University of Virginia Library

7. 平家物語卷第七

清水冠者

壽永二年三月上旬に、兵衞佐と木曾冠者義仲、不快の事ありけり。兵衞佐木曾追討の爲に、其勢十萬餘騎で、信濃國へ發向す。木曾は依田城に有けるが、之を聞て、依田の城を出て信濃と越後の境熊坂山に陣を取る。兵衞佐は同信濃國、善光寺に著給。木曾、乳母子の今井四郎兼平を使者で、兵衞佐の許へ遣す。「如何なる子細のあれば義仲討むとは宣ふなるぞ。御邊は東八箇國を打隨へて、東海道より攻上り、平家を追おとさむとし給ふ也。義仲も東山北陸兩道を從へて、今一日も先に平家を攻落さむとする事でこそ有れ。なんの故に、御邊と義仲と中を違て、平家に笑れんとは思ふべき。但十郎藏人殿こそ、御邊を恨むる事有りとて、義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、如何ぞや候へば、打連申たり。全く義仲に於ては、御邊に意趣思ひ奉らず。」と云遣す。兵衞佐の返事には、「今こそさ樣には宣へ共、たしかに頼朝討つべき由謀反の企有りと、申者あり。其にはよるべからず。」とて、土肥、梶原を先として、既に討手を差向らるゝ由聞えしかば、木曾眞實意趣なき由を顯さむが爲に、嫡子清水冠者義重とて、生年十一歳に成る小冠者に、海野、望月、諏訪、藤澤など云ふ聞ゆる兵共をつけて、兵衞佐の許へ遣す。兵衞佐は、「此上は誠に意趣無りけり。頼朝未成人の子を持たず。好々さらば子にし申さむ。」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ歸られけれ。

北國下向

さる程に、木曾、東山北陸兩道を隨がへて、五萬餘騎の勢にて既に京へ攻上る由聞えしかば、平家は去年よりして、「明年は、馬の草飼に附て、軍有べし。」と披露せられたりければ、山陰、山陽、南海、西海の兵共、雲霞の如くに馳參る。東山道は近江、美濃、飛騨の兵共は參たれ共、東海道は遠江より東は參らず、西は皆參りたり。北陸道は若狹より北の兵共一人も參らず。先木曾冠者義仲を追討して其後兵衞佐を討んとて、北陸道へ討手を遣す。大將軍には小松三位中將維盛、越前三位通盛、但馬守經正、薩摩守忠度、參河守知度、淡路守清房、侍大將には、越中前司盛俊、上總大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀國、武藏三郎左衞門有國、越中二郎兵衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、以上大將軍六人、しかるべき侍三百四十餘人、都合其勢十萬餘騎、壽永二年四月十七日辰の一點に都を立て、北國へこそ趣きけれ。片道を給はてければ、相坂の關より始て、路次にもて逢ふ權門勢家の正税官物をも恐れず、一々に皆奪取る。志賀、唐崎、三河尻、眞野、高島、鹽津、貝津の道の邊を、次第に追捕して通ければ、人民こらへずして、山野に皆逃散す。

竹生島詣

大將軍維盛、通盛は進給へ共、副將軍經正、忠度、知度、清房なんどは、未近江國鹽津、貝津に引へたり。其中にも經正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれば、かゝる亂の中にも、心を澄し、湖の端に打出て、遙に澳なる島を見渡し伴に具せられたる藤兵衞有教を召て、「あれをば何くと云ぞ。」と問はれければ、「あれこそ聞え候ふ竹生島にて候へ。」と申。「げにさる事あり。いざや參らん。」とて、藤兵衞有教、安衞門守教以下、侍五六人召具して、小船に乘り、竹生島へぞ渡られける。比は卯月中の八日の事なれば、緑に見ゆる梢には、春の情を殘すと覺え、谷の鶯舌の聲老て、初音床しき郭公、折知顏に告渡る。松に藤なみさきかゝて誠に面白かりければ、急ぎ船より下り、岸に上て此島の景色を見給ふに、心も詞も及れず。彼秦皇、漢武、或は童男丱女を遣はし、或は方士をして不死の藥を尋ね給ひしに、蓬莱を見ずばいなや歸らじと云て、徒に船の中にて老い、天水茫々として求る事を得ざりけん蓬莱洞の有樣もかくや在けんとぞ見えし。或經の文に云く、「閻浮提の内に湖有り、其中に金輪際より生出たる水精輪の山有り、天女住む處。」と云り。即此島のこと也。經正、明神の御前につい居給ひつゝ、「夫大辯功徳天は、往古の如來、法身の大士なり。辯才妙音二天の名は、各別なりとは云へ共、本地一體にして、衆生を濟度し給ふ。一度参詣の輩は、所願成就圓滿すと承はる。憑しうこそ候へ。」とて、しばらく法施參らせ給に、漸々日暮れ、居待の月指出て、海上も照渡り、社壇も彌輝きて、誠に面白かりければ、常住の僧共、「聞ゆる御事なり。」とて、御琵琶を參らせたりければ、經正是を彈給ふに、上原石上の秘曲には、宮の中も澄渡り、明神感應に堪ずして、經正の袖の上に、白龍現じて見え給へり。忝なく嬉しさの餘りに、なくなくかうぞ思續け給ふ。

ちはやぶる神にいのりの叶へばや、しるくも色のあらはれにけり。

されば怨敵を目の前に平らげ、凶徒を唯今責落さむ事も、疑なしと悦で、又船に取乘て、竹生島をぞ出られける。

火打合戰

木曾義仲自は信濃に有ながら、越前國火打城をぞ構ける。彼城郭に籠る勢、平泉寺長吏齋明威儀師、稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美を始として、六千餘騎こそ籠けれ。火打本より究竟の城郭也。磐石峙ち廻て、四方に嶺を列ねたり。山を後ろにし、山を前にあつ。城郭の前には能美河、新道河とて流たり。二つの河の落合に、大木を伐て逆茂木に曳き、柵をおびたゞしうかき上たれば、東西の山の根に、水塞こうで湖に向へるが如し。影南山を浸して青くして滉漾たり。浪西日を沈めて紅にして隱淪たり。彼無熱池の底には、金銀の砂を敷き、昆明池の渚には、とくせいの船を浮たり。此火打城の築池には、堤をつき、水を濁して、人の心を誑かす。船なくしては輙う渡すべき樣無ければ、平家の大勢、向への山に宿して、徒に日數を送る。

城の内に在ける平泉寺長吏齋明威儀師、平家に志深かりければ、山の根を廻りて、 消息を書き、蟇目の中に入れて忍びやかに平家の陣へぞ射入たる。「彼湖は往古の淵 に非ず、一旦山川を塞上て候。夜に入、足輕共を遣て柵を切落させ給へ、水は程なく 落べし。馬の足立好所で候へば急ぎ渡させ給へ。後矢は射て參らせむ。是は、平泉寺 長吏齋明威儀師が申状。」とぞ書たりける。大將軍大に悦び、やがて足輕どもを遣し て、柵を切落す。おびたゞしう見えつれども、げにも山川なれば水は程なく落にけり。 平家の大勢暫の

[_]
[1]遲々にも及ばす
、さと渡す。城の内の兵共暫し支へて防ぎけれ共、敵は大勢也、御方は無勢也ければ、叶べしとも見えざりけり。平泉寺長吏齋明威儀師、平家に附て忠をいたす。稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓こゝをば落て、猶平家を背き加賀國に引退き、白山河内に引籠る。平家やがて加賀に打越て、林、富樫が城郭二箇所燒拂ふ。何面を向ふべしとも見ざりけり。近き宿々より飛脚を立て、此由都へ申たりければ、大臣殿以下殘り留まり給ふ一門の人々勇悦事なのめならず。

同五月八日、加賀國篠原にて勢汰へ在り。軍兵十萬餘騎を二手に分て大手搦手へ向はれけり。大手の大將軍は小松三位中將維盛、越前三位通盛、侍大將には越中前司盛俊を始として、都合其勢七萬餘騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ向れける。搦手の大將軍は、薩摩守忠度、參河守知度、侍大將には、武藏三郎左衞門を先として、都合其勢三萬餘騎、能登越中の境なる志保の山へぞ懸かられける。木曾は越後の國府に有けるが、是を聞て、五萬餘騎で馳向ふ。我が軍の吉例なればとて、七手に作る。先叔父の十郎藏人行家、一萬餘騎で志保山へぞ向ける。仁科、高梨、山田次郎、七千餘騎で北黒坂へ搦手に差遣す。樋口次郎兼光、落合五郎兼行七千餘騎で南黒坂へ遣しけり。一萬餘騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の柳原、茱萸木林に引隱す。今井四郎兼平、六千餘騎で鷲の瀬を打渡し、日宮林に陣を取る。木曾我身は一萬餘騎で、をやべの渡をして、砥浪山の北のはづれはにふに陣をぞ取たりける。

