University of Virginia Library

つまどひ

世界の男、貴なるも賤しきも、いかで、この赫映姫を得てしがな見てしがな、と音に聞きめでて惑ふ。その邊の垣にも家の外にも居る人だに、容易く見るまじきものを、夜は安き寢もねず、闇の夜に出でても穴を抉り、此處彼處より覗き垣間見惑ひあへり。さる時よりなむ、よばひとはいひける。

人の物ともせぬ處に惑ひ歩けども、何の驗あるべくも見えず。家の人どもに物をだに言はむとて、言ひ懸くれども、事ともせず。邊を離れぬ公達、夜を明し日を暮す人多かり。疎かなる人は、益なき歩行はよしなかりけりとて、來ずなりにけり。その中に猶言ひけるは、色好といはるゝ限り五人、思ひ止む時なく夜晝來けり。その名、一人は石作皇子、一人は車持皇子、一人は右大臣阿倍御主人、一人は大納言大伴御行、一人は中納言石上麻呂、只この人々なりけり。世の中に多かる人をだに、少しも容貌よしと聞きては、見まほしうする人々なりければ、赫映姫を見まほしうして、物も食はず思ひつゝ、かの家に行きて、佇み歩きけれども、詮あるべくもあらず。文を書きてやれども、返事もせず、侘歌など書きてやれども、返しもせず、詮なしと思へども、十一月十二月の降り氷り、六月の照り霆くにも障らず來けり。この人々、或時は竹取を呼び出でて、「娘を我に賜べ」と伏し拜み、手を擦り宣へど、「己がなさぬ子なれば、心にも從はずなむある」といひて、月日を過す。

斯かれば、この人々家に歸りて物を思ひ、祈をし、願を立て、思ひ止めむとすれども止むべくもあらず。さりとも遂に男婚はせざらむやは、と思ひて頼を懸けたり。強ちに志を見え歩く。これを見つけて、翁、赫映姫にいふやう、「我が子の佛、變化の人と申しながら、こゝら大さまで養ひ奉る志疎かならず。翁の申さむこと聞き給ひてむや」といへば、赫映姫、「何事をか宣はむ事を承らざらむ。變化の者にて侍りけむ身とも知らず、親とこそ思ひ奉れ」といへば、翁、「嬉しくも宣ふものかな」といふ。「翁年七十に餘りぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、男は女に婚ふことをす、女は男に婚ふことをす。その後なむ門も廣くなり侍る。いかでか然る事なくてはおはしまさむ。」赫映姫のいはく、「なでふ然る事かし侍らむ」といへば、「變化の人といふとも、女の身持ち給へり。翁のあらむ限りは、斯うてもいますかりなむかし。この人々の年月を經て、斯うのみいましつゝ宣ふ事を思ひ定めて、一人々々に婚ひ奉り給ひね」といへば、赫映姫いはく、「よくもあらぬ容貌を、深き心も知らで、徒心つきなば、後悔しき事もあるべきをと思ふばかりなり。世の畏き人なりとも、深き志を知らでは婚ひ難しとなむ思ふ」といふ。翁いはく、「思の如くも宣ふかな。そも/\如何やうなる志あらむ人にか婚はむと思す。斯ばかり志疎かならぬ人々にこそあめれ。」赫映姫のいはく、「何ばかりの深きをか見むといはむ。聊かの事なり。人の志等しかなり。いかでか中に劣勝は知らむ。『五人の人の中にゆかしき物見せ給へらむに、御志勝りたりとて仕うまつらむ』と、そのおはすらむ人々に申し給へ」といふ。「よき事なり」と承けつ。

日暮るゝ程、例の集りぬ。人々或は笛を吹き、或は歌を謠ひ、或は唱歌をし、或は嘯を吹き、扇を鳴らしなどするに、翁出でていはく、「辱くも穢げなる所に、年月を經てものし給ふ事、極まりたる畏まりを申す。『翁の命けふ明日とも知らぬを、かく宣ふ君達にも、よく思ひ定めて仕うまつれ』と申せば、『深き御心を知らでは』となむ申す。さ申すも理なり。『いづれ劣勝おはしまさねば、ゆかしき物見せ給へらむに、御志の程は見ゆべし。仕うまつらむ事は、それになむ定むべき』といふ。これよき事なり、人の恨もあるまじ」といへば、五人の人々も、「よき事なり」といへば、翁入りていふ。赫映姫、石作皇子には、「天竺に佛の御石の鉢といふ物あり、それをとりて賜へ」といふ。車持皇子には、「東の海に蓬莱といふ山あなり。それに白銀を根とし、黄金を莖とし、白玉を實として立てる木あり。それ一枝折りて賜はらむ」といふ。今一人には、「唐土にある火鼠の裘を賜へ。」大伴大納言には、「龍の首に五色に光る玉あり。それを取りて賜へ。」石上中納言には、「燕の持たる子安貝一つ取りて賜へ」といふ。翁、「難き事どもにこそあめれ。この國にある物にもあらず。斯く難き事をば如何に申さむ」といふ。赫映姫、「何か難からむ」といへば、翁、「とまれかくまれ申さむ」とて、出でて、「斯くなむ。聞ゆるやうに見せ給へ」といへば、皇子達、上達部聞きて、「おいらかに、『邊よりだに、な歩きそ』とやは宣はぬ」といひて、倦じて皆歸りぬ。