University of Virginia Library

6. 平家物語卷第六

新院崩御

治承五年正月一日のひ、内裏には、東國の兵革、南都の火災に依て、朝拜停められ、主上出御もなし。物の音も吹鳴さず、舞樂も奏ぜず、吉野の國栖も參らず、藤氏の公卿一人も參ぜられず、氏寺燒失に依て也。二日のひ殿上の宴醉もなし。男女打ひそめて、禁中忌々しうぞ見えける。佛法王法ともに盡ぬる事ぞ淺ましき。一院仰なりけるは、「我れ十善の餘薫に依て萬乘の寶位を保つ。四代の帝王、思へば子也孫也。如何なれば萬機の政務を停められて、空う年月を送らむ。」とぞ御歎有ける。

同五日のひ、南都の僧綱等、闕官せられ、公請を停止し、所職を沒収せらる。衆徒は老たるも若きも、或は射殺され、或は斬殺され、或は煙の中を出でず、炎に咽んで多く亡にしかば、纔に殘る輩は山林に交り、跡を留る者一人もなし。興福寺別當花林院僧正永圓は、佛像經卷の煙とのぼりけるを見て、あな淺ましと、心打騒ぎ、心をくだかれけるより病附て、幾程もなく終に失給ぬ。此僧正は優に情深き人也。或時郭公の鳴を聞いて、

聞く度にめづらしければほとゝぎす、いつも初音の心地こそすれ。

と云歌を詠うで、初音僧正とぞ云れ給ける。

但しかたのやうにても御齋會は在べきにて僧名の沙汰在しに、南都の僧綱は闕官せられぬ、北京の僧綱を以て行はるべきかと公卿僉議あり。さればとて南都をも捨果させたまふべきならねば、三論宗の學生、成法已講が勸修寺に忍つゝ隱れ居たりけるを召出されて、御齋會形のごとくに行はる。上皇は、去去年法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給し御事、去年高倉宮の討たれさせ給し御有樣、都遷とて淺間しかりし天下の亂れ、加樣の事共御心苦しう思食されけるより御惱つかせ給ひて、常は煩しう聞えさせ給ひしが、東大寺興福寺の亡びぬるよし聞召されて、御惱彌重らせ給ふ。法皇斜ならず御歎有し程に、同正月十四日六波羅池殿にて、上皇終に崩御成ぬ。御宇十二年、徳政千萬端、詩書仁義の廢ぬる道を興し、理世安樂の絶たる跡を繼給ふ。三明六通の羅漢も免れ給はず、幻術變化の權者も遁ぬ道なれば、有爲無常の習なれども、理過てぞ覺えける。やがて其夜東山の麓、清閑寺へ遷し奉り、夕の煙とたぐへ、春の霞と上らせ給ひぬ。澄憲法印御葬送に參會んと、急ぎ山より下られけるが、はや空しき煙と成らせ給ふを見參せて、

常に見し君が御幸をけふ問へば、かへらぬ旅ときくぞ悲き。

又或女房、君隱させ給ひぬと承て、かうぞ思ひつゞける。

雲の上に行末遠く見し月の、光きえぬときくぞかなしき。

御年廿一。内には十戒を保ち、外には五常を亂らず、禮義を正うせさせ給ひけり。末代の賢王にて坐ましければ、世の惜み奉る事、月日の光を失へるが如し。かやうに人の願も叶はず、民の果報も拙き人間の境こそ悲けれ。

紅葉

「ゆうに優う人の思附き參らする方も恐くは延喜天暦の帝と申すとも、爭でか是には勝るべき。」とぞ人申ける。大方は兼王の名を揚げ、仁徳の行を施させまします事も、君御成人の後清濁を分たせ給ひての上の返事にてこそ有るに、此君は無下に幼主の御時より、性を柔和に受させ給へり。去ぬる承安の比ほひ、御在位の始つかた、御年十歳許にも成せ給ひけん、餘に紅葉を愛せさせ給ひて、北の陣に小山を築せ、櫨楓の、色うつくしう紅葉したるを植させて、紅葉の山と名づけて、終日に叡覧有に、猶飽足せ給はず。然を或夜野分はしたなう吹て、紅葉を皆吹散し、落葉頗狼藉なり。殿守の伴の造朝ぎよめすとて、是を悉く掃捨ててけり。殘れる枝、散れる木葉をば掻聚て、風寒じかりけるあしたなれば、縫殿の陣にて、酒煖てたべける薪にこそしてんげれ。奉行藏人、行幸より先にと、急ぎ行て見るに、跡形なし。「如何に。」と問へば、「しか%\。」といふ。藏人大きに驚き、「あな淺まし。君のさしも執し思召されつる紅葉をか樣にしける淺ましさよ。知らず、汝等、只今禁獄流罪にも及び、我身も如何なる逆鱗にか預らんずらん。」と、歎く處に、主上いとゞしく夜のおとゞを出させ給ひも敢ず、かしこへ行幸成て、紅葉を叡覧なるに、無りければ、「如何に。」と御尋有に、藏人奏すべき方はなし、有の儘に奏聞す。天氣殊に御心好げに打笑せ給ひて、「『林間に酒を煖めて紅葉を燒く』と云ふ詩の心をば、其等には誰が教へけるぞや。優うも仕りける物哉。」とて、却て叡感に預し上は、敢て勅勘無りけり。

又安元の比ほひ、御方違の行幸有しに、さらでだに鶏人曉唱聲、明王の眠を驚す程にも成しかば、何も御寢覺がちにて、つや/\御寢もならざりけり。況や冱る霜夜の烈きには、延喜聖代、國土の民共いかに寒るらんとて、夜のおとゞにして、御衣を脱せ給ける事などまでも思召し出して、我帝徳の至ぬ事をぞ御歎有ける。やゝ深更に及んで、程遠く人の叫ぶ聲しけり。供奉の人々は聞附られざりけれども、主上聞召て、 「今叫ぶ者は何者ぞ。きと見て參れ。」と仰ければ、上臥したる殿上人、上日の者に 仰す。走り散て尋ぬれば、或辻に、怪の女童のながもちの蓋提て泣にてぞ有ける。「いかに。」と問へば、「主の女房の、院の御所に侍はせ給ふが、此程やうやうにし て、したてられつる御裝束が持て參る程に、只今男の二三人詣來て、奪取て罷りぬる ぞや。今は御裝束が有ばこそ、御所にもさぶらはせ給はめ。はかばかしう立宿せ給ふ べき親い御方も坐さず。此事思ひつゞくるに泣也。」とぞ申ける。さて彼女童を具し て參り、此由奏聞しければ、主上聞召て、「あな無慚。如何なる者のしわざにてか有 らん。堯の代の民は、堯の心のすなほなるを以て心とするが故に皆すなほ也。今の代 の民は、朕が心を以て心とするが故に、かたましき者朝に在て罪を犯す。此吾恥に非 ずや。」とぞ仰ける。「さて取られつらん衣は何色ぞ。」と御尋あれば、「然々の 色。」と奏す。建禮門院の未中宮にておはしましける時なり。其御方へ、「さやうの色したる御衣や候。」と仰ければ、先のより遙に美きが參たりけるを、件の女童にぞ賜せける。「未夜深し、又さる目にもや逢ふ。」とて、上日の者をつけて、主の女房の局まで送せましましけるぞ忝き。されば怪の賤の男、賤の女に至る迄、只此君千秋萬歳の寶算をぞ祈り奉る。