願書

木曾宣ひけるは、「平家は定めて大勢なれば、砥浪山打越て、廣みへ出で懸合の軍にてぞ有んずらむ。但し懸合の軍は、勢の多少による事也。大勢かさに懸て、取籠られては惡かりなん。先づ旗差を先だてゝ、白旗を差あげたらば平家是を見て、『あはや源氏の先陣は向たるは。定めて大勢にてぞ有らん。左右なう廣みへ打出て、敵は案内者、我等は無案内也、取籠られては叶まじ。此山は四方岩石であんなれば、搦手へはよも廻じ、暫下居て馬休ん。』とて、山中にぞ下居んずらん。其時義仲暫會釋ふ 樣に持なして、日を待昏し、平家の大勢を倶利迦羅谷へ追落さうと思ふなり。」とて 先白旗三十旒、先立てゝ黒坂の上にぞ打立たる。案の如く平家是を見て、「あはや源 氏の先陣は向たるは、定めて大勢成らん。左右無う廣みへ打出なば、敵は 案内者、我等は無案内也。とりこめられては惡かりなん。此山は四方岩石であん也。搦手へはよも廻はらじ。馬の草飼水便共によげ也、暫下居て馬休ん。」とて、砥浪山の山中、猿の馬場と云所にぞ下居たる。木曾は羽丹生に陣取て、四方をきと見廻せば、夏山の峯の緑の木の間より朱の玉垣ほの見えて、かたそぎ作の社有り。前に鳥居ぞ立たりける。木曾殿國の案内者を召て、「あれは何れの宮と申ぞ、如何なる神を崇奉るぞ。」「あれは八幡でまし/\候。軈て此所は八幡の御領で候。」と申す。木曾殿大に悦て、手書に具せられたる大夫房覺明を召て、「義仲こそ幸に新八幡の御寶殿に近附奉て、合戰を既に遂げむとすれ。如何樣にも今度の軍には相違なく勝ぬと覺ゆるぞ。さらんにとては、且は後代の爲、且は當時の祈祷にも願書を一筆書て參せばやと思ふは如何に。」覺明「尤然るべう候。」とて、馬より下て書んとす。覺明が爲體、あかぢの直垂に黒革威の鎧著て、黒漆の太刀を帶き、二十四差たる黒ほろの矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、箙より小硯疊紙取出し、木曾殿の御前に畏て願書を書く。あはれ文武二道の達者哉とぞ見えにける。此覺明は、本儒家の者也。藏人道廣とて、勸學院に在けるが、出家して最乘坊信救とぞ名乘ける。常は南都へも通ひけり。一とせ高倉宮の園城寺に入せ給ひし時、牒状を山奈良へ遣したりけるに、南都の大衆返牒をば此信救にぞ書せたりける。「清盛は、平氏の糟糠、武家の塵芥。」と書たりしを太政入道大に怒て「其信救法師めが、淨海を平氏のぬかゝす、武家のちりあくたと書くべき樣は如何に。其法師め搦捕て、死罪に行へ。」と宣ふ間、南都をば逃て北國へ落下り、木曾殿の手書して、大夫坊覺明とぞ名乘ける。其願書に云、

歸命頂禮、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖也。寶祚を守らんが爲、蒼生を利せんが爲に、三身の金容を顯し、三所の權扉をおし排き給へり。爰に頻の年以來、平相國と云者あり、四海を管領して萬民を惱亂せしむ。是既に佛法の怨、王法の敵なり。義仲苟も弓馬の家に生れて、僅に箕裘の塵を續ぐ。彼暴惡を案ずるに、思慮を顧に能はず。運を天道に任せて、身を國家に投ぐ。試みに義兵を起して、凶器を退けんと欲す。然るを鬪戰兩家の陣を合はすと云へども、士卒未だ一致の勇を得ざる間、區々の心恐れたる處に、今一陣、旗を擧る戰場にして、忽に三所和光の社壇を拜す。機感の純熟明か也。兇徒誄戮疑なし。歡喜の涙こぼれて、渇仰肝に染む。就中に曾祖父前陸奧守義家朝臣、身を宗廟の氏族に歸附して、名を八幡太郎と號せしより以降、門葉たる者の歸敬せずといふことなし。義仲其後胤として、首を傾て年久し。今此大功を發す事、譬へば嬰兒の貝を以て巨海を量り、蟷螂が斧を怒かして隆車に向が如し。然ども國の爲、君の爲にして是を發す、家の爲身の爲にして是を起さず。志の至神感天にあり。憑哉。悦哉。伏て願くは、冥顯威を加へ、靈神力を戮て勝事を一時に決し、怨を四方に退け給へ。然則丹祈冥慮に叶ひ、玄鑑加護をなすべくば、先づ一の瑞相を見せしめ給へ。

壽永二年五月十一日  源 義仲 敬白

と書て、我身を始めて、十三人が上矢の鏑と拔き、願書に取具して、大菩薩の御寶殿にぞ納めける。憑哉八幡大菩薩の眞實の志二なきをや遙に照覧し給けん、雲の中より山鳩三つ飛來て源氏の白旗の上に翩翻す。

昔神功皇后新羅を攻させ給ひしに、御方の戰弱く、異國の軍強して、既にかうと見えし時、皇后天に御祈誓ありしかば、靈鳩三つ飛來て、楯の面に顯れて、異國の軍敗れにけり。又此人人の先祖、頼義の朝臣、貞任、宗任を攻給ひしにも、御方の戰弱くして、凶徒の軍強かりしかば、頼義朝臣敵の陣に向て、是は全く私の火には非ず、神火なりとて火を放つ。風忽に夷賊の方へ吹掩ひ、貞任が館厨河の城燒ぬ。其後軍敗て貞任、宗任亡びにき。木曾殿か樣の先蹤を忘れ給はず、馬より下り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、今靈鳩を拜し給ひけん心の中こそ憑しけれ。

倶利迦羅落

さる程に源平兩方陣を合す。陣の交僅に三町許に寄せ合せたり。源氏も進まず、平家も進まず。源氏の方より、精兵十五騎楯の面に進ませて、十五騎が上矢の鏑を、平家の陣へぞ射入たる。平家又策とも知らず、十五騎を出いて、十五の鏑を射返す。源氏三十騎を出いて、射さすれば、平家三十騎を出いて、三十の鏑を射返す。五十騎を出せば、五十騎を出し合せ、百騎を出せば百騎を出し合せ、兩方百騎づゝ陣の面に進んだり。互に勝負をせんと疾りけれ共、源氏の方より制して、勝負をせさせず。源氏はか樣にして日を暮し、平家の大勢を倶利迦羅谷へ追落さうとたばかりけるを、少しも悟らずして、共に會釋ひ日を暮すこそはかなけれ。

次第に闇うなりければ北南より廻れる搦手の勢一萬餘騎、倶利迦羅の堂の邊にまゐり會ひ、箙の方立打敲き、鬨をどとぞ作ける。平家後を顧みければ、白旗雲の如く差上あり。此山は四方巖石であんなれば、搦手よもまはらじとこそ思つるに、こは如何にとて噪ぎあへり。去程に木曾殿大手より鬨のこゑをぞ作合せ給ふ。松長の柳原、茱萸木林に一萬騎引へたりける勢も、今井四郎が六千餘騎で、日宮林に在けるも同う鬨をぞ作ける。前後四萬騎が喚く聲、山も河も唯一度に崩るるとこそ聞えにけれ。案のごとく平家。次第に闇うはなる、前後より敵は攻來る、「きたなしや返せや返せ。」 と云ふ族多かりけれ共、大勢の傾立ちぬるは、左右なう取て返す事難ければ、倶利迦 羅谷へ、我先にとぞ落しける。ま先に落したる者が見えねば、此谷の底に、道の有に こそとて、親落せば子も落し、兄落せば弟も續く。主落せば家子郎等落しけり。馬に は人、人には馬、落重り落重りさばかり深き谷一つを、平家の勢七萬餘騎でぞ填たり ける。巖泉血を流し、死骸岳を成せり。されば其谷の邊には、矢の穴刀の瑕殘て今に 有りとぞ承はる。平家には宗と憑まれたりける上總大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、 河内判官秀國も、此谷に埋もれて失にけり。備中國住人瀬尾太郎兼康といふ聞ゆる大 力も、そこにて加賀國住人藏光次郎成澄が手に懸て、生捕にせらる。越前國火打が城 にて、返忠したりける平泉寺の長吏齋明威儀師も捕はれぬ。木曾殿「あまりに憎きに 其法師をば先切れ。」とて、切られけり。平氏の大將維盛、通盛、希有の命生て加賀國へ引退く。七萬餘騎が中より、僅に二十餘騎ぞ遁たりける。

