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飛脚到來

木曽と云所は、信濃に取ても南の端、美濃境なれば都も無下に程近し。平家の人々漏れ聞て、「東國の背だに有に北國さへ、こは如何に。」とぞ噪れける。入道相國仰られけるは、「其者心にくからず。思へば信濃一國の兵共こそ、隨附と云ふとも、越後國には、餘五將軍の末葉、城太郎助長、同四郎助茂、是等は兄弟共に多勢の者也。仰下したらんずるに、安う討て參せてんず。」と宣ひければ、「如何在んずらむ。」と内々はささやく者多かりけり。

二月一日、越後國住人、城太郎助長、越後守に任ず。是は木曽追討せられんずる謀とぞ聞えし。同七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王、書供養せらる。是は又兵亂の愼の爲也。

同九日、河内國石川郡に居住したりける武藏權守入道義基、子息石川判官代義兼、平家を背て、兵衞佐頼朝に心を通し既に東國へ落行べき由聞えしかば、入道相國やがて討手を遣す。討手の大將には源大夫判官末方、攝津判官盛澄、都合其勢三千餘騎で發向す。城内には武藏權守入道義基、子息判官代義兼を先として、其勢百騎許には過ざりけり。鬨作り矢合して、入かへ/\數刻戰ふ。城の内の兵共、手のきは戰ひ、打死する者多かりけり。武藏權守入道義基討死す。子息石川判官代義兼は、痛手負て生捕にせらる。同十一日義基法師が首都へ入て大路を渡さる。諒闇に賊首を渡さるゝ事、 堀河天皇崩御の時、前對馬守源義親が首を渡されし例とぞ聞えし。

同十二日、鎭西より飛脚到來、宇佐大宮司公通が申けるは、九州の者共、緒方三郎を始として、臼杵、戸次、松浦黨 に至る迄、一向平家を背いて源氏に同心の由申たりければ、「東國北國の背だに有に、こは如何に。」とて、手を打てあざみ合へり。

同十六日に、伊豫國より飛脚到來、去年の冬比より、河野四郎通清を初として、四國の者共皆平家を背いて、源氏に同心の間、備後國の住人、額の入道西寂、平家に志深かりければ、伊豫國へ押渡り、道前道後のさかひ、高直城にて、河野四郎通清を討候ぬ。子息河野四郎通信父が討たれける時、安藝國の住人奴田次郎は母方の伯父なりければ、其へ越えてありあはず。通信父を討せて安らぬ者也。如何にもして西寂を討取むとぞ窺ひける。額入道西寂河野四郎通清を討て後、四國の狼藉を鎭め、今年正月十五日に備後の鞆へ押渡り、遊君遊女共聚めて、遊戲れ酒もりしけるが、前後も知らず醉臥したる處に、河野四郎思切たる者共百餘人相語て、はと押寄す。西寂が方にも三百餘人有ける者共、俄の事なれば、思も設けず周章ふためきけるを、立合ふ者をば射伏せ切伏せ、先西寂を生捕して、伊豫國へ押渡り、父が討れたる高直城へさげて行き、鋸で頸を切たりとも聞えけり。又磔にしたりとも聞えけり。