第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
三の一
枕 ( まくら ) べ近き小鳥の声に呼びさまされて、武男は目を開きぬ。
ベッドの上より手を伸ばして、窓かけ引き 退 ( の ) くれば、今向こう山を離れし朝日花やかに 玻璃窓 ( はりそう ) にさし込みつ。山は朝霧なお白けれど、秋の空はすでに 蒼々 ( あおあお ) と澄み渡りて、窓前一樹染むるがごとく 紅 ( くれない ) なる桜の 梢 ( こずえ ) をあざやかに 襯 ( しん ) し 出 ( いだ ) しぬ。梢に両三羽の小鳥あり、相語りつつ枝より枝におどれるが、ふと言い合わしたるように玻璃窓のうちをのぞき、半身をもたげたる武男と顔見合わし、驚きたって飛び去りし 羽風 ( はかぜ ) に、黄なる桜の一葉ばらりと散りぬ。
われを呼びさませし 朝 ( あした ) の使いは彼なりけるよと、武男はほほえみつ、また枕につかんとして、痛める所あるがごとくいささか 眉 ( まゆ ) をひそめつ。すでにしてようやく身をベッドの上に安んじ、目を閉じぬ。
朝 ( あした ) 静かにして、耳わずらわす 響 ( おと ) もなし。 鶏 ( とり ) 鳴き、ふなうた遠く聞こゆ。
武男は目を開いて 笑 ( え ) み、また目を閉じて思いぬ。
*
武男が黄海に負傷して、ここ佐世保の病院に身を託せしより、すでに一月余り過ぎんとす。
かの時、砲台の 真中 ( まなか ) に破裂せし敵の 大榴弾 ( だいりゅうだん ) の乱れ飛ぶにうたれて、 尻居 ( しりい ) にどうと倒れつつはげしき苦痛に一時われを失いしが、苦痛のはなはだしかりしわりに、脚部の傷は二か所とも幸いに骨を 避 ( よ ) けて、その他はちとの火傷を受けたるのみ。分隊長は 骸 ( がい ) も留めず、同僚は戦死し、部下の砲員無事なるはまれなりしがなかに、不思議の命をとりとめて、この海軍病院に送られつ。 最初 ( はじめ ) はさすがに熱もはげしく上りて、ベッドの上のうわ言にも手を 戟 ( ほこ ) にして敵艦をののしり分隊長と叫びては医員を驚かししが、もとより血気盛んなる若者の、傷もさまで重きにあらず、時候も秋涼に向かえるおりから、熱は次第に下り、経過よく、 膿腫 ( のうしょう ) の 患 ( うれい ) もなくて、すでに一月あまり過ぎし 今日 ( きょう ) このごろは、なお幾分の痛みをば覚ゆれど、ともすれば石炭酸の 臭 ( か ) の満ちたる室をぬけ 出 ( い ) でて 秋晴 ( しゅうせい ) の庭におりんとしては軍医の小言をくうまでになりつ。この上はただ 速 ( すみ ) やかに戦地に帰らんと、ひたすら医の 許容 ( ゆるし ) を待てるなりき。
思いすてて 塵芥 ( ちりあくた ) よりも軽かりし命は不思議にながらえて、熱去り苦痛薄らぎ食欲復するとともに、われにもあらで生を楽しむ心は動き、従って 煩悩 ( ぼんのう ) もわきぬ。 蝉 ( せみ ) は殻を脱げども、人はおのれを 脱 ( のが ) れ得ざれば、戦いの 熱 ( ねつ ) 病 ( やまい ) の熱に 中絶 ( なかた ) えし記憶の糸はその 体 ( たい ) のやや 癒 ( い ) えてその心の 平生 ( へいぜい ) に 復 ( かえ ) るとともにまたおのずから 掀 ( かか ) げ起こされざるを得ざりしなり。
されど大疾よく体質を新たにするにひとしく、わずかに一紙を隔てて死と相見たるの経験は、武男が記憶を別様に新たならしめたり。激戦、及びその前後に相ついで起こりし異常の事と異常の感は、風雨のごとくその心を 簸 ( ふる ) い 撼 ( うご ) かしつ。風雨はすでに過ぎたれど、余波はなお心の海に残りて、浮かぶ記憶はおのずから異なる態をとりぬ。武男は母を憤らず、浪子をば今は世になき妻を思うらんようにその心の 龕 ( がん ) に祭りて、浪子を思うごとにさながら遠き野末の悲歌を聞くごとく、一種なつかしき 哀 ( かな ) しみを覚えしなり。
田崎来たり見舞いぬ。武男はよりて母の近況を知りまたほのかに浪子の 近況 ( ようす ) を聞きぬ。(武男の気をそこなわんことを恐れて、田崎はあえて山木の娘の一条をばいわざりき)武男は浪子の事を聞いて落涙し、田崎が去りし後も、松風さびしき 湘南 ( しょうなん ) の 別墅 ( べっしょ ) に病める人の 面影 ( おもかげ ) は、黄海の戦いとかわるがわる武男が 宵々 ( しょうしょう ) の夢に入りつ。
田崎が東に帰りし後 数日 ( すじつ ) にして、いずくよりともなく一包みの荷物武男がもとに届きぬ。
*
武男は今その事を思えるなり。
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