明る十二日奧の秀衡が許より、木曾殿へ龍蹄二匹奉る。一匹はつき毛一匹は連錢葦毛なり。やがて是に鏡鞍置て白山社へ神馬に立てられたり。木曾殿宣ひけるは、「今は思ふ事なし。但十郎藏人殿の、志保の戰こそ覺束なけれ。いざ行て見ん。」とて、四萬餘騎が中より、馬や人を勝て、二萬餘騎で馳向ふ。氷見湊を渡さんとするに、折節潮滿て深さ淺さを知ざりければ、鞍置馬十匹許追入たり。鞍瓜浸る程にて、相違なく向の岸へ著にけり。「淺かりけるぞ、渡せや。」とて二萬餘騎の大勢、皆打入て渡しけり。案のごとく十郎藏人行家、散々に懸なされ、引退いて、馬の息休むる處に、木曾殿「さればこそ」とて、荒手二萬餘騎、入かへて平家三萬餘騎が中へをめいて駈入り、揉に揉で、火出る程にぞ攻たりける。平家の兵共暫し支へて防ぎけれ共、こらへずして、そこをも遂に攻落さる。平家の方には大將軍參河守知度討れ給ぬ。是は入道相國の末子也。侍共多く亡にけり。木曾殿は志保山打越えて、能登の小田中、親王の塚の前に陣を取る。

篠原合戰

そこにて諸社へ神領を寄せられけり。白山社へは横江、宮丸、菅生社へは能美の庄、多田の八幡へは蝶屋の庄、氣比社へは飯原庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷を寄せられけり。

一年石橋山の合戰の時、兵衞佐殿射奉し者共、都へにげ上て、平家の方にぞ候ける。宗との者には俣野五郎景久、長井齋藤別當實盛、伊藤九郎助氏、浮巣三郎重親、眞下四郎重直、是等は暫く軍の有ん時迄休まんとて、日毎に寄合々々、巡酒をしてぞ慰みける。先實盛が許に寄合たりける日、齋藤別當申けるは、「倩此世中の在樣を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は、負色に見えさせ給ひけり。いざ各木曾殿へ參う。」と申ければ、皆「さなう」と同じけり。次日浮巣三郎が許に寄合たりける時、齋藤別當、「さても昨日申し事は如何に、各。」其中に俣野五郎、進出でて申けるは、「我等はさすが、東國では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。好きに附て彼方へ參り、此方へ參らう事も、見苦かるべし。人をば知參せず候。景久に於ては、平家の御方にて、如何にも成らう。」と申ければ、齋藤別當あざ笑て、「誠には各の御心共をがな引奉んとてこそ申たれ。其上實盛は今度の軍に討死せうと思切て候ぞ。二度、都へ參るまじき由、人々にも申置たり。大臣殿へも此樣を申上て候ぞ。」と云ひければ、皆人此議にぞ同じける。されば其約束を違じとや、當座に有し者共、一人も殘らず北國にて皆死けるこそ無慚なれ。

さる程に平家は人馬の息を休めて加賀國篠原に陣をとる。同五月廿一日の辰の一點に、木曾、篠原に押寄せて鬨をどと作る。平家の方には、畠山庄司重能、小山田別當有重、去る治承より今迄召籠められたりしを「汝らは故い者共也。軍の樣をもおきてよ。」とて、北國へ向られたり。是等兄弟三百餘騎で陣の面に進んだり。源氏の方より今井四郎三百余騎でうちむかふ。今井四郎、畠山始めは互に五騎十騎づゝ出し合せて、勝負をせさせ、後には兩方亂れ合てぞ戰ひける。五月二十一日午刻、草もゆるがず照す日に、我劣じと戰へば、遍身より汗出て、水を流すに異ならず。今井が方にも兵多く亡にけり。畠山、家子郎等殘り少なに討成され力及ばで引退く。次に平家の方より、高橋判官長綱、五百餘騎で進んだり。木曾殿の方より、樋口次郎兼光、落合五郎兼行、三百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、高橋勢は、國々の驅武者なれば、一騎も落合はず、我先にとこそ落行きけれ。高橋心は猛く思へども、後あらはに成ければ、力及ばで引退く。唯一騎落て行處に越中國の住人入善小太郎行重、よい敵と目を懸け、鞭鐙を合て馳來り、押双てむずと組む。高橋、入善を掴うで鞍の前輪に押附け、「わ君は何者ぞ、名乘れ聞う。」といひければ、「越中國の住人入善小太郎行重、生年十八歳。」と名乘る。「あら無慚、去年おくれし長綱が子も今年はあらば、十八歳ぞかし。わ君ねぢ切て捨べけれども、助ん。」とて許しけり。吾身も馬より下り、暫く御方の勢待んとて休み居たり。入善「我をば助たれども、あはれ敵や、如何にもしてうたばや。」と思居たる所に、高橋打解て物語しけり。入善勝たる早わざの士で、刀を拔き、取て懸り、高橋が内甲を二刀さす。さる程に、入善が郎黨三騎後馳に來て落合たり。高橋心は猛く思へども、運や盡にけん、敵はあまた有り、痛手は負つ、そこにて遂に討たれにけり。

又平家の方より武藏三郎左衞門有國、三百騎許で喚てかく。源氏の方より、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、有國が方の勢多く討たれぬ。 有國深入して戰ふほどに、矢種皆射盡して馬をも射させ、歩立になり、打物拔て戰ひけるが、敵餘た討取り矢七つ八つ射立られて、立死にこそ死にけれ。大將か樣になりしかば、其勢皆落行ぬ。

實盛

又武藏國の住人長井齋藤別當實盛御方は皆落行けども、只一騎返合返合防ぎ戰ふ。存ずる旨有ければ、赤地の錦の直垂に、萠黄威の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢葦毛なる馬に金覆輪の鞍置てぞ乘たりける。木曾殿の方より、手塚太郎光盛好い敵と目をかけ「あなやさし。如何なる人にてましませば、御方の御勢は皆落候に、唯一騎殘らせ給ひたるこそゆかしけれ。名乘らせ給へ。」と詞を懸ければ、「かう言ふわ殿は誰そ。」「信濃國の住人手塚太郎金刺光盛」とこそ名乘たれ。「さては互に好い敵ぞ。但わ殿をさぐるには非ず、存ずる旨があれば、名乘るまじいぞ。よれ組う手塚。」とて、押竝る處に、手塚が郎黨、後馳に馳來て、主を討せじと中に隔たり、齋藤別當にむずと組む。「あはれ己は日本一の剛の者にくんでうずな、うれ。」とて、取て引寄せ鞍の前輪に押附け、頸掻切て捨てけり。手塚太郎、郎等が討るゝを見て、弓手に廻りあひ、鎧の草摺引擧て、二刀刺し、弱る所に組で落つ。齋藤別當心は猛く思へども、軍にはしつかれぬ、其上老武者では有り、手塚が下に成にけり。又手塚が郎等後れ馳に出きたるに首取せ、木曾殿の御前に馳參りて、「光盛こそ奇異の曲者組で討て候へ。侍かと見候へば、錦の直垂を著て候。又大將軍かと見候へば、續く勢も候はず。名乘々々と責候つれども、遂に名乘候はず。聲は坂東聲にて候つる。」と申せば、木曾殿「あはれ是は齋藤別當で有ござんなれ。其ならば、義仲が上野へこえたりし時、少目に見しかば、白髮の糟尾なりしぞ。今は定めて、白髮にこそ成ぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎は、馴遊で、見知たるらん樋口召せ。」とて召されけり。樋口次郎唯一目見て、「あな無慚や、齋藤別當で候けり。」木曾殿、「其ならば、今は七十にも餘り、白髮にこそ成ぬらんに、鬢鬚の黒いは如何に。」と宣へば、樋口次郎涙をはら/\と流いて、「さ候へば其樣を申上うと仕候が、餘に哀で、不覺の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりは、聊の所でも、思出の詞をば兼て仕置くべきで候ける者哉。齋藤別當、兼光に逢て、常は物語に仕候し、『六十に餘て、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黒う染て、若やがうと思ふ也。其故は若殿原に爭ひて、先を懸んも長げなし。又老武者とて人の侮らんも口惜かるべし。』と申候しが、誠に染て候けるぞや。洗はせて御覽じ候へ。」と申ければ、さも有らんとて、洗せて見給へば、白髮にこそ成にけれ。

錦の直垂を著たりける事は、齋藤別當最後の暇申に大臣殿へ參て申けるは、「實盛が身一つの事では候はねども、一年東國へ向ひ候し時、水鳥の羽音に驚いて矢一つだにも射ずして、駿河國の蒲原より迯上て候し事、老後の恥辱、唯此事候。今度北國へ向ひては、討死仕候べし。さらんにとては、實盛、本、越前國の者で候しかども、近年御領に就て、武藏の長井に居住せしめ候き。事の譬候ぞかし。故郷へは錦を著て歸れと云ふ事の候。錦の直垂御許し候へ。」と申ければ、大臣殿、「優うも申たる物哉。」とて、錦の直垂を御免有けるとぞ聞えし。昔の朱買臣は、錦の袂を會稽山に翻し、今の齋藤別當は、其名を来た國の巷に揚とかや。朽もせぬ空き名のみ留め置き、骸は越路の末の塵と成るこそ悲しけれ。

