University of Virginia Library

五の一

 「ばあや。お茶を入れるようにしてお置き。もうあの方がいらっしゃる時分ですよ」

 かく言いつつ浪子はおもむろに幾を顧みたり。幾はそこらを片づけながら

 「ほんとにあの方はいい ( かた ) でございますねエ。あれでも 耶蘇 ( やそ ) でいらッしゃいますッてねエ」

 「ああそうだッてね」

 「でもあんな方が 切支丹 ( きりしたん ) でいらッしゃろうとは思いませんでしたよ。それにあんなに髪を切ッていらッしゃるのですら」

 「なぜかい?」

 「でもね、あなた、耶蘇の方では御亭主が ( ) くなッても髪なんぞ切りませんで、なおのことおめかしをしましてね、すぐとまたお嫁入りの口をさがしますとさ」

 「ほほほほ、ばあやはだれからそんな事を聞いたのかい?」

 「イイエ、ほんとでございますよ。一体あの宗旨では、若い ( もの ) までがそれは生意気でございましてね、ほんとでございますよ。幾が 親類 ( みうち ) 隣家 ( となり ) 一人 ( ひとり ) そんな ( ) がございましてね、もとはあなたおとなしい ( ) で、それがあの宗旨の学校にあがるようになりますとね、あなた、すっかりようすが変わっちまいましてね、日曜日になりますとね、あなた、 母親 ( おや ) 今日 ( きょう ) ( せわ ) しいからちっと手伝いでもしなさいと言いましてもね、平気でそのお寺にいっちまいましてね、それから学校はきれいだけれども ( うち ) はきたなくていけないの、 ( おっか ) さんは 頑固 ( がんこ ) だの、すぐ口をとがらしましてね、それに学校に上がっていましても、あなた、受取証が一枚書けませんでね、 裁縫 ( しごと ) をさせますと、日が一日 襦袢 ( じゅばん ) ( そで ) をひねくっていましてね、お 惣菜 ( そうざい ) の大根をゆでなさいと申しますと、あなた、大根を 俎板 ( まないた ) に載せまして、 庖丁 ( ほうちょう ) を持ったきりぼんやりしておるのでございますよ。 両親 ( おや ) もこんな事ならあんな学校に入れるんじゃなかったと悔やんでいましてね。それにあなた、その ( ) はわたしはあの二百五十円より下の月給の 良人 ( ひと ) には ( ) かない、なんぞ申しましてね。ほんとにあなた、あきれかえるじゃございませんか。もとはやさしい ( ) でしたのに、どうしてあんなになったンでございましょうねエ。これが切支丹の魔法でございましょうね」

 「ほほほほ。そんなでも困るのね。でも、何だッて、いい所もあれば、わるいところもあるから、よく知らないではいわれないよ。ねエばあや」

 心得ずといわんがごとく小首傾けし幾は、熱心に浪子を仰ぎつつ

 「でもあなた、 耶蘇 ( やそ ) だけはおよし遊ばせ」

 浪子はほほえみつ。

 「あの方とお話ししてはいけないというのかい」

 「 耶蘇 ( やそ ) がみんなあんな方だとようございますがねエ、あなた。でも――」

 幾は口をつぐみぬ。うわさをすれば影ありありと西側の障子に映り来たれるなり。

 「お庭口から御免ください」

 細く和らかなる女の声響きて、 ( いそが ) わしく幾がたちてあけし障子の外には、五十あまりの婦人の小作りなるがたたずみたり。年よりも ( ) けて、多き 白髪 ( しらが ) を短くきり下げ、黒地の 被布 ( ひふ ) を着つ。やせたる上にやつれて見ゆれば、打ち見にはやや陰気に思わるれど、目に ( あたた ) かなる光ありて、細き口もとにおのずからなる微笑あり。

 幾があたかもうわさしたるはこの人なり。 ( いま ) だし。一週間以前の不動 祠畔 ( しはん ) 水屑 ( みくず ) となるべかりし浪子をおりよくも抱き留めたるはこの人なりけり。

 ラッパを吹き鼓を鳴らして名を売ることをせざれば、知らざる者は名をだに聞かざれど、知れる者はその包むとすれどおのずから身にあふるる光を浴びて、ながくその人を忘るるあたわずというなり。姓は 小川 ( おがわ ) 名は 清子 ( きよこ ) と呼ばれて、 目黒 ( めぐろ ) のあたりにおおぜいの孤児女と ( ) み、一大家族の母として路傍に遺棄せらるる幾多の霊魂を拾いてははぐくみ育つるを楽しみとしつ。 肋膜炎 ( ろくまくえん ) に悩みし病余の ( たい ) を養うとて、昨月の末より 此地 ( ここ ) に来たれるなるが、かの日、あたかも不動祠にありて図らず浪子を ( いだ ) き止め、その主人を尋ねあぐみて 狼狽 ( ろうばい ) して来たれる幾に浪子を渡せしより、おのずから往来の道は開けしなり。