University of Virginia Library

龍の首の珠

大伴御行の大納言は、我が家にありとある人を召し集めて、宣はく、「龍の首に五色の光ある玉あなり。それを取りて奉りたらむ人には、願はむ事を叶へむ」と宣ふ。男ども仰の事を承りて申さく、「仰の事はいとも尊し。但しこの玉容易くえ取らじを、况や龍の首の玉は如何取らむ」と申し合へり。大納言宣ふ、「君の使といはむものは、命を捨てても、己が君の仰言をば叶へむとこそ思ふべけれ。この國に無き天竺唐土の物にもあらず。この國の海山より龍は下り上るものなり。如何に思ひてか、汝等難き物と申すべき」。男ども申すやう、「さらば如何はせむ。難き物なりとも、仰言に從ひて求めに罷らむ」と申す。大納言見笑ひて、「汝等君の使と名を流しつ。君の仰言をば如何は背くべき」と宣ひて、龍の首の玉取りにとて、出し立て給ふ。この人々の道の糧食物に、殿の内の絹、綿、錢など、ある限り取り出でて添へて遣はす。「この人々ども、歸るまで齋をして我は居らむ。この玉取り得では家に歸り來な」と宣はせけり。おの/\仰承りて罷り出でぬ。「龍の首の玉取り得ずば歸り來な」と宣へば、いづちも/\足の向きたらむ方へいなむとす。斯かる好事をし給ふ事、と謗り合へり。賜はせたる物はおの/\分けつゝ取り、或は己が家に籠り居、或はおのが行かまほしき所へいぬ。親君と申すとも、斯くつきなき事を仰せ給ふ事、と、事ゆかぬもの故、大納言を謗り合ひたり。「赫映姫すゑむには、例のやうには見にくし」と宣ひて、麗しき屋を造り給ひて、漆を塗り、蒔繪をし、綺へし給ひて、屋の上には糸を染めて、いろ/\に葺かせて、内々のしつらひには、いふべくもあらぬ綾織物に繪を畫きて、間毎に張りたり。もとの妻どもは皆追ひ拂ひて、赫映姫を必ず婚はむ設して獨り明し暮し給ふ。

遣しし人は、夜晝待ち給ふに、年越ゆるまで音もせず。心許無がりて、いと忍びて、唯舍人二人召繼として、窶れ給ひて、難波の邊におはしまして、問ひ給ふことは、「大伴大納言の人や、船に乘りて龍殺して、そが首の玉取れるとや聞く」と問はするに、船人答へていはく、「怪しき事かな」と笑ひて、「然る業する船もなし」と答ふるに、をぢなきことする船人にもあるかな。え知らでかくいふ、と思して、「我が弓の力は、龍あらば、ふと射殺して首の玉は取りてむ。遲く來る奴原を待たじ」と宣ひて、船に乘りて、海毎に歩き給ふに、いと遠くて、筑紫の方の海に漕ぎ出で給ひぬ。如何しけむ、疾き風吹きて、世界闇がりて、船を吹きもて歩く。いづれの方とも知らず、船を海中に罷り出でぬべく吹き廻して、浪は船に打掛けつゝ卷き入れ、雷は落ちかゝるやうに閃きかゝるに、大納言は惑ひて、「まだ斯かる侘しき目は見ず。如何ならむとするぞ」と宣ふ。楫取答へて申す、「こゝら船に乘りて罷り歩くに、まだ斯く侘しき目を見ず。御船海の底に入らずば雷落ちかゝりぬべし。若し幸ひに神の助あらば、南海に吹かれおはしぬべし。うたてある主の御許に仕へ奉りて、すずろなる死をすべかめるかな」とて、楫取泣く。大納言これを聞きて宣はく、「船に乘りては楫取の申すことをこそ、高き山とも頼め。など斯く頼もしげなきことを申すぞ」と青反吐を吐きて宣ふ。楫取答へて申す、「神ならねば何業をか仕らむ。風吹き浪烈しけれども、雷さへ頂に落ちかゝるやうなるは、龍を殺さむと求め給ひ候へば、斯くあなり。疾風も龍の吹かするなり。はや神に祈り給へ」といへば、「よき事なり」とて、「楫取の御神聞しめせ。をぢなく心幼く龍を殺さむと思ひけり。今より後は毛の末一筋をだに動かし奉らじ」と、祝詞を放ちて立居、泣く/\呼ばひ給ふこと、千度ばかり申し給ふけにやあらむ、やう/\雷鳴り止みぬ。少し明りて、風は猶早く吹く。楫取のいはく、「これは龍の仕業にこそありけれ。この吹く風はよき方の風なり。惡しき方の風にはあらず。よき方に赴きて吹くなり」といへども、大納言は、これを聞き入れ給はず。

三四日ありて吹き返し寄せたり。濱を見れば、播磨の明石の濱なりけり。大納言、南海の濱に吹き寄せられたるにやあらむと思ひて、息づき臥し給へり。船に在る男ども國に告げたれば、國の司まうで訪らふにも、え起き上り給はで、船底に臥し給へり。松原に御筵敷きて下し奉る。その時にぞ、南海にあらざりけりと思ひて、辛うじて起き上り給へるを見れば、風いと重き人にて、腹いと脹れ、此方彼方の目には、李を二つ附けたるやうなり。これを見奉りてぞ、國の司も微笑みたる。國に仰せ給ひて、腰輿作らせ給ひて、によぶ/\荷はれて家に入り給ひぬるを、いかでか聞きけむ、遣はしし男ども參りて申すやう、「龍の首の玉をえ取らざりしかばなむ、殿へもえ參らざりし。玉の取り難かりし事を知り給へればなむ、勘當あらじとて參りつる」と申す。大納言起き出でて宣はく、「汝等よく持て來ずなりぬ。龍は鳴神の類にてこそありけれ。それが玉を取らむとて、そこらの人々の害せられなむとしけり。まして龍を捕へたらましかば、又事も無く、我は害せられなまし。よく捕へずなりにけり。赫映姫てふ大盜人の奴が、人を殺さむとするなりけり。家の邊だに今は通らじ。男どももな歩きそ」とて、家に少し殘りたりける物どもは、龍の玉取らぬ者どもに賜びつ。これを聞きて、離れ給ひし本の上は、腹をきりて笑ひ給ふ。糸を葺かせて造りし屋は、鳶烏の巣に皆咋ひもていにけり。世界の人のいひけるは、「大伴大納言は、龍の首の玉や取りておはしたる」。「否さもあらず。御眼二つに李の樣なる玉をぞ添へていましたる」といひければ、「あな堪へ難」といひけるよりぞ、世にあはぬ事をば、あなたへがたとはいひ始めける。