葵前

中にも哀成し御事は、中宮の御方に候はせ給ふ女房の召使ける上童、思はざる外、龍顏に咫尺する事有けり。唯尋常の白地にても無して主上常はめされけり。まめやかに御志深かりければ、主の女房も召使はず、却て主の如くにぞいつきもてなしける。そのかみ謠詠にいへることあり。「女を生でもひいさんする事無れ。男を生でも喜歡する事無れ。男は侯にだにも封ぜられず、女は妃たり。」とて、后に立つと云へり。此人女御后とももてなされ、國母仙院ともあふがれなんず。目出たかりける幸かなとて其名をば葵前と云ければ、内々は葵女御などぞささやきける。主上是を聞召て、其後は召ざりけり。御志の盡ぬるには非ず、唯世の謗を憚せ給ふに依て也。されば常に御詠がちにて、夜のおとゞにのみぞ入せ給ふ。

其時の關白松殿、御心苦しき事にこそあんなれ。申慰め參せんとて、急ぎ御參内有て、「さ樣に叡慮にかゝらせ坐さん事、何條事か候べき。伴の女房とく/\召さるべしと覺え候。品尋らるゝに及ばず、基房やがて猶子に仕り候はん。」と奏せさせ給へば、主上「いさとよ。そこに申事はさる事なれども、位を退て後は、間さるためしもあんなり。正う在位の時、さ樣の事は後代の謗なるべし。」とて、聞召も入ざりけり。關白殿力及ばせ給はず、御涙を抑て、御退出有り。其後主上緑の薄樣の殊に匂深かりけるに、古きことなれ共、思召し出て遊れける。

しのぶれど色に出にけり我戀は、物や思ふと人のとふまで。

此御手習を冷泉少將隆房賜り續で、件の葵前に賜せたれば、顏打ち赤め、例ならぬ心地出來たりとて里へ歸り、打臥す事五六日して終にはかなく成にけり。「君が一日の恩の爲に妾が百年の身を誤つ。」ともか樣の事をや申べき。昔唐太宗の鄭仁基が娘を元觀殿に入んとし給ひしを、魏徴、「彼娘既に陸氏に約せり。」と諫申しかば殿に入るゝ事をやめられけるには、少も違はせ給はぬ御心ばせ也。

小督

主上戀募の御思に沈ませおはします。申慰參せんとて、中宮の御方より小督殿と申す女房を參せらる。此女房は、櫻町中納言重教卿の御娘、宮中一の美人、琴の上手にておはしける。冷泉大納言隆房卿、未少將なりし時、見初たりし女房なり。少將初は歌を詠み文を盡し戀悲しみ給へども、靡く氣色も無りしが、さすが歎に弱る心にや、終には靡給ひけり。されども今は君に召れ參せて、爲方もなく悲さに、飽ぬ別の涙には、袖しほたれてほしあへず。少將餘所ながらも小督殿見奉る事もやと、常は參内せられけり。御座ける局の邊、御簾のあたりを彼方此方へ行き通りたゝずみ歩き給へども、小督殿吾君に召されん上は、少將いかにいふとも、詞をもかはし文を見べきにもあらずとて、傳の情をだにも懸られず。少將若やと、一首の歌を詠で、小督殿のおはしける御簾の中へ投入たる。

思かね心は空にみちのくの、ちかの鹽釜近きかひなし。

小督殿、やがて返事もせばやと思はれけれども、君の御爲、御後めたうや思はれけん、手にだに取ても見給はず。やがて上童に取せて、坪の内へぞ投出す。少將情なう恨めしけれども、人もこそ見れと、空恐しう思はれければ、急ぎ是を取て懷に入てぞ出られける。猶立歸て、

玉章を今は手にだにとらじとや、さこそ心に思ひすつとも。

今は此世にて相見ん事も難ければ、生て物を思んより、死んとのみぞ願れける。

入道相國是を聞き、中宮と申も御女也、冷泉少將も聟也。小督殿に、二人の聟を取られて、「いやいや小督があらん限りは世の中好まじ。召出して失はん。」とぞ宣ひける。小督殿漏聞いて、「我身の事は爭でもありなん、君の御爲御心苦し。」とて或暮方に内裏を出て、行方も知ず失たまひぬ。主上御歎斜ならず、晝は夜のおとゞに入せ給ひて、御涙にのみ咽び、夜は南殿に出御成て、月の光を御覧じてぞ、慰せ給ひける。入道相國是を聞き、「君は小督故に思召し沈せ給ひたん也。さらむには。」とて、御介錯の女房達をも參せず、參内し給ふ臣下をも猜み給へば、入道の權威に憚て、通ふ人もなし。禁中彌忌々しうぞ見えける。

かくて八月十日餘に成にけり。さしも隈なき空なれど、主上は御涙に曇りつゝ、月の光も朦にぞ御覧ぜられける。やゝ深更に及で、「人やある/\。」と召れけれども、御いらへ申す者もなし。彈正少弼仲國其夜しも御宿直にまゐて遙に遠う候が、「仲國」と御いらへ申たれば、「近う參れ。仰下さるべき事有り。」何事やらんとて御前近う參じたれば、「汝若小督が行方や知たる。」仲國「爭か知り參せ候ふべき。努々知り參らせず候。」「誠やらん、小督は嵯峨の邊に片折戸とかやしたる内に在りと申す者の有ぞとよ。主が名をば知らずとも、尋ねて參せなんや。」と仰ければ、「主が名を知り候はでは、爭か尋參せ候べき。」と申せば、「實にも。」とて、龍顏より御涙を流させ給ふ。

仲國つく%\と物を案ずるに、誠や、小督殿は、琴彈給ひしぞかし。此月の明さに、君の御事思出參せて、琴彈給はぬ事はよもあらじ。御所にて彈給ひしには、仲國笛の役に召されしかば、其琴の音は、何くなりとも聞知んずる物を。嵯峨の在家幾程かあるべき。打廻て尋ねんに、などか聞出ざるべきと思ひければ、「さ候はば、主が名は知らずとも、若やと尋ね參せて見候はん。但し尋逢參らせて候とも御書を給はらで申さんにはうはの空にや思召され候はんずらん。御書を賜はて向ひ候はん。」と申ければ、誠にもとて、御書をあそばいて給うだりけり。「寮の御馬に乘て行け。」とぞ仰ける。仲國寮の御馬給はて、明月に鞭を揚げ、そことも知らずあくがれ行く。小鹿鳴く此山里と詠じけん、嵯峨の邊の秋の比、さこそは哀にも覺けめ。折片戸したる屋を見附ては、此内にやおはすらんと、ひかへ/\聞けれども、琴彈く所も無りけり。御堂などへ參り給へる事もやと、釋迦堂を始て、堂々見まはれども、小督殿に似たる女房だに見え給はず。空う歸參たらんは、中々參らざらんよりは惡かるべし。これよりもいづちへも迷行かばやと思へども、何くか王地ならぬ、身をかくすべき宿もなし。如何せんと思ひ煩ふ。誠や、法輪は程近ければ、月の光に誘れて、參り給へる事もやと、其方に向てぞ歩ませける。