去ぬる四月十七日、十萬餘騎にて都を立し事柄は、何に面を向ふべしとも見えざりしに、今、五月下旬に歸り上るには、其勢僅に二萬餘騎「流を盡して漁る時は、多くの魚を得と云へども、明年に魚なし。林を燒て獵る時は、多くの獸を得と云へども、明年に獸なし。後を存じて、少々は殘さるべかりける者を。」と、申す人々も有けるとかや。

還亡

上總守忠清、飛騨守景家はをとゝし入道相國薨ぜられける時、ともに出家したりけるが、今度北國にて子ども皆亡びぬときいて其のおもひのつもりにや、終に歎き死にぞ死にける。是を始めて親は子に後れ、婦は夫に別れ、凡遠國近國もさこそ在けめ。京中には、家々に門戸を閉て、聲聲に念佛申し、喚叫ぶ事おびただし。

六月一日藏人右衞門權佐定長、神祇權少副大中臣親俊を、殿上の下口へ召て、兵革靖まらば、大神宮へ行幸成るべき由仰下さる。大神宮は高天原より天降せ給ひしを垂仁天皇の御宇、廿五年三月に、大和國笠縫の里より、伊勢國渡會の郡、五十鈴の河上、下津磐根に大宮柱をふとしきたて、祝初奉てより以降、日本六十餘州、三千七百五十餘社の、大小の神祗冥道の中には無雙也。され共、代々の御門臨幸は無りしに、奈良の御門の御時左大臣不比等の孫、參議式部卿宇合の子、右近衞權少將兼太宰少貳藤原廣嗣と云ふ人有けり。天平十五年十月、肥前國松浦郡にして、數萬の凶賊を語らて、國家を既に危めんとす。是によて大野東人を大將軍にて、廣嗣追討せられし時、始めて大神宮へ行幸なりけるとかや、其例とぞ聞えし。彼廣嗣は肥前の松浦より都へ一日に下上る馬を持たりけり。追討せられし時も、御方の凶賊落行き、皆亡て後、件の馬に打乘て、海中へ馳入けるとぞ聞えし。其亡靈あれて、怖き事共多かりける中に、天平十六年六月十八日、筑前國御笠郡、太宰府の觀世音寺、供養せられし導師には、

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[2]
ばう僧正とぞ聞えし。高座に上り敬白の鐘打鳴す時、俄に空掻曇り雷おびたゞしう鳴て、
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[3]
ばうの上に落懸り、其首を取て雲の中へぞ入にける。是は廣嗣調伏したりける故とぞ聞えし。

此僧正は吉備大臣入唐の時、相伴て渡り、法相宗渡たりし人也。唐人が玄ばうと云ふ名を笑て「玄ばうは還亡ぶと云ふ音あり。如何樣にも、歸朝の後事に逢ふべき人也。」と相したりけるとかや。同天平十九年六月十八日、髑髏に

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[4]
ばうと云ふ銘を書て、興福寺の庭に落し、虚空に人ならば千人許が聲にて、どと笑ふ事在けり。興福寺は法相宗の寺たるに依て也。彼僧正の弟子共是を取て、塚を築き、其首を納て、頭墓と名づけて、今に有り。是即廣嗣が靈の致す所也。是によて彼亡靈を崇られて、今松浦の鏡宮と號す。

嵯峨皇帝の御時は平城先帝、尚侍の勸に依て、世を亂り給ひし時、其御祈の爲に、御門第三皇女祐智子内親王を、賀茂の齋院に奉らせ給けり。是齋院の始めなり。朱雀院の御宇には、將門純友が兵亂に依て八幡の臨時の祭を始めらる。今度もか樣の例を以て樣々の御祈共始められけり。

木曾山門牒状

木曾、越前の國府について、家子郎等召集めて評定す。「抑義仲近江國を經てこそ、都へは入らんずるに、例の山僧共は防ぐ事もや有んずらん。懸け破て通ん事は安けれども、平家こそ當時は佛法とも云はず、寺を亡し、僧を失ひ、惡行をば致せ。其を守護の爲に上洛せん者が、平家と一つになればとて、山門の大衆に向て、軍せん事、少も違はぬ二の舞なるべし。是こそさすが安大事よ。如何にせん。」と宣へば手書に具せられたる大夫坊覺明進出て申けるは、「山門の衆徒は三千候、必一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。或は源氏に附んと申す衆徒も候らん、或は平家に同心せんと云ふ大衆も候らん、牒状を遣して御覽候へ。事の樣返牒に見え候はんずらん。」 と申ければ、「此議尤然るべし、さらば書け。」とて、覺明に牒状書せて、山門へ送 る。其状に云、

義仲倩平家の惡逆を見るに、保元平治より以來、永く人臣の禮を失ふ。雖然、貴賤手を束ね、緇素足を戴く。恣に帝位を進退し、飽くまで國郡を掠領す。道理非理を論ぜず、權門勢家を追捕し、有罪無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。其資材を奪取て、悉く郎從に與へ、彼庄園を沒収して、猥がはしく子孫に省む。就中、去治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る。衆庶言はず、道路目を以す。加之同四年五月、二の宮の朱閣を圍み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。爰に帝子非分の害を逃れん爲に、竊に園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を給るに依て、鞭を擧げんとする處に、怨敵巷に滿て、豫參路を失ふ。近境の源氏、猶參候せず、況や遠境に於てをや。然るを園城は分限なきによて、南都へ趣かしめ給ふ間、宇治橋にて合戰す。大將三位入道頼政父子、命を輕んじ義を重んじて、一戰の功を勵すと云へ共、多勢の責を免かれず、形骸を古岸の苔にさらし、生命を長河の波に流す。令旨の趣肝に銘じ、同類の悲魂を消す。是によて東國北國の源氏等、各參洛を企て、平家を亡さんと欲す。義仲去年の秋、宿意を達せんが爲に、旗を擧げ劍を取て、信州を出でし日、越後國の住人、城の四郎長茂、數萬の軍兵を率して發向せしむる間、當國横田河原にして合戰す。義仲僅に三千餘騎を以て、かの數萬の兵を破り畢ぬ。風聞廣きに及て、平氏の大將十萬の軍士を率して、北陸に發向す。越州、加州、砥浪、黒坂、鹽坂、篠原以下の城郭にして、數箇度合戰す。策を帷幄の中に運らして、勝事を咫尺のもとに得たり。然を討てば必ず伏し、攻れば必ず降る。秋風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の群葉を枯すに同じ。是偏に神明佛陀の助けなり、更に義仲が武略にあらず。平氏敗北の上は、參洛を企る者也。今叡岳の麓を過ぎて、洛陽の衢に入るべし。此時に當て、竊に疑殆あり。抑天台の衆徒、平家に同心か、源氏に與力か。若しかの逆徒を助けらるべくば、衆徒に向て合戰すべし。若し合戰をいたさば、叡岳の滅亡踵をめぐらすべからず。悲哉、平氏宸襟を惱し、佛法を滅す間、惡逆を靜めんが爲に、義兵を發す處に、忽ち三千の衆徒に向て、不慮の合戰を致さんことを。痛哉、醫王、山王に憚り奉て、行程に遲留せしめば、朝廷緩怠の臣として、永く武略瑕瑾の謗を遺さんことを。猥しく進退に迷て、案内を啓する所なり。庶幾三千の衆徒神の爲、佛の爲、國の爲、君の爲に源氏に同心して兇徒を誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪へず。義仲恐惶謹白。

壽永二年六月十日  源 義仲

進上  惠光坊律師御房

とぞかいたりける。

返牒

案の如く、山門の大衆此状を披見して、僉議區々也。或は源氏に附んといふ衆徒もあり、或は又平家に同心せんと云大衆もあり。思々異議區々也。老僧共の僉議しけるは、詮ずる所、我等專金輪聖主天長地久と祈奉る。平家は當代の御外戚、山門に於て歸敬を致さる。去れば今に至る迄彼繁昌を祈誓す。然りといへども惡行法に過て、萬人是を背く。討手を國々へ遣すと云へ共、却て異賊の爲にほろぼさる。源氏は近年より以降、度々の軍に討勝て、運命開けんとす。何ぞ當山獨宿運盡ぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや。須く平家値遇の義を翻して、源氏合力の旨に任ずべき由、一味同心に僉議して、返牒を送る。木曾殿又家の子郎等を召集めて、覺明に此返牒を開かせらる。

