University of Virginia Library

吾朝には神代より傳はれる靈劍三あり。十握劍、天の早切劍、草薙劍是也。十握劍は大和國磯上布留社に納めらる。天早切の劍は尾張國熱田宮にありとかや。草薙劍は内裏にあり。今の寶劍是也。此劍の由來を申せば、昔、素盞烏尊出雲國曾我里に宮造りし給ひしに其處に八色の雲常に立ちければ、尊是を御覽じてかくぞ詠じ給ひける。

八雲たつ出雲やへがきつまごめに、やへ垣つくる其のやへ垣を。

是を三十一文字の始とす。國を出雲と名付る事も即ちこの故とぞ承る。

昔、尊、出雲國ひの河上に下り給ひし時國津の神に足なつち、手なつちとて夫神婦神おはします。其子に端正の娘あり。稻田姫と號す。親子三人泣居たり。尊「如何に」と問ひ給へば答へ申ていはく、「我に娘八人ありき。皆大蛇の爲にのまれぬ。今一人殘るところの少女又呑れんとす。件の大蛇、尾首共に八つあり。各八の峯八の谷に這はびこれり。靈樹異草背に生ひたり。幾千年を歴たりといふ事を知らず。眼は日月の光の如し。年々に人を呑む。親呑まるるものは子悲み、子呑まるゝものは親悲み、村南村北に哭する聲絶えずとぞ申ける。尊哀に思食し、此少女をゆつのつまぐしに取なし、御ぐしに差藏させ給ひ、八の舟に酒を入れ、美女の姿を造て高き岡に立つ。其影酒にうつれり。大蛇人と思ひて其影を飽まで飮で醉臥たりけるを尊帶給へる十握の劍をぬいて大蛇をづた/\に切り給ふ。其中に一の尾の至て切れず。尊恠しと思食し、堅樣に破て御覽ずれば一の靈劍あり。是を取て天照大神に奉り給ふ。「是は昔高間の原にてわがおとしたりし劍也。」とぞ宣ひける。大蛇の尾のなかに在ける時は村雲常に掩ければ天の村雲劍とぞ申ける。大神是をえて、天の御門の御寶とし給ふ。其後豐葦原中津國の主として天孫を下し奉り給ひし時、此劍をも御鏡に副てたてまつらせ給ひけり。第九代の帝開化天皇の御時までは一殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及で、靈威に怖れて天照大神を大和國笠縫里磯垣の廣きに移し奉り給ひし時、此劍をも天照大神の社壇に籠め奉らせ給ひけり。その時劍を造りかへて御守とし給ふ。靈威本の劍に相劣らず。

天の村雲劍は崇神天皇より景行天皇まで三代は天照大神の社壇に崇め置かれたりけるを、景行天皇の御宇四十年六月に東夷反逆の間、御子日本武尊、御心も剛に御力も人に勝れておはしければ、清撰に當てあづまへ下り給ひし時、天照大神へ詣て御暇申させ給ひけるに、御妹いつきの尊を以て謹而怠事なかれとて靈劍を尊にさづけ申給ふ。さて駿河國に下り給ひたりしかば、其處の賊徒等「この國には鹿多う候。狩して遊ばせ給へ。」とてたばかり出し奉り、野に火をはなて既に燒き殺し奉らんとしけるに、尊はき給へる靈劍を拔て草を薙ぎ給へば、はむけ一里が中は草皆薙れぬ。尊又火を出されたりければ、風たちまちに異賊の方へ吹掩ひ、凶徒悉く燒け死にぬ。其よりしてこそ天の村雲の劍をば草薙劍とも名付られけれ。尊、猶奧へせめ入て、三箇年が間處々の賊徒を討平らげ、國々の凶黨をせめしたがへて上らせ給ひけるが、道より御惱著せ給ひて、御歳三十と申七月に尾張國熱田の邊にて終に隱れさせ給ひぬ。その魂は白き鳥と成て、天に上けるこそ不思議なれ。生捕の夷共をば御子武彦尊を以て御門へたてまつらせ給ふ。草薙劍をば熱田の社に納めらる。あめの御門の御宇七年に新羅の沙門道行此劍を竊で吾國の寶とせんと思て、竊に舟に藏して行程に波風震動して忽に海底に沈まんとす。即靈劍のたゝりなりと知て、罪を謝して先途を遂ず。元の如く返し納め奉る。然るを天武天皇朱鳥元年に是を召て内裏に置かる。今の寶劍是也。御靈威いちはやうまします。陽成院狂病にをかされましまして靈劍を拔せ給ひければ、夜るのおとど閃々として電光にことならず。恐怖の餘に投棄させ給ひければ、自はたと鳴て鞘に差されにけり。上古にはかうこそ目出かりしか。縱ひ二位殿脇に差て海に沈み給ふともたやすううすべからずとて、勝れたる海士人共を召てかづきもとめられける上、靈佛靈社に貴き僧を籠め種々の神寶を捧げて祈り申されけれども、終に失せにけり。其時の有職の人々申合はれけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓ひ有ける其誓未だ改らずして石清水の御流れ未だ盡せざるゆゑ、日輪の光未地に落させ給はず、末代澆季なりとも帝運の究まる程の事はあらじかし。」と申されければ、其中に、ある博士の勘へ申けるは「昔出雲國ひの河上にて素盞烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首八の尾を表事として人王八十代の後、八歳の帝と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。」と申す。千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度人間に返らざるも理とこそ覺えけれ。