第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
九の一
七月七日の夕べ、片岡中将の 邸宅 ( やしき ) には、人多く 集 ( つど ) いて、皆 低声 ( こごえ ) にもの言えり。令嬢浪子の 疾 ( やまい ) 革 ( あらた ) まれるなり。
かねては一月の余もと期せられつる 京洛 ( けいらく ) の遊より、中将父子の去月下旬にわかに帰り来たれる時、玄関に 出 ( い ) で迎えし者は、医ならざるも浪子の病勢おおかたならず進めるを疑うあたわざりき。はたして医師は、一診して覚えず顔色を変えたり。月ならずして病勢にわかに加われるが上に、心臓に著しき異状を認めたるなりき。これより片岡家には、深夜も 燈 ( ともしび ) 燃えて、医は間断なく出入りし、月末より避暑におもむくべかりし子爵夫人もさすがにしばしその行を見合わしつ。
名医の術も施すに由なく、幾が夜ごと日ごとの祈念もかいなく、病は 日 ( ひび ) に募りぬ。数度の 喀血 ( かっけつ ) 、その 間々 ( あいあい ) には心臓の 痙攣 ( けいれん ) 起こり、はげしき苦痛のあとはおおむね
※々 ( こんこん ) としてうわ言を発し、今日は昨日より、 翌日 ( あす ) は今日より、衰弱いよいよ加わりつ。その 咳嗽 ( がいそう ) を聞いて 連夜 ( よごと ) ねむらぬ父中将のわが 枕 ( まくら ) べに来るごとに、浪子はほのかに 笑 ( え ) みて苦しき息を忍びつつ明らかにもの言えど、うとうととなりては絶えず武男の名をば呼びぬ。*
今日明日と医師のことに戒めしその今日は夕べとなりて、 部屋 ( へや ) 部屋は 燈 ( ともしび ) あまねく 点 ( つ ) きたれど、 声高 ( こわだか ) にもの言う者もなければ、しんしんとして人ありとは思われず。今皮下注射を終えたるあとをしばし静かにすとて、廊下伝いに 離家 ( はなれ ) より 出 ( い ) で来し二人の婦人は、小座敷の 椅子 ( いす ) に 倚 ( よ ) りつ。一人は加藤子爵夫人なり。今一人はかつて浪子を 不動祠畔 ( ふどうしはん ) に救いしかの老婦人なり。去年の秋の暮れに別れしより、しばらく相見ざりしを、浪子が父に請いて使いして招けるなり。
「いろいろ御親切に――ありがとうございます。 姪 ( あれ ) も一度はお目にかかってお礼を申さなければならぬと、そう言い言いいたしておりましたのですが――お目にかかりまして本望でございましょう」
加藤子爵夫人はわずかに口を開きぬ。
答うべき 辞 ( ことば ) を知らざるように、老婦人はただ 太息 ( といき ) つきて 頭 ( かしら ) を下げつ。ややありて声を低くし
「で――はどちらにおいでなさいますので?」
「台湾にまいったそうでございます」
「台湾!」
老婦人は再び太息つきぬ。
加藤子爵夫人はわき来る涙をかろうじておさえつ。
「でございませんと、あの通り思っているのでございますから、世間体はどうともいたして、あわせもいたしましょうし、 暇乞 ( いとまごい ) もいたさせたいのですが――何をいっても昨日今日台湾に着いたばかり、それがほかと違って軍艦に乗っているのでございますから――」
おりから片岡夫人入り来つ。そのあとより目を泣きはらしたる千鶴子は急ぎ足に入り来たりて、その母を呼びたり。
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