University of Virginia Library

5. 平家物語巻第五

都遷

治承四年六月三日、福原へ行幸在べしとて京中ひしめきあへり。此日來都遷り有るべしと聞えしかども、忽に今明の程とは思はざりつるに、こは如何にとて上下騒合へり。剩へ三日と定められたりしが、今一日引上て、二日になりにけり。二日の卯刻に、既に行幸の御輿を寄たりければ、主上は今年三歳、未幼なう坐ましければ、何心もなう召されけり。主上少なう渡せ給ふ時の御同輿には、母后こそ參せ給ふに、是は其儀なし。御乳母平大納言時忠卿の北の方帥のすけ殿ぞ、一つ御輿に參られける。中宮、一院、上皇、御幸なる。攝政殿を始め奉て太政大臣已下の公卿殿上人、我も/\と供奉せらる。三日福原へ入せ給ふ。池中納言頼盛卿の宿所、皇居になる。同四日頼盛家の賞とて、正二位し給ふ。九條殿の御子、右大將良通卿、越られ給ひけり。攝ろくの臣の御子息、凡人の次男に、加階越えられ給ふ事、是れ始とぞ聞えし。

さる程に法皇を入道相國やう/\思直て、鳥羽殿を出し奉り、都へ入れ參らせたりしが、高倉宮御謀反に依て又大に憤り、福原へ御幸なし奉り、四面に端板して、口一つ開たる内に三間の板屋を作て、押籠參らせ、守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ける。輙う人の參通ふべき事も無れば、童部は、籠の御所とぞ申ける。聞も忌々しう怖しかりし事共也。法皇今は世の政しろしめさばやとは、露も思召しよらず、唯山々寺々修行して、御心の儘に慰ばやとぞ仰せける。凡平家の惡行に於ては悉く極りぬ。去ぬる安元より以降、多くの卿相、雲客、或は流し、或は失ひ、關白流し奉り、我聟を關白になし、法皇を城南の離宮に遷し奉り、第二の皇子、高倉宮を討ち奉り、今殘る所の都遷なれば、か樣にしたまふにやとぞ人申ける。

都遷は先蹤なきに非ず。神武天皇と申すは、地神五代の帝、彦波瀲武うが草葺不合尊の第四の王子、御母は玉依姫、海人の娘也。神の代十二代の跡を受け、人代百王の帝祖也。辛酉の歳、日向國宮崎郡にして、皇王の寶祚を繼ぎ、五十九年と云し己未歳十月に東征して、豐葦原中津國に留り、此比大和國と名づけたる畝傍の山を點じて、帝都をたて橿原の地を切掃て、宮室を作り給へり。是を橿原の宮と名づけたり。其より以降、代々の帝王、都を他國他所へ遷さるゝ事三十度に餘り、四十度に及べり。神武天皇より、景行天皇まで十二代には、大和國郡々に都を立て、他國へは終に移れず。然るを成務天皇元年に近江國に移て、志賀郡に都を立つ。仲哀天皇二年に、長門國に移て、豐浦郡に都を立つ。其國の彼都にて、御門隱れさせ給しかば、后神功皇后御世を請取らせ給ひ、女體として、鬼界、高麗、契丹まで、責從へさせ給ひけり。異國の軍を靖めさせ給ひて、歸朝の後筑前國三笠郡にして、皇子御誕生、其所をば宇美宮とぞ申たる。かけまくも忝なく、八幡の御事是なり。位に即せ給ひては、應神天皇とぞ申ける。其後神功皇后は、大和國に移て、磐余稚櫻宮に御座す。應神天皇は同國輕島明宮に住せ給ふ。仁徳天皇元年に、津國難波に移て、高津宮に御座す。履仲天皇二年に、大和國に移て、十市郡に都を立つ。反正天皇元年に、河内國に移て、柴垣宮に住せ給ふ。允恭天皇四十二年に又大和國に移て、飛鳥のあすかの宮におはします。雄略天皇二十一年に、同國泊瀬朝倉に宮居し給ふ。繼體天皇五年に、山城國綴喜に移て、十二年、其後乙訓に宮居し給ふ。宣化天皇元年に、又大和國に歸て、檜隈入野宮におはします。孝徳天皇大化元年に、攝津國長柄に移て、豐崎宮に住せ給ふ、齊明天皇二年、又大和國に歸て、岡本宮におはします。天智天皇六年に、近江國に移て、大津宮に住せ給ふ、天武天皇元年に、猶大和國に歸て、岡本の南の宮に住せ給ふ。是を清見原の御門と申き。持統、文武二代の聖朝は、同國藤原宮におはします。元明天皇より、光仁天皇迄七代は、奈良の都に住せ給ふ。然を桓武天皇、延暦三年十月二日、奈良の京春日の里より、山城國長岡にうつて、十年と云し正月に、大納言藤原小黒丸、參議左大辨紀古佐美、大僧都玄慶等を遣して、當國葛野郡宇多村を見せらるゝに、兩人共に奏して云、此地の體を見るに、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相應の地なり。尤帝都を定むるに足れりと申す。仍て愛宕郡に御座す賀茂大明神に、告申させ給ひて、延暦十三年十一月廿一日、長岡の京より此京へ移されて後、帝王三十二代、星霜は三百八十餘歳の春秋を送り迎ふ。昔より代々の帝王、國々所々に、多の都を立てられしかども、かくの如くの勝地は無しとて、桓武天皇殊に執し思食し、大臣公卿諸道の才人等に仰せ合せ、長久なるべき樣とて、土にて八尺の人形を作り、鐡の鎧甲をきせ、同う鐡の弓矢を持せて、東山の嶺に、西向に立てゝ埋まれけり。末代に此都を他國へうつす事あらば、守護神となるべしとぞ御約束ありける。されば天下に事出來んとては、此塚必鳴動す。將軍が塚とて今に在り。桓武天皇と申は平家の曩祖にて御座す。中にも此京をば平安城と名付けて平かに安き都と書り。尤平家の崇べき都也。先祖の御門の、さしも執し思食されたる都を、させる故なく、他國他所へ遷さるゝこそ淺ましけれ。嵯峨皇帝の御時平城の先帝尚侍の勸に依て世を亂り給ひし時、既に此京を他國へ移さんとせさせ給ひしを大臣公卿諸國の人民背き申しかば、移されずして止にき。一天の君萬乘の主だにも移し得給はぬ都を、入道相國、人臣の身として、移されけるぞ怖しき。

舊都はあはれ目出たかりつる都ぞかし。王城守護の鎭守は、四方に光を和げ、靈驗殊勝の寺寺は上下に甍を竝給ひ、百姓萬民煩なく、五畿七道も便あり。されども今は辻々をみな掘切て、車などの輙う行かよふ事もなし。邂逅に行く人も、小車に乘り、 道を歴てこそ通けれ。軒を爭し人のすまひ、日を歴つゝ荒行く。家々は賀茂河桂河に 壞入れ、筏に組浮べ、資材雜具舟に積み、福原へと運下す。たゞなりに、花の都、田 舎になるこそ哀しけれ。何者の爲態にや有けん。舊き都の内裏の柱に二首の歌をぞ書 いたりける。

百年を四かへり迄に過來にし、愛宕の里のあれやはてなん。
さきいづる花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき。

同き六月九日、新都の事始め有るべしとて、上卿には徳大寺左大將實定卿、土御門宰相中將通親卿、奉行の辨には、藏人左少辨行隆、官人共召具して、和田の松原の西の野を點じて、九條の地を割れけるに、一條より下五條までは其所あて、五條より下は無りけり。行事官歸り參て、此の由を奏聞す。さらば播磨の印南野か、猶攝津國の兒屋野かなどいふ公卿僉議有しかども、事行べしとも見えざりけり。

舊都をば既にうかれぬ、新都は未事行かず、有とし有る人は、身を浮雲の思をなす。本此所に栖む者は地を失て愁へ、今移る人々は、土木の煩を歎きあへり。惣て只夢の樣なりし事共也。土御門宰相中將通親卿の申されけるは、異國には三條の廣路を開いて、十二の通門を立と見えたり。況や五條迄有ん都に、などか内裏を立ざるべき。 且々里内裏造るべき由、議定有て、五條大納言國綱卿、臨時に周防國を賜て、造進せ らるべき由、入道相國計ひ申されけり。此國綱卿は大福長者にておはすれば、造出れ ん事、左右に及ばねども、如何が國の費え民の煩ひ無るべき。指當る大事、大嘗會な どの行はるべきを差置いて、かゝる世の亂に遷都造内裏、少も相應せず。古の賢き御 代には、即内裏に茨を葺き、軒をだにも調へず、煙の乏きを見給ふ時は、限有る御貢 物をも許れき。是即民を惠み、國を扶け給ふに依て也。楚、章華臺を立て黎民をあら け、秦、阿房殿を起して、天下亂ると云へり。茅茨剪ず、采椽けづらず、舟車飾ず、 衣服文無ける世も有けん物を。されば唐の太宗は、驪山宮を造て、民の費えをや憚せ給けん、遂に臨幸なくして、瓦に松生ひ、墻に蔦茂て止にけるには、相違かなとぞ人申ける。

