University of Virginia Library

志度合戰

明ければ、平家舟に取乘て當國志度浦へ漕退く。判官三百餘騎が中より馬や人をすぐて八十餘騎、追てぞかゝりける。平家是を見て、「敵は小勢なり。中に取籠て討や。」とて、又千餘人なぎさに上りをめき叫で責戰ふ。さる程に、八島に殘留たる二百餘騎の兵共、後馳に馳來る。平家是を見て、「すはや源氏の大勢の續くは。何十萬騎か有るらん。取籠られては叶ふまじ。」とて又船に取乘て潮に引かれ風に隨て、何くを指共なく、落行ぬ。四國は皆大夫判官に追落されぬ、九國へは入られず、唯中有の衆生とぞ見えし。

判官志度浦に下居て、頸共實檢しておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、宣ひけるは、「阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能は河野四郎通信が、召せども參らぬを責んとて、三千餘騎にて、伊豫へ越えたりけるが、河野をば打泄して家子郎等百五十人が頸斬て昨日八島の内裏へ參せたりけるが、今日是へ著ときく。汝行向て、ともかくもこしらへて具して參れかし。」と宣へば、畏て承り、旗一流給はてさす儘に、其勢僅に十六騎、皆白裝束にて馳向ふ。義盛教能に行合たり。白旗赤旗、二町許を隔てゝゆらへたり。伊勢三郎義盛使者を立て申けるは「是は源氏の大將軍九郎大夫判官殿の御内に、伊勢三郎義盛と申者で候が、大將に申べき事有て、是まで罷向て候。軍合戰の料でも候はねば、物具もし候はず、弓矢ももたせ候はず、あけて入させ給へ。」と申ければ、三千餘騎の兵共、中を開てぞ通しける。義盛教能に打雙て、「且聞給ても有るらん、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿院宣を承て、平家追討の爲に、西國へ向はせ給て候が、一昨日阿波國勝浦にて、御邊の伯父櫻間介殿討たれ給ぬ。昨日八島に寄せて御所内裏皆燒拂ひ、大臣殿父子生捕にし奉り能登殿は自害し給ひぬ。その外の君達或は討死に或は海に入り給ひぬ。餘黨の僅に有つるは志度の浦にて、皆討たれぬ。御邊の父阿波民部殿は、降人に參せ給ひて候を、義盛が預り奉て候が、あはれ田内左衞門が是をば夢にも知らで、明日は軍して討れ參らせんずる無慚さよと、通夜歎き給ふが、餘に最愛て此事知らせ奉らんとて是まで罷向て候。其上は軍して討死せんとも降人に參て父を今一度見奉らんともともかうも御邊が計ぞ。」といひければ、田内左衞門、聞ゆる兵なれども運や盡にけん。「且聞く事に少も違ず。」とて、甲を脱弓の弦を弛いて、郎等にもたす。大將がか樣になる上は、三千餘騎の兵ども皆此の如し。僅に十六騎に具せられ、おめおめと降人にこそ參りけれ。「義盛が策誠にゆゝしかりけり。」と判官も感じ給ひけり。やがて田内左衞門をば物具めされて、伊勢三郎に預けらる。「さてあの勢共は如何に。」と宣へば、遠國の者共は、「誰を誰とか思ひ參せ候べき。唯世の亂れをしづめて國を知し召さんを君とせん。」と申ければ、尤然るべしとて、三千餘騎を、皆我勢にぞ具せられける。

同廿二日辰の刻ばかり渡邊に殘り留たる二百餘艘の船共、梶原を先として、八島の磯にぞ著にける。「四國は皆九郎大夫判官に攻め落されぬ。今は何の用にか逢べき。會に逢ぬ華、六日の菖蒲、いさかひ果てのちぎり哉。」とぞ笑ひける。

判官都を立給ひて後住吉の神主長盛、院の御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て奏聞しけるは「去十六日の丑刻に當社第三の神殿より、鏑矢の聲出でて、西を指て罷候ぬ。」と申ければ、法皇大に御感有て、御劍已下種々の神寶を長盛して大明神へまゐらせらる。昔神功皇后、新羅を責給ひし時、伊勢大神宮より、二神のあらみさきを差副させ給ひけり。二神御船の艫舳に立て、新羅を安く被責落ぬ。歸朝の後、一神は攝津國住吉の郡に留り給ふ。住吉大明神の御事也。今一神は信濃國諏訪の郡に跡を垂る。諏訪大明神是也。昔の征罰の事を、思食忘ず今も朝の怨敵を滅し給ふべきにやと、君も臣も憑もしうぞ思食されける。