University of Virginia Library

五の三

 目をぬぐいて、老婦人は語り続けぬ。

 「同じ東京にいながら、知らずにいればいられるものですねエ。それから父と連れ立って、まあ近くの 蕎麦屋 ( そばや ) にまいりましてね、様子を聞いて見ますと、上野の落ちた後は諸処方々を 流浪 ( るろう ) して、手習いの先生をしたり、病気したり、今は昔の家来で 駒込 ( こまごめ ) のすみにごくごく小さな植木屋をしているその者にかかッて、自身はこう毎日貸し車を引いているというのでございますよ。うれしいやら、悲しいのやら、情けないのやら、込み上げて、ろくに話もできないのです。それからまあその晩は父に心づけられて別れましてね。

  ( ) 大分 ( だいぶ ) ふけていました。帰るとあなた ( しゅうと ) は待ち受けていたという ( てい ) で、それはひどい ( おこ ) りよう ( にが ) りようで、情けないじゃございませんか、私に何かくらい、あるまじいしわざでもあるように言いましてね。胸をさすッて、父の事を打ち明けて申しますと、気の毒と思ってくれればですが、それはもう聞きづらい恥ずかしい事を――あまり口惜しくて、情けなくて、今度ばかりは辛抱も何もない、もうもう 此家 ( ここ ) にはいない、今からすぐと父のそばに行って、とそう思いましてね、姑が ( ) せりましたあとで、そっと着物を着かえて、 ( せがれ ) =六つでした=がこう ( やす ) んでいます ( まくら ) もとで書き置きを書いていますと、悴が夢でも見たのですか、眠ったまま右の手を伸ばして「 ( かあ ) さま、行っちゃいやよ」と申すのですよ。その日小石川にまいる時置いて行ったのですから、その夢を見たのでしょうが、びっくりしてじっとその寝顔を見ていますと、その顔が良人の顔そのままになって、私は筆を落として泣いていました。そうすると、まあどうして思い出したのでございますか、まだ子供の時分にね、寝物語に母から聞いた嫁姑の話、あの話がこうふと心に浮かみましてね、ああ私一人の辛抱で何も無事に治まることと、そうおもい直しましてね――あなた、御退屈でしょう?」

 身にしみて ( ) ける浪子は、答うるまでもなくただ涙の顔を上げつ。幾が新たにくめる茶をすすりて、老婦人は再び 談緒 ( だんちょ ) をつぎぬ。

 「それからとやかく姑にわびましてね、しかしそんなわけですからなかなか父を引き取るの ( みつ ) ぐのということはできません。で、まあごく内々で身のまわり=多くもありませんでしたが=の物なんぞ売り払ったり、それもながくは続かないのですから、良人の 知己 ( しるべ ) に頼みましてね、ある外国公使の夫人に物好きで日本の琴を習いたいという人がありましてね、それで姑の前をとやかくしてそれから月に幾たび琴を教えて、まあ少しは父を楽にすることができたのですが、そうするうちに、その夫人と懇意になりましてね、それは珍しいやさしい人でして、時々は 半解 ( はんわかり ) の日本語でいろいろ話をしましてね、読んでごらんなさいといって本を一冊くれました。それがね、そのころ初めて和訳になったマタイ伝――この聖書の初めにありますのでした。少し読みかけて見たのですが、何だか変な事ばかり書いてありまして、まあそのままにうっちゃって置いたのでした。

 それから 翌年 ( よくとし ) の春、姑はふと 中風 ( ちゅうふう ) になりましてね、気の強い人でしたが、それはもう子供のように、ひどくさびしがって、ちょいとでもはずしますと、お ( きよ ) お清とすぐ呼ぶのでございますよ。そばにすわって、 ( はえ ) を追いながら、すやすや眠る姑の顔を見ていますと、本当にこうなるものをなぜ一度でも心に恨んだことがあったろう、できることならもう一度丈夫にして、とそうおもいましてね、精一杯骨を折ったのですが、そのかいもないのでした。

 姑が亡くなりますとほどなく良人が帰朝しましてね。それから引き取るというきわになって、父も安心したせいですか、急に病気になって、つい二三日でそれこそ眠るように消えました。もう生涯会われぬと思った娘には会うし、やさしくしてくれるし、自分ほど果報者はないと、そう申しましてね。――でも私は思う十分一もできませんで、今でも思い出すたびにもう一度 ( ) かして思う存分喜ばして見たいと思わぬ時はありませんよ。

 それから良人は次第に立身いたします、悴は大きくなりまして、私もよほど楽になったのですが、ただ気をもみましたのは、良人の 大酒 ( たいしゅ ) ――軍人は多くそうですが――の癖でした。それから今でもやはりそうですが、そのころは別してね、 男子 ( おとこ ) ( かた ) が不行跡で、良人なんぞはまあ西洋にもまいりますし、少しはいいのでしたが、それでも恥ずかしい事ですが、私も随分心配をいたしました。それとなく異見をしましても、あなた、笑って取り合いませんのですよ。