月見

六月九日、新都の事始、八月十日上棟、十一月十三日遷幸と定めらる。舊き都は荒行ば、今の都は繁昌す。淺ましかりける夏も過ぎ、秋にも既に成にけり。やう/\秋も半に成行ば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大將の昔の迹を忍つゝ、須磨より明石の浦傳ひ、淡路のせとを押渡り、繪島が磯の月を見る。或は白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を、詠て歸る人も有り。舊都に殘る人々は、伏見廣澤の月を見る。

其中にも徳大寺左大將實定卿は、舊き都の月を戀て、八月十日餘に、福原よりぞ上り給ふ。何事も皆變り果て、稀に殘る家は、門前草深して、庭上露滋し。蓬が杣淺茅が原、鳥のふしどと荒果て、蟲の聲々恨つゝ、黄菊紫蘭の野邊とぞ成にける。故郷の名殘とては、近衞河原の大宮ばかりぞまし/\ける。大將其御所に參て、先隨身に、惣門を叩せらるるに、内より女の聲して、「誰そや蓬生の露打拂ふ人もなき處に。」と咎れば、「福原より大將殿の御參り候。」と申す。「惣門は鎖のさゝれて候ぞ。東面の小門より入せ給へ。」と申ければ、大將「さらば」とて、東の門より參られけり。 大宮は御つれ%\に、昔をや思召出でさせ給ひけん、南面の御格子開させて御琵琶遊されける處に、大將參られたりければ、「如何に夢かや現か、是へ是へ。」とぞ仰せける。源氏の宇治の巻には、優婆塞宮の御娘、秋の名殘を惜み、琵琶を調べて、夜もすがら心を澄し給しに、有明の月の出けるを、堪ずや思ほしけん、揆にて招き給ひけんも、今こそ思ひ知られけれ。

待宵の小侍從といふ女房も、此御所にてぞ候ける。此女房を、待宵と申ける事は、或時御所にて、「待宵、歸る朝、何れかあはれは勝る。」と御尋ありければ、

待宵のふけゆく鐘の聲聞けば、歸るあしたの鳥はものかは。

と讀たりけるに依てこそ、待宵とは召されけれ。大將彼女房呼出し、昔今の物語して、小夜もやう/\更行けば、ふるき都のあれゆくを今樣にこそうたはれけれ。

舊き都を來て見れば淺茅が原とぞ荒にける、 月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ。

と三反歌ひすまされければ、大宮を始め參せて、御所中の女房達、皆袖をぞ濕されける。

去程に夜も明ければ、大將暇申て、福原へこそ歸られけれ。御伴に候藏人を召て、 「侍從が餘に名殘惜げに思ひたるに、汝歸て何とも云てこそ。」と仰せければ、藏人 走り歸て、「『畏申せ』と候。」とて

物かはと君が云けん鳥の音の、今朝しもなどか悲かるらん。

女房涙を押へて、

またばこそ深行く鐘も物ならめ、あかぬわかれの鳥の音ぞうき。

藏人歸り參て、此由を申たりければ、「さればこそ汝をば遣つれ。」とて、大將大に感ぜられけり。其よりしてこそ物かはの藏人とはいはれけれ。

物怪之沙汰

福原へ都を移されて後、平家の人々夢見も惡う、常は心噪ぎのみして、變化の者共多かりけり。或夜入道の臥給へる所に、一間にはゞかる程の物の面出來て、覗奉る。入道相國ちとも噪がず、ちやうとにらまへておはしければ、只消に消失ぬ。岡の御所と申は、新しう造られたれば、然べき大木もなかりけるに、或夜大木の倒るゝ音して、 人ならば二三十人が聲して、どと笑ふ事ありけり。是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ 沙汰にて、蟇目の當番と名附て、夜百人晝五十人番衆をそろへて蟇目を射させらるる に、天狗の在る方へ向いて射たる時は、音もせず、又無い方へ向いて射たるとおぼし き時は、はと笑などしけり。

又或朝入道相國帳臺より出で、妻戸をおしひらいて、坪の内を見給へば、死人の髑髏共が幾らと云ふ數も知らず、庭にみち/\て、上に成り、下に成り、轉合轉退き、端なるは中へ轉び入り、中なるは端へ出づ。おびたゞしうからめき合ければ、入道相國、「人や有る/\。」と召されけれども折節人も參らず。かくして多くの髑髏どもが一つに固まりあひ、坪の内にはゞかる程に成て、高さ十四五丈も有らんと覺ゆる山の如くに成にけり。彼一つの大頭に生たる人の眼の樣に大の眼共が千萬出きて、入道相國をちやうとにらまへて、またゝきもせず。入道少も噪がず。ちやうとにらまへて立たれたり。彼大頭餘りに強く睨まれ奉り、霜露などの日に當て消る樣に、跡かたもなく成にけり。其外に一の御厩に立てて、舎人數多付けられ、朝夕隙なく撫飼れける馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子を生だりける。是唯事にあらずとて陰陽師に占はせられければ重き御愼とぞ申ける。此御馬は、相摸國の住人大庭三郎景親が、東八箇國一の馬とて、入道相國に參らせたり。黒き馬の額白かりけり。名をば望月とぞ付られたる。陰陽頭安倍泰親給はりけり。昔天智天皇の御時、寮の御馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子を産だりけるには、異國の凶賊蜂起したりけるとぞ、日本紀には見えたる。

又源中納言雅頼卿の許に候ける青侍が見たりける夢も、怖しかりけり。譬へば大内の神祇官とおぼしき所に、束帶正しき上臈達數多おはして、議定の樣なる事の有しに、末座なる人の、平家の方人すると覺しきを、其中より追立らるゝ。彼の青侍夢の心に「あれは如何なる上臈にてましますやらん。」と或老翁に問ひ奉れば「嚴島の大明神」と答へ給ふ。其後座上に氣高げなる宿老のましましけるが、「此日來平家の預りたる節刀をば今は伊豆國の流人、頼朝に賜ばうずるなり。」と仰せられければ、其御傍に猶宿老のまし/\けるが、「其後は我孫にも給候へ。」と仰せらるゝといふ夢を見て是を次第に問ひたてまつる。「節刀を頼朝に給うと仰られつるは、八幡大菩薩、其後には我孫にも給び候へと仰られつるは、春日大明神、かう申す老翁は、武内の大明神。」と仰らるゝと云ふ夢を見て、是を人に語る程に入道相國洩聞いて、源大夫判官季貞を以て雅頼卿のもとへ、「夢見の青侍急ぎ是へ給べ。」と宣ひ遣されたりければ、彼夢見たる青侍、やがて逐電してんげり。雅頼卿、急ぎ入道相國の許に行向て、「全くさる事候はず。」と、陳じ申されければ、其後沙汰も無りけり。それにふしぎなりし事には清盛公いまだ安藝守たりし時神拜のついでに靈夢をかうぶて嚴島の大明神よりうつゝにたまはれたりし銀のひるまきしたる小長刀つねの枕をはなたず、たてられたりしが、ある夜俄にうせにけるこそふしぎなれ。平家日比は朝家の御固にて、天下を守護せしかども、今は勅命に背けば、節刀をも召返さるゝにや、心細うぞ聞えし。中にも高野に坐ける宰相入道成頼、か樣の事共を傳へ聞て、「すは平家の代は、やう/\末に成ぬるは、嚴島大明神の、平家の方人し給ひけると云ふは其謂れ有り。但し其れは沙羯羅龍王の第三の姫宮なれば、女神とこそ承れ。八幡大菩薩の節刀を頼朝に給うと仰せられけるは理なり。春日大明神の其後は我孫にも給び候へと被仰けるこそ心得ね。其も平家亡び、源氏の世盡なん後、大織冠の御末、執柄家の君達の、天下の將軍に成給べきか。」などぞ宣ける。又或僧の折節來たりけるが申けるは、「夫神明は和光垂跡の方便區々にましませば、或時は俗體とも現じ、或時は女神とも成り給ふ。誠に嚴島の大明神は女神とは申しながら、三明六通の靈神にてましませば俗體に現じ給はんも、難かるべきにあらず。」とぞ申ける。うき世を厭ひ眞の道に入ぬれば、偏に後世菩提の外の世の營み有まじき事なれども、善政を聞ては感じ、愁を聞ては歎く、是皆人間の習也。