龜山の傍近く、松の一村有る方に、幽に琴ぞ聞えける。峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束なくは思へども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内に、琴をぞ彈澄されたる。控へて是を聞ければ、少しも紛べうもなき小督殿の爪音也。樂は何ぞと聞ければ、夫を想て戀ふると詠む想夫婦と云ふ樂なり。さればこそ、君の御事思出でまゐらせて、樂こそ多けれ、此樂を彈給ひける優さよ。在り難う覺て腰よりやうでう拔出し、ちと鳴いて、門をほと/\と敲けば、軈て彈止給ぬ。高聲に「是は内裏より仲國が御使に參て候、開させ給へ。」とて、たゝけども/\、咎る人も無りけり。 やゝ有て、内より人の出る音のしければ嬉う思て待つ所に、鎖子をはづし、門を細目 に開け、いたいけしたる小女房、顏ばかり指出いて、「門違にてぞ候らん。是には、 内裏より御使など給はるべき所にても候はず。」と申せば、中々返事して門たてられ、 鎖子さゝれては惡かりなんと思ひて、押開てぞ入にける。妻戸の際の縁に居て、「い かにか樣の所には御渡候やらん。君は御故に思召沈ませ給ひて、御命も既に危うこそ 見えさせ御坐し候へ。只うはの空に申とや思召され候はん。御書を給て參て候。」と て、取出て奉る。有つる女房取次で、小督殿に參せたり。開て見給へば、誠に君の御書也けり。軈て御返事書き引結び、女房の裝束一重添て出されたり。仲國、女房の裝束をば肩にうちかけ申けるは、「餘の御使で候はば御返事の上はとかう申に及び候はねども、日比内裏にて御琴遊しし時、仲國笛の役に召され候し奉公をば爭か御忘候べき。直の御返事を承らで歸參らん事こそ世に口惜う候へ。」と申ければ、小督殿實もとや思はれけん、自ら返事し給ひけり。「其にも聞せ給ひつらん。入道相國の餘に怖き事をのみ申すと聞しかば淺ましさに、内裏をばにげ出て、此程はかゝる栖ひなれば、琴など彈く事無りつれども、さても有るべきならねば、明日よりは大原の奥に思ひ立つ事の候へば、主の女房の今夜ばかりの名殘を惜うで、今は夜も更ぬ、立聞く人もあらじなど勸れば、さぞな昔の名殘もさすが床くて、手馴し琴を彈く程に、安うも聞出されけりな。」とて、涙もせき敢給はねば、仲國も袖をぞ濕しける。やゝ有て、仲國涙を抑へて申けるは、「明日より大原の奥に思召立つ事と候は、御樣などを變させ給ふべきにこそ。努々あるべうも候はず。さて君の御歎をば何とかし參せ給べき。是ばし出し參すな。」とて、供に召具したる馬部吉上など留置き、其屋を守護せさせ、寮の御馬に打騎て、内裏へ歸參りたれば、ほの%\と明にけり。「今は入御もなりぬらん。誰して申入べき。」とて、寮の御馬繋せ、ありつる女房の裝束をばはね馬の障子に打掛け、南殿の方へ参れば主上は未夜邊の御座にぞまし/\ける。「南に翔北に嚮、寒温を秋鷹に付難し。東に出で西に流れ、唯瞻望を曉の月に寄す。」と、打詠めさせ給ふ處に、仲國つと參りたり。小督殿の御返事をぞ參せたる。主上なのめならず御感なて、「汝やがてよさり具して參れ。」と仰ければ、入道相國の還聞給はん所は怖しけれども、是又綸言なれば、雜色牛飼牛車清げに沙汰して、嵯峨へ行向ひ、參るまじき由やう/\に宣へども、樣々に拵へて、車にとり乘奉り、内裏へ參たりければ、幽なる所に忍せて、夜々召されける程に、姫宮御一所出來させ給ひけり。此姫宮と申は坊門の女院の御事なり。入道相國何としてか漏聞たりけん。「小督が失たりといふ事は、跡形もなき虚言也けり。」とて小督殿を捕へつつ、尼に成てぞ放たる。小督殿出家は元よりの望なりけれども、心ならず尼に成されて、歳二十三、濃墨染にやつれ果てて嵯峨の邊にぞすまれける。うたてかりし事ども也。主上はか樣の事共に、御惱はつかせ給て、遂に御隱れありけるとぞ聞えし。

法皇は打續き御歎のみぞ繁かりける。去る永萬には第一の御子、二條院崩御なりぬ。安元二年の七月には御孫六條院かくれさせ給ぬ。天に栖まば比翼鳥、地にすまば連理枝と成んと、漢河の星を指て、御契淺からざりし建春門院、秋の霧に侵されて、朝の露と消させ給ひぬ。年月は重なれ共、昨日今日の御別の樣に思召して、御涙も未盡せぬに、治承四年五月には、第二皇子高倉宮討たれさせ給ひぬ。現世後生たのみ思召されつる新院さへ先立せ給ぬれば、とにかくに、かこつ方なき御涙のみぞ進ける。「悲の至て悲きは、老て後子に後たるよりも悲きはなし。恨の至て恨しきは、若うして親に先立よりも恨しきはなし。」と、彼朝綱相公の、子息澄明に後て、書たりけん筆のあと今こそ思召し知られけれ。さるままには彼一乘妙典の御讀誦も、怠らせ給はず、三密行法の御薫修も、積らせ給けり。天下諒闇に成しかば、大宮人も推竝て、華の袂や窶けん。

廻文

入道相國、か樣に痛う情なう振舞おかれし事を、さすが怖とや思はれけん、法皇慰め參せんとて、安藝の嚴島の内侍が腹の御娘、生年十八に成給ふが、優に花やかにおはしけるを法皇へ參らせらる。上臈女房達餘た選ばれて、參られける。公卿殿上人多く供奉して、偏に女御參の如くにてぞありける。上皇隱させ給て後、僅に二七日だにも過ざるに、然るべからずとぞ人々内々はささやきあはれける。

さる程に、其比信濃國に、木曽冠者義仲と云ふ源氏有りと聞えけり。故六條判官爲義が次男帶刀先生義方が子なり。父義方は、久壽二年八月十六日鎌倉の惡源太義平が爲に誅せらる。其時義仲二歳なりしを、母泣々抱へて信濃へ越え、木曽中三兼遠が許に行き、「是如何にもして育て、人に成て見せ給へ。」と云ひければ、兼遠請取てかひ/\しう二十餘年養育す。漸長大する儘に、力も世に勝れてつよく、心も雙なく甲なりけり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちたち、都て上古の田村、、利仁、餘五將軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣と云ふ共、爭か是には勝べきとぞ人申ける。

或時乳母の兼遠を召てのたまひける。「兵衞佐頼朝既に謀反を起し、東八箇國を討從へて、東海道より上り、平家を追落んとするなり。義仲も東山北陸兩道を從へ、今一日も先に平家を責落し、譬へば日本國に、二人の將軍と云はればや。」とほのめかしければ、中三兼遠大きに畏り悦で、「其料にこそ、君をば今迄養育し奉れ。かう仰らるゝこそ誠に八幡殿の御末とも覺えさせ給へ。」とて、やがて謀反を企てけり。