六月十日の牒状、同十六日到來、披閲の處に數日の欝念一時に解散す。凡平家の惡逆累年に及で朝廷の騒動止時なし。事人口にあり、遺失するに能はず。夫叡岳に至ては、帝都東北の仁祠として、國家靜謐の精祈を致す。然るを、一天久しくかの夭逆に侵されて、四海鎭に、その安全を得ず。顯密の法輪なきが如く、擁護の神威屡すたる。此に貴家適累代武備の家に生れて、幸に當時清選の仁たり。豫じめ奇謀を囘らして忽に義兵を起す。萬死の命を忘れて一戰の功をたつ。其勞未だ兩年を過ぎざるに、其名既に四海に流る。吾山の衆徒、且且以て承悦す。國家の爲、累家の爲、武功を感じ、武略を感ず。此の如くならば、則山上の精祈空しからざる事を悦び、海内の衞護怠りなき事を知んぬ。自寺、他寺、常住の佛法、本社、末社、祭奠の神明、定て教法の再び榮えんことを喜び、崇敬のふるきに復せんことを隨喜し給ふらむ。衆徒等が心中、唯賢察を垂れよ。然則、冥には十二神將、醫王善逝の使者として凶賊追討の勇士にあひ加り、顯には三千の衆徒、暫く修學鑽仰の勤節を止て、惡侶治罰の官軍を扶けしめん。止觀十乘の梵風は、奸侶を和朝の外に拂ひ、瑜伽三密の法雨は、時俗を堯年の昔に囘さん。衆議かくの如し。倩是を察せよ。

壽永二年七月二日 大衆等

とぞ書たりける。

平家山門連署

平家は是を夢にも知らずして、興福園城兩寺は、欝憤を含める折節なれば、語ふとも靡じ。當家は未だ山門の爲に怨を結ばず、山門又當家の爲に不忠を存ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を語らはばやとて、一門公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送る。其状に云、

敬白 延暦寺を以て氏寺に准じ、日吉社を以て氏社として、一向天台の佛法を仰べき事右當家一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣如何となれば、叡山は是桓武天皇の御宇、傳教大師入唐歸朝の後、圓頓の教を此所に廣め、遮那の大戒を其内に傳てより以降、專ら佛法繁昌の靈崛として、鎭護國家の道場に備ふ。方に今伊豆國流人、源頼朝、身の咎を悔いず、却て朝憲を嘲る。加之奸謀に與して、同心を致す源氏等、義仲、行家以下黨を結て數あり。隣境遠境數國を掠領し、土宜土貢萬物を押領す。これによて或は累代勳功の跡を逐ひ、或は當時弓馬の藝に任せて、速に賊徒を追討し、凶黨を降伏すべき由、苟くも勅命を含んで類に征伐を企つ。爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電戟の威、逆類勝に乘に似たり。若神明佛陀の加被にあらずば、爭か反逆の凶亂を鎭めん。是を以て、一向天台の佛法に歸し、併せて日吉の神恩を憑み奉らまくのみ。何ぞ況や忝なく、臣等が曩祖を思へば本願の餘裔と云つべし。彌崇重すべし、彌恭敬すべし。自今以後、山門に悦あらば一門の悦とし、社家に憤あらば一家の憤として、各子孫に傳へて永く失墜せじ。藤氏は春日社興福寺を以て氏社氏寺として、久しく法相大乘の宗に歸す。平氏は日吉社延暦寺を以て、氏社氏寺として、目の當り圓實頓悟の教に値遇せん。彼は昔の遺跡なり、家の爲榮幸を思ふ。是は今の誓祈なり、君の爲追罰を請ふ。仰ぎ願くは、山王七社、王子眷屬、東西滿山護法聖衆、十二上願醫王善逝、日光月光十二神將、無二の丹誠を照して、唯一の玄應を垂給へ。然る間邪謀逆心の賊、手を軍門につかね、暴逆殘害の輩、首を京土に傳へん。仍て當家の公卿等、異口同音に禮をなして祈誓如件。

從三位行兼越前守平朝臣通盛

從三位行兼右近衞中將平朝臣資盛

正三位行右近衞權中將兼伊豫守平朝臣維盛

正三位行左近衞中將兼播磨守平朝臣重衡

正三位行右衞門督兼近江遠江守平朝臣清宗

參議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣經盛

從二位行中納言兼左兵衞督征夷大將軍平朝臣知盛

從二位行權中納言兼肥前守平朝臣教盛

正二位行權大納言兼出羽陸奧按察使平朝臣頼盛

從一位平朝臣宗盛

壽永二年七月五日  敬白

とぞ書かれたる。

貫首是を憐み給ひて、左右なく披露せられず。十禪寺權現の御殿に籠て、三日加持して、其後衆徒に披露せらる。始は有とも見えざりし一首の歌願書の上卷に、出來たり。

平かに花咲く宿も年ふれば、西へ傾く月とこそなれ。

山王大師是に憐を垂れ給ひ、三千の衆徒力を合せよと也。されども年比日比の振舞、神慮にも違ひ、人望にも背きにければ、祈れども叶はず語へども靡ざりけり。大衆誠に、事の體を憐けれども、「既に源氏に同心の返牒を送る。今又輕々しく、其議を改るに能はず。」とて是を許容する衆徒もなし。

主上都落

同七月十四日、肥後守貞能、鎭西の謀反平げて、菊池、原田、松浦黨以下、三千餘騎を召具して上洛す。鎭西は、纔に平げども、東國、北國の軍如何にも靜まらず。

同二十二日の夜半許、六波羅の邊おびたゞしう騒動す。馬に鞍置き腹帶しめ、物共東西南北へ運び隱す。唯今敵の打入たる樣なり。明て後聞えしは、美濃源氏、佐渡衞門尉重貞と云ふ者有り。一年保元の合戰の時、鎭西八郎爲朝が、方の軍に負て、落人と成たりしを搦て出たりし勸賞に、本は兵衞尉たりしが、其時右衞門尉に成ぬ。是に依て一門にはあたまれて、平家に諂ひけるが、其夜の夜半計六波羅に馳參て申けるは、木曾すでに北國より五萬餘騎で攻上り、比叡山東坂本に充滿て候。郎等に楯六郎親忠、手書に大夫坊覺明、六千餘騎で、天台山に競登り、三千の衆徒皆同心して、唯今都へ攻入る由申たりける故也。平家の人々

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[5]大に噪いで
、方々へ討手を向けられけり。大將軍には新中納言知盛卿、本三位中將重衡卿、都合其勢三千餘騎都を立て先づ山階に宿せらる。越前三位通盛、能登守教經、二千餘騎で宇治橋をかためらる。左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千餘騎で淀路を守護せられけり。

源氏の方には、十郎藏人行家、數千騎で宇治橋より入るとも聞えけり。陸奧新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛すとも申あへり。攝津河内の源氏等雲霞の如くに同う都へ亂入由聞えしかば、平家の人々此上は唯一所にて如何にも成給へとて、方々へ向られたる討手共都へ皆呼返れけり。帝都、名利の地鷄鳴て安き事なし。治れる世だにもかくの如し。況や亂たる世に於てをや。吉野山の奧の奧へも入なばやとは思はれけれども、諸國七道、悉く背きぬ。何れの浦か穩しかるべき。三界無安猶如火宅とて如來の金言一乘の妙文なれば、なじかは少しも違ふべき。

同七月廿四日の小夜更方に、前内大臣宗盛公、建禮門院の渡らせ給ふ六波羅殿へ參て申されけるは、「此世の中の在樣、さりともと存候つるに今はかうにこそ候めれ。唯都の内で如何にもならんと人人は申あはれ候へども、目のあたり浮目を見せ參せんも口惜候へば、院をも内をも取奉て、西國の方へ御幸行幸をも成し參せて見ばやとこそ思成て候へ。」と申されければ、女院、「今は只ともかうもそこの計らひにてこそ有んずらめ。」とて御衣の御袂に餘る御涙塞あへさせ給ず。大臣殿も直衣の袖絞る許に見えられけり。

其夜法皇をば内々平家の取奉て、都の外へ落行べしといふ事を聞召されてや有けん、按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時計御伴にて、竊に御所を出させ給ひ鞍馬へ御幸なる。人是を知らざりけり。平家の侍に橘内左衞門尉季康と云ふ者有り。さか/\しき士にて、院にも召使はれけり。其夜しも法住寺殿に御宿直して候けるに、常の御所の方よに噪がしうさゝめきあひて、女房達忍ねに泣などし給へば、何事やらんと聞程に、「法皇の俄に見えさせ給ぬは、何方へ御幸やらん。」といふ聲に聞なしつ。「あな淺まし。」とて、やがて六波羅へ馳參り、大臣殿に此由申ければ、「いで僻事でぞ有るらん。」と宣ひながら、聞もあへず、急ぎ法住寺殿へ馳參て見參させ給へば、げに見えさせ給はず。御前に候はせ給ふ女房達、二位殿、丹後殿以下、一人もはたらき給はず。「いかにや如何に。」と申されけれども「我こそ御行方知參せたれ。」と申さるゝ人、一人もおはせず、皆あきれたる樣也けり。

さる程に、法皇都の内にも渡らせ給はずと申す程こそ有けれ、京中の騒動斜ならず。況や平家の人々の遽て噪がれける有樣、家々に敵の打入たりとも、限あれば是には過じとぞ見えし。日頃は平家院をも内をも取參らせて、西國の方へ御幸行幸をも成したてまつらんと支度せられたりしに、かく打捨させ給ぬれば、憑む木の本に雨のたまらぬ心地ぞせられける。

