University of Virginia Library

御産

去程に此人々は、鬼界が島を出て、平宰相の領肥前國鹿瀬庄に著給ふ。宰相京より人を下して、「年の内は浪風も烈しう、道の間も覺束なう候に、それにて能々身いたはて、春に成て上り給へ。」とありければ、少將鹿瀬庄にて、年を暮す。

さる程に同年十一月十二日の寅の刻より、中宮御産の氣坐すとて、京中六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅池殿にて有けるに法皇も御幸なる。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿殿上人、すべて世に人と數へられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、一人も漏るは無りけり。先例も、女御、后、御産の時に臨んで大赦行はるゝ事あり。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、大赦有りき。其例とて今度も、重科の輩多く許されける中に、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけれ。

御産平安に在ならば、八幡、平野、大原野などへ、行啓なるべしと御立願有けり。仙源法印、是を敬白す。神社は太神宮を始奉て、二十餘箇所、佛寺は東大寺、興福寺、 已下十六箇所に御誦經あり。御誦經の御使は、宮の侍の中に、有官の輩是を勤む。平 紋の狩衣に帶劔したる者共が、色々の御誦經物、御劍御衣を持續いて、東の臺より南 庭を渡て、西の中門に出づ。目出たかりし見物なり。

小松大臣は例の善惡に噪がぬ人にて坐ければ、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將以下公達の車共遣續させ、色々の御衣四十領、銀劔七つ、廣蓋に置せ、御馬十二匹引せて參り給。寛弘に上東門院御産の時、御堂殿御馬を參せられし其例とぞ聞えし。此大臣は中宮の御兄にて坐ける上、父子の御契なれば、御馬參せ給ふも理なり。五條の大納言國綱卿、御馬二匹進ぜらる。志の至か、徳の餘かとぞ人申ける。猶伊勢より始て、安藝の嚴島に至まで、七十餘箇所へ神馬を立らる。内裏にも寮の御馬に四手附て、數十匹引立たり。仁和寺御室は、孔雀經の法、天台座主覺快法親王は、七佛藥師の法、寺の長吏圓慶法親王は、金剛童子の法、其外五大虚空藏、六觀音、一字金輪、五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで、殘所なう修せられけり。護摩の煙御所中にみち、鈴の音雲を響し、修法の聲身の毛堅て、如何なる御物のけなり共、面をむかふべしとも見えざりけり。猶佛所の法印に仰て、御身等身の藥師竝に五大尊の像を作り始らる。

かゝりしか共、中宮は隙なく頻らせ給ふばかりにて、御産も頓に成遣ず。入道相國、 二位殿、胸に手を置て、こはいかにせんとぞあきれ給ふ。人の物申しけれども、唯と もかくも好樣にとぞ宣ける。さり共「軍の陣ならば、是程淨海は臆せじ物を。」とぞ 後には仰られける。御驗者は、房覺性運兩僧正、春堯法印、豪禪、實專兩僧都、各僧 伽の句どもあげ、本寺本山の三寶、年來所持の本尊達、責ふせ々々々もまれけり。誠 にさこそはと覺えて尊かりける中に法皇は、折しも新熊野へ御幸なるべきにて、御精 進の次なりける間、錦帳近く御座有て、千手經を打上遊されけるにこそ、今一際事替 て、さしも躍狂ふ御よりまし共が縛も、暫打靜けれ。法皇仰なりけるは、「如何なる 御物氣なり共、此老法師がかくて候はんには、爭か近附奉るべき。就中に今現るる所 の怨靈共は、皆我朝恩によて、人と成し者共ぞかし。縱報謝の心をこそ存ぜず共、豈 障碍を成すべきや。速に罷退き候へ。」とて女人生産し難からん時に臨で、邪魔遮障 し、苦忍難からんにも、心を致して大悲呪を稱誦せば、鬼神退散して、安樂に生ぜん と遊いて、皆水精の御數珠を推揉せ給へば、御産平安のみならず、皇子にてこそ坐け れ。

頭中將重衡卿、其時は未中宮亮にておはしけるが、御簾の内よりつと出て、御産平安、皇子御誕生候ぞや。」と、高らかに申されければ、法皇を始參せて、關白殿以下の大臣、公卿、殿上人、各の助修、數輩の御驗者、陰陽頭、典藥頭、惣て堂上堂下、一同にあと悦あへる聲は、門外までどよみて、暫は靜りやらざりけり。入道餘りの嬉さに、聲をあげてぞ泣ける。悦泣とは是を云べきにや。小松殿、中宮の御方に參せ給て、金錢九十九文、皇子の御枕に置き、「天を以て父とし、地を以て母と定め給へ。御命は方士東方朔が齡を保ち、御心には天照大神入替らせ給へ。」とて、桑の弓蓬の矢を以て、天地四方を射させらる。