兼遠に具せられて常は都へ上り平家の人々の振舞在樣をも見伺ひけり。十三で元服しけるも、八幡へまゐり八幡大菩薩の御前にて「我が四代の祖父義家朝臣は此御神の御子と成て名をば八幡太郎と號しき。且つは其跡を追べし。」とて八幡大菩薩の御寶前にて髻取上げ、木曽次郎義仲とこそ付たりけれ。兼遠、先めぐらし文候べしとて、信濃國には、禰井小彌太滋野行親を語ふに、背く事なし。是を始て、信濃一國の兵共、 なびかぬ草木もなかりけり。上野國には故帶刀先生義方が好にて田子郡の兵共、皆隨 附にけり。平家の末に成る折を得て、源氏の年來の素懷を遂んとす。

飛脚到來

木曽と云所は、信濃に取ても南の端、美濃境なれば都も無下に程近し。平家の人々漏れ聞て、「東國の背だに有に北國さへ、こは如何に。」とぞ噪れける。入道相國仰られけるは、「其者心にくからず。思へば信濃一國の兵共こそ、隨附と云ふとも、越後國には、餘五將軍の末葉、城太郎助長、同四郎助茂、是等は兄弟共に多勢の者也。仰下したらんずるに、安う討て參せてんず。」と宣ひければ、「如何在んずらむ。」と内々はささやく者多かりけり。

二月一日、越後國住人、城太郎助長、越後守に任ず。是は木曽追討せられんずる謀とぞ聞えし。同七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王、書供養せらる。是は又兵亂の愼の爲也。

同九日、河内國石川郡に居住したりける武藏權守入道義基、子息石川判官代義兼、平家を背て、兵衞佐頼朝に心を通し既に東國へ落行べき由聞えしかば、入道相國やがて討手を遣す。討手の大將には源大夫判官末方、攝津判官盛澄、都合其勢三千餘騎で發向す。城内には武藏權守入道義基、子息判官代義兼を先として、其勢百騎許には過ざりけり。鬨作り矢合して、入かへ/\數刻戰ふ。城の内の兵共、手のきは戰ひ、打死する者多かりけり。武藏權守入道義基討死す。子息石川判官代義兼は、痛手負て生捕にせらる。同十一日義基法師が首都へ入て大路を渡さる。諒闇に賊首を渡さるゝ事、 堀河天皇崩御の時、前對馬守源義親が首を渡されし例とぞ聞えし。

同十二日、鎭西より飛脚到來、宇佐大宮司公通が申けるは、九州の者共、緒方三郎を始として、臼杵、戸次、松浦黨 に至る迄、一向平家を背いて源氏に同心の由申たりければ、「東國北國の背だに有に、こは如何に。」とて、手を打てあざみ合へり。

同十六日に、伊豫國より飛脚到來、去年の冬比より、河野四郎通清を初として、四國の者共皆平家を背いて、源氏に同心の間、備後國の住人、額の入道西寂、平家に志深かりければ、伊豫國へ押渡り、道前道後のさかひ、高直城にて、河野四郎通清を討候ぬ。子息河野四郎通信父が討たれける時、安藝國の住人奴田次郎は母方の伯父なりければ、其へ越えてありあはず。通信父を討せて安らぬ者也。如何にもして西寂を討取むとぞ窺ひける。額入道西寂河野四郎通清を討て後、四國の狼藉を鎭め、今年正月十五日に備後の鞆へ押渡り、遊君遊女共聚めて、遊戲れ酒もりしけるが、前後も知らず醉臥したる處に、河野四郎思切たる者共百餘人相語て、はと押寄す。西寂が方にも三百餘人有ける者共、俄の事なれば、思も設けず周章ふためきけるを、立合ふ者をば射伏せ切伏せ、先西寂を生捕して、伊豫國へ押渡り、父が討れたる高直城へさげて行き、鋸で頸を切たりとも聞えけり。又磔にしたりとも聞えけり。

入道死去

其後四國の者共、皆河野四郎に隨附く。熊野別當湛増も、平家の重恩の身なりしが、其も背いて源氏に同心の由聞えけり。およそ東國北國悉く背きぬ。南海西海かくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚し、逆亂の先表頻に奏す。四夷忽に起れり。世は唯今失なんずとて、必平家の一門ならねども、心有る人々の歎き悲まぬは無りけり。

同廿三日、公卿僉議あり。前右大將宗盛卿申されけるは坂東へ討手は向たりと云ども、させる爲出したる事も候はず。今度は宗盛大將軍を承て、向べき由申されければ、諸卿色代して、「ゆゝしう候なん。」と申されけり。公卿殿上人も、武官に備り、弓箭に携らん人々は、宗盛卿を大將軍にて、東國北國の凶徒等追討すべき由仰下さる。

同二十七日前右大將宗盛卿源氏遂討の爲に、東國へ既に門出と聞えしが、入道相國違例の心地とて、留り給ひぬ。明る廿八日より重病を受給へりとて、京中六波羅「すは仕つる事を。」とささやけり。入道相國病附給ひし日よりして、水をだに喉へ入たまはず、身の内の熱き事火を燒が如し。臥給へる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪がたし。唯宣ふ事とては、「あたあた」とばかり也。少しも徒事とは見えざりけり。比叡山より、千手井の水を汲下し、石の船に湛へて、其に下て冷給へば、水夥う湧上て、程なく湯にぞ成にける。若や扶かり給ふと筧の水をまかせたれば、石や鐡などの燒たる樣に、水迸て寄附ず。自ら中る水は、ほのほと成て燃ければ、黒煙殿中に充滿て、炎渦巻いて上りけり。是や昔法藏僧都といし人、閻王の請に趣いて、母の生所を尋ねしに閻王憐み給ひて、獄卒を相副へて焦熱地獄へ遣さる。鐡の門の内へ差入ば、流星などの如くに、炎空へたちあがり、多百由旬に及びけんも、今こそ思知られけれ。

入道相國の北の方、二位殿の夢に見給ひける事こそ恐しけれ。譬へば、猛火の夥う燃たる車を門の内へ遣入たり。前後に立たる者は或は馬の面の樣なる者も有り、或は牛の面の樣なる者も有り。車の前には、無と云ふ文字ばかりぞ見えたる鐡の札をぞ立たりける。二位殿夢の心に、「あれは何よりぞ。」と御尋あれば、「閻魔の廳より平家太政入道殿の御迎に參て候。」と申す。「さて、其札は何といふ札ぞ。」と問せ給へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡し給へる罪に依て、無間の底に堕給ふべき由、閻魔の廳に御さだめ候が、無をば書かれて、間の字をば未だ書れぬ也。」とぞ申ける。二位殿打驚き、汗水になり、是を人に語給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。靈佛靈社に、金銀七寶を投げ、馬鞍鎧冑弓箭太刀刀に至る迄、取出し運出して祈られけれども、其驗も無りけり。男女の君達、跡枕に指つどひて、如何にせんと歎悲み給へども叶べしとも見えざりけり。

