第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
七の二
武男が入り来る足音に、 老爺 ( じじい ) はおもむろに振りかえりて、それと見るよりいささか驚きたる 体 ( てい ) にて、 鉢巻 ( はちまき ) をとり、小腰を 屈 ( かが ) めながら
「これはおいでなせえまし。旦那様アいつお 帰 ( けえ ) りでごぜエましたんで?」
「二三日前に帰った。 老爺 ( おまえ ) も相変わらず達者でいいな」
「どういたしまして、はあ、ねッからいけませんで、はあお世話様になりますでごぜエますよ」
「何かい、 老爺 ( おまえ ) はもうよっぽど長く留守をしとるのか?」
「いいや、何でごぜエますよ、その、 先月 ( あとげつ ) までは奥様――ウンニャお嬢――ごご御病人様とばあやさんがおいでなさったんで、それからまア 老爺 ( わたくし ) がお留守をいたしておるでごぜエますよ」
「それでは 先月 ( あとげつ ) 帰京 ( かえ ) ったンだね――では 東京 ( あっち ) にいるのだな」
と武男はひとりごちぬ。
「はい、さよさまで。殿様が 清国 ( あっち ) からお 帰 ( けえ ) りなさるその 前 ( めえ ) に、東京にお 帰 ( けえ ) りなさったでごぜエますよ。はア、それから殿様とごいっしょに 京都 ( かみがた ) に行かっしゃりました御様子で、まだ 帰京 ( けえ ) らっしゃりますめえと、はや思うでごぜエますよ」
「 京都 ( かみがた ) に?――では病気がいいのだな」
武男は再びひとりごちぬ。
「で、いつ行ったのだね?」
「 四五日 ( しごんち ) 前――」と言いかけしが、 老爺 ( じじい ) はふと今の関係を思い 出 ( い ) でて、言い過ぎはせざりしかと思い 貌 ( がお ) にたちまち口をつぐみぬ。それと感ぜし武男は思わず顔をあからめたり。
ふたり 相対 ( あいむか ) いてしばし 黙然 ( もくねん ) としていたりしが、 老爺 ( じじい ) はさすがに気の毒と思い返ししように、
「ちょいと戸を明けますべえ。旦那様、お茶でも上がってまあお休みなさッておいでなせエましよ」
「何、かまわずに置いてもらおう。ちょっと通りかかりに寄ったんだ」
言いすてて武男はかつて来なれし屋敷 内 ( うち ) を回り見れば、さすがに 守 ( も ) る人あれば荒れざれど、戸はことごとくしめて、 手水鉢 ( ちょうずばち ) に水絶え、庭の青葉は茂りに茂りて、ところどころに 梅子 ( うめのみ ) こぼれ、青々としたる 芝生 ( しばふ ) に咲き残れる 薔薇 ( ばら ) の花半ばは落ちて、ほのかなる 香 ( かおり ) は庭に満ちたり。いずくにも人の 気 ( け ) はなくて、 屋後 ( おくご ) の松に 蝉 ( せみ ) の 音 ( ね ) のみぞかしましき。
武男は
※々 ( そうそう ) に 老爺 ( じじい ) に別れて、 頭 ( かしら ) をたれつつ 出 ( い ) で去りぬ。五六日を経て、武男はまた家を辞して遠く南征の途に上ることとなりぬ。家に帰りて十余日、他の同僚は 凱旋 ( がいせん ) の歓迎のとおもしろく騒ぎて過ごせるに引きかえて、武男はおもしろからぬ日を送れり。遠く離れてはさすがになつかしかりし家も、帰りて見れば思いのほかにおもしろき事もなくて、武男はついにその心の 欠陥 ( あき ) を満たすべきものを得ざりしなり。
母もそれと知りて、苦々しく思えるようすはおのずから言葉の端にあらわれぬ。武男も母のそれと知れるをば知り得て、さしむかいて語るごとに、ものありて間を隔つるように覚えつ。されば母子の間はもとのごとき破裂こそなけれ、武男は一年後の今のかえってもとよりも母に遠ざかれるを 憾 ( うら ) みて、なお遠ざかるをいかんともするあたわざりき。 母子 ( ぼし ) は冷然として別れぬ。
横須賀より乗るべかりしを、出発に 垂 ( なんな ) んとして 障 ( さわり ) ありて一 日 ( じつ ) の期をあやまりたれば、武男は 呉 ( くれ ) より乗ることに定め、六月の十日というに孤影 蕭然 ( しょうぜん ) として東海道列車に乗りぬ。
第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||