第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
十の二
白菊を手にさげし海軍士官、青山 南町 ( みなみちょう ) の 方 ( かた ) より共同墓地に入り来たりぬ。
あたかも 新嘗祭 ( にいなめさい ) の空青々と晴れて、午後の 日光 ( ひかり ) は墓地に満ちたり。秋はここにも 紅 ( くれない ) に照れる桜の葉はらりと落ちて、仕切りの 籬 ( かき ) に 咲 ( え ) む 茶山花 ( さざんか ) の 香 ( かおり ) ほのかに、線香の煙立ち上るあたりには小鳥の声幽に聞こえぬ。 今 ( いま ) 笄町 ( こうがいちょう ) の 方 ( かた ) に過ぎし車の音かすかになりて消えたるあとは、 寂 ( しず ) けさひとしお増さり、ただはるかに響く 都城 ( みやこ ) のどよみの、この 寂寞 ( せきばく ) に和して、かの 現 ( うつつ ) とこの夢と相共に人生の哀歌を奏するのみ。
生籬 ( いけがき ) の間より衣の影ちらちら見えて、やがて 出 ( い ) で来し二十七八の婦人、目を赤うして、水兵服の 七歳 ( ななつ ) ばかりの 男児 ( おのこ ) の手を引きたるが、海軍士官と行きすりて、五六歩過ぎし時、
「 母 ( かあ ) さん、あのおじさんもやっぱし海軍ね」
という子供の声聞こえて、婦人はハンケチに顔をおさえて行きぬ。それとも知らぬ海軍士官は、道を考うるようにしばしば立ち留まりては新しき墓標を読みつつ、ふと一等墓地の中に松桜を交え植えたる 一画 ( ひとしきり ) の 塋域 ( はかしょ ) の前にいたり、うなずきて立ち止まり、 垣 ( かき ) の小門の 閂 ( かんぬき ) を 揺 ( うご ) かせば、手に従って開きつ。正面には年経たる石塔あり。士官はつと入りて見回し、横手になお新しき墓標の前に立てり。松は墓標の上に 翠蓋 ( すいがい ) をかざして、黄ばみ 紅 ( あか ) らめる桜の落ち葉点々としてこれをめぐり、近ごろ立てしと覚ゆる 卒塔婆 ( そとば ) は 簇々 ( ぞくぞく ) としてこれを 護 ( まも ) りぬ。墓標には 墨痕 ( ぼっこん ) あざやかに「片岡浪子の墓」の六字を書けり。海軍士官は墓標をながめて石のごとく突っ立ちたり。
やや久しゅうして、唇ふるい、 嗚咽 ( おえつ ) は食いしばりたる歯を漏れぬ。
*
武男は昨日帰れるなり。
五か月 前 ( ぜん ) 山科 ( やましな ) の停車場に今この墓標の 下 ( もと ) に 臥 ( ふ ) す人と相見し彼は、征台の艦中に加藤子爵夫人の書に接して、浪子のすでに世にあらざるを知りつ。昨日帰りし今日は、加藤子爵夫人を 訪 ( と ) いて、 午 ( ひる ) 過ぐるまでその話に 腸 ( はらわた ) を断ち、今ここに来たれるなり。
武男は墓標の前に立ちわれを忘れてやや久しく 哭 ( こく ) したり。
三年の幻影はかわるがわる涙の 狭霧 ( さぎり ) のうちに浮かみつ。新婚の日、伊香保の遊、 不動祠畔 ( ふどうしはん ) の誓い、 逗子 ( ずし ) の 別墅 ( べっしょ ) に別れし夕べ、最後に 山科 ( やましな ) に相見しその日、これらは 電光 ( いなずま ) のごとくしだいに心に現われぬ。「早く帰ってちょうだい!」と言いし 言 ( ことば ) は耳にあれど、一たび帰れば 彼女 ( かれ ) はすでにわが 家 ( や ) の妻ならず、二たび帰りし今日はすでにこの世の人ならず。
「ああ、浪さん、なぜ死んでしまった!」
われ知らず言いて、 涙 ( なんだ ) は新たに泉とわきぬ。
一陣の風頭上を過ぎて、桜の葉はらはらと墓標をうって翻りつ。ふと心づきて武男は 涙 ( なんだ ) を押しぬぐいつつ、墓標の 下 ( もと ) に立ち寄りて、ややしおれたる花立ての花を抜きすて、 持 ( も ) て来し白菊をさしはさみ、手ずから落ち葉を掃い、内ポッケットをかい探りて一通の書を取り 出 ( い ) でぬ。
こは浪子の絶筆なり。今日加藤子爵夫人の手より受け取りて読みし時の心はいかなりしぞ。武男は書をひらきぬ。仮名書きの美しかりし手跡は 痕 ( あと ) もなく、その人の筆かと疑うまで字はふるい墨はにじみて、涙のあと 斑々 ( はんはん ) として残れるを見ずや。
車の窓に身をもだえて、すみれ色のハンケチを投げしその時の 光景 ( ありさま ) は、歴々と眼前に浮かびつ。武男は目を上げぬ。前にはただ墓標あり。
「おとうさま、たれか来てますよ」と涼しき子供の声耳近に響きつ。引きつづいて同じ声の
「おとうさま、川島の 兄君 ( にいさん ) が」と叫びつつ、花をさげたる十ばかりの 男児 ( おのこ ) 武男がそばに走り寄りぬ。
驚きたる武男は、浪子の遺書を持ちたるまま、 涙 ( なんだ ) を払ってふりかえりつつ、あたかも墓門に立ちたる片岡中将と顔見合わしたり。
武男は 頭 ( かしら ) をたれつ。
たちまち武男は 無手 ( むず ) とわが手を握られ、ふり仰げば、涙を浮かべし片岡中将の双眼と 相対 ( あいむか ) いぬ。
「武男さん、わたしも 辛 ( きつ ) かった!」
互いに手を握りつつ、二人が涙は滴々として墓標の 下 ( もと ) に落ちたり。
ややありて中将は 涙 ( なんだ ) を払いつ。武男が肩をたたきて
「武男 君 ( さん ) 、浪は死んでも、な、わたしはやっぱい 卿 ( あんた ) の 爺 ( おやじ ) じゃ。しっかい頼んますぞ。――前途遠しじゃ。――ああ、久しぶり、武男さん、いっしょに行って、ゆるゆる台湾の話でも聞こう!」
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