さりとては行幸ばかりなり共成參せよとて、卯刻計に既に行幸の御輿寄たりければ、主上は今年六歳、未幼なうましませば何心もなう召されけり。御母儀建禮門院御同輿に參らせ給ふ。「内侍所、神璽、寶劔、渡し奉る。印鑰、時札、玄上、鈴鹿などをも取具せよ。」と平大納言時忠卿下知せられけれども、餘りに遽噪いで、取落す物ぞ多かりける。晝の御座の御劔などをも取忘させ給ひけり。やがて此時忠卿、内藏頭信基、讃岐中將時實三人計ぞ、衣冠にて供奉せられける。近衞司、御綱佐、甲冑をよろひ弓箭を帶して、供奉せらる。七條を西へ朱雀を南へ行幸なる。

明れば七月廿五日也。漢天既に開きて、雲東嶺にたなびき、明方の月白く冴て、鷄鳴又忙し。夢にだにかゝる事は見ず。一年都遷とて俄にあわたゞしかりしは、かゝるべかりける先表とも今こそ思知れけれ。

攝政殿も行幸に供奉して、御出なりけるが、七條大宮にて、髫結たる童子の、御車の前をつと走通るを御覽ずれば、彼童子の左の袂に、「春の日」と云ふ文字ぞ顯れたる。「春の日」と書ては「春日」と讀めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守らせ給ひけりと、憑敷思召す處に、件の童子の聲と覺しくて、

いかにせん藤の末葉のかれゆくを、唯春の日に任せてや見ん。

御伴に候進藤左衞門尉高直を近う召て、「倩事の體を案ずるに行幸はなれ共、御幸も成ず、行末憑からず思召すは如何に。」と仰ければ、御牛飼に目を見合たり。やがて心得て、御車を遣りかへし、大宮を上りに飛が如くに仕り、北山の邊、知足院へ入せ給ふ。

維盛都落

平家の侍越中次郎兵衞盛嗣是を承はて逐ひ留め參せんと頻に進み出けるが、人人に制せられて留まりけり。

小松三位中將維盛卿は、日比より思食設られたりけれ共、指當ては悲かりけり。北方と申は、故中御門新大納言成親卿の御娘也。桃顏露に綻び、紅粉眼に媚をなし、柳髮風に亂るゝ粧、又人有べし共見え給はず。六代御前とて、生年十に成給ふ若君、其妹八歳の姫君おはしけり。此人々皆後じと慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「日比申し樣に、我は一門に具して、西國の方へ落行なり。何く迄も具足し奉るべけれ共、道にも敵待なれば、心安う通ん事も有難し。縱我討れたりと聞給ふ共、樣など替給ふ事は努々有るべからず。其故は、如何ならん人にも見えて、身をも助け、少き者共をも育み給ふべし。情を懸る人も、などか無かるべき。」と、慰め給へども、北方とかうの返事もし給はず引被てぞ臥給ふ。既に打立んとし給へば、袖にすがて「都には父もなし母もなし、捨られ參らせて後、誰にかはみゆべき。如何ならん人にも見えよなど承るこそ恨しけれ。前世の契り有ければ、人こそ憐み給ふとも、又人毎にしもや情を懸くべき。何く迄も伴ひ奉り、同野原の露とも消え、一つの底の水屑とも成らんとこそ契りしに、されば小夜の寢覺の睦語は、皆僞に成にけり。責ては身一つならば如何がせん。捨られ奉る身の憂さ、思知ても留まりなん。少き者共をば、誰に見讓り、如何にせよとか思召す。恨しうも留め給ふ者哉。」と、且は恨み且は慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「誠に人は十三、我は十五より見初奉り、火の中水の底へも、倶に入り倶に沈み、限ある別路迄も後れ先立じとこそ申しかども、かく心憂き有樣にて、軍の陣へ趣けば、具足し奉て、行方も知ぬ旅の空にて、憂目を見せ奉らんも、うたてかるべし。其上今度は用意も候はず。何くの浦にも心安う落著いたらば、其よりこそ迎へに人をも奉らめ。」とて、思ひ切てぞ立れける。中門の廊に出て、鎧取て著、馬引寄させ、既に乘らんとし給へば、若君姫君走出でて、父の鎧の袖、草摺に取附き、「是はされば何地へとて、渡せ給ぞ。我も參ん、我も行ん。」と面々に慕ひ泣給ふにぞ、浮世のきづなと覺えて、三位中將、いとゞ爲方なげには見えられける。

さる程に御弟新三位中將資盛卿、左中將清經、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、兄弟五騎馬に乘ながら、門の中へ打入り、庭にひかへて、「行幸は遙に延させ給ひぬらん、如何にや今迄。」と、聲々に申されければ、三位中將馬に打乘て出給ふが、猶引返し、縁の際へうち寄せて、弓の弭で御簾をさと掻揚げ、「是御覽ぜよ各、少き者共が餘りに慕ひ候を、とかうこしらへ置んと仕る程に、存の外の遲參。」と宣ひもあへず、泣かれければ、庭にひかへ給へる人々、皆鎧の袖をぞ濡されける。

こゝに齋藤五、齋藤六とて、兄は十九、弟は十七に成る侍あり。三位中將の御馬の左右のみづつきに取著き、何く迄も御とも仕るべき由申せば、三位中將宣ひけるは、 「己等が父齋藤別當北國へ下し時、汝等が頻に伴せうと云しかども、存ずる旨が有ぞ とて、汝等を留置き、北國へ下て遂に討死したりけるは、かゝるべかりける事を、故い者で、兼て知たりけるにこそ。あの六代を留て行に、心安う扶持すべき者のなきぞ。誰理を枉て留まれ。」と宣へば、力及ばず、涙を押へて留りぬ。北方は、「年比日比、是程情なかりける人とこそ、兼ても思はざりしか。」とて臥まろびてぞ泣かれける。若君姫君女房達は、御簾の外迄まろびいで、人の聞をも憚らず聲をはかりにぞ喚叫び給ひける。此聲々耳の底に留て、西海の立つ浪の上、吹風の音迄も聞く樣にこそ思はれけめ。

平家都を落行に、六波羅、池殿、小松殿、八條、西八條以下、一門の卿相雲客の家々、二十餘箇所、次々の輩の宿所々々、京白川に四五萬の在家一度に火をかけて、皆燒拂ふ。

聖主臨幸

或は聖主臨幸の地也。鳳闕空しく礎を殘し、鸞輿只跡を留む。或は后妃遊宴の砌也。椒房の嵐聲悲み、掖庭の露色愁ふ。粧鏡翠帳の基戈林釣渚の館、槐棘の座えん鸞の栖、多日の經營を空うして、片時の灰燼と成果ぬ。況や郎從の蓬に於てをや。況や雜人の屋舎に於てをや。餘炎の及ぶ所、在々所々數十町也。強呉忽に亡て、姑蘇臺の露荊棘に移り、暴秦既に衰て、咸陽宮の烟へいけいを隱しけんも、かくやと覺て哀也。 日來は函谷二かうの嶮しきを固うせしか共、北狄の爲に是を破られ、今は江河けい渭の深きを憑みしか共、東夷の爲に是を取られたり。豈圖きや、忽に禮儀の郷を攻出されて、泣々無智の境に身を寄んとは。昨日は雲の上にて雨を降す神龍たりき。今日は肆の邊に水を失ふ枯魚の如し。禍福道を同うし、盛衰掌を反す。今目前にあり、誰か是を悲ざらん。保元の昔は春の花と榮しかども、壽永の今は秋の紅葉と落果ぬ。

去治承四年七月大番の爲に上洛したりける畠山庄司重能、小山田別當有重、宇都宮左衞門尉朝綱、壽永迄、召籠られたりしが、其時既に斬るべかりしを、新中納言知盛卿申されけるは「御運だに盡させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所從等如何に歎き悲み候らん。若し不思議に運命開けて、又都へ立歸らせ給はん時は、有難き御情でこそ候はんずれ。只理を枉げて、本國へ返し遣さるべうや候らむ。」と申されければ、大臣殿、「此義尤然るべし。」とて暇を給ぶ。是等首を地に著け、涙を流いて申けるは、「去治承より今までかひなき命を扶けられ參せて候へば、何くまでも御供仕て行幸の御ゆくへを見參 せん。」と頻に申けれ共、大臣殿、「汝等が魂は皆東國にこそあるらんに、ぬけがら ばかり西國へ召具すべき樣なし。急ぎ下れ。」と仰られければ、涙を押へて下けり。 是等も二十餘年の主なれば、別れの涙押へ難し。