早馬

同九月二日、相摸國の住人、大庭三郎景親、福原へ早馬を以て申けるは、「去ぬる八月十七日、伊豆國の流人、前右兵衞佐頼朝、舅北條四郎時政を遣して、伊豆の目代、和泉判官兼高を、やまきの館にて夜討に討候ぬ。其後土肥、土屋、岡崎を始として三百餘騎、石橋山に楯籠りて候處に、景親、御方に志を存ずる者共一千餘騎を引率して、押寄せ責候程に、兵衞佐七八騎に打成れ、大童に戰ひなて、土肥の杉山へ逃籠候ぬ。其後畠山五百餘騎で、御方を仕る。三浦大介義明が子共、三百餘騎で源氏方をして、湯井小坪の浦で戰ふに、畠山軍にまけて、武藏國へ引退く。其後畠山が一族、河越、稻毛、小山田、江戸、葛西惣じて其外七黨の兵共、三千餘騎を相具して、三浦衣笠の城に押寄て攻め戰ふ。大介義明討たれ候ぬ。子どもは皆栗濱の浦より舟に乘り、安房、上總へ渡り候ぬ。」とこそ申たれ。

平家の人々、都移も早興醒ぬ。若き公卿殿上人は、「哀疾、事の出來よかし、討手に向はう。」など云ぞはかなき。畠山庄司重能、小山田別當有重、宇都宮左衞門朝綱、大番役にて、折節在京したりけり。畠山申けるは、「僻事にてぞ候らん。親う成て候なれば、北條は知り候はず。自餘の輩は、よも朝敵が方人をば仕候はじ。今聞召直んずるものを。」と申ければ、「實にも」と云人も有り、「いや/\只今天下の大事に及びなんず。」とささやく者も多かりけり。入道相國怒られける樣斜ならず。「頼朝をば既に死罪に行はるべかりしを、故池殿の強に歎き宣ひし間、流罪に由宥めたり。然るに其恩忘て、當家に向て弓を引くにこそあんなれ。神明三寶も、爭か赦させ給ふべき。只今天の責め蒙らんずる頼朝也。」とぞ宣ける。

朝敵揃

夫れ我朝に朝敵の始めを尋ぬれば日本磐余彦尊の御宇四年、紀州名草郡、高雄村に一つの蜘蛛有り、身短く足手長くて、力人に勝れたり。人民多く損害せしかば、官軍發向して、宣旨を讀かけ、葛の網を結で、終に是を掩ひ殺す。其より以降野心を狹んで、朝威を滅んとする輩、大石の山丸、大山王子、守屋の大臣、山田の石河、蘇我の入鹿、大友の眞鳥、文屋の宮田、橘の逸勢、氷上の川繼、伊豫の親王、太宰少貳藤原の廣嗣、惠美の押勝、早良の太子、井上の皇后、藤原仲成、平將門、藤原純友、安倍貞任、對馬守源義親、惡佐府、惡衞門督に至る迄、すべて廿餘人。され共一人として、素懷を遂ぐる者なし。尸を山野に曝し、頭を獄門に懸らる。

此世にこそ王位も無下に輕けれ。昔は宣旨を向て讀ければ、枯たる草木も花咲き實なり、飛鳥も隨ひけり。中頃の事ぞかし、延喜御門神泉苑に行幸在て、池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召て、「あの鷺取て參らせよ。」と仰ければ、爭か取らんと思けれ共、綸言なれば歩み向ふ。鷺も羽つくろひして立んとす。「宣旨ぞ。」と仰すれば、ひらんで飛去らず。是を取て參りたり。「汝が宣旨に隨て、參りたるこそ神妙なれ。やがて五位に成せ。」とて、鷺を五位にぞ成されける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし。」と云ふ札を遊し、頸にかけて放たせ給ふ。全く鷺の御料には非ず、唯王威の程を知召んが爲也。

咸陽宮

又先蹤を異國に尋るに、燕の太子丹と云者、秦の始皇帝に囚はれて、戒を蒙る事十二年、太子丹涙を流いて申けるは、「我本國に老母有り、暇を給はて彼を見ん。」と申せば、始皇帝あざ笑て、「汝に暇を給ん事は馬に角生ひ、烏の頭の白く成んを待つべし。」燕丹天に仰ぎ地に俯て、「願くは馬に角生ひ、烏の頭白く成ぬを待つべし。」燕丹天に仰ぎ地に俯て、「願くは馬に角生ひ、烏の頭白くなしたべ。故郷に歸て、今一度母を見ん。」とぞ祈ける。彼妙音菩薩は、靈山淨土に詣して、不孝の輩を戒め、孔子、顏囘は、支那震旦に出て、忠孝の道を始め給ふ。冥顯の三寶、孝行の志を憐み給ふ事なれば、馬に角生て宮中に來り、烏の頭白く成て庭前の木に栖りけり。始皇帝、烏頭馬角の變に驚き、綸言返らざる事を信じて、太子丹を宥つゝ、本國にこそ歸されけれ。始皇猶悔みて、秦の國と燕の國の境に、楚國と云ふ國有り。大なる河流れたり。彼の河に渡せる橋をば楚國の橋と云へり。始皇官軍を遣て、燕丹が渡らん時、河中の橋を蹈まば落る樣に認めて、燕丹を渡らせけるに、何かは落入らざるべき。河中へ落入ぬ。されども、ちとも水にも溺れず、平地を行如して、向の岸へ著にけり。こは如何にと思ひて、後を顧ければ、龜共が幾らと云ふ數も知らず、水の上に浮れ來て、甲を竝てぞ歩ませたりける。是も孝行の志を冥顯憐給ふに依て也。

太子丹恨を含んで、又始皇帝に隨はず。始皇官軍を遣して、燕丹をうたんとし給ふに、燕丹怖れ慄き、荊軻と云ふ兵を語らうて、大臣になす。荊軻又田光先生と云ふ兵を語らふ。かの先生申けるは、「君は此身が若う盛なし事を知召されて憑仰らるゝか。麒麟は千里を飛べども、老ぬれば駑馬にも劣れり。今は如何にも叶ひ候まじ。兵をこそ語らうて參せめ。」とて歸らんとする處に、荊軻、「此事穴賢、人に披露すな。」と言ふ。先生申けるは、「人に疑はれぬるに過たる恥こそ無けれ。此事漏ぬる物ならば、我疑がはれなんず。」とて、門前なる李の樹に首を突當て、打碎いてぞ死にける。又樊於期と云ふ兵有り。是は秦國の者なり。始皇の爲に、父伯叔兄弟を滅されて、燕の國に迯籠れり。秦皇四海に宣旨を下いて、「樊於期が頭はねて參らせたらん者には、五百斤の金を與へん。」と披露せらる。荊軻是を聞き、樊於期が許にゆいて、「我れ聞く。汝が頭を五百斤の金に報ぜらる。汝が首我にかせ、取て始皇帝にたてまつらん。悦んで叡覧を歴られん時、劍を拔き胸を刺んに易かりなん。」と云ひければ、樊於期跳上り、大息ついて申けるは、「我親伯叔兄弟を始皇の爲に滅されて、夜晝これを思ふに、骨髄に徹て忍びがたし。げにも始皇帝を滅すべくば、首を與へん事、塵芥よりも尚易し。」とて、手づから首を切てぞ死にける。

又秦舞陽と云ふ兵有り。是も秦の國の者なり。十三の歳敵を討て、燕の國に迯籠れり。ならびなき兵也。彼が嗔て向ふ時は、大の男も絶入す。又笑で向ふ時は、みどり子も抱かれけり。是を秦の都の案内者に語らうて具してゆく程に、或片山の邊に宿したりける夜、其邊近き里に管絃をするを聞て、調子を以て本意の事を占ふに、敵の方は水也、我方は火也。さる程に天も明ぬ。白虹日を貫て通らず。「我等が本意遂ん事、有がたし。」とぞ申ける。