閏二月二日、二位殿熱う堪難けれども、御枕の上に寄て、泣々宣けるは、「御有樣見奉に、日に添て憑少うこそ見えさせ給へ。此世に思食おく事あらば、少し物の覺えさせ給ふ時、仰置け。」とぞ宣ひける。入道相國、さしも日來はゆゝしげに坐しかども、誠に苦げにて、息の下に宣ひけるは、「われ保元平治より以來、度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、忝くも帝祖太政大臣に至り、榮花子孫に及ぶ。今生の望、一事も殘る所なし。但し思置く事とては、伊豆國の流人前右兵衞佐頼朝が頸を見ざりつるこそ安からね。我如何にも成なん後は堂塔をも立て孝養をもすべからず。やがて討手を遣し、頼朝が頭を刎て、我墓の前にかくべし。其ぞ孝養にて有んずる。」と宣ひけるこそ、罪深けれ。

同四日、病に責められ、せめての事に、板に水を沃て、其に臥轉給へ共、助る心地もし給はず。悶絶びやく地して、遂にあつち死にぞし給ひける。馬車の馳違ふ音天も響き大地も搖ぐほど也。一天の君萬乘の主の、如何なる御事在すとも是には過じとぞ見えし。今年は六十四にぞ成給ふ、老死と云べきにはあらねども、宿運忽に盡給へば、大法秘法の効驗もなく、神明三寶の威光も消え、諸天も擁護し給はず。況や凡慮に於てをや。命に代り身に代らんと忠を存ぜし數萬の軍旅は、堂上堂下に竝居たれども、是は目にも見えず力にも關らぬ無常の刹鬼をば、暫時も戰返さず。又歸り來ぬ死出の山、三瀬川、黄泉中有の旅の空に、唯一所こそ赴き給ひけめ。日比作り置れし罪業計や、獄卒と成て、迎に來けん。哀なりし事共也。さても有べきならねば、同七日に、愛宕にて煙になし奉り、骨をば圓實法眼頸にかけて、攝津國へ下り、經島にぞ納ける。さしも日本一州に名を揚げ威を振し人なれども、身は一時の煙と成て、都の空に立上り、屍は暫やすらひて、濱の眞砂に戲つゝ、空き土とぞ成給ふ。

築嶋

やがて葬送の夜不思議の事餘た有り。玉を磨き金銀を鏤て作られし西八條殿、其夜俄に燒ぬ。人の家の燒るは、常の習ひなれ共、淺間しかりし事共也。何者の所爲にや有けん、放火とぞ聞えし。又其夜六波羅の南に當て、人ならば二三十人が聲して、「嬉や水鳴は瀧の水」と云ふ拍子を出して、舞躍り、どと笑ふ聲しけり。去ぬる正月には、上皇隱させ給ひて、天下諒闇に成ぬ。僅に中一兩月を隔て、入道相國薨ぜられぬ。怪の賤の男賤の女に至る迄、如何が憂へざるべき。是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ沙汰にて、平家の侍の中にはやりをの若者共、百餘人笑ふ聲について、尋行て見れば、院の御所法住寺殿に、此二三年は院も渡らせ給はず、御所預備前前司基宗と云ふ者有り。彼基宗が相知たる者共、二三十人夜に紛れて來り集り酒を飲けるが、初はかゝる折節に音なせそとて飲む程に、次第に飲醉て、か樣に舞躍ける也。はと押寄せて、酒に醉たる者共一人も漏さず三十人ばかり搦て、六波羅へ將て參り、前右大將宗盛卿のおはしける坪の内にぞ引居たる。事の仔細を能々尋聞給ひて實も其程に醉たらんずる者をば斬るべきにもあらずとて皆許されけり。人の失ぬる跡には、恠しの者も朝夕に鐘打鳴し、例時懺法讀む事は、常の習ひなれども、此禪門薨ぜられぬる後は、供佛施僧の營と云ふ事もなし。朝夕は唯軍合戰の策より外は、他事なし。

凡は最後の所勞の有樣こそうたてけれ共、直人とも覺ぬ事共多かりけり。日吉社へ參り給ひしにも、當家他家の公卿多く供奉して、攝ろくの臣の春日御參詣、宇治入など云ふもとも、是には爭か勝るべきとぞ人申ける。又何事よりも福原の經島築いて今の世に至る迄、上下往來の船の煩なきこそ目出たけれ。彼島は去る應保元年二月上旬に築始められたりけるが、同年の八月に俄に大風吹き大浪立て、皆淘失ひてき。同三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなど、公卿僉議有しかども、罪業なりとて、石の面に一切經を書いて、築れたりける故にこそ、經島とは名づけたれ。

慈心坊

古い人の申されけるは、清盛公は惡人とこそ思へども、誠は慈慧僧正の再誕也。其故は、攝津國清澄寺と云ふ山寺あり。彼寺の住僧慈心房尊慧と申しけるは本は叡山の學侶、多年法華の持者也。然るに道心を發し離山して、此寺に年月を送りければ皆人是を歸依しけり。去ぬる承安二年十二月廿二日の夜、脇息に倚懸り法華經讀奉りけるに、丑刻ばかりに夢ともなく現ともなく、年五十計なる男の淨衣に立烏帽子著て、草鞋脛巾したるが、立文を持て來れり。尊慧「あれは何くよりの人ぞ。」と問ければ、「閻魔王宮よりの御使也。宣旨候。」とて、立文を尊慧に渡す。尊慧是を開いて見れば、

くつ請、閻浮提大日本國攝津國清澄寺の慈心房尊慧、 來廿六日、閻魔羅城大極殿にして、十萬人の持經者を以て十萬部の法華經を轉讀せら るべき也。仍て參勤せらるべし。閻王宣に依てくつ請如件。

承安二年十二月廿二日   閻魔廳

とぞ書かれたる。尊慧いなみ申べき事ならねば、左右なう領承の請文を書て奉ると覺て、覺にけり。偏に死去の思なして、院主の光影房に此事を語る。皆人奇特の思ひをなす。尊慧口には彌陀の名號を唱へ、心に引攝の悲願を念ず。やう/\二十五日の夜陰に及で常住の佛前にいたり例の如く脇息に倚懸て念佛讀經す。子刻に及で眠切なるが故に、住房に歸て打臥す。丑刻許に又先の如くに淨衣裝束なる鬼二人來て、はや/\參らるべしと勸る間、閻王宣を辭せんとすれば、甚其恐有り。參詣せんとすれば、更に衣鉢なし。此思をなす時、法衣自然に身に纒て肩に懸り、天より金の鉢下る。二人の童子、二人の從僧、十人の下僧、七寶の大車、寺坊の前に現ず。尊慧なのめならず喜で即時に車に乘る。從僧等西北の方に向て空を翔て、程なく閻魔王宮にいたりぬ。

王宮の體を見るに、外郭渺々として、其内曠々たり。其内に七寶所成の大極殿あり。高廣金色にして、凡夫の褒る所にあらず。其日の法會終て後、請僧皆歸る時、尊慧は南方の中門に立て遙に大極殿を見渡せば、冥官冥衆、皆閻魔法王の御前に畏る。尊慧あり難き參詣也。此次に後生の事尋申さんとて、大極殿へ參る。其間に二人の童子かいを指し、二人の從僧箱を持ち、十人の下僧列を引て、漸々歩近附く時、閻魔法王、冥官冥衆皆悉下迎ふ。多聞持國二人の童子に現じ、藥王菩薩勇施菩薩、二人の從僧に變ず。十羅刹女十人の下僧に現じて、隨逐給仕し給へり。閻王問て曰く、「餘僧皆歸去ぬ。御房來る事如何。」「後生の在所承はらん爲也。」「但し往生不往生は、人の信不信に有り云々。」閻王又冥官に勅してのたまはく、「此御房の作善の文箱南方の寶藏にあり。取出して一生の行、化他の碑の文見せ奉れ。冥官承て、南方の寶藏に行て、一の文箱を取て參りたり。即蓋を開て是を悉く讀聞す。尊慧悲歎啼泣して、「唯願くは我を哀愍して出離生死の方法を教へ、證大菩提の直道を示給へ。」其時閻王哀愍教化して、種々の偈を誦す。冥官筆を染て一々に是を書く。