忠度都落

薩摩守忠度は、いづくよりか歸られたりけん、侍五騎、童一人、我身共に七騎取て返し、五條の三位俊成卿の宿所におはして見給へば門戸をとぢて開かず。忠度と名乘給へば、落人歸り來たりとて、其内噪ぎあへり。薩摩守馬より下り、自高らかに宣ひけるは、「別の子細候はず、三位殿に申べき事有て、忠度が歸り參て候。門を開れず共、此際迄立寄らせ給へ。」と宣へば、俊成卿「さる事あるらん。其人ならば苦かるまじ。入れ申せ。」とて、門をあけて對面有り。事の體何となうあはれなり。薩摩守宣ひけるは、「年來申承はて後、愚ならぬ御事に思ひ參らせ候へ共、この二三年は京都の噪、國々の亂併當家の身の上の事に候間疎略を存せずといへども、常に參り寄る事も候はず。君既に都を出させ給ひぬ。一門の運命はや盡候ぬ。撰集の有るべき由承りしかば、生涯の面目に、一首なり共御恩を蒙らうと存じて候しに、やがて世の亂出で來て、其沙汰なく候條、唯一身の歎きと存ずる候。世靜まり候なば勅撰の御沙汰候はんずらん。是に候ふ卷物の中に、さりぬべきもの候はゞ、一首なりとも御恩を蒙て、草の蔭にても嬉しと存候はば、遠き御守りとこそ成參せ候んずれ。」とて、日來詠置れたる歌共の中に、秀歌と覺きを百餘首書集られたる卷物を、今はとて打立れける時、是を取て持れたりしが、鎧の引合せより取出でて、俊成卿に奉る。三位是をあけて見て、「かゝる忘れ形見を給り置候ぬる上は、努々疎略を存ずまじう候。御疑あるべからず。さても只今の御渡りこそ情も勝れて深う、哀れも殊に思ひしられて感涙抑へ難う候へ。」と宣へば、薩摩守悦で「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野に尸をさらさばさらせ、浮世に思置く事候はず。さらば暇申て。」とて、馬に打乘り、甲の緒をしめ、西を指いてぞ歩せ給ふ。三位後を遙に見送て立たれたれば、忠度の聲と覺しくて、「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳。」と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとゞ名殘惜しう覺えて、涙を抑てぞ入給ふ。其後世靜て、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有樣、言置し言の葉、今更思出て哀なりければ、彼の卷物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれど、勅勘の人なれば、名字をば顯されず、「故郷花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、讀人しらずと入られける。

さゝ浪や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山櫻かな。

其身朝敵と成にし上は、仔細に及ばずと云ながら、恨めしかりし事共なり。

經正都落

修理大夫經盛の子息、皇后宮亮經正、幼少にては、仁和寺の御室の御所に、童形にて、候はれしかば、かゝる怱劇の中にも、其御名殘きと思出て、侍五六騎具して、仁和寺殿へ馳參り、門前にて馬より下り、申入られけるは、「一門運盡て今日既に帝都を罷出候。浮世に思ひ殘す事とては、唯君の御名殘計也。八歳の時參り始め候て、十三で元服仕り候し迄は、相勞る事の候はぬ外は、白地にも御前を立去事も候はざりしに、今日より後西海千里の浪路に趣いて、又何の日、何の時、歸り參るべしとも覺えぬこそ口惜う候へ。今一度御前へ參て、君をも見參せたう候へども、既に甲冑を鎧ひ弓箭を帶し、あらぬ樣なる粧に罷成て候へば、憚存候。」とぞ申されける。御室哀に思召し、「唯其姿を改めずして參れ。」とこそ仰せけれ。經正其日は、紫地の錦の直垂に、萠黄匂の鎧著て、長覆輪の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籘の弓脇に挾み、甲をば脱高紐にかけ、御前の御坪に畏る。御室やがて御出有て、御簾高く揚させ「是へ/\」と召されければ、大床へこそ參られけれ。供に具せられたる藤兵衞有教を召す。赤地の錦の袋に入たる御琵琶持て參たり。經正是を取次で、御前にさし置き申されけるは、「先年下し預て候し青山持せて參て候。餘りに名殘は惜しう候へども、さしもの名物を、田舎の塵に成ん事口惜う候。若不思議に運命開けて、又都へ立歸る事候はゞ、其時こそ猶下し預り候はめ。」と泣々申されければ、御室哀におぼしめし一首の御詠をあそばいて下されけり。

あかずして別るゝ君が名殘をば、後の形見につゝみてぞおく。

經正御硯下されて、

呉竹のかけひの水はかはれども、猶すみあかぬ宮の中かな。

さては暇申て出られけるに、數輩の童形、出世者、坊官、侍僧に至迄、經正の袂にすがり、袖を引へて、名殘を惜み、涙を流さぬは無りけり。其中にも經正幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申は、葉室大納言光頼卿の御子也。餘に名殘を惜みて、桂河の端迄打送り、さてもあるべきならねば其より暇請うて泣々別れ給ふに、法印かうぞ思續け給ふ。

あはれなり老木若木も山櫻、おくれ先だち花は殘らじ。

經正の返事には、

旅衣よな/\袖をかたしきて、思へば我は遠くゆきなん。

さて、卷て持せられたる赤旗、さと指上げたり。あそこ爰にひかへて待奉る侍共、「あはや」とて馳集まり、其勢百騎許鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に逐つき奉る。

青山之沙汰

此經正十七の年、宇佐の勅使を承てくだられけるに、其時青山を給て、宇佐へ參り、御殿に向ひ參り、祕曲を彈給ひしかば、いつ聞馴たる事は無れ共、供の宮人推竝て、緑衣の袖をぞ絞ける。聞知らぬ奴子迄も村雨とは紛はじな。目出かりし事ども也。

彼青山と申す御琵琶は、昔仁明天皇御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶博士廉妾夫に逢ひ、三曲を傳へて歸朝せしに、玄象、獅子丸、青山、三面の琵琶を相傳して渡りけるが、龍神や惜み給ひけん、浪風荒く立ければ、獅子丸をば海底に沈めぬ。今二面の琵琶を渡して、吾朝の御門の御寶とす。

村上聖代應和の比ほひ、三五夜中の新月白く冴え、凉風颯々たりし夜半に、御門清凉殿にして、玄象をぞ遊されける。時に影の如くなる者、御前に參じて、優にけだかき聲にて、唱歌を目出たう仕る。御門御琵琶を差置かせ給て、「抑汝は如何なる者ぞ。何くより來れるぞ。」と御尋あれば、「是は昔貞敏に三曲を傳へし大唐の琵琶博士、廉妾夫と申す者で候が、三曲の中、祕曲を一曲殘せるに依て、魔道に沈淪仕て候。今御琵琶の御撥音妙に聞えて侍る間、參入仕る處也。願くは此曲を君に授け奉り、佛果菩提を證すべき」由申て、御前に立られたる青山を取り、轉手をねぢて、祕曲を君に授け奉る。三曲の中に上玄、石上是也。其後は、君も臣も恐させ給て、此御琵琶を遊し彈く事もせさせ給はず、御室へ參せられたりけるを、經正の幼少の時御最愛の童形たるに依て、下し預りたりけるとかや。甲は紫藤の甲、夏山の嶺の緑の木間より、有明の月の出るを、撥面に書かれたりける故にこそ、青山とは附られたれ。玄象にも相劣らぬ希代の名物なりけり。

一門都落

池の大納言頼盛卿も、池殿に火を懸て出られけるが、鳥羽の南の門に引へつゝ、「忘たる事あり。」とて、赤印切捨て、其勢三百餘騎都へ取て歸られけり。平家の侍越中次郎兵衞盛嗣、大臣殿の御前に馳參て「あれ、御覽候へ、池殿の御留まり候に、多の侍共の付參らせて、罷留まるが、奇怪に覺え候。大納言殿迄は恐れも候、侍共に矢一つ射懸候はん。」と申ければ。「年比の重恩を忘て、今此有樣を見果ぬ不當人をば、さなくとも有なん。」と宣へば、力及ばで留まりけり。「さて小松殿の君達は如何に。」と宣へば「未御一所も見えさせ給はず。」と申す。其時、新中納言殿、涙をはらはらと流いて「都を出て未だ一日だにも過ざるに、何しか人の心共の變行くうたてさよ。まして行末とてもさこそはあらんずらめと思しかば都の内で如何にも成らんと、申つる者を。」とて、大臣殿の御方を、世にも恨げにこそ見給ひけれ。