さりながら歸るべきにもあらねば、始皇の都咸陽宮に到りぬ。燕の指圖竝に樊於期が首持て參りたる由を奏しければ、臣下を以て請取らんとし給ふ。「全く人しては參せじ、直に上まつらん。」と奏する間、「さらば。」とて、節會の儀を調て、燕の使を召されけり。咸陽宮は、都のめぐり一萬八千三百八十里に積れり。内裏をば地より三里高く築上て、其上に立たり。長生殿不老門有り、金を以て日を作り、銀を以て月を作れり。眞珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を布充てり。四方には高さ四十丈の鐵の築地を築き、殿の上にも同く鐵の網をぞ張たりける。是は冥途の使を入じと也。秋は田面の鴈、春はこしぢへ歸るにも、飛行自在の障有れば、築地には鴈門と名附て、鐵の門を開てぞ通しける。其中にも阿房殿とて、始皇の常は行幸成て、政道行はせ給ふ殿有り。高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は、五丈の旗矛を立たるが、猶及ぬ程也。上は瑠璃の瓦を以て葺き、下は金銀にて磨きけり。荊軻は燕の指圖を持ち、秦舞陽は樊於期が首を持て、玉の階をのぼりあがる。餘に内裏のおびたゞしきを見て、秦舞陽わな/\と振ひければ、臣下怪みて「舞陽謀反の心在り。刑人をば君の側に置かず、君子は刑人に近づかず、刑人に近づくは則死を輕んずる道也。」と云へり、荊軻立歸て「舞陽全く謀反の心なし。唯田舎の賤しきにのみ習て、皇居に馴ざる故に、心迷惑す。」と申ければ、臣下みな先靜りぬ。仍て王にちかづき奉る。燕の指圖ならびに樊於期が首見參にいるゝところに指圖の入たる櫃の底に、氷の樣なる劍の見えければ、始皇帝是を見て、やがて逃んとし給ふ。荊軻王の御袖をむずと引へて、劍を胸に差當たり。今はかうとぞ見えたりける。數萬の兵庭上に袖を列ぬと云へども、救んとするに力なし。只君逆臣に犯れ給ん事をのみ悲み合り。始皇のたまはく、「われに暫時の暇を得させよ。朕が最愛の后の琴の音を、今一度聞ん。」と宣へば、荊軻暫は侵し奉らず。始皇は三千人の后を持給へり。其中に華陽夫人とて、勝れたる琴の上手坐けり。凡此后の琴の音を聞ては、猛き武士の怒れるも和ぎ、飛鳥も落ち、草木も颱ぐ程なり。況や今を限の叡聞に備んと、泣々彈給ひけん、さこそは面白かりけめ。荊軻も頭を低れ、耳をそばだてて謀臣の思も怠にけり。其時后始めて更に一曲を奏す。「七尺の屏風は高くとも、跳らばなどか越ざらん。一條の羅穀は勁くとも、引かばなどかは絶ざらん。」とぞ彈給ふ。荊軻はこれを聞知ず、始皇は聞知て、御袖を引切り、七尺の屏風を飛超えて、銅の柱の陰に迯隱れさせたまひぬ。荊軻怒て、劍を投懸奉る。折節御前に番の醫師の候けるが、藥の袋を荊軻が劍に投合せたり。劍藥の袋を懸られながら、口六尺の銅の柱を、半迄こそ切たりけれ。荊軻又劍を持ねば、續いても投ず。王立歸て、わが劍を召寄て、荊軻を八裂にこそし給ひけれ。秦舞陽も討れにけり。官軍を遣して燕丹を亡さる。蒼天宥し給はねば、白虹日を貫いて通らず、秦始皇は遁れて、燕丹終に亡にき。されば今の頼朝もさこそは有らんずらめと、色代する人々も有けるとかや。

文學荒行

抑彼頼朝と申は、去る平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反に依て、年十四歳と申し永暦元年三月廿日、伊豆國蛭島へ流されて、二十餘年の春秋を送り迎ふ。年來も有ばこそ有けめ、今年如何なる心にて、謀反をば起されけるぞと云ふに、高雄の文學上人の申勸められたりけるとかや。彼文學と申は、本は渡邊の遠藤左近將監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。十九の年道心發し出家して、修行にいでんとしけるが、「修行といふは、いか程の大事やらん、試いて見ん。」とて、六月の日の草もゆるがず光たるに、片山の藪の中に這いり、仰のけに伏し、虻ぞ、蚊ぞ、蜂蟻など云ふ毒蟲共が身にひしと取附て螫食などしけれども、ちとも身をも動かさず、七日迄は起上らず。八日と云ふに起上て、「修行と云ふは、是程の大事か。」と人に問へば、「其程ならんには、爭か命も生べき。」と言ふ間、「さては安平ごさんなれ。」とて、軈て修行にぞ出にける。

熊野へ參り、那智籠せんとしけるが、行の試みに、聞ゆる瀑に暫くうたれて見んとて、瀑下へぞ參りける。比は十二月十日餘の事なれば、雪降積り、つらゝいて、谷の小川も音もせず、峯の嵐吹凍り、瀑の白絲垂氷と成り、皆白妙に押竝べて、四方の梢も見え分かず。然るに文學瀑壺に下浸り、頸際漬て、慈救の咒を滿けるが、二三日こそ有けれ、四五日にも成ければ、堪へずして文學浮あがりにけり。數千丈漲り落る瀑なれば、なじかはたまるべき。さとおとされて、刀の刃の如くに、さしも嚴き岩角の中を、浮ぬ沈ぬ、五六町こそ流れたれ。時にうつくしげなる童子一人來て、文學が左右の手を取て引上給ふ。人奇特の思を成し、火を燒きあぶりなどしければ、定業ならぬ命では有り、ほどなく息いでにけり。文學少し人心地いできて、大の眼を見怒かし「我此瀑に三七日打れて、慈救の三洛叉を滿うと思ふ大願有り。今日は纔に五日になる。七日だにも過ざるに、何者が爰へはとて來たるぞ。」と言ければ、見る人身の毛よだて物いはず。又瀑壺に歸り立て打れけり。

第二日と云に、八人の童子來て、引上んとし給へども、散々に抓合うて上らず。第三日と云に、文學終にはかなくなりにけり。瀑壺を穢さじとや、鬟結うたる天童二人、瀑の上より下降り、文學が頂上より手足の爪さき手裏に至る迄、よに煖に香き御手を以て、撫下給ふと覺えければ夢の心地して息出ぬ「抑如何なる人にてましませば、かうは憐給ふらん。」と問奉る。「我は是大聖不動明王の御使に、金迦羅、逝多伽と云ふ二童子也。文學無上の願を發して勇猛の行を企つ、行て力を合すべしと、明王の勅に依て、來れる也。」と答へ給ふ。文學聲を怒らかして、「さて明王は何くにましますぞ。」「兜率天に。」と答へて、雲井遙に上り給ひぬ。掌を合せて是を拜したてまつる。「されば、我行をば、大聖不動明王までも知召れたるにこそ。」と、頼もしう覺えて、猶瀑壺に歸立て打れけり。誠に目出たき瑞相ども在ければ、吹來る風も身に入ず、落來る水も湯の如し。かくて三七日の大願終に遂げにければ、那智に千日籠り、大峯三度、葛城二度、高野、粉川、金峯山、白山、立山、富士の嶽、伊豆、箱根、信濃の戸隱、出羽の羽黒、惣じて日本國殘る所なく行廻て、さすが猶故郷や戀しかりけん、都へ歸上たりければ、凡そ飛鳥も祈落す程の、やいばの驗者とぞ聞えし。

勸進帳

後には、高雄と云ふ山の奧に、行ひすましてぞ居たりける。彼高雄に神護寺と云ふ山寺有り。昔稱徳天皇の御時、和氣清麿が建たりし伽藍也。久く修造無りしかば、春は霞に立籠られ、秋は霧に交り、扉は風に倒て、落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵れて、佛壇更に顯也。住持の僧も無れば稀に差入物とては、月日の光ばかり也。文學是を如何にもして、修造せんといふ大願を起し、勸進帳を捧て、十方檀那を勸めありきける程に、或時院の御所法住寺殿へぞ參りたりける。御奉加有るべき由奏聞しけれども、御遊の折節で、聞召も入れられず。文覺は天性不敵第一の荒聖なり。御前の骨、内證をば知らず、只申入ぬぞと心得て、是非なく御坪の内へ破り入り、大音聲を揚て申けるは、「大慈大悲の君にておはします、などか聞召入れざるべき。」とて、勸進帳を引廣げ、高らかにこそ讀だりけれ。

沙彌文學敬白す。殊には貴賤道俗の助成を蒙て、高雄山の靈地に一院を建立し、二世安樂の大利を勤行せんと請ふ勸進の状 夫以れば、眞如廣大なり。生佛の假名を斷つと云へども、法性隨妄の雲厚く覆て、十 二因縁の峰に並び居しより以降、本有心蓮の月の光幽にして、未だ三徳四曼の大虚に 現はれず。悲哉。佛日早く沒して、生死流轉の衢冥々たり。只色に耽り酒に耽る。誰 か狂象跳猿の迷を謝せん。徒に人を謗し法を謗す。豈閻羅獄卒の責を免れんや。爰に 文學適俗塵を打拂て、法衣を飾と云へ共、惡行猶心に逞して、日夜に造り、善苗又耳に逆て朝暮に廢る。痛哉。再度三塗の火坑に歸て、永く四生の苦輪に廻らん事を。此故に無二の顯章千萬軸、軸々に佛種の因を明す、隨縁至誠の法、一として菩提の彼岸に至らずといふ事なし。故に文學無常の觀門に涙を落し、上下の眞俗を勸めて、上品蓮臺に歩を運び、等妙覺王の靈場を建んとなり。抑高雄は山堆くして、鷲峯山の梢を表し、谷閑にして商山洞の苔を敷けり。巖泉咽んで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人里遠うして囂塵なし、咫尺好して信心のみあり。地形勝れたり、尤佛天を崇むべし。奉加少しきなり、誰か助成せざらん。風に聞く、聚沙爲佛塔功徳忽に佛因を感ず。況や一紙半錢の寶財に於てをや。願くは建立成就して金闕鳳歴御願圓滿、乃至都鄙遠近隣民親疎、堯舜無爲の化をうたひ、椿葉再會の笑を開かん。殊には又聖靈幽儀先後大小、速に一佛眞門の臺に至り、必ず三身萬徳の月を翫ばん。仍て勸進修行の趣、蓋以如此。

