによりてなむ、斯く思ひ歎き侍る。御心をのみ惑はして去りなむ事の、悲しく堪へ難く侍るなり。かの都の人はいと清らにて、老いもせずなむ、思ふことも無く侍るなり。然る所へ罷らむずるも、いみじくも侍らず、老い衰へ給へる樣を見奉らざらむこそ戀しからめ」といひて泣く。翁、「胸痛き事なし給ひそ。麗しき姿したる使にも障らじ」と妬み居り。

斯かる程に宵打過ぎて、子の時ばかりに、家の邊晝の明さにも過ぎて光りたり。望月の明さを十合はせたるばかりにて、在る人の毛の孔さへ見ゆる程なり。大空より人雲に乘りて下り來て、地より五尺ばかりあがりたる程に立ち連ねたり。これを見て、内外なる人の心ども、物に魘るゝやうにて、相戰はむ心も無かりけり。辛うじて思ひ起して、弓箭を取り立てむとすれども、手に力も無くなりて、痿え屈りたる中に、心さかしき者、念じて射むとすれども、外ざまへ往きければ、荒れも戰はで、心地唯癡れに癡れてまもり合へり。立てる人どもは、裝束の清らなること物にも似ず。飛車一つ具したり。羅蓋差したり。その中に王と覺しき人、「家に造麿まうで來」といふに、猛く思ひつる造麿も、物に醉ひたる心地して俯しに伏せり。いはく、「汝、をさなき人、聊かなる功徳を翁作りけるによりて、汝が助にとて片時の程とて降ししを、そこらの年比そこらの金賜ひて、身を更へたるが如くなりにたり。赫映姫は、罪を作り給へりければ、斯く賤しきおのれが許に暫しおはしつるなり。罪の限りはてぬれば、斯く迎ふるを、翁は泣き歎く、能はぬ事なり。はや返し奉れ」といふ。翁答へて申す、「赫映姫を養ひ奉ること、二十年餘りになりぬ。片時と宣ふに、怪しくなり侍りぬ。又他處に赫映姫と申す人ぞ、おはしますらむ」といふ。「此處に御座する赫映姫は、重き病をし給へば、え出でおはしますまじ」と申せば、その返事は無くて、屋の上に飛車を寄せて、「いざ赫映姫、穢き所にいかで久しくおはせむ」といふ。立て籠めたる所の戸、即ちたゞ開きに開きぬ。格子どもも人は無くして開きぬ。嫗抱きて居たる赫映姫外に出でぬ。え留むまじければ、唯さし仰ぎて泣き居り。竹取心惑ひて泣き伏せる所に寄りて、赫映姫いふ、「こゝにも心にもあらで斯く罷るに、昇らむをだに見送り給へ」といへども、「何しに悲しきに見送り奉らむ。我をば如何にせよとて、棄てては昇り給ふぞ。具して率ておはせね」と泣きて伏せれば、御心惑ひぬ。「文を書き置きて罷らむ。戀しからむ折々、取り出でて見給へ」とて、打泣きて書くことは、

この國に生まれぬるとならば、歎かせ奉らぬ程まで侍るべきを、侍らで過ぎ別れぬること、返す%\本意なくこそ覺え侍れ。脱ぎおく衣を形見と見給へ。月の出でたらむ夜は見おこせ給へ。見棄て奉りて罷る空よりも落ちぬべき心地す。

と、書き置く。

天人の中に持たせたる筥あり、天の羽衣入れり。又あるは不死の藥入れり。一人の天人いふ、「壺なる御藥奉れ。穢き所の物食しめしたれば、御心地惡しからむものぞ」とて、持てよりたれば、聊か嘗め給ひて、少し形見とて、脱ぎ置く衣に包まむとすれば、ある天人包ませず、御衣を取り出でて著せむとす。その時に赫映姫、「暫し待て」といひて、「衣著つる人は心異になるなり。物一言いひ置くべき事あり」といひて文書く。天人遲しと心許無がり給ふ。赫映姫、「物知らぬ事な宣ひそ」とて、いみじく靜かに、朝廷に御文奉り給ふ。周章てぬ樣なり。

斯く數多の人を賜ひて留めさせ給へど、許さぬ迎まうで來て、取り率て罷りぬれば、口惜しく悲しきこと。宮仕つかう奉らずなりぬるも、斯く煩はしき身にて侍れば、心得ず思しめしつらめども、心強く承らずなりにし事、無禮げなるものに思しめし止められぬるなむ、心に留まり侍りぬる。

とて、

今はとて天の羽衣著るをりぞ君を哀れと思ひ出でぬる

とて、壺の藥添へて、頭中將を呼び寄せて奉らす。中將に天人取りて傳ふ。中將取りつれば、ふと天の羽衣打著せ奉りつれば、翁をいとほし悲しと思しつることも失せぬ。この衣著つる人は、物思も無くなりにければ、車に乘りて百人許天人具して昇りぬ。その後翁嫗、血の涙を流して惑へど詮なし。あの書き置きし文を讀みて聞かせけれど、「何せむにか命も惜しからむ。誰が爲にか何事も益もなし」とて、藥も食はず、やがて起きも上らず病み臥せり。中將人々を引具して歸り參りて、赫映姫をえ戰ひ留めずなりぬる事を細々と奏す。藥の壺に御文添へて參らす。展げて御覽じて、いといたく哀れがらせ給ひて、物も食しめさず、御遊なども無かりけり、大臣、上達部を召して、「何れの山か天に近き」と問はせ給ふに、或人奏す、「駿河の國にある山なむ、この都も近く、天も近く侍る」と奏す。これを聞かせ給ひて、

逢ふことも涙に浮ぶ我が身には死なぬ藥も何にかはせむ

かの奉れる不死の藥の壺に、御文具して御使に賜はす。勅使には、調の岩笠といふ人を召して、駿河の國にあなる山の頂に持て行くべきよし仰せ給ふ。嶺にてすべきやう教へさせ給ふ。御文不死の藥の壺竝べて、火をつけてもやすべきよし仰せ給ふ。そのよし承りて、兵士ども數多具して山へ登りけるよりなむ、その山をばふじの山とは名づけける。その煙、未だ雲の中へ立ち昇るとぞいひ傳へたる。

竹取物語終