第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
一の二
夜十時点検終わり、差し当たる職務なきは 臥 ( ふ ) し、余はそれぞれ方面の務めに 就 ( つ ) き、高声火光を禁じたれば、 上 ( じょう ) 甲板も 下 ( げ ) 甲板も 寂 ( せき ) としてさながら人なきようになりぬ。 舵手 ( だしゅ ) に令する航海長の声のほかには、ただ煙突の 煙 ( けぶり ) のふつふつとして白く月にみなぎり、 螺旋 ( スクルー ) の波をかき、大いなる心臓のうつがごとく 小止 ( おや ) みなき機関の響きの艦内に満てるのみ。
月影白き前艦橋に、二個の 人影 ( じんえい ) あり。その一は艦橋の左端に凝立して動かず。一は靴音静かに、墨より黒き影をひきつつ、五歩にして 止 ( とど ) まり、十歩にして返る。
こは川島武男なり。この 艦 ( ふね ) の○番分隊士として、当直の航海長とともに、副直の四時間を艦橋に立てるなり。
彼は今艦橋の右端に達して、双眼鏡をあげつ、艦の四方を望みしが、見る所なきもののごとく、 右手 ( めて ) をおろして、 左手 ( ゆんで ) に欄干を握りて立ちぬ。前部砲台の 方 ( かた ) より士官 二人 ( ふたり ) 、 低声 ( こごえ ) に相語りつつ艦橋の下を過ぎしが、また陰の暗きに消えぬ。甲板の上 寂 ( せき ) として、風冷ややかに、月はいよいよ 冴 ( さ ) えつ。艦首にうごめく番兵の影を見越して、海を望めば、ただ 左舷 ( さげん ) に淡き島山と、見えみ見えずみ月光のうちを行く先艦 秋津洲 ( あきつしま ) をのみ 隈 ( くま ) にして、一艦のほか月に 白 ( しら ) める黄海の水あるのみ。またひとしきり煙に和して勢いよく立ち上る火花の行くえを 目送 ( みおく ) れば、 大檣 ( たいしょう ) の上高く星を散らせる秋の夜の空は 湛 ( たた ) えて、月に淡き銀河一道、 微茫 ( びぼう ) として白く海より海に流れ入る。
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月は三たびかわりぬ。武男が席を 蹴 ( け ) って母に辞したりしより、月は三たび移りぬ。
この三月の 間 ( ま ) に、彼が身生はいかに多様の 境界 ( きょうがい ) を経来たりしぞ。韓山の風雲に胸をおどらし、佐世保の湾頭には「今度この節国のため、遠く離れて 出 ( い ) でて行く」の離歌に 腸 ( はらわた ) を断ち、宣戦の大詔に腕を 扼 ( とりしば ) り、威海衛の砲撃に初めて火の洗礼を授けられ、心をおどろかし目を驚かすべき事は続々起こり来たりて、ほとんど彼をして考うるの 暇 ( いとま ) なからしめたり。多謝す、これがために武男はその心をのみ尽くさんとするあるものをば思わずして、わずかにわれを持したるなりき。この国家の大事に際しては、 渺 ( びょう ) たる 滄海 ( そうかい ) の一 粟 ( ぞく ) 、 自家 ( われ ) 川島武男が一身の死活浮沈、なんぞ問うに足らんや。彼はかく自ら 叱 ( しっ ) し、かの痛をおおうてこの職分の道に従い、絶望の勇をあげて征戦の事に従えるなり。死を彼は真に 塵 ( ちり ) よりも軽く思えり。
されど事もなき艦橋の上の 夜 ( よ ) 、韓海の夏暑くしてハンモックの夢結び難き 夜 ( よ ) は、ともすれば痛恨 潮 ( うしお ) のごとくみなぎり来たりて、 丈夫 ( ますらお ) の胸裂けんとせしこと幾たびぞ。時はうつりぬ。今はかの当時、何を恥じ、何を 憤 ( いか ) り、何を悲しみ、何を恨むともわかち難き感情の、 腸 ( はらわた ) に 沸 ( たぎ ) りし時は過ぎて、一片の痛恨深く 痼 ( こ ) して、人知らずわが心を 蝕 ( くら ) うのみ。母はかの後二たび書を寄せ物を寄せてつつがなく帰り来たるの日を待つと言い送りぬ。武男もさすがに老いたる母の 膝下 ( しっか ) さびしかるべきを思いては、かの時の過言を謝して、その健康を祈る由書き送りぬ。されど解きても 融 ( と ) け難き一塊の恨みは深く深く胸底に残りて、彼が夜々ハンモックの上に、北洋艦隊の 殲滅 ( せんめつ ) とわが 討死 ( うちじに ) の夢に伴なうものは、 雪白 ( せっぱく ) の 肩掛 ( ショール ) をまとえる病めるある人の 面影 ( おもかげ ) なりき。
消息絶えて、月は三たび移りぬ。彼女なお生きてありや、なしや。生きてあらん。わが忘るる日なきがごとく、彼も思わざるの日はなからん。共に生き共に死なんと誓いしならずや。
武男はかく思いぬ。さらに最後に相見し時を思いぬ。五日の月松にかかりて、 朧々 ( ろうろう ) としたる逗子の夕べ、われを送りて 門 ( かど ) に立ち 出 ( い ) で、「早く帰ってちょうだい」と呼びし人はいずこぞ。思い入りてながむれば、白き 肩掛 ( ショール ) をまとえる姿の、今しも月光のうちより歩み 出 ( い ) で来たらん 心地 ( ここち ) すなり。
明日 ( あす ) にもあれ、首尾よく敵の艦隊に会して、この身砲弾の 的 ( まと ) にもならば、すべて世は一 場 ( じょう ) の夢と過ぎなん、と武男は思いぬ。さらにその母を思いぬ。 亡 ( な ) き父を思いぬ。幾年前江田島にありける時を思いぬ。しこうして心は再び病める人の上に返りて
*
「川島君」
肩をたたかれて、打ち驚きたる武男は急に月に 背 ( そむ ) きつ。驚かせしは航海長なり。
「実にいい月じゃないか。 戦争 ( いくさ ) に行くとは思われんね」
打ちうなずきて、武男はひそかに 涙 ( なんだ ) をふり落としつつ双眼鏡をあげたり。月白うして黄海、物のさえぎるなし。
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