University of Virginia Library

同二十八日鎌倉の前兵衞佐頼朝朝臣從二位し給ふ。越階とて二階をするこそ有がたき朝恩なるに是は既に三階なり。三位をこそし給ふべかりしかども、平家のし給ひたりしを忌うて也。其夜の子刻に内侍所太政官の廳より温明殿へ入らせ給ふ。主上行幸成て三箇夜臨時の御神樂あり。右近將監小家能方別勅を承はて家に傳れる弓立宮人といふ神樂の秘曲を仕て勸賞蒙りけるこそ目出たけれ。此歌は、祖父八條判官資忠と云し伶人の外は知れる者なし。餘り秘して子の親方には教へずして堀川天皇御在位の時傳へ參て死去したりしを、君親方に教へさせ給ひけり。道を失はじと思食す御志感涙抑へがたし。

抑内侍所と申は、昔、天照大神天の岩戸に閉籠らんとせさせ給ひし時、如何にもして我容をうつし置きて御子孫に見て奉らんとて御鏡を鑄給へり。是猶御心に合はずとて又鑄替させ給ひけり。先の御鏡は紀伊國日前國懸の社是也。後の御鏡は御子あまの忍ほみみの尊に授け參せさせ給ひて、殿を同うして住み給へ。」とぞ仰ける。さて天照大神天の岩戸に閉ぢ籠らせ給ひて天下暗やみと成たりしに、八百萬の神達神集に集て岩戸の口にて御神樂を奏し給ひければ、天照大神感に堪させ給はず、岩戸を細目に開き見給ふに、互に顏の白く見えけるより面白といふ詞は始まりけるとぞ承はる。其時こやねたぢからをといふ大力の神よてえいといひてあけ給ひしよりしてたてられずといへり。さて内侍所は第九代の御門開化天皇の御時までは一つ殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及て靈威に怖れて別の殿へ移し奉らせ給ふ。近き比は温明殿におはします。遷都遷幸の後、百六十年を經て、村上天皇の御宇天徳四年九月廿三日の子刻に内裡なかのへに始めて燒亡ありき。火は左衞門の陣より出きたりければ内侍所のおはします温明殿も程近し。如法夜半の事なれば内侍も女官も參り合はせずして、かしこ所を出し奉るにも及ばず。小野宮殿急ぎ參らせ給て内侍所既に燒させ給ひぬ。世はいまはかうごさんなれとて御涙を流させ給ふほどに、内侍所は自炎の中を飛び出でさせ給ひ、南殿の櫻の梢に懸らせおはしまし光明赫奕として朝の日の山の端を出るに異ならず。其時小野宮殿世は末失せざりけりと思食すに悦の御涙せきあへさせ給はず。右の御膝をつき左の御袖を廣げてなく/\申させ給ひけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓有ける其御誓いまだ改らずんば神鏡實頼が袖に宿らせ給へ。」と申させ給ふ御詞の未をはらざる先に飛移らせ給ひけり。即御袖に裹で太政官の朝所へ渡し奉らせ給ふ。近頃は温明殿におはします。此世には請取奉らんと思ひ寄る人も誰かはあるべき。神鏡も又宿らせ給べからず。上代こそ猶目出かりけれ。