治承三年三月 日  文學

とこそ讀上たれ。

文學被流

折節御前には、太政大臣妙音院、琵琶掻鳴し朗詠目出度うせさせ給。按察大納言資方卿拍子取て風俗、催馬樂歌はれけり。右馬頭資時、四位侍從盛定、和琴掻鳴し、今樣とり%\に歌ひ、玉の簾、錦の帳の中さゞめき合ひ、誠に面白かりければ、法皇も附歌せさせ坐します。其に文學が大音聲出來て、調子も違ひ、拍子も皆亂にけり。「何者ぞ。そ頸突け。」と仰下さるる程こそ有けれ。はやりの若者共、我も我もと進ける中に、資行判官と云ふ者、走出でゝ、「何條事申ぞ。罷出よ。」と云ければ、「高雄の神護寺に庄一所寄られざらん程は全く文學いづまじ。」とて動かず。寄てそ頸を突うとしければ、勸進帳を取直し、資行判官が烏帽子を、はたと打て打落し、拳を握て、しや胸を突て、仰に撞倒す。資行判官は、髻放て、おめ/\と大床の上へ迯上る。其後文學懷より、馬の尾で柄巻たる刀の、氷の樣なるを拔出いて、寄來ん者を突うとこそ待懸たれ。左の手には勸進帳、右の手には刀を拔て走りまはる間、思設ぬ俄事では有り、左右の手に刀を持たる樣にぞ見えたりける。公卿殿上人も、こは如何に/\と噪れければ、御遊もはや荒にけり。院中の騒動斜ならず。信濃國の住人、安藤武者右宗、其頃當職の武者所で有けるが、「何事ぞ。」とて、太刀を拔て走出たり。文學悦でかゝる所を、斬ては惡かりなんとや思ひけん、太刀のみねを取直し、文學が刀持たる肘をしたゝかに打つ。打れてちと疼む處に太刀を捨てて「えたりやをう。」と、組だりける。組まれながら文學安藤武者が右の肘を突く。突れながらしめたりけり。互に劣らぬ大力なりければ、上に成り下に成り、轉合ふ所に、賢顏に、上下寄て、文學が動く所のぢやうをがうしてけり。去れ共、是を事ともせず、彌惡口放言す。門外へ引出いて、廳の下部にたぶ。ゐてひはる。ひはられて立ながら、御所の方を睨まへ、大音聲をあげて、「奉加をこそし給はざらめ。是程文學に辛い目を見せ給ひつれば、思知せ申さんずる物を。三界は皆火宅也。王宮と云ふとも、其難を遁るべからず。十善の帝位に誇たうとも、黄泉の旅に出なん後は、牛頭馬頭の責をば免れ給はじ物を。」と、躍上躍上ぞ申ける。此法師奇怪なりとて、やがて獄定せられたり。資行判官は、烏帽子打落されて恥がましさに、暫は出仕もせず。安藤武者は、文學組だる勸賞に、一臈を歴ずして、右馬允にぞ成されける。さる程に其比美福門院隱れさせ給ひて、大赦有りしかば、文學程なく赦されけり。暫はどこにも行ふべかりしが、さはなくして、又勸進帳を捧て、勸めけるが、さらば唯も無して、「あはれこの世の中は、唯今亂れ、君も臣も皆滅失んずる物を。」など、怖き事のみ申ありく間、「此法師都に置ては叶ふまじ、遠流せよ。」とて伊豆國へぞ流されける。

源三位入道の嫡子、仲綱の其比伊豆守にておはしければ其沙汰として、東海道より船にて下すべしとて、伊勢國へ將て罷りけるに、放免兩三人ぞつけられたる。是等が申けるは、「廳の下部の習、加樣の事についてこそ自らの依怙も候へ。如何に聖の御房、是程の事に逢て、遠國へ流され給ふに、知人は持給はぬか、土産粮料如きの物をも乞給へかし。」といひければ、文學は「左樣の要事いふべき得意も持たず、東山の邊にぞ得意は有る。いでさらば文を遣う。」と云ければ、怪しかる紙を尋て、得させたり。「か樣の紙で物書くやうなし。」とて、投返す。さらばとて、厚紙を尋て得させたり。文學笑て「法師は物をえ書ぬぞ、さらばおれら書け。」とて書するやう、「文學こそ、高雄の神護寺造立供養の志あて勸め候つる程に、かゝる君の代にしも逢て所願をこそ成就せざらめ。禁獄せられて剩へ伊豆國へ流罪せられ候。遠路の間で候。土産粮料如きの物も、大切に候。此使に給べし。」と書けと云ければ、いふ儘に書て、「さて誰殿へとかき候はうぞ。」「清水の觀音房へと書け。」是は廳の下部を欺くにこそ。」と申せば「さりとては文學は觀音をこそ深う憑奉たれ。さらでは誰にかは用事をば言ふべき。」とぞ申ける。

伊勢國阿濃の津より舟に乘て下りけるが、遠江國天龍灘にて、俄に大風吹き大波立て、既に此舟を打覆さんとす。水手梶取共、如何にもして、助らんとしけれども、波風彌荒ければ、或は觀音の名號を唱へ、或は最後の十念に及ぶ。されども、文學は是を事ともせず。高鼾かいて臥したりけるが、何とか思けん、今はかうと覺えける時、かはと起、船の舳に立て、奥の方を睨へ大音聲を揚て、「龍王やある、龍王やある。」とぞ喚だりける。「如何に是程の大願發いたる聖が乘たる船をば過うとはするぞ。唯今天の責蒙んずる龍神共かな。」とぞ申ける。其故にや波風程なく靜て、伊豆國へ著にけり。文學京を出ける日より祈誓する事あり。「我都に歸て、高雄の神護寺造立供養すべくば、死ぬべからず。此願空かるべくば、道にて死ぬべし。」とて、京より伊豆へ著ける迄、折節順風無りければ、浦傳ひ島傳ひして三十一日が間は、一向斷食にてぞ有ける。され共氣力少しも劣へず、行うちして居たりけり。誠に直人とも覺ぬ事共多かりけり。近藤四郎國高といふ者に預けられて、伊豆國奈古屋が奥にぞすみける。

福原院宣

さる程に兵衞佐殿へ常は參て、昔今の物語ども申て慰む程に、ある時文學申しけるは、「平家には小松大臣殿こそ、心も剛に策も勝て坐しか。平家の運命が末に成やらん、去年八月薨ぜられぬ。今は源平の中に、わどの程將軍の相持たる人はなし。早々謀反起して、日本國隨給へ。」兵衞佐、「思も寄らぬ事宣ふ聖御房哉。我は故池尼御前にかひなき命を助けられ奉て候へば、其後世を弔はん爲に、毎日に法華經一部轉讀する外は他事なし。」とこそ宣けれ、文學重て申けるは「天の與ふるを取ざれば、却て其咎を受く。時至て行はざれば、却て其殃を受と云ふ本文有り。か樣に申せば、御邊の心を見んとて、申など思ひ給か。御邊に志の深い色を見給へかし。」とて、懷より白布に裏だる髑髏を一つ取出す。兵衞佐殿、「あれは如何に。」と宣へば、「是こそわどのの父、故左馬頭殿の頭よ。平治の後、獄舎の前なる苔の下に埋れて、後世弔ふ人も無かりしを、文學存ずる旨有て、獄守に乞て此十餘年頸に懸け、山々寺々拜みまはり、弔ひ奉れば、今は定て一劫もたすかり給ぬらん。去れば、文學は故頭殿の御爲にも、奉公の者でこそ候へ。」と申ければ、兵衞佐殿、一定とは覺ねども、父の頭と聞く懷しさに、先涙をぞ流されける。其後は打解て物語し給ふ。「抑頼朝勅勘を許りずしては、爭か謀反をば起すべき。」と宣へば「それ易い事、やがて上て申許いて奉らん。」「さもさうず、御房も勅勘の身で人を申許さうと宣ふ、あてがひ樣こそ、大に誠しからね。」「吾身の勅勘を許うと申さばこそ僻事ならめ。わどのの事申さうは、何か苦しかるべき。今の都福原の新都へ上らうに、三日に過まじ。院宣伺はうに、一日が逗留ぞ有らんずる。都合七日八日に過ぐべからず。」とてつき出ぬ。奈古屋に歸て、弟子共には、伊豆の御山に人に忍んで、七日參籠の志ありとて出にけり。實にも三日と云に、福原の新都へ上りつゝ前右兵衞督光能卿の許に、聊縁有ければ、其に行いて、「伊豆國の流人、前右兵衞佐頼朝こそ勅勘を許されて、院宣をだにも給はらば、八箇國の家人ども催し集めて、平家を亡し、天下を靜んと申候へ。」兵衞督、「いさとよ、我身も當時は三官共に停られて、心苦しい折節なり。法皇も押籠られて渡せ給へば、如何有んずらん。さりながら伺うてこそ見め。」とて、此由竊に奏せられければ、法皇やがて院宣をこそ下されけれ。聖是を頸にかけ、又三日と云に伊豆國へ下り著く。兵衞佐「あはれ、此聖の御房は、なまじひに由なき事申し出して、頼朝又如何なる憂目にか逢んずらん。」と、思はじ事なう、あんじ續けて坐ける處に八日と云ふ午刻許に下著て、「すは院宣よ。」とて奉る。兵衞佐、院宣と聞く忝さに、手水鵜飼をし、新き烏帽子淨衣著て、院宣を三度拜して披かれけり。