抑池殿の留まり給ふ事を如何にと云に兵衞佐頼朝、常は頼盛に情をかけて、「御方をば全く愚に思ひ參らせ候はず。只故池殿の渡らせ給ふとこそ存候へ。八幡大菩薩も御照覽候へ。」など、度々誓状を以て申されける上、平家追討の爲に討手の使の上る度ごとに、「相構て池殿の侍共に向て弓引な。」と情を懸れば「一門の平家は運盡き既に都を落ぬ。今は兵衞佐に助られんずるにこそ。」と宣ひて、都へ歸られけるとぞ聞えし。八條女院の仁和寺の常磐殿に渡らせ給ふに參り籠られけり。女院の御乳母子宰相殿と申す女房に、相具し給へるに依てなり。「自然の事候はゞ、頼盛構へて助させ給へ。」と申されけれども、女院、「今は世の世にても有らばこそ。」とて、憑氣もなうぞ仰ける。凡は兵衞佐許こそ、芳心は存ぜらるゝとも、自餘の源氏共は如何あらんずらん。憖に一門には離れ給ひぬ。浪にも磯にも附ぬ心地ぞせられける。さる程に、小松殿の君達は三位中將維盛卿を始め奉て、兄弟六人其勢千騎許にて淀の六田河原にて、行幸に追附奉る。大臣殿待うけ奉り嬉げにて、「いかにや今迄。」と宣へば、三位中將、「少き者共が餘に慕ひ候を、とかうこしらへ置んと遲參仕候ぬ。」と申されければ、大臣殿、「などや心つよう六代殿をば具し奉給候はぬぞ。」と宣へば、維盛卿、「行末とても憑しうも候はず。」とて、問ふにつらさの涙を流されけるこそ悲しけれ。

落行く平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫經盛、右衞門督清宗、本三位中將重衡、小松三位中將維盛、新三位中將資盛、越前三位通盛、殿上人には、内藏頭信基、讃岐中將時實、左中將清經、小松少將有盛、丹後侍從忠房、皇后宮亮經正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、能登守教經、武藏守知明、備中守師盛、淡路守清房、尾張守清定、若狹守經俊、兵部少輔正明、藏人大夫成盛、大夫敦盛、僧には二位僧都專親、法勝寺執行能圓、中納言律師仲快、經誦坊阿闍梨祐圓、侍には受領、檢非違使、衞府、諸司百六十人、都合其勢七千餘騎、是は東國北國度々の軍に此二三箇年が間、討泄れて、僅に殘る所也。山崎關戸院に玉の御輿を舁居て、男山を伏拜み、平大納言時忠卿「南無歸命頂禮八幡大菩薩、君を始參せて、我等都へ歸し入させ給へ。」と祈れけるこそ悲しけれ。各後を顧給へば、霞める空の心地して、烟のみ心細く立のぼる。平中納言教盛卿

はかなしな主は雲井に別るれば、跡は煙とたちのぼるかな。

修理大夫經盛、

故郷をやけのの原にかへり見て、末もけぶりのなみぢをぞ行く。

誠に故郷をば、一片の烟塵に隔つゝ、前途萬里の雲路に赴れけん人々の心の中、推量られて哀也。

肥後守

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[6]貞能ほ
、川尻に源氏待と聞て、蹴散さんとて、五百餘騎で發向したりけるが、僻事なれば歸り上る程に、宇度野の邊にて行幸に參り合ふ。貞能馬より飛下り、弓脇挾み大臣殿の御前に、畏て申けるは、「是は、抑何地へとて落させ給候やらん。西國へ下せ給たらば、落人とて、あそこ爰にて討散らされ浮名を流させ給はん事こそ口惜う候へ。只都のうちでこそ、如何にも成せ給はめ。」と申ければ、大臣殿、「貞能は知ぬか。木曾すでに北國より五萬餘騎で攻上り、比叡山東坂本に滿々たんなり。此夜半ばかり法皇も渡らせ給はず。各が身ばかりならば如何がせん、女院二位殿に目の當り憂目を見せ參せんも、心苦しければ、行幸をも成し參らせ、人々をも引具し奉て、一まともやと思ふぞかし。」と仰られければ、「左候はゞ、貞能は暇賜はて、都で如何にも成り候はん。」とて、召具したる五百餘騎の勢をば、小松殿の君達に附奉り、手勢三十騎許で都へ引かへす。

京中に殘り留まる平家の餘黨を伐んとて、貞能が歸り入由聞えしかば、池大納言「頼盛が身の上でぞ有らん。」とて、大に怖れ噪がれけり。貞能は、西八條の燒跡に、大幕ひかせ一夜宿したりけれども、歸り入給ふ平家の君達一所も坐ねば、さすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄に懸じとて、小松殿の御墓掘せ、御骨に向ひ奉て、泣々申けるは、「あな淺まし、御一門の御果御覽候へ。『生ある者は必滅す。樂み盡て悲み來る。』と古より書置たる事にて候へ共、まのあたりかかる憂事候はず。君は斯樣の事を先づ悟せ給ひて、兼て佛神三寶に御祈誓有て、御世を早うせさせまし/\けるにこそ。有難うこそ覺え候へ。其時貞能も最後の御供仕るべう候ける物を、かひなき命を生て、今はかゝる憂目に逢候事こそ口惜う候へ。死期の時は、必一佛土へ迎へさせ給へ。」と泣々遙に掻口説き、骨をば高野へ送り、あたりの土をば賀茂川に流させ、 世の在樣たのもしからずや思けん、主と後合に、東國へこそ落行けれ。宇都宮をば貞 能が申預て、情有ければ、其好にや貞能又宇都宮を頼うで下られければ芳心しけると ぞ聞えし。

福原落

平家は小松三位中將維盛卿の外は、大臣殿以下妻子を具せられけれ共、次樣の人共はさのみ引しろふに及ばねば、後會其期を知らず、皆打捨てぞ落行ける。人は何れの日、何れの時、必ず立歸べしと其期を定置だにも、久しきぞかし。況や是は今日を最後、唯今限の事なれば、行くも止まるも、互に袖をぞ濕しける。相傳譜代の好年比日比の重恩、爭か忘べきなれば、老たるも若きも、後のみ歸り見て、前へは進みもやらざりけり。或は磯邊の波枕、八重の潮路に日を暮し、或は遠きを分け、嶮しきを凌ぎつゝ、駒に鞭打人もあり舟にさをさす者もあり、思々心々に落行けり。

平家は福原の舊都に著て、大臣殿然るべき侍共老少數百人召て仰られけるは、「積善の餘慶家に盡き、積惡の餘殃身に及ぶ故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨られ參らせて、帝都を出て旅泊に漂ふ上は、何の憑みか有るべきなれ共、一樹の蔭に宿るも、前世の契淺からず、同じ流を掬ぶも、他生の縁尚深し。如何に況や、汝等は一旦隨ひ付く門客にあらず、累祖相傳の家人也。或は近親の好他に異なるも有り、或は重代芳恩是深きも有り。家門繁昌の古へは、恩波に依て、私を顧みき。今何ぞ芳恩を酬ひざらんや。且は十善帝王、三種神器を帶して渡らせ給へば、如何ならん野の末山の奧迄も、行幸の御供仕らんとは思はずや。」と仰られければ老少皆涙を流いて申けるは、「怪しの鳥獸も、恩を報じ徳を酬ふ心は候なり。況や、人倫の身として、いかが其理を存知仕らでは候べき。廿餘年の間、妻子を育み、所從を顧み候事、併ら君の御恩ならずといふ事なし。就中に弓箭馬上に携る習ひ、二心あるを以て恥とす。然ば則ち日本の外、新羅、百濟、高麗、契丹、雲の果海の果迄も、行幸の御供仕て、如何にも成候はん。」と、異口同音に申ければ、人々皆憑氣にぞ見えられける。

福原の舊里に、一夜をこそ明されけれ。折節秋の初の月は下の弦なり。深更空夜閑にして、旅寢の床の草枕、露も涙も爭ひて、唯物のみぞ悲き。何歸るべし共覺えねば、故入道相國の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の濱の御所、泉殿、松蔭殿、馬場殿、二階の棧敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館ども五條大納言國綱卿の承て造進せられし里内裏、鴦の瓦、玉の甃、何れも/\三年が程に荒果てゝ、舊苔徑を塞ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ垣に蔦茂れり。臺傾て苔むせり、松風ばかりや通ふらん。簾絶え閨露は也、月影のみぞ差入ける。 明ぬれば福原の内裏に火を懸て、主上を始奉て人々皆御船に召す。都を立し程こそ無 れども是も名殘は惜かりけり。海士の燒藻の夕煙、尾上の鹿の曉の聲、渚々に寄する 浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきり/\す、惣て目に見耳に觸る事、 一として哀れを催し、心を痛しめずといふ事なし。昨日は東關の麓に轡を竝べて十萬 餘騎、今日は西海の浪に纜を解て七千餘人、雲海沈々として、青天既に暮なんとす。 孤島に夕霧隔て、月海上に浮べり。極浦の浪を分け、鹽に引かれて行船は、半天の雲 に泝る。日數歴れば、都は既に山川程を隔て、雲井の餘所にぞ成にける。遙々來ぬと思ふにも、唯盡ぬ者は涙なり。浪の上に白き鳥のむれゐるを見給ひては、彼ならん、在原のなにがしの隅田川にて言問ひけん、名も睦敷き都鳥にやと哀也。壽永二年七月二十五日に、平家都を落果ぬ。

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[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads 遲々にも及ばず.
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[2] NKBT reads 玄房.
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[3] NKBT reads 玄房.
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[4] NKBT reads 玄房.
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[5] Our copy-text reads 大 噪いで. The character に was added to our text from the standard text in NKBT.
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[6] NKBT reads 貞能は.
平家物語卷第七