婦人改造と高等教育
与謝野晶子 (Fujin kaizo to koto kyoiku) | ||
いわゆる中流婦人
私はまた自由思想に目の 開 ( あ ) きかけた新しい婦人が中流階級の諸所に黙って分布されていることを知っています。世に「新しい女」を以て目されている婦人たちよりも教育あり、見識あり、徳操あり、社会的経験ある人たちをその中に発見します。それらの婦人たちが団体的勢力を作って先頭に立たれたならその結果はいわゆる「新しい女」たちの運動に幾倍するであろうと思うのですが、そういう人たちは既に家庭の人になっていて社会的に活動する勇気を持っていません。衣食の生活に憂いがないのですから活動の余裕はあるのですが、良人や 親戚 ( しんせき ) に対する気兼から引込思案になってしまうのです。それなら肝腎の家庭だけにはその人たちの理想が実現されているかというと、それはどうも 曖昧 ( あいまい ) です。やはり在来の習慣に妥協し、また世間普通の主婦がするように時時の流行に従ったりして無反省に日を送って行くという風です。例えばその人たちが子供を育てるにしても、食物や服装などに注意が届くだけで、精神的の教育については自分の意見を基礎にした方針というようなものが決っていません。殊に女の子を育てるには一己の見識がありそうなものですけれど、他の家庭で琴が 流行 ( はや ) れば琴を習わせ、舞が 流行 ( はや ) れば舞を習わせるという有様です。学校教育の外に幼い時から遊芸を学ばせるという事が好いか悪いか、遊芸というものの将来の価値は 如何 ( いかん ) 、そういう余技に精力を消費させるということが昔から女子を知識から遠ざからしめた一因になってはいないか、こういう点について深い反省が払われていないのを見ると在来の無知な類型的婦人と異らないことになります。また真剣に子女の教育を思う家庭の婦人なら今の小学初め他の中等程度の学校教育に対して幾多の不満がなければなりませんが、その人たちは学校の 為 ( な ) すがままに放任しています。例えば小学で作文を教えるのを見ると、大抵の教師が或題の下に 予 ( あらかじ ) めこういう風に作れといって 旧套的 ( きゅうとうてき ) な概念を授けて書かせます。それでどの生徒の作った文章もその内容は同じ物で、 唯 ( た ) だ文字の末節が少し異るばかり、生徒自身が頭脳を働かせて個性の新味を示した物は殆ど現われておりません。そういう教育法は人間の個性を殺すものですから母たる者は学校に向って抗議するのが当然ですけれど、 窃 ( ひそか ) に聡明を以て任じているそれらの新主婦たちは全くこういう事実を等閑に附しております。
私は突飛な、また過激な言動が必ずしも改革者の言動であるとは思いませんが、こういう平穏な、悪くいえば煮え切らない婦人界の進歩的傾向を 歯痒 ( はがゆ ) く感じます。
婦人改造と高等教育
与謝野晶子 (Fujin kaizo to koto kyoiku) | ||