頻の年より以降、平氏王化を蔑如し、政道に憚ることなし。佛法を破滅して朝威を亡さんとす。夫吾朝は神國なり、宗廟相並んで神徳惟新なり。故に朝廷開基の後、數千餘歳の間、帝猷を傾け、國家を危ぶめんとする者、皆以て敗北せずといふことなし。然れば則、且は神道の冥助に任せ、且は勅宣の旨趣を守て、早く平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を退けよ。譜代弓箭の兵略を繼ぎ、累祖奉公の忠勤を抽で、身を立て家を興すべし、てへれば、院宣此の如し。仍執達如件。

治承四年七月十四日 前右兵衞督光能奉

謹上 前右兵衞佐殿

とぞ書かれたる。此院宣をば、錦の袋に入れて、石橋山の合戰の時も、兵衞佐殿頸に懸られたりけるとかや。

富士川

さる程に、福原には勢の附ぬ先に、急ぎ討手を下べしと公卿僉議有て、大將軍には小松權亮少將維盛、副將軍には薩摩守忠度、都合其勢三萬餘騎、九月十八日に新都を立て、十九日には舊都に著き、やがて廿日東國へこそ討立れけれ。大將軍權亮少將維盛は、生年二十三、容儀帶佩繪に書とも筆も及難し。重代の鎧唐皮と云ふ著せ長をば、唐櫃に入て舁せらる。道中には、赤地の錦の直垂に、萌黄絲威の鎧著て、連錢蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置て乘り給へり。副將軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸威の鎧著て、黒き馬の太う逞に沃懸地の鞍置て乘り給へり。馬鞍鎧甲弓箭太刀刀に至る迄、光輝く程に出立れたりしかば、めでたかりし見物也。薩摩守忠度は、年來或る宮腹の女房の許へ通はれけるが、或時坐たりけるに、其女房の許へ、止事なき女房客人に來て、良久しう物語し給ふ。小夜も遙に更行く迄に客人歸り給はず。忠度軒端にしばしやすらひて、扇を荒く遣はれければ、宮腹の女房、「野もせに集く蟲の音よ。」と、優にやさしく口ずさみ給へば、薩摩守やがて遣ひ止て歸られけり。其後又坐たりけるに、宮腹の女房「さても一日、何とて扇をば遣ひ止にしぞや。」ととはれければ、「いさ、かしがましなど聞え候しかば、さてこそ遣ひやみ候しか。」とぞ宣ひける。彼女房の許より忠度の許へ、小袖一重遣すとて、千里の名殘の悲しさに、一首の歌をぞ、贈られける。

東路の草葉をわけん袖よりも、たゝぬ袂の露ぞこぼるゝ。

薩摩守返事には

別路を何かなげかんこえて行く、關もむかしの跡とおもへば。

關も昔の跡と詠る事は、平將軍貞盛、將門追討の爲に、東國へ下向せし事を、思ひ出て讀たりけるにや、最優うぞ聞えし。

昔は朝敵を平げに外土へ向ふ將軍は、先參内して節刀を賜る。宸儀南殿に出御して、近衞階下に陣を引き、内辨外辨の公卿參列して、中儀の節會を行はる。大將軍副將軍各禮儀を正うして、是を給はる。承平天慶の蹤跡も、年久う成て准へ難しとて、今度は讃岐守正盛が、前對馬守源義親追討の爲に、出雲國へ下向せし例とて、鈴ばかり賜て、皮の袋に入て、雜色が頸に懸させてぞ下られける。古朝敵を滅さんとて、都をいづる將軍は、三つの存知有り。節刀を賜はる日家を忘れ、家をいづるとて妻子を忘れ、戰場にして敵に鬪ふ時身を忘る。されば今の平氏の大將軍維盛忠度も、定てか樣の事をば存知せられたりけん。あはれなりし事共也。

同二十一日新院又安藝國嚴島へ御幸成る。去る三月にも御幸ありき。其故にや、中一兩月世も目出度治て、民の煩も無りしが、高倉宮の御謀反に依て、又天下亂れて、世上も靜かならず。是に依て、且は天下靜謐の爲、且は聖代不豫の御祈念の爲とぞ聞えし。今度は福原よりの御幸なれば、斗藪の煩も無りけり。手から自から御願文を遊ばいて、清書をば攝政殿せさせおはします。

蓋し聞く、法性雲閑なり。十四十五の月高く晴れ、權化智深く一陰一陽の風旁扇ぐ。夫嚴島の社は稱名普く聞る場、効驗無雙の砌也。遙嶺の社壇を繞る、自大慈の高く峙を彰し、巨海の祠宇に及ぶ、空に弘誓の深廣なる事を表す。夫以れば初庸昧の身を以て忝なく皇王の位を踐む。今賢猷を靈境の群に玩で閑放を射山の居に樂む。然るに竊に一心の精誠を抽で孤島の幽祠に詣、瑞離の下に冥恩を仰ぎ、懇念を凝して汗を流し、寶宮の内に靈託を垂。其告げの心に銘する在り。就中に特に怖畏謹愼の期をさすに、專ら季夏初秋の候に當る。病痾忽に侵し、猶醫術の驗を施す事なし。萍桂頻に轉ず。彌神感の空からざる事を知ぬ。祈祷を求と云へども、霧露散じ難し。しかじ、心府の志を抽でゝ、重て斗藪の行を企てんと思ふ。漠々たる寒嵐の底、旅泊に臥て夢を破り、凄々たる微陽の前、遠路に臨で眼を究む。遂に枌楡の砌に著て、敬て清淨の席をのべ、書寫したて奉る色紙墨字の妙法蓮華經一部、開結二經、阿彌陀、般若心經等の經、各一巻。手づから自から書寫しまつる金泥の提婆品一巻。時に蒼松蒼柏の陰、共に善理の種を添へ、潮去潮來響空に梵唄の聲に和す。弟子北闕の雲を辭して八亥、涼燠の多くめぐる事なしと云へども、西海の浪を凌ぐ事二度、深く機縁の淺からざる事を知ぬ。朝に祈る客一つにあらず。夕に賽しする者且千也。但尊貴の歸仰多しといへども院中の往詣未聞かず。禪定法皇初めて其儀をのこい給ふ。弟子眇身深運其志、彼嵩高山の月の前には漢武未だ和光の影を拜せず。蓬莱洞の雲の底にも天仙空く垂跡の塵を隔つ。仰願くは大明神、伏乞らくは、一乘經、新に丹祈を照して、唯一の玄應を垂給へ。

治承四年九月二十八日 太上天皇

とぞ遊ばされたる。

さる程に此人々は九重の都を立て、千里の東海に赴かれける。平かに歸上ん事も、まことに危き有樣共にて、或は野原の露に宿をかり、或は高峯の苔に旅寢をし、山を越え河を重ね、日數歴れば、十月十六日には、駿河國清見が關にぞ著給ふ。都をば三萬餘騎で出しかど、路次の兵召具して、七萬餘騎とぞ聞えし。前陣は蒲原富士川に進み、後陣は未手越宇津谷に支へたり。大將軍權亮少將維盛、侍大將上總守忠清を召て「只維盛が存知には、足柄を打越えて坂東にて軍をせん。」と早られけるを上總守申けるは、「福原を立せ給し時、入道殿の御定には、軍をば忠清に任せさせ給へんと仰候しぞかし。八箇國の兵共皆兵衞佐に隨ひついて候なれば、何十萬騎か候はん。御方の御勢は七萬餘騎とは申せども、國々の驅武者共也。馬も人も責伏せて候。伊豆駿河の勢の參るべきだにも未見えず候。只富士川を前に當てて、御方の御勢を待せ給ふべうや候らん。」と申ければ、力及ばでゆらへたり。