 そうするうちにあの十年の戦争になりまして、良人―― 近衛 ( このえ ) の大佐でした――もまいります。そのあとに悴が 猩紅熱 ( しょうこうねつ ) で、まあ 日夜 ( ひるよる ) つきッきりでした。四月十八日の ( ばん ) でした、悴が少しいい方でやすんでいますから、 ( おんな ) なぞもみんな寝せまして、私は悴の枕もとに、 行燈 ( あんどう ) の光で少し縫い物をしていますと、ついうとうといたしましてね。こう気が ( とおー ) くなりますと、すうと人の来る ( ) はいがいたして、悴の枕もとにすわる者があるのです。たれかと思って見ますと、あなた、良人です、軍服のままで、血だらけになりまして、 ( あお ) ざめて――ま、あなた、思わずいったその声にふッと目がさめて、あたりを見るとだれもいません。行燈の火がとろとろ燃えて、悴はすやすや眠っています。もうすっかり汗になりまして、 動悸 ( どうき ) がはげしくうって――

 その翌日から悴は急にわるくなりまして、とうとうその夕刻に息を引き取りましてね。もう夢のようになりましてその ( からだ ) を抱いているうちに、着いたのが良人が 討死 ( うちじに ) 電報 ( しらせ ) でした」

 話者は口をつぐみ、聴者は息をのみ、室内しんとして水のごとくなりぬ。

 やや久しゅうして、老婦人は再び口を開けり。

 「それから一切夢中でしてね、日と月と一時に ( ) ったと申しましょうか、何と申しましょうか、それこそほんにまっ暗になりまして、辛抱に辛抱して 結局 ( つまり ) がこんな事かと思いますと、いっそこのままなおらずに――すぐそのあとで 臥病 ( わずらい ) ましたのですよ――と思ったのですが、 ( しあわせ ) 不幸 ( ふしあわせ ) か病気はだんだんよくなりましてね。

 病気はよくなったのですが、もう私には世の中がすっかり 空虚 ( から ) になったようで、ただ生きておるというばかりでした。そうするうちに、 知己 ( しるべ ) の勧めでとにかく家をたたんでしばらくその宅にまいることになりましてね。病後ながらぶらぶら道具や何か取り細めていますと、いつでしたか 箪笥 ( たんす ) を明けますとね、亡くなりました悴の ( あわせ ) の下から ( ほん ) が出てまいりましてね、ふと見ますと先年外国公使の夫人がくれましたその聖書でございますよ。読むでもなくつい見ていますと、ちょいとした文句が、こう妙に胸に響くような 心地 ( こころもち ) がしましてね――それはこの ( ほん ) にも 符号 ( しるし ) をつけて置きましたが――それから 知己 ( しるべ ) ( うち ) に越しましても、時々読んでいました。読んでいますうちに、山道に迷った者がどこかに ( とり ) の声を聞くような、まっくらな晩にかすかな光がどこからかさすように思いましてね。もうその ( ほん ) をくれた公使の夫人は帰国して、いなかったのですが、だれかに話を聞いて見たいと思っていますうちに、 知己 ( しるべ ) の世話でそのころできました女の学校の舎監になって見ますと、それが 耶蘇 ( やそ ) 教主義の学校でして、その教師のなかにまだ若い御夫婦の方でしたが、それは熱心な方がありましてね、この御夫婦が私のまあ 先達 ( せんだつ ) になってくだすったのですよ。その先達に 初歩 ( ふみはじめ ) ( おそ ) わってこの道に入りましてから、今年でもう十六年になりますが、 ( つえ ) とも思うは実にこの ( ほん ) で、一日もそばを放さないのでございますよ。霊魂不死という事を信じてからは、死を限りと思った世の中が広くなりまして、天の父を知ってからは親を失ってまた大きな親を得たようで、愛の働きを聞いてからは子を ( ) くしてまたおおぜいの子を持った 心地 ( こころもち ) で、望みという事を教えられてから、辛抱をするにも楽しみがつきましてね――

 私がこの ( ほん ) を読むようになりましたしまつはまあざッとこんなでございますよ」

 かく言い来たりて、老婦人は熱心に浪子の顔打ちまもり、

 「実は、御様子はうすうす承っていましたし、ああして時々浜でお目にかかるのですから、ぜひ伺いたいと思う事もたびたびあったのですが、――それがこうふとお心やすくいたすようになりますと、またすぐお別れ申すのは、まことに残念でございますよ。しかしこう申してはいかがでございますが、私にはどうしても 浅日 ( ちょっと ) のお 面識 ( なじみ ) の方とは思えませんよ。どうぞ 御身 ( おみ ) を大事に遊ばして、必ず気をながくお持ち遊ばして、ね、決して短気をお出しなさらぬように――御気分のいい 時分 ( とき ) はこの ( ほん ) をごらん遊ばして――私は 東京 ( あちら ) に帰りましても、朝夕こちらの事を思っておりますよ」

       *

 老婦人はその翌日東京に去りぬ。されどその贈れる一書は常に浪子の身近に置かれつ。

 世にはかかる不幸を経てもなお人を慰むる ( まこと ) を余せる人ありと思えば、母ならず伯母ならずしてなおこの 茫々 ( ぼうぼう ) たる世にわれを思いくくる人ありと思えば、浪子はいささか慰めらるる 心地 ( ここち ) して、聞きつる履歴を時々思い ( ) でては、心こめたる贈り物の一書をひもとけるなり。