第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
九の二
日は暮れぬ。去年の夏に新たに建てられし 離家 ( はなれ ) の八畳には、 燭台 ( しょくだい ) の光ほのかにさして、大いなる 寝台 ( ねだい ) 一つ据えられたり。その雪白なるシーツの上に、目を閉じて、浪子は横たわりぬ。
二年に近き病に、やせ果てし 躯 ( み ) はさらにやせて、肉という肉は落ち、骨という骨は 露 ( あら ) われ、 蒼白 ( あおじろ ) き 面 ( おもて ) のいとど透きとおりて、ただ黒髪のみ昔ながらにつやつやと照れるを、長く組みて 枕上 ( まくら ) にたらしたり。枕もとには白衣の看護婦が氷に和せし 赤酒 ( せきしゅ ) を時々筆に含まして浪子の 唇 ( くちびる ) を 湿 ( うるお ) しつ。こなたには今一人の看護婦とともに、目くぼみ頬落ちたる幾がうつむきて足をさすりぬ。室内しんしんとして、ただたちまち急にたちまちかすかになり行く浪子の呼吸の聞こゆるのみ。
たちまち長き息つきて、浪子は目を開き、かすかなる声を漏らしつ。
「伯母さまは――?」
「来ましたよ」
言いつつしずかに入り来たりし加藤子爵夫人は、看護婦がすすむる椅子をさらに 臥床 ( とこ ) 近く引き寄せつ。
「少しはねむれましたか。――何? そうかい。では――」
看護婦と幾を顧みつつ
「少しの 間 ( ま ) あっちへ」
三人 ( みたり ) を出しやりて、伯母はなお近く椅子を寄せ、浪子の額にかかるおくれ毛をなで上げて、しげしげとその顔をながめぬ。浪子も伯母の顔をながめぬ。
ややありて浪子は 太息 ( といき ) とともに、わなわなとふるう手をさしのべて、枕の下より一通の封ぜし 書 ( もの ) を取り 出 ( いだ ) し
「これを――届けて――わたしがなくなったあとで」
ほろほろとこぼす涙をぬぐいやりつつ、加藤子爵夫人は、さらに 眼鏡 ( めがね ) の下よりはふり落つる涙をぬぐいて、その書をしかとふところにおさめ、
「届けるよ、きっとわたしが武男さんに手渡すよ」
「それから――この 指環 ( ゆびわ ) は」
左手 ( ゆんで ) を伯母の 膝 ( ひざ ) にのせつ。その第四指に 燦然 ( さんぜん ) と照るは 一昨年 ( おととし ) の春、新婚の時武男が贈りしなり。去年去られし時、かの家に属するものをばことごとく送りしも、ひとりこれのみ 愛 ( お ) しみて手離すに忍びざりき。
「これは―― 持 ( も ) って――行きますよ」
新たにわき来る涙をおさえて、加藤夫人はただうなずきたり。浪子は目を閉じぬ。ややありてまた開きつ。
「どうしていらッしゃる――でしょう?」
「武男さんはもう 台湾 ( あちら ) に着いて、きっといろいろこっちを思いやっていなさるでしょう。近くにさえいなされば、どうともして、ね、――そうおとうさまもおっしゃっておいでだけれども――浪さん、あんたの心尽くしはきっとわたしが――手紙も確かに届けるから」
ほのかなる 笑 ( えみ ) は浪子の 唇 ( くちびる ) に上りしが、たちまち色なき頬のあたり 紅 ( くれない ) をさし来たり、胸は波うち、燃ゆばかり熱き涙はらはらと苦しき息をつき、
「ああつらい! つらい! もう――もう 婦人 ( おんな ) なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」
眉 ( まゆ ) をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつ赤酒を含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、 生命 ( いのち ) を縮むるせきとともに、肺を絞って一 盞 ( さん ) の紅血を吐きつ。
※々 ( こんこん ) として 臥床 ( とこ ) の上に倒れぬ。医とともに、皆入りぬ。
第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||