さる程に、兵衞佐は足柄の山を打越えて、駿河國黄瀬川にこそ著給へ。甲斐信濃の源氏ども馳來て一つになる。浮島が原にて、勢汰あり。廿萬騎とぞ記いたる。常陸源氏佐竹太郎が雜色、主の使に文持て京へ上るを、平家の先陣上總守忠清是を留て、持たる文を奪取り明て見れば、女房の許への文也。苦かるまじとて取せてけり。「抑兵衞佐殿の勢、いか程有ぞ。」と問へば、「凡そ八日九日の道に、はたとつゞいて、野も山も海も河も武者で候。下臈は四五百千迄こそ、物の數をば知て候へ共其より上は知らぬ候。多いやらう少いやらうをば知候はず。昨日黄瀬川にて、人の申つるは、源氏の御勢二十萬騎とこそ申候つれ。」上總守是を聞いて、「あはれ大將軍の御心の延させ給たる程、口惜い事候はず。今一日も先に討手を下させ給ひたらば、足柄の山越えて、八箇國へ御出候はゞ、畠山が一族、大庭兄弟、などか參らで候べき。是等だにも參りなば、坂東には靡かぬ草木も候まじ。」と、後悔すれども甲斐ぞなき。

又大將軍權亮少將維盛、東國の案内者とて、長井齋藤別當實盛を召て、「やや實盛、汝程の強弓精兵、八箇國に如何程有ぞ。」と問ひ給へば、齋藤別當あざ笑て申けるは、「左候へば、君は實盛を大矢と思召し候か。僅に十三束こそ仕り候へ。實盛程射候者は八箇國に幾らも候。大矢と申す定の者の、十五束に劣て引は候はず、弓の強さも、したゝかなる者五六人して張り候。かゝる精兵共が射候へば、鎧の二三兩をも重ねて、容易う射て徹し候也。大名一人と申は勢の少い定、五百騎に劣るは候はず。馬に乘つれば落る道を知らず。惡所を馳れども、馬を倒さず。軍は又親も討れよ、子も討れよ、死ぬれば乘越々々戰ふ候。西國の軍と申は親討れぬれば孝養し、忌明て寄せ、子討れぬれば、其思ひ歎きに、寄候はず。兵粮米盡ぬれば春は田作り、秋は刈収て寄せ、夏は熱しと云ひ、冬は寒しと嫌ひ候。東國には、惣て其儀候はず。甲斐信濃の源氏共、案内は知て候。富士のすそより搦手にやまはり候らん。かう申せば、君を憶せさせ參せんとて申とや思召し候らん。其儀には候はず。軍は勢には依らず、策に依るとこそ申傳て候へ。實盛今度の軍に命生て再都へ參るべしとも覺候はず。」と申ければ、平家の兵共是を聞て、皆震ひわなゝきあへり。

さる程に、十月二十三日にもなりぬ。明日は源平富士川にて、矢合と定めたりけるに、夜に入て、平家の方より源氏の陣を見渡せば、伊豆駿河の人民百姓等が、軍に怖て、或は野に入り山に隱れ、或は舟に取乘て、海河に浮び、營の火見えけるを、平家の兵共「あなおびただしの源氏の陣の遠火の多さよ。げにも誠に野も山も海も河も、皆敵で有けり。如何せん。」とぞあわてける。其夜の夜半ばかり、富士の沼に幾らもむれ居たりける水鳥共が、何にか驚きたりけん、只一度にはと立ける羽音の、大風雷などの樣に聞えければ、平家の兵共、「すはやげんじの大勢の寄するは。齋藤別當が申つる樣に、定めて搦手もまはるらん。取籠められては叶ふまじ。爰をば引いて、尾張河、州俣を防げや。」とて、取る物も取敢ず、我先にとぞ落行ける。餘に遽て噪いで弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、人の馬には我乘り、わが馬をば人に乘らる。或は繋いだる馬に騎て株を繞る事限なし。近き宿々より迎へ取て遊びける遊君遊女共、或は頭蹴破れ、腰蹈折れて、喚叫ぶ者多かりけり。

あくる二十四日卯の刻に、源氏大勢廿萬騎、富士川に押寄て、天も響き大地も搖ぐ程に、閧をぞ三箇度作りける。

五節之沙汰

平家の方には、音もせず。人を遣はして見せければ、「皆落て候。」と申す。或は敵の忘たる鎧取て參りたる者も有り。或は敵の捨たる大幕取て參りたる者も有り。「敵の陣には蠅だにも翔り候はず。」と申す。兵衞佐、馬より降り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、王城の方を伏拜み、「是は全く頼朝が私の高名にあらず、八幡第菩薩の御計也。」とぞ宣ひける。やがて打取る所なればとて、駿河國をば一條次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定に預けらる。平家續いても攻べけれども後もさすが覺束なしとて浮島原より引退き、相摸國へぞ歸られける。海道宿々の遊君遊女ども、「あな忌々し。射手の大將軍の矢一つだに射ずして、逃上り給ふうたてさよ。軍には見逃と云事をだに心憂き事にこそするに、是は聞にげし給ひたり。」と笑ひあへり。落書共多かりけり。都の大將軍をば宗盛と云ひ、討手の大將をば權亮と云ふ間、平家をひら屋によみなして、

ひらやなるむねもりいかにさわぐらん、柱とたのむすけをおとして。
富士河の瀬々の岩こす水よりも、はやくもおつるいせ平氏かな。

上總守たゞきよが、富士河に鎧を捨たりけるを讀めり。

富士河に鎧はすてつ、墨染の衣たゞきよ後の世のため。
たゞきよはにげの馬にぞのりにける、上總鞦かけてかひなし。

同十一月八日、大將軍權亮少將維盛、福原の新都へ上りつく。入道相國大に怒て、 「大將軍權亮少將維盛をば鬼界が島へ流すべし、侍大將上總守忠清をば死罪に行へ。」 とぞ宣ひける。同九日平家の侍共、老少參會して、「忠清が死罪の事、いかゞ有ら ん。」と評定す。中に主馬判官盛國進出でて申けるは、「忠清は昔より不覺人とは承 り及ばず、あれが十八歳と覺え候、鳥羽殿の寶藏に五畿内の惡黨二人、迯籠て候しを、 寄て搦めうと申す者候はざりしに、此忠清白晝に唯一人築地を越え、はね入て、一人 をば討取り、一人をば生捕て、後代に名を揚たりし者にて候。今度の不覺は、徒事と も覺え候はず。是に附ても、能々兵亂の御愼候べし。」とぞ申ける。

同十日、大將軍權亮少將維盛、右近衞中將になり給ふ。「討手の大將と聞えしかども、させるし出たる事もおはせず。是は何事の勸賞ぞや。」と人々ささやき合へり。

昔將門追討の爲に、平將軍貞盛、田原藤太秀里、うけ給て坂東へ發向したりしかども、將門容易う亡難かりしかば、重て討手を下すべしと、公卿僉議あて、宇治民部卿忠文、清原重藤、軍監と云ふ官を給て下られけり。駿河國清見關に宿したりける夜、彼重藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟火影寒うして浪を燒き、驛路鈴聲夜山をすぐ」と云ふ唐歌を高らかに口ずさみ給へば、忠文優に覺えて、感涙をぞ流されける。さる程に將門をば、貞盛秀里が終に討取てけり。其頭を持せて上る程に、清見關にて行逢うたり。其より先後の大將軍打連て上洛す。貞盛秀里に勸賞行はれける時、忠文重藤にも勸賞有べきかと、公卿僉議有り。九條右丞相師輔公の申させ給ひけるは、「坂東へ討手は向うたりと云へども、將門容易う亡ひ難き處に、此人共仰を蒙て、關の東へ赴く時、朝敵既に亡びたり。さればなどか勸賞無るべき。」と申させ給へども、其時の執柄小野宮殿、「『疑しきをば成す事なかれ』と禮記の文に候へば。」とて、遂になさせ給はず。忠文是を口惜事にして、「小野宮殿の御末をば、奴に見なさん。九條殿の御末には、何の世迄も守護神と成ん。」と誓ひつゝ、干死にこそし給ひけれ。されば九條殿の御末は、目出たう榮させ給へども、小野宮殿の御末には、然るべき人も坐さず、今は絶果給ひけるにこそ。

さる程に入道相國の四男、頭中將重衡、左近衞中將に成給ふ。同十一月十三日福原には、内裏造出して、主上御遷幸有り。大嘗會あるべかりしかども、大嘗會は十月の末、東河に御幸して、御禊有り。大内の北の野に齋場所を作て、神服神具を調ふ。大極殿の前、龍尾道の壇下に、迴立殿を建て、御湯をめす。同壇の竝に、大嘗宮を作て、神膳を備ふ。宸宴有り。御遊有り。大極殿にて大禮有り。清暑堂にて御神樂有り。豊樂院にて宴會あり。然を此福原の新都には、大極殿も無ければ、大禮行ふべき處もなし。清暑堂無れば、御神樂奏すべき樣もなし。豊樂院も無れば、宴會も行はれず。今年は唯新嘗會五節許有るべきよし、公卿僉議有て、猶新嘗の祭をば、舊都の神祇官にして遂られけり。