妻子王位財眷屬  死去無一來相親 常隨業鬼繋縛我  苦受叫喚無邊際

閻王此偈を誦し終て、即ち彼の文を尊慧に附屬す。尊慧なのめならず悦で、「日本の大相國と申す人攝津國和田御崎を點じて、四面十餘町に屋を作り、今日の十萬僧會の如く持經者を多くくつ請して、坊ごとに一面に座につき、説法讀經、丁寧に勤行を致され候。」と申ければ、閻王隨喜感嘆して、「件の入道は、たゝ人に非ず、慈慧僧正の化身也。天台の佛法護持の爲に、日本に再誕す。故に、毎日に三度彼人を禮する文あり。則此文を以て彼人に奉るべし。」とて、

敬禮慈慧大僧正  天台佛法擁護者 示現最初將軍身  惡業衆生同利益

尊慧是を給はて、大極殿の南方の中門を出づる時、官士等十人門外に立て、車に乘せ、前後に隨ふ。又、空を翔て歸り來る。夢の心地して息出きにけり。尊慧是を以て、西八條へ參り、入道相國に參せたりければ、斜ならず悦て、樣々もてなし樣々の引出物共給で、其勸賞に律師に成されけるとぞ聞えし。さてこそ、清盛公をば、慈慧僧正の再誕也と人知りてけれ。

祇園女御

又或人の申けるは、清盛公は忠盛が子には非ず、誠には白河院の皇子也。其故は、去る永久の比ほひ、祇園女御と聞えし幸人御座ける。件の女房のすまひ所は、東山の麓祇園の邊にてぞ有ける。白河院常は御幸なりけり。或時殿上人一兩人、北面少々召具して、しのびの御幸有しに、比は五月廿日餘のまだ宵の事なれば、目さすとも知ぬ闇ではあり、五月雨さへ掻暮し、誠にいぶせかりけるに、件の女房の宿所近く御堂あり。御堂の傍に光物出來たり。首は銀の針を磨立たる樣にきらめき、左右の手と覺しきを差上たるが、片手には槌の樣なる物を持ち、片手には光る物をぞ持たりける。君も臣も「あな恐ろし、是は誠の鬼と覺る。手に持てる物は、聞る打出の小槌なるべし。如何せん。」と噪せ御座す處に、忠盛其比は未だ北面の下臈にて、供奉したりけるを召て、「此中にて汝ぞあるらん、あの者射もころし、斬も停なんや。」と仰せければ、忠盛畏まり承て行向ふ。内々思けるは、此者さしも猛き者とは見えず。狐狸などにてぞあるらん。是を射も殺し、斬も殺したらんは、無下に念なかるべし。生捕にせんと思て、歩倚る。と計有ては颯と光り、と計有ては颯と光り、二三度しけるを、忠盛走り寄て、むずと組む。組まれて、「こは如何に。」と騒ぐ。變化の者にては無りけり、はや人にてぞ在ける。其時上下手々に火をともいて、是を御覧じ見給ふに、六十計の法師也。譬へば御堂の承仕法師で有けるが、御明參せんとて、手瓶と云ふ物に油を入て、片手には土器に火を入てぞ持たりける。雨は沃にいて降る、濡じとて、かしらに小麥の藁を笠の樣に引結うでかついだり、土器の火に小麥藁耀て、銀の針の樣には見えける也。事の體一々に露れぬ。「是を射も殺し、切も殺したらんは、如何に念無らん。忠盛が振舞樣こそ思慮深けれ。弓矢取る身は優かりけり。」とて、其勸賞にさしも御最愛と聞えし祇園の女御を忠盛にこそ給だりけれ。

さて彼女房院の御子を孕み奉しかば、「産らん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば忠盛が子にして弓矢とる身に仕立よ。」と仰けるに即男を産めり。此事奏聞せんと伺ひけれども、然るべき便宜も無りけるに、或時白河院熊野へ御幸なりけるが紀伊國絲鹿坂と云ふ所に、御輿かき居させ暫御休息有けり。藪にぬかごの幾らも有けるを、忠盛袖にもり入て、御前へ參り、

いもが子は這ふ程にこそ成にけれ。

と申たりければ、院やがて御心得有て、

たゞもりとりてやしなひにせよ。

とぞ附させ坐ける。其よりしてこそ、吾子とは持成ける。此若君餘に夜啼をし給ひければ、院聞食されて、一首の詠を遊して下されけり。

夜啼すとたゞもりたてよ末の代は、清く盛る事もこそあれ。

さてこそ、清盛とは名乘られけれ。十二の歳兵衞佐に成る。十八の歳四品して四位の兵衞佐と申しを、仔細存知せぬ人は、「華族の人こそかうは。」と申せば、鳥羽院も知召されて、「清盛が華族は、人に劣じ。」とぞ仰ける。

昔も天智天皇孕み給へる女御を、大織冠に賜ふとて、「此女御の産らん子女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ。」と仰けるに、即男を産み給へり。多武峰の本願、定慧和尚是なり。上代にもかゝるためし有ければ、末代にも平大相國、誠に白河院の御子にておはしければにや、さばかりの天下の大事都遷などといふ輙からぬ事共、思立たれけるにこそ。

州俣合戰

同閏二月廿日、五條大納言國綱卿失せ給ぬ。平大相國と、さしも契深う志し淺からざりし人也。せめての契の深にや、同日に病附て、同月にぞ失せられける。此大納言と申は兼資中納言より八代の末葉、前右馬助守國が子也。藏人にだに成らず、進士の雜色とて候はれし、近衞院御在位の時、仁平の比ほひ、内裡に俄に燒亡出きたり。主上南殿に出御在しかども、近衞司一人も參ぜられず、あきれて立せおはしましたる處に、此國綱腰輿を舁せて參り、「か樣の時は、かかる御輿にこそ召され候へ。」と奏しければ、主上是に召て出御在り。「何者ぞ。」と御尋在ければ、「進士の雜色藤原國綱」と名乘り申。「かかるさか/\しき者こそあれ、召仕るべし。」と其時の殿下法性寺殿へ迎含られければ、御領餘た給ひなどして召仕はれける程に、同帝の御代に八幡へ行幸在しに、人長が酒に醉て水に倒れ入、裝束を濕し、御神樂遲々したりけるに、此國綱、神妙にこそ候はねども、人長が裝束は持せて候。」とて、一具取出されたりければ、是を著て御神樂調へ奏しけり。程こそ少しも推移たりけれども、歌の聲もすみのぼり、舞の袖、拍子に合て面白かりけり。物の身にしみて面白事は神も人も同心也。昔天の岩戸をおしひらかれけん神代の事わざ迄も今こそ思食知られけれ。