五節は、淨見原の當時、吉野宮にして、月白く風烈しかりし夜、御心を澄しつゝ琴を彈給しに、神女あま下り、五度袖を飜す。是ぞ五節の始なる。

都歸

今度の都遷をば、君も臣も御歎有り。山奈良を始て、諸寺諸社に至る迄、然べからざる由一同に訴申間、さしも横紙を破るゝ太政入道も、さらば都還有るべしとて京中ひしめきあへり。

同十二月二日、俄に都還有けり。新都は北は山にそひて高く、南は海近くして下れり。波の音常は喧く、鹽風烈しき所也。されば新院いつとなく、御惱のみしげかりければ、急ぎ福原を出させ給ふ。攝政殿を始奉て、太政大臣以下の公卿殿上人我も/\と供奉せらる。入道相國を始として平家一門の公卿殿上人我先にとぞ上られける。誰か心憂かりつる新都に、片時も殘るべき。去る六月より屋ども壞よせ、資材雜具運び下し、形の如く取立たりつるに、又物狂はしう、都還有ければ、何の沙汰にも及ばず、打捨々々上られけり。各すみかも無くして、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片邊について、御堂のくわい廊、社の拜殿などに、立宿てぞ然るべき人々もましましける。

今度の都遷の本意を如何にと云ふに、舊都は南都北嶺近くして、聊の事にも春日の神木、日吉の神輿など言て亂りがはし。福原は山隔たり江重て、程もさすが遠ければ、左樣の事たやすからじとて、入道相國の計ひ出されたりけるとかや。

同十二月二十三日、近江源氏の背きしを攻んとて、大將軍には左兵衞督知盛、薩摩守忠度、都合其勢二萬餘騎で、近江國へ發向して、山本、柏木、錦古里など云ふ溢れ源氏共一々に皆攻落し、やがて美濃尾張へ越え給ふ。

奈良炎上

都には又高倉宮園城寺へ入御の時、南都の大衆同心して、剩へ御迎に參る候、是以て朝敵なり。されば南都をも三井寺をも攻らるべしといふ程こそ在けれ、奈良の大衆おびただしく蜂起す。攝政殿より「存の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ。」と仰下されけれ共一切用たてまつらず。有官の別當忠成を御使に下されたりければ、「しや乘物より取て引落せ、髻切れ。」と騒動する間、忠成色を失て迯上る。次に右衞門佐親雅を下さる。是をも「髻切れ。」と大衆ひしめきければ、取る物も取敢ず、逃上る。其時は勸學院の雜色二人が、髻切れけり。

又南都には大なる毬杖の玉作て、是は平相國の頭と名附て、「打て、踏め。」などぞ申ける。「詞の漏し易は殃を招く媒也。詞の愼まざるは、破れを取る道也。」と云へり。此入道相國と申は、かけまくも忝く當今の外祖にて坐ます。其をか樣に申ける南都の大衆、凡は天魔の所爲とぞ見えたりける。

入道相國か樣の事共傳聞給ひて、爭か好しと思はるべき。且々南都の狼藉を靜めんとて、備中國の住人瀬尾太郎兼康、大和國の檢非所に補せらる。兼康五百餘騎で南都へ發向す。「相構て、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物具なせそ。弓箭な帶しそ。」とて向はれたりけるに、大衆かゝる内議をば知らず、兼康が餘勢六十餘人搦取て、一々に皆頸を斬て、猿澤の池の端にぞ懸竝べたる。入道相國大に怒て、 「さらば南都を攻よや。」とて、大將軍には頭中將重衡、副將軍には中宮亮通盛、都 合其勢四萬餘騎で南都へ發向す。大衆老少嫌はず七千餘人甲の緒をしめ、奈良坂、般 若寺、二箇所の路を掘切て、堀ほり垣楯かき、逆茂木引て待かけたり。平家は四萬餘 騎を二手に分て、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭に押寄て、鬨をどとつくる。大衆は 皆歩立打物なり。官軍は馬にてかけまはしかけまはし、あそここゝに追懸/\指つめ 引つめ散々に射ければ、防ぐ所の大衆數を盡いて討れにけり。卯刻に矢合して一日戰 ひ暮す。夜に入て、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭共に破れぬ。落行く衆徒の中に、 坂四郎永覺と云ふ惡僧あり。打物持ても弓箭を取ても力の強さも七大寺十五大寺に勝 たり。萌黄威の腹巻の上に、黒絲威の鎧を重てぞ著たりける。帽子甲に五枚甲の緒を しめて、左右の手には茅の葉の樣に反たる白柄の大長刀、黒漆の大太刀持つまゝに、 同宿十餘人前後にたて、てがいの門より打て出でたり。是ぞ暫支たる。多くの官兵、馬の足薙れて討れにけり。されども官軍は大勢にて、入替入替攻ければ、永覺が前後左右に防ぐ所の同宿皆討れぬ。永覺只獨猛けれども、後あらはになりければ、南を指いて落ぞ行く。

夜軍に成て、暗は暗し、大將軍頭中將重衡、般若寺の門の前に打立て、「火を出せ。」と宣ふ程こそ在けれ。平家の勢の中に播磨國の住人福井庄の下司、次郎太夫友方と云ふ者、楯を破り續松にして、在家に火をぞ懸けたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風は烈しゝ、火本は一つなりけれども、吹迷ふ風に、多くの伽藍に吹かけたり。恥をも思ひ、名をも惜む程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて討れにけり。行歩に叶へる者は、吉野十津川の方へ落ゆく。歩も得ぬ老僧や、尋常なる修學者、兒ども、女童部は、大佛殿、山階寺の内へ我先にとぞ迯行ける。大佛殿の二階の上には、千餘人昇り上り、敵の續くを上せじと階をば引てけり。猛火は正う押懸たり。喚叫ぶ聲、焦熱、大焦熱、無間阿鼻のほのほの底の罪人も、是には過じとぞ見えし。

興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂に坐ます佛法最初の釋迦の像、西金堂に坐ます自然湧出の觀世音、瑠璃を竝べし四面の廊、朱丹を交へし二階の樓、九輪空に輝きし二基の塔、忽に煙となるこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、實報寂光の生身の御佛と思めし準へて、聖武皇帝、手ら親ら琢き立給ひし金銅十六丈の盧舎那佛、鳥瑟高く顯れて、半天の雲にかくれ、白毫新に拜れ給ひし滿月の尊容も、御頭は燒落て大地に有り、御身は鎔合て山の如し。八萬四千の相好は、秋の月早く五重の雲に掩隱れ、四十一地の瓔珞は、夜の星空く十惡の風に漂ふ。煙は中天に滿々て、炎は虚空に隙もなし。親りに見奉る者、更に眼を當ず、遙に傳聞く人は、肝魂を失へり。法相三論の法門聖教、總て一巻も殘らず。我朝はいふに及ばず、天竺震旦にも、是程の法滅有るべしともおぼえず。優填大王の紫磨金を瑩き、毘首羯摩が赤栴檀を刻じも、纔に等身の御佛なり。況や是は南閻浮提の中には、唯一無雙の御佛、長く朽損の期あるべしとも覺えざりしに、今毒縁の塵に交て、久く悲を殘し給へり。梵釋四王、龍神八部、冥官冥衆も、驚き騒給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、如何なる事をか覺しけん。されば春日野の露も色變り、三笠山の嵐の音、恨る樣にぞ聞えける。ほのほの中にて燒死ぬる人數をしるいたりければ、大佛殿の二階の上には一千七百餘人、山階寺には八百餘人、或御堂には五百餘人、或御堂には三百餘人、具に記いたりければ、三千五百餘人なり。戰場にして討るゝ大衆千餘人、少々は般若寺の門に切かけ、少々は頸共持せて都へ上り給ふ。

二十九日、頭中將、南都亡して北京へ歸りいらる。入道相國ばかりぞ、憤晴て喜ばれける。中宮一院上皇攝政以下の人々は、「惡僧をこそ滅すとも、伽藍を破滅すべしや。」とぞ御歎有ける。衆徒の頸ども本は大路を渡いて、獄門の木にかけらるべしと、聞えしかども、東大寺興福寺の亡ぬる淺ましさに沙汰にも及ばず。あそここゝの溝や堀やにぞ捨置ける。聖武皇帝の宸筆の御記文には、「我寺興複せば、天下も興複し、我寺衰微せば、天下も衰微すべし。」と遊されたり。されば天下の衰微せん事、疑なしとぞ見えたりける。淺ましかりつる年も暮れ、治承も五年に成にけり。

平家物語巻第五