やがて此國綱の先祖に山蔭中納言といふ人おはしき。其子に如無僧都とて智慧才覺身に餘り、徳行持律の僧おはしけり。昌泰の比ほひ、寛平法皇、大井河へ御幸在しに、勸修寺の内大臣高藤公の御子、泉の大將貞國、小倉山の嵐に烏帽子を河へ吹入られ袖にて髻を押へ、爲方なくてぞ立たりけるに、此如無僧都三衣箱の中より烏帽子一つとり出されたるけるとかや。彼僧都は、父、山蔭中納言、太宰大貳に成て鎭西へ下られける時、二歳なりしを、繼母惡であからさまに抱くやうにして、海に落し入殺さんとしけるを、死にける誠の母、存生の時、桂の鵜飼が鵜の餌にせんとて、龜を取て殺さんとしけるを著給へる小袖を脱ぎ、龜にかへ、放たれたりしが、其恩を報ぜんと、此若君落し入けるを水の上に浮び來て、甲に乘てぞ扶けたりける。其れは上代の事なれば如何有けん。末代に國綱卿の高名在がたき事共也。法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺殿かくれさせ給ひて後入道相國存ずる旨ありとて、此人に語らひより給へり。大福長者にておはしければ、何にても必ず毎日に一種をば入道相國の許へ贈られけり。現世のとくいこの人に過べからずとて、子息一人養子にして、清國と名乘らせ、又入道相國の四男、頭中將重衡は彼大納言の聟になる。

治承四年の五節は福原にて行はれけるに、殿上人中宮の御方へ推參ありしが、或雲客の「竹湘浦に斑なり。」といふ朗詠をせられたりければ、此大納言立聞して、「あな淺間し、是は禁忌也とこそ承れ。かかる事きくとも聞じ。」とて、ぬき足して遁出られぬ。譬へば、此朗詠の心は、昔堯の帝に二人の姫宮ましましき。姉をば娥黄と云ひ、妹をば女英と云ふ。共に舜の御門の后也。舜の御門かくれ給ひて後、彼蒼梧の野邊へ送り奉り、烟となし奉る時、二人の后名殘を惜み奉り、湘浦といふ所迄隨ひつゝ、泣悲しみ給ひしに、其涙岸の竹に懸て斑にぞ染たりける。其後も常には彼所におはして瑟を引て慰み給へり。今彼所を見るなれば、岸の竹は斑にて立けり。琴を調べし迹には雲たなびいて、物哀なる心を橘相公の賦に作れる也。此大納言はさせる文才詩歌麗しうおはせざりしか共、かゝるさかしき人にてか樣の事までも聞咎められけるにこそ。此人大納言までは思も寄らざりしを、母上賀茂大明神に歩みを運び、「願くは、我子の國綱一日でも候へ、藏人頭歴させたまへ。」と、百日肝膽を碎いて祈申されけるが、或夜の夢に檳榔の車をゐて來て、我家の車寄に立と夢を見て、是を人に語り給へば、「其れは、公卿の北方に成せ給ふべきにこそ。」とあはせたりければ、「我年已に闌たり。今更さ樣の振舞在べしとも覺えず。」と宣ひけるが、御子國綱藏人頭は事も宜し。正二位大納言に上り給ふこそ目出けれ。

同廿二日、法皇は院の御所法性寺殿へ御幸なる。彼御所は去ぬる應保三年四月十五日に造り出されて、新比叡、新熊野なども間近う勸請し奉り、山水木立に至る迄思召まゝなりしが、此二三年は平家の惡行に依て、御幸もならず。御所の破壞したるを修理して、御幸成し奉るべき由、前右大將宗盛卿奏せられたりければ、何の樣もあるべからず、唯とう/\とて御幸成る。先故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の松、汀の柳年經にけりと覺て、木高くなれるに附ても、太液の芙蓉、未央の柳、是に向ふに如何が涙進ざらん。彼南内西宮の昔の跡、今こそ思召知れけれ。

三月一日南都の僧綱等、本官に復して末寺庄園もとの如く知行すべき由仰下さる。同三日大佛殿造り始めらる。事始の奉行には藏人左少辨行隆とぞ聞えし。此行隆、先年八幡へ參り、通夜せられたりけるが、夢に御寶殿の内よりびんづら結たる天童の出て、「是は大菩薩の使なり。大佛殿奉行の時は是を持つべし。」と笏を賜はると云ふ夢を見て、覺て後見給へば、現に在けり。「あな不思議や當時何事あてか、大佛殿奉行に參るべき。」とて懷中して宿所へ歸り、深う納て置れけるが、平家の惡行に依て、南都炎上の間、此行隆、辨の中に選ばれて、事始の奉行に參られける宿縁の程こそ目出たけれ。

同三月十日、美濃國の目代、都へ早馬を以て申けるは、東國の源氏共すでに尾張國迄攻上り、道を塞ぎ、人を通さぬ由申たりければ、やがて討手を差遣す。大將軍には、左兵衞督知盛、左中將清經、小松少將有盛、都合其勢三萬餘騎で發向す。入道相國うせたまひて後、纔に五旬をだにも過ざるに、さこそ亂たる代といひながら、淺ましかりし事共也。源氏の方には十郎藏人行家、兵衞佐の弟卿公義圓、都合其勢六千餘騎、尾張河を中に隔て、源平兩方に陣をとる。

同十六日の夜半ばかり、源氏の勢六千餘騎河を渡て、平家三萬餘騎が中へをめいて懸入る。明れば十七日寅刻より矢合して、夜の明る迄戰ふに、平家の方には些も騒がず。「敵は河を渡いたれば馬物具も皆濡たるぞ、其を標にして討てや。」とて、大勢の中に取籠て、「餘すな、漏すな。」とて責め給へば、源氏の勢殘少なに討なされ、大將軍行家辛き命生て河より東へ引退く。卿公義圓は深入して討たれにけり。平家やがて河を渡て、源氏を追物射に射て行く。源氏あそこ此で歸し合せ/\防けれ共、敵は大勢、御方は無勢也。かなふべしとも見ざりけり。『水澤を後にする事無れ。』とこそ云ふに、今度の源氏の策、愚なり。」とぞ人申ける。

去程に大將軍十郎藏人行家、參河國に打越て、矢矧川の橋を引き、垣楯掻て待懸たり。平家やがて押寄せ攻給へば、こらへずして、そこをも、又、攻落れぬ。平家やがて續て攻給はば、參河遠江の勢は、隨つくべかりしに大將軍左兵衞督知盛、勞有て參河國より歸上らる。今度も僅に一陣を破ると云へども、殘黨を攻ねば、し出たる事なきが如し。平家は去々年小松大臣薨ぜられぬ。今年又入道相國失給ひぬ。運命の末に成る事あらはなりしかば、年來恩顧の輩の外は、隨附く者無りけり。東國には草も木も皆源氏にぞ靡きける。

嗄聲

去程に越後國の住人、城太郎助長、越後守に任ず。朝恩の忝さに、木曽追討の爲に、都合三萬餘騎同六月十五日門出して、明る十六日の卯刻にすでに討立んとしけるに、夜半許、俄に大風吹き、大雨降り、雷おびたゞしう鳴て、天晴て後雲井に大なる聲のしはがれたるを以て、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡し奉る平家の方人する者爰に有り、召取や。」と、三聲叫んでぞ通ける。城太郎を始として、是をきく者、皆身の毛よだちけり。郎等共、「是程怖しい天の告の候ふに、唯理を枉て留せ給へ。」 と申けれども、「弓矢取る者の、其によるべき樣なし。」とて、明る十六日卯刻に城 を出て僅に十餘町ぞ行たりける。黒雲一村立來て、助長が上に掩ふとこそ見えけれ、俄に身すくみ心ほれて、落馬してけり。輿に舁乘せ館へ歸り、打臥す事三時許して、遂に死にけり。飛脚を以て、此由都へ申たりければ、平家の人々、大に噪がれけり。

同七月十四日改元有て、養和と號す。其日筑後守貞能、筑前肥後兩國を給はて、鎭西の謀反平げに、西國へ發向す、其日又非常の大赦行はれて、去ぬる治承三年に流され給ひし人々、召還さる。松殿入道殿下備前國より御上洛、太政大臣妙音院尾張國より上らせたまふ。按察大納言資方卿信濃國より歸洛とぞ聞えし。

同廿八日、妙音院殿御院參。去ぬる長寛の歸洛には、御前の簀子にして、賀王恩、還城樂を彈せ給しに、養和の今の歸京には、仙洞にして秋風樂をぞ遊しける。何も/\風情折を思召よらせ給けん御心の程こそ目出けれ。按察大納言資方卿も、其日院參せらる。法皇、「如何にや夢の樣にこそ思食。習ぬ鄙の住ひして、郢曲なども、今は跡方あらじと思召せども、先今樣一つ有ばや。」と仰ければ、大納言拍子取て、「信濃に有なる木曽路川。」と云ふ今樣を、是は見給ひたりし間、「信濃に有し木曽路川」 と歌はれけるぞ時に取ての高名なる。

横田河原合戰

八月七日の日官の廳にて、大仁王會行はる。是は將門追討の例とぞ聞えし。九月一日、純友追討の例とて、鐵の鎧甲を伊勢大神宮へ參せらる。勅使は祭主神祇權大副大中臣定高、都を立て近江國甲賀の驛より病附き、伊勢の離宮にして、死にけり。謀反の輩調伏の爲に、五壇の法承て行はれける降三世の大阿闍梨、大行事の彼岸所にして、ね死にしぬ。神明も三寶も、御納受なしと云ふ事いちじるし。又大元法承て修せられける安祥寺の實玄阿闍梨が御巻數を進じたりけるを、披見せられければ、平家調伏の由を註進したりけるぞ怖しき。「こは如何に。」と仰ければ、「朝敵調伏せよと仰下さる。當世の體を見候ふに、平家專朝敵と見え給へり。仍て是を調伏す、何のとがや候べき。」とぞ申ける。「此法師奇怪也。死罪か流罪か。」と有しが、大小事の怱劇に、打紛れて其後沙汰も無りけり。源氏の代と成て後、鎌倉殿「神妙なり。」と感じ思食して、其勸賞に、大僧正に成されけるとぞ聞えし。

同十二月廿四日、中宮院號蒙せ給ひて、建禮門院とぞ申ける。未幼主の御時、母后の院號是始とぞ承る。さる程に今年も暮て、養和も二年に成にけり。

二月廿一日、太白昴星を侵す。天文要録に曰、「太白昴星を侵せば、四夷起る。」と云へり。又「將軍勅令を蒙て、國の境を出。」とも見えたり。

三月十日、除目行はれて、平家の人々大略官加階し給ふ。四月十日、前權少僧都顯眞、日吉社にして、如法に法華經一萬部轉讀する事有けり。御結縁の爲に、法皇も御幸なる。何者の申出したりけるやらん、一院山門の大衆に仰て、平家を追討せらるべしと聞えし程に、軍兵内裏へ參て、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。本三位中將重衡卿、法皇の御むかへに其勢三千餘騎で日吉の社へ參向す。山門に又聞えけるは、平家山攻んとて、數百騎の勢を率して登山すと聞えしかば、大衆皆東坂本へ降下て、「こは如何に。」と僉議す。山上洛中の騒動斜ならず。供奉の公卿殿上人色を失なひ、北面の者の中には餘にあわて噪いで、黄水つく者多かりけり。本三位中將重衡卿、穴太の邊にて、法皇迎取參せて還御なし奉る。「かくのみ有んには此後は御物詣なども今は御心に任すまじき事やらん。」とぞ仰ける。まことには山門大衆平家を追討せんといふ事もなし。平家山せめんといふ事もなし。是跡形なき事共也。「天魔の能く荒たるにこそ。」とぞ人申ける。同四月廿日、臨時に官幣あり。是は飢饉疾疫に依て也。

同五月二十四日改元有て、壽永と號す。其日又越後國の住人城四郎助茂、越後守に任ず。兄の助長逝去の間、不吉なりとて頻に辭し申けれども、勅令なれば力不及。助茂を長茂と改名す。

同九月二日、城四郎長茂木曽追討の爲に、越後、出羽、會津四郡の兵共を引率して、都合其勢四萬餘騎、信濃國へ發向す。同九日、當國横田河原に陣をとる。木曽は依田城に有りけるが、是を聞て依田城を出て三千餘騎で、馳向ふ。信濃源氏、井上九郎光盛が謀に、俄に赤旗七旒作り三千餘騎を七手に分ち、あそこの峯、こゝの洞より赤旗ども手に/\指揚て寄ければ、城四郎是を見て、「あはや此國にも平家の方人する人有けりと、力附ぬ。」とて、勇のゝしる處に、次第に近う成ければ、相圖を定めて、七手が一つに成り、一度に閧をどとぞ作ける。用意したる白旗、さと差揚たり。越後の勢共、是を見て、「敵何十萬騎有らん。如何せん。」と色を失ひ、あわてふためき、或は河に追はめられ、或は惡所におひ落され、助る者は少う、討るゝ者ぞ多かりける。城四郎が頼切たる越後の山太郎、會津の乘丹房と云ふ聞ゆる兵共、そこにて皆討れぬ。我身手負ひ、辛き命生つゝ、河に傳うて越後國へ引退く。

同十六日、都には平家是をば事共し給はず前右大將宗盛卿、大納言に還著して、十月三日、内大臣に成給ふ。同七日悦申あり。當家の公卿十二人扈從して、藏人頭以下、殿上人十六人前駈す。東國北國の源氏共、蜂の如くに起合ひ、唯今都へ責上らんとするに、か樣に波の立つやらん、風の吹やらんも知ぬ體にて花やかなりし事共、中々云ふかひなうぞ見えたりける。

さる程に、壽永二年に成にけり。節會以下常の如し。内辨をば平家の内大臣宗盛公勤めらる。正月六日主上朝覲の爲に、院御所法住寺殿へ行幸なる。鳥羽院六歳にて、朝覲行幸、其例とぞ聞えし。二月廿二日、宗盛公從一位し給ふ。軈て其日内大臣をば上表せらる。兵亂愼の故とぞ聞えし。南都北嶺の大衆、熊野金峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に至る迄、一向平家を背いて、源氏に心を通しける。四方に宣旨を成下し、諸國に院宣遣せども、院宣宣旨も、皆平家の下知とのみ心得て隨附く者無りけり。

